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「カリオストロ伯爵夫人」(長編)
LA COMTESSE DE CAGLIOSTRO

<ネタばれ雑談その2>

☆「カリオストロ」ってなんだ?
 
 今日の、とくに日本では(いや、世界でもかな?)「カリオストロ」というとどうしても宮崎駿監督の名作「ルパン三世・カリオストロの城」が連想されるだろう。主人公のルパン、ヒロインのクラリスという一致、そしてクライマックスにルパン・シリーズの『緑の目の令嬢』が 流用されていることから、「カリ城」の「カリオストロ」が『カリオストロ伯爵夫人』から拝借されたものであることは明白だ。ただし、宮崎監督自身も百も承知 であったと思うが、『カリオストロ伯爵夫人』にはさらに実在の元ネタがある。作中でもチラチラと言及される、シチリア人ジェゼッペ=バルサモ、自称「カリオストロ伯爵」なる、フランス革命直前のヨーロッパをまたにかけて大活躍(1743生〜1795没)した稀代の詐欺師だ。

 このカリオストロ伯爵という怪人物については種村季弘氏の評伝「山師カリオストロの大冒険」(岩波現代文庫)が 非常に面白くまとめているので、詳しく知りたい方はそちらを参照されたい。簡単に略歴をまとめると、本名ジェゼッペ=バルサモはイタリアの南端シチリア島 のパレルモに生まれ、母方の遠縁の「カリオストロ伯爵」の名を勝手に名乗り、美貌の妻と共に各地で詐欺行為をはたらいている。ジェゼッペはオスマン・トル コ帝国など東方に旅して魔術をわがものにしたと主張、ついにはクレオパトラやイエスとも対面した不老長寿の人間と名乗り、イタリア・スペイン・イギリス・ ドイツ・スウェーデン・ポーランド・ロシアとまさにヨーロッパ各地を渡り歩き、交霊術・占星術・医術(魔法の)・錬金術などあらゆるオカルトの大家として ふるまい、各地で貴族や大衆にもてはやされた。やたらに各地を渡り歩いていたのはタネがバレそうになると他所へ逃げていたからでもあるのだが…(笑)。ま たカリオストロは当時ヨーロッパに広がっていた秘密結社フリーメイソンの会員ともなっており、独自の分派活動のようなこともしていたらしい。

 彼がフランスの都パリにやって来たのは1785年のこと。彼はロアン=スービーズ枢機卿に取り入り、その招きを受けたのだ。ルパンファンなら「スービーズ」の名前にピンとくるはず。ここでカリオストロは「マリー・アントワネットの首飾り事件」に巻き込まれるのだ。「女王の首飾り」のところで簡単に紹介したように、ジャンヌ=ド=ヴァロワという女性がロアン枢機卿とマリー=アントワネット王 妃の間をとりもつとだまして、王妃に売り込まれていた大量のダイヤを使った首飾りをまんまとせしめ、ダイヤを全部はずして売り飛ばしてしまったという事 件。これが発覚してジャンヌは逮捕されるのだが、このとき彼女が取り調べに対して共犯者もしくは主犯として「カリオストロ伯爵」の名を挙げたため、カリオ ストロことジェゼッペ=バルサモも逮捕・投獄されてしまう。この事件の経緯については漫画「ベルサイユのばら」や映画「マリー・アントワネットの首飾り」(2002、アメリカ)にもなっているので、そちらも参照されたい。後者の映画の方では怪優・クリストファー=ウォーケンがカリオストロ伯爵を不気味に演じており、必見。
  結局はカリオストロは事件と無関係として釈放されるが、国外追放の憂き目を見た。この事件をきっかけにそれまで彼をもてはやしていた貴族層でも彼を疑問視 あるいは危険視する声が高まり、フランス革命が起こった1789年にローマで逮捕され、異端審問にかけられ死刑を宣告される。結局は終身刑に減刑され、 1795年にサン・レモの獄中で病死している。

 カリオストロは生前から半ば伝説化された存在となっており(同時代にはほかにサン・ジェルマン伯爵という似たようなキャラもいる)、同時代を生きたゲーテ(カリオストロの身元調査をしている)カサノヴァ(若いころのカリオストロ夫妻に対面している)といった有名人も彼に関する詳しい情報を書き残している。ロシアのエカテリーナ2世は自作の喜劇でカリオストロをモデルとする人物を出して嘲笑した。19世紀の大作家アレクサンドル=デュマ『ある医師の回想』四部作でカリオストロをとりあげ、その第一部はずばり「ジョゼフ・バルサモ」だ。第二部が「王妃の首飾り」で、カリオストロは首飾り事件の陰の首謀者に祭り上げられた。

  この伝説的怪人、その活躍ぶりにはどこか我らが怪盗紳士に通じるものがある。物語化はされてないが、ルパンもヨーロッパ各地をまたにかけて活動していたと されており、だいいち天性の詐欺師(笑)でもある。親戚の爵位を勝手に名乗ったのも、次々と異なる偽名を称したところもよく似ている。最初の「仕事」が 「女王の首飾り」盗みであったルパンの最初の冒険譚に「カリオストロ」を冠するのは必然の成り行きだったともいえるだろう。


☆「カリオストロの娘」とは?

 さてしかし。この物語でルパンと対決するのは「カリオストロ」といっても伯爵ならぬ「伯爵夫人」。あるいはペルグリニ夫人(ジェゼッペ=バルサモは「ペルグリニ」の偽名も用いた)、自称「カリオストロの娘」、 虫も殺さぬ美貌の持ち主ながら実は凶悪な女盗賊という凄い人物だ。「カリオストロの娘」というからには遅くともフランス革命期に生まれていなければなら ず、出生証明書によれば1788年生まれでルパン20歳の1894年にはなんと106歳。そこで実は若返りの魔法まで心得ているいて何年たっても若い美貌 の姿のまま、というおまけまでつく。
 もちろんちゃんとトリックはあり、ルパンが早くに推理したように1870年の第二帝政末期のナポレオン3世 宮廷に出現した「カリオストロ伯爵夫人」と、その娘で20歳のルパンの前に現れた「カリオストロ伯爵夫人」の瓜二つの母娘二代による「二人一役」トリック だ。1788年生まれとされる件は初代「カリオストロ伯爵夫人」がでっち上げたものと推測されている。

 このでっち上げ話がなかなか面白い。「カリオストロの娘」といってもジェゼッペ=バルサモの妻ロレンツァの産んだ子ではなく、ジェゼッペとジョゼフィーヌ=ド=ボーアルネとの間に生まれた子とされているのだ。本文にもあるとおり、このジョゼフィーヌ=ド=ボーアルネ、初名ジョゼフィーヌ=タシュール=ド=ラ=パジュリは後年ナポレオン=ボナパルトと結婚し、ナポレオンが帝位に昇るとその皇后となった女性だ。最初にボーアルネ子爵と結婚したのでその姓を名乗り一男一女をもうけているが1783年に離婚している。
  カリオストロは1785年にフランスを追われているが、この「でっち上げ文書」ではペルグリニの名で再びフランスに入国してパリ近郊のフォンテンヌブロー に滞在、ここでジョゼフィーヌと関係を持った…という設定になっている。実にまことしやかに書かれているが、フィクションの小説中のさらなるフィクション なのでややこしい。注まで入れて歴史文書を偽造するテクニックは、ルブランはこれ以前にも『奇岩城』で披露していた。
 なおジョゼフィーヌは恋多 き女で、1796年にナポレオンと結婚してからも浮気が絶えず、愛人の子も産んでしまっている事実がこの「フィクションのフィクション」にある程度の現実 味を持たせている。夫の即位と共に皇后の座を得たジョゼフィーヌだったが、ハプスブルグ家と縁組して後継ぎを求めたナポレオンから1809年に離縁され た。それでも1814年に死ぬまで「皇后」の称号は保持している。
 第二帝政をおこなったナポレオン3世はナポレオンの甥であるため、「カリオストロ伯爵夫人」に「私は皇后ジョゼフィーヌの娘だ」などと言い出されては家名に関わる問題だから調査に乗り出さなければならなかったわけだ。

 さて物語中で「実在」した初代「カリオストロ伯爵夫人」は1870年3月はじめにパリに姿を現す。この当時20代後半ぐらいで娘の「二代目伯爵夫人」は5歳ぐらいと推測される。「当時アレクサンドル=デュマの小説が評判となっていた」こ とに便乗したものとされているが、デュマが「ある医師の回想」を書いたのは1840年代〜1850年代のこと。1870年当時に本当に評判となっていたか どうかはちょっと疑問もある。ともあれ「カリオストロ伯爵夫人」は貴族サロンで大評判となり、ナポレオン3世のチュイルリー宮殿にまで入り込み、皇后ウージェニーにとりいる。そして魔法の鏡による「未来幻視」で「この夏、大勝利が得られる」と予言して、間接的に普仏戦争(1870年7月勃発)の引き金を引いたことにもなっているのだ。
 普仏戦争は実際にはプロイセン首相ビスマルクの 挑発工作に乗ってしまったナポレオン3世が引き起こしたとするのが通説だが、この物語では「カリオストロ伯爵夫人」がもともとドイツから送り込まれたスパ イで、彼女がナポレオン3世を戦争に引きずり込んだという設定になっている。その直前にカリオストロ伯爵夫人はイタリアに追われるが、普仏戦争後の講和交 渉でふたたびフランスにやってきてドイツ将校たちと談笑していたとされる。さらにはブーランジェ事件(1889年のブーランジェ将軍による右派クーデター未遂事件)パナマ運河疑獄事件(1892年の政治スキャンダル。「水晶の栓」参照)といった第三共和政を揺るがした大事件やその他の不祥事のいずれにも関与したことが示唆されている。このように実際にあった事件に次々と関与する女スパイというキャラクターは『オルヌカン城の謎』に登場するエルミーヌにも共通する。

  ルパンとかかわりをもった二代目「カリオストロ伯爵夫人」がいつから活動を開始していたのかはわからない。年齢からするとブーランジェ事件やパナマ運河疑 獄には関与できそうな気もするのだが。二代目「伯爵夫人」は母親について貧困のうちに死んだと語っており、さまざまな大事件に関与したにしては実入りがよ かったようには見えない。一方で二代目の方はドイツとのかかわりについては全く描かれないし、もっぱら泥棒稼業に精を出すばかりなので政界スキャンダルに まで首を突っ込む趣味があったようにも思えない。この母娘二人の「代替わり」の時期は分からず母娘ともども「二人一役」なのだと思うしかないのだろう。
 二代目伯爵夫人がルパンに父親のことを聞かれて「レオナール」と小さく答える場面がある。ルパンも推察しているように、初代伯爵夫人は女スパイ・詐欺師だったが、彼女と結ばれたレオナールが盗賊で、二代目伯爵夫人はその影響を強く受けたのかも知れない。


☆「修道院の財宝」とは?

 ルパン最初の冒険譚のお宝は、中世以来フランスの修道会がためこんだ財産を宝石に代えたもの。中世以来千年間というからその規模たるやハンパではない。なんと一万粒にのぼる宝石の山だというのだ。ルパンの狙ったお宝史上でも最高レベルのものに違いない。
  ところで「修道会」とは何だろうか。これは西欧キリスト教の、とくに中世カトリック教会において強い勢力を持った聖職者の集団だ。まずキリスト教の修行者 が自給自足の共同生活をして集団で修行する「修道院」運動が広がり、やがてその流れで人間集団である「修道会」が発生してきた。各種の修道会は基本的には 宗教的な修行・宣教団体なのだが、教会権力が強大だった時代にあっては現実に政治的・経済的な影響力を持つ団体でもあった。だから蓄財や資金の運用も当然 行っていたわけで、この物語にあるような「莫大な財宝」をたくわえ埋蔵していたという設定は決して絵空事ではない(実際、ルブラン自身の原注に同様の修道院財宝伝説が数多く存在すると書かれている)。日本だって中世には寺院が政治力を持ち蓄財・金融を行っていたから、どこでも似たような現象が出てくるということだ。

 この物語で修道院財宝を追う一方のリーダー・ボーマニャンもやはり修道会のひとつであるイエズス会の会員だった。「イエズス会」といえば日本人には日本に初布教したフランシスコ=ザビエル(1506-1552)でおなじみだ。カトリック内の新興改革団体と位置づけられるイエズス会は、「宗教改革」によりプロテスタントの勢力が拡大しつつある危機感のなかで1534年に結成された。ザビエルはイグナチウス=ロヨラ(1491-1556)らと共にその結成メンバーの一人で、結成場所はパリ近郊のモンマルトルの丘(当時はパリの城壁の外)だった。イエズス会はとくに「新世界」へのカトリック布教に力を注ぎ、ザビエルはその先兵として日本や中国に布教活動をおこなっていたのだ。
 世界中に活動を広げ、国際的な発展を遂げたイエズス会だったが、18世紀のヨーロッパで国民国家の意識が台頭してくると国を股にかけたその存在は支配階級から危険視されるようになり(このあたり、カリオストロ伯爵が会員だったフリーメーソンにも似てる)、1773年にローマ教皇がイエズス会の禁止を発令したこともある。結局ナポレオン没落後の1814年に教皇がイエズス会の復興を公認して、以後は順調に発展した。
  ジョゼフィーヌ=バルサモが語るところによればボーマニャンは「信仰心と野心」からイエズス会に入り、修道院の財宝の秘密を知ってそれをイエズス会のもの とするべく調査を進める。その過程でジョゼフィーヌ=バルサモに色仕掛けでたぶらかされ情報を漏らすことになっちゃうわけだ。

 最終的に財宝のありかはジュミエージュの修道院跡の近くだ。ルパン・シリーズでジュミエージュ修道院跡の話が出てくるのはこれが初めてではない。シリーズの初期も初期、第2作『獄中のアルセーヌ・ルパン』にチラッと言及されていたのだ。あれはセーヌ川の川中島にあるマラキの古城を舞台にしているが、ジュミエージュ修道院の廃墟とそこからシャルル7世の愛人アニエス=ソレルの使った秘密の抜け穴の伝説に触れられている。アニエス=ソレルの伝説は『カリオストロ伯爵夫人』でも謎解きの鍵の一つとされている。
 ジュミエージュの修道院についての説明は『獄中〜』のほうでやってしまったのでここでは省くが、ルパンシリーズに二度も出てくるのはほかでもない、作者のルブラン自身がよく知る場所だったからなのだ。これはNHK衛星第2で2005年11月に放送された「世界時の旅人・ルパンに食われた男モーリス=ルブラン」という豊川悦司さんが旅人を務めた番組のなかで紹介されていた話で、ジュミエージュにはルブランの叔母の家があり、少年時代のルブランは夏休みにこの家によく滞在し、ジュミエージュ修道院の廃墟でよく遊んでいたというのだ。左画像がその番組で映ったその修道院廃墟の映像である。
 ルブランのこうした廃墟で遊んだ少年時代の記憶が、『奇岩城』や『カリオストロ伯爵夫人』における宝探しの大冒険活劇に反映してるのではないか…とその番組はまとめていた(番組では挙げてないが『ドロテ』もその傾向だ)。もともと純文学を志し、成り行きで思いもかけず冒険推理小説のヒット作家になってしまったルブランだが、その素養は少年時代からしっかりと育まれていたとも言えるようだ。

  修道院の財宝はひそかに受け継がれ続けたが、フランス革命(1789)の時にその継承の危機がおとずれた。これまでの歴史がらみの雑談でたびたび触れたよ うに、フランス革命は旧勢力をすべて打倒せよという過激な方向へと進んでゆき、「反革命」とみなされた人々が次々とギロチンにかけられる「恐怖政治」 (1793〜1794)へと突入した。この恐怖政治の中心にいたのがロベスピエールだが、小説中でもラウールが冗談でジョゼフィーヌに「ロベスピエールとも知り合いだったろう」というセリフを吐いている。
 この恐怖政治の時期にはそれまで支配階層だった貴族・聖職者も多く処刑され、この財宝を管理していた最後の人物であるニコラ修道士もその一例だった。ニコラから財宝の話を聞いたオーブ準男爵は 当時12歳だったというから、1781年ごろの生まれ、普仏戦争勃発直前に90歳近くになっていたということになる。執政官政府時代、ナポレオン帝政時代 で多くの戦いに従軍したというから、まさに激動のフランス史の生き証人そのものといえる。ナポレオンが没落した1814年、33歳で財宝の位置を確認した と語っている。それから半世紀以上にわたって準男爵は秘密を守り続けたが、普仏戦争敗北の混乱の中でかすかな手掛かりだけを残してこの世を去ってしまい、 財宝話を打ち明けられた枢機卿の方も手掛かりとなる木箱を戦争の混乱の中で失ってしまったため全ては闇に葬り去られる…ということになった。普仏戦争は実 質的な勝敗は1870年の9月にはついていたのだが、その後プロイセン軍がパリ陥落を目指してフランス領内に進撃し、翌年1月のパリ陥落まで各地を荒らし まわっていたので、こういう不測の事態も確かにありえたのだろう。ルーアン周辺にまでプロイセン軍が進撃したかどうかは確認していないのだが、ルーアン出 身で普仏戦争時には6歳になっていたルブランが言うんだから間違いないだろう。

 ところで修道院の財宝を求めるのは当然個人的欲望もある わけだが、ボーマニャンたちの原動力がそれだけではないことが小説中でほのめかされている。何かバックに大きな後援組織があり、結局は財宝を手に入れそこ ねて慎重に手を引き、手がかりを抹殺していることも書かれている。ただほのめかすばかりなのでどういう組織なのか明確には分からないが、一か所だけその手 がかりが書かれている。ボーマニャンの死を報じる新聞記事に「王党派闘士」という肩書がつけられているのだ。
 『水晶の栓』『ルパンの結婚』の ネタばれ雑談で触れたが、第三共和政期のフランス政界にはブルボン王家もしくはオルレアン王家による王制復活を企図する「王党派」、ナポレオンの一族によ る帝政復活をはかる「ボナパルティスト」といった保守系政治勢力がひしめきあっていた。ここでいう「王党派」はおそらくブルボン王家再興をはかる人々では なかっただろうか。イエズス会会員でもあったボーマニャンは同時に財宝の話を王党派の人々に持ちかけて支援を得ていたと思しい。
 なお映画「ルパン」では、ボーマニャンらは「オルレアン公」を首領に共和制打倒・王制復活を図る一派として描かれていた。

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