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「813」(長
編)
813:LA DOUBLE
VIE D'ARSÈNE LUPIN
<ネタばれ雑談その3>
☆年代確認と時代背景
すでに確認したように本作『813』の年代は『奇岩城』から4年後、1912年とされる。物語の発端となるケッセルバッハ殺人事件が発生するのは
「4月16日火曜日」と明記されており、これを万年暦で確認す
るとちゃんと1912年のカレンダーに符合している。ルブランの執筆時点では未来の話のはずなんだけど、しっかり調べて書いてるなぁ、と感心しちゃうとこ
ろである。
物語中のスケジュールを確認しておくと、
4月16日(火) ルパン、パレス・ホテルにルドルフ=ケッセルバッハを訪ねる。
4月17日(水) ケッセルバッハの死体発見。相次いで二人が殺害される。
4月25日(木)? ルノルマン、内務省においてオーギュストを逮捕。
4月26日(金)? ルパン、オーギュストの脱獄を5月31日と予告。
4月30日(火) セルニーヌ公爵大忙しの一日
(ポープレの遺書
で日付が分かる)。
5月31日(金) オーギュスト脱獄予告日だが何も起こらず。
6月1日(土) オーギュスト脱走。ジュヌビエーブ誘拐未遂。シュタインウェークがパリ到着。
6月2日(日) ルノルマン失踪。
6月10日(月)? セルニーヌ、アルテンハイム男爵と初めて会う。
6月11日(火)? セルニーヌ、アルテンハイム邸訪問
(以後一週
間毎日会っている)。
6月18日(火)? アルセーヌ=ルパン、三度目の逮捕
(火曜日で
あることだけ明記)。
続く『続813』は同年の7月〜9月ぐらいまでの物語で、詳しくは『続813』の解説で。
さてこの『813』が出版された1910年というと、世界史年表を開くと東アジアでは日本による「韓国併合」が行われたのが目に付くが、同時にアフリカ
ではイギリス連邦内の国家として
「南アフリカ連邦」が成
立している。金とダイヤモンドを豊富に産するこの国へイギリスは18世紀末から手を伸ばし、19世紀の百年間、先住の黒人たち、そして先に入植していたオ
ランダ系白人たちとの闘争を繰り広げつつ植民地化を進めていた。オランダ系白人「ボーア人」たちとの「ボーア戦争」は1902年にイギリスの勝利で終結し
ているが、この戦争を描いた愛国小説「大ボーア戦争」を著した功績により
コ
ナン=ドイルがナイトの称号を授与されたりしている。脱線マメ知識話になってしまったが、「ダイヤモンド王」「ケープタウンの支配者」と呼
ばれるルドルフ=ケッセルバッハの設定はこうした時代背景を頭に入れておくといっそう理解が深まるだろう。
ケッセルバッハ自身はドイツ人、それも「アウグスブルクの鍋釜製造業者の息子」という設定だが、当時南アフリカやアメリカで金・ダイヤモンド採掘で一発
当てて大金持ちになるというケースはままあったようだ。なお彼の秘書チャップマンはイギリス人、妻ドロレスはスペイン系のオランダ生まれとなっており
(「続813」を読むとまた話が変わってくるが…)、一攫千金
を狙って人々が集まる当時の南アフリカではこうした多国籍状態がよく見られたのかもしれない。
南アフリカだけでなく、当時の帝国主義まっさかりのアフリカ大陸はヨーロッパ列強による分捕り合戦の真っ最中。イギリスとフランスがその主力として争っ
ていたが、後発のドイツ帝国が植民地合戦に参戦してきてさらに事態はややこしくなる。それもまた『813』の時代背景となっているわけだが、それについて
は『続813』の項で詳しく触れたい。
ルパンが変装している「セルニーヌ公爵」は亡命ロシア貴族という設定だ。ルパンの時代のロシアとフランスの関係については『ルパンの冒険』の項でも触れ
たが、革命の機運が高まってきた20世紀はじめになるとロシアの貴族階級が財産を抱えてパリへ次々と亡命し、財産を食いつぶしつつ優雅に暮らして社交界の
花形となるケースが少なくなかったようだ。
ロシアからフランスへの亡命となると言葉とか大変なんじゃないか、と思いがちだが、フランスは19世紀までヨーロッパ世界の文化の中心という地位を保っ
ており、フランス語もヨーロッパ世界の共通語的存在だった。とくにロシアはフランスと文化的関係が長く深く、トルストイの大作『戦争と平和』でもロシア貴
族達がフランス語で読み書き、あるいは話している様子が描写されている
(手紙なんか原文がそのままフランス語になっていたりする)。
だからなじみの花の都パリへの亡命はロシア貴族達にとっては必然でもあった。そしてロシア語なんて話せるとは思えないルパンがロシア貴族になりすますのも
必然だった、というわけだ(笑)。短編
「赤い絹のスカーフ」で
もルパンはロシア貴族に変装している。
☆パリ警察事情とフランス政界
『813』最大の魅力は最後の最後に明かされる大ドンデン返し。もっともこれって事前に「ドンデン返しがあるよ」と聞かされた人はたいてい途中で感づい
ちゃうらしいんだが(笑)。
さてルパンも務めていた
「国家警察部部長」。「ル
パンの脱獄」以来レギュラーで登場していたデゥドゥイ氏もこの地位にあり、彼の死後にルノルマンが副部長から昇格したことになっている。この「国家警察
部」の訳語は偕成社版全集が統一して使っているもので、最初に読んだ榊原晃三氏の岩波少年文庫版でも同じ訳語だったため僕は刷り込み状態でなじみがあるの
だが、他の訳文ではさまざまだ。古くは保篠龍緒訳の
「刑事課長」、
堀口大學訳の
「保安課長」、石川湧・井上勇訳の
「保安部長」、南洋一郎も
「保安部長」あるいは
「刑事部長」と訳している。
さてフランス語の原文ではどうなっているかというと、
「le
chef de la Sûreté」である。「chef」は英語で言う「チーフ」だから何らかの「長」であることは明白なんだけど、問題
なのは「Sûreté(シュールテ)」のほう。日本の警察組織に該当するものがないこの組織をどう訳すかがポイントなのだ。
「シュールテ」は英語では「セキュリティ」、と聞けばなんとなくイメージがわくだろう。社会の治安と市民の安全を守る役割、つまり「治安警察」のことな
のだが、そのニュアンスを訳そうと「保安」という訳語が使われるわけだ。じゃあ「“国家”警察」って訳はなんなのかといえば、この「
La Sûreté」は「La Sûreté Nationale」とも表記され、こち
らが正式の名称だからだ。
この当時のフランス、ことにパリの警察機構は変動もあってかなりややこしく正確が期せないのだが、この「シュールテ」こと「国家警察」とは、突発的に起
こる犯罪事件などに対応するための全国組織の<司法警察>であり
(ア
メリカのFBIに近いのかな?)、地方自治体に属して地域行政を補佐する<行政警察>
(日本で言えば都道府県警。交通整理のお巡りさんなどを想像してほしい)と
は異なる立場にある。しかし首都パリでは首都警察であるパリ警察
(日
本の東京の警視庁に相当するので「パリ警視庁」と訳すことが多い。ついでにいえば日本の警察機構は明治時代にフランスのそれから学んだもの)と
「国家警察」が共に警視総監のもとにあり、ルパンシリーズでも同じオルフェーブル河岸のパリ警視庁内に置かれていた様子がうかがえる。しかも両者の守備範
囲はかなりあいまいで、のちに「警察戦争」と呼ばれるほど縄張り争いが絶えず、1966年になってようやく国家警察の下にパリ警察機能が一本化されること
になったという。
ルパンシリーズの序盤は、怪盗ルパンと「国家警察部」のデゥドゥイ部長・ガニマール警部とその部下の刑事らがやりあうというのが基本構図だが、訳文でも
彼らを「パリ警視庁」と書いているケースが多く、原文でもその境界は曖昧だ。『バーネット探偵社』以後に登場するガニマールの教え子・
ベシュ刑事もパリ警視庁の刑事から国家警察部の刑事になったりして
いる。
さらにややこしいことにパリ警視庁内には検事局を補佐するために捜査・情報収集を行う「特捜班」という組織もあり
(1887年から正式発足)、これがまた「シュールテ」と呼ば
れていた。こちらは1913年に「司法警察」に改称され、ルパンシリーズ末期の作品
『特捜班ビクトール』のビクトール刑事はここに所属することに
なる。
(以上の警察組織ばなしは偕成社全集版「バーネット探偵社」の矢
野浩三郎氏の解説を参考にしてます)
ルパンシリーズを読んでいると、事件の捜査現場や取調べの場面に
「予
審判事」なる肩書きの人物がよく登場する。この『813』で登場する
フォルムリ予審判事は
『ルパンの冒険』からの再登場で、ルパンの関与を知って「宝冠
事件」の報復をしようと手ぐすね引いて喜ぶ描写もある。
「予審」とは重大事件においてこれを起訴するかどうかを裁判所が判断する手続きのことで、裁判官である「予審判事」がそのために事件捜査に立ち会ったり
取調べをしたりする。そのため犯罪捜査の総指揮官ともいえる強い立場に立つのだが、あくまで裁判官であるため犯罪者に直接立ち向かう警察官(刑事)ほどに
は主役にさせてもらえず、ルパンシリーズでも警察官以上に道化役を演じさせられていることが多い。例外は
『赤い数珠』で主役をつとめ、
『カリオストロの復讐』でルパンと心を交わした
ルースラン予審判事ぐらいか。
この『813』で初登場する
バラングレー総理(首相)
は内務大臣を兼任しているため警察行政を管轄する立場からこの事件に首を突っ込んでいる。内務大臣は国内の警察・憲兵隊、地方行政、各種証明書発行などな
ど、国内の幅広い方面を管轄する内務省の責任者で、現在でもフランスの閣僚中の重要ポストだ。戦前の日本もこれにならった内務省が存在し、やはり外相など
と並ぶ重要ポストだった。
バラングレーについては初登場場面で
「三十年来急進社会党の党首
をつとめ、現在は総理大臣と内務大臣を兼任」と簡単なプロフィールが紹介されている。もちろんバラングレーその人は架空の人物だが、モデル
となったのは同時代にフランスの首相・大統領をつとめた
レーモン=ポア
ンカレ(1860〜1934)であろうと言われている。ポアンカレが最初に首相をつとめた内閣は1912年に成立しており、偶然ながら
『813』の年代に合致する。ルブランが最初に『813』を書いた時点は1910年以前のことなので、いわば「予言」した形となっている。なお、「ポアン
カレ予想」で有名な数学者アンリ=ポアンカレは彼の「いとこ」だ。
あくまで「モデル」と推測されるだけなのでわざわざ比較するのも気が引けるのだが、ポアンカレは三十年も急進社会党党首だったという事実はないし、総理
大臣と兼任したのは内務大臣ではなく外務大臣だった。ロレーヌ出身の彼は一貫して対独強硬派で、第一次世界大戦中は大統領をつとめ
(『金三角』でバラングレーは大統領として登場する)、首相に
戻ってからの戦後処理ではドイツに課した莫大な賠償金が払えないとみてルール占領を強行したりもしている。
☆やたらに登場する子分たち
ルパンが多くの部下をかかえ、巨大な組織で行動していることはこれまでの作品群、とくに
『奇岩城』で明白になっているが、それから4年の「空白」を経
た『813』ではルパンの部下が数多く新登場する。なお、前作まで登場していた
シャロレ父子は『続813』の方で登場している。
冒頭のケッセルバッハ脅迫の場面で
マルコという部下が
出てくる。ルパンに無言で合図されて即座にケッセルバッハの物まね芝居をしてみせるなどなかなか器用だ。
『虎の牙』によればこの事件で名前が出たためマルコの名前は有
名になってしまったらしい。のちにルパンと共に「モーリタニア帝国」樹立に参加。
総理の取次ぎ係として内務省内にもぐりこんでいたルパン一味が
オー
ギュスト。親分自身によって正体を暴かれ、さらには脱獄させてもらえるのだが、その経緯でグレたのか消息不明になり、その後別名で
『カリオストロの復讐』で再登場する。『復讐』によればかなり
有能な部下でルパンが多くの秘密作戦に彼を関与させていたという。ただし、ルブランの記憶違いがあったようで、オーギュストは『虎の牙』でやはり「モーリ
タニア帝国」樹立で活躍していたという記述もある。
もっとも記憶に残る部下はやはり、ジャックとジャンの
ドゥードビル兄
弟だろう。二人そろって刑事でありながらルパン一味。しかも『813』では同一人物とは知らずに警察と泥棒の両方の「上司」に仕えてそれぞ
れのために活動する二重スパイの役割も演じている。ルノルマンの前でルパンの陰口を叩くところなど、あとから読むと失笑を禁じえないが、彼らに正体を教え
ていないなんて親分もかなり人が悪い(笑)。ま、種を明かしてしまえば同一人物トリックを読者に気づかせないために配置された子分たちだ。
『虎の牙』で列挙されるモーリタニア帝国参戦組の中に
「“二人の
アイアース”と名づけられたブーズビル兄弟」というのがいるのだが、これはどうもドゥードビル兄弟の書き間違いらしい。またルパンによって
やはり警察に送り込まれていた部下に「アレクサンドル」こと
マズルーが
いるが、彼はモーリタニア作戦参加に呼び出されず警察にそのまま置かれていたというから『813』の時点ですでに警察内に入っていたことになる。
セルニーヌ公爵ことルパンの部下として、とくにキャラクターはないけどチョコチョコ活躍しているのが
バルニエ。それから単に
「ドクター」と呼ばれている医者の部下がいる。『奇岩城』で負傷し
たルパンのために医者の誘拐までやるはめになった反省から一味に医者を常時置いておくことにしたのかもしれない。運転手の
オクターブも「専業」の部下のようだ。
ジェラール=ポープレを見張ってホテルの従業員に扮しているのが
フィ
リップ。とくに目立つ行動はないのだが、『虎の牙』のモーリタニア帝国樹立に活躍した部下リストに
「ブルボン王家より高貴な血すじのフィリップ=ダントラック」と
いう紹介があり、これが同じ人物だとすれば実に興味深い過去を抱えた男だと思えてくる。ブルボンより高貴…となるとハプスブルクあたりの落とし種とか?
ついでに言えば
グレル刑事も、本人はそうとは知らぬま
まにルパンの有能かつ忠実な部下だったりする。慰霊の意味もこめてここに書き記しておきたい。
そして「部下」ではないのだが、
ビクトワールの存在も
大きい。『奇岩城』後の再登場だが、またまたルパンにまっとうに生きろと説教し、ジュヌビエーブをルパンに利用されるまいと必死に抗う姿は感動的ですらあ
る。これが『続813』のラストへとつながる伏線となっているわけだ。
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