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ボワロ=ナルスジャック・作
「バルカンの火薬庫」(長編)
LA POUDRIÈRE
初出:1974年
邦訳:新潮文庫「バルカンの火薬庫」(榊原晃三訳)・ポプラ社怪盗ルパン全集「ルパンと時限爆弾」(南洋一郎文) 

◎内容◎

 セルニーヌ公爵ことルパンは、セルビア国王隣席のバレエ公演から帰る途中、金髪の美女が謎の男たちに襲われている場面に遭遇、彼女を救出する。しかし彼女は姿を消し、そのあとを追ったルパンはやはり謎の集団に誘拐され、私立探偵の他殺体に出くわしてしまう。
 謎を追いかけるうちに、セルビアの王子と伯爵令嬢との悲恋と、王子が彼女にしたためた手紙を狙う組織の存在が浮かび上がる。その手紙の内容が暴露されれば「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれるバルカン半島の情勢に火をつけ、ヨーロッパに大戦をもたらす恐れすらある。ルパンは問題の手紙の隠し場所をなんとか探り当てようとするのだが――



◎登場人物◎(アイウエオ順)

☆アルセーヌ=ルパン
怪盗紳士。

☆アンブロワーズ
ルパンの部下。

☆エミール=モングージョ
元刑事の私立探偵。兄のガストンと共に私立探偵社を経営。

☆オクターヴ
ルパンの部下の一人で運転手をつとめる。

☆ガストン=モングージョ

元刑事の私立探偵でエミールの兄。他殺体で発見される。

☆ガニマール警部
パリ警視庁につとめるベテラン刑事でルパンの宿敵。本作では何度か名前が言及されるのみ。

☆グレージュ男爵夫人
自邸で盛大な夜会を催す夜の女王。

☆シモーヌ=ド=マルーズ
伯爵令嬢でセシルの妹。セルビア大公ミカエルと恋に落ちるが自殺未遂を起こす。

☆ジャック=ドゥドヴィル
パリ警視庁につとめる刑事だがルパンの忠実な部下。

☆ジャン=ドゥドヴィル
パリ警視庁につとめる刑事だがルパンの忠実な部下。

☆ジャン=ルメルラン
ペルージェの医師。

☆セシル=ド=マルーズ
伯爵令嬢である金髪の美女。自殺未遂をした妹シモーヌの世話をしている。

☆セルニーヌ公爵
亡命ロシア貴族だが、その正体はアルセーヌ。ルパン。

☆ピエール1世(ペータル1世)
セルビア国王。

☆ファリエール
1912年当時のフランス大統領。実在人物。

☆ペルトン
ペルージェの公証人。

☆ポリュックス
ド・マルーズ伯爵の別荘にいる老犬。

☆マリカ王女
バルカンの山間の王国シリリアの王女。ミカエル大公との結婚が内定している。

☆マレショ
ルパンの部下。

☆ミカエル大公
セルビア国王の甥で王位継承者。シモーヌと恋に落ちるが隣国の王女との政略結婚を迫られている。

☆ミヌー
モングージョ兄弟に飼われている黒猫。

☆ムーティエ
精神科医。

☆ラズロ=ツェケリー
ハンガリー人の医師。

☆ランファン
ルパンの部下。

☆リュシアン=ファジョン
ド・マルーズ伯爵家の別荘に住み込む老庭師。

☆レオニー=ファジョン
庭師ファジョンの妻。

☆ロワゾー
ルパンの部下。


◎盗品一覧◎

◇ミカエル大公の手紙
セルビア王子ミカエル大公が恋人のシモーヌに送った手紙で、バルカンの国際情勢を刺激しかねない内容を含む。


<ネタばれ雑談>

☆「新ルパンシリーズ」第2弾!

 『ウネルヴィル城館の秘密』発刊のすぐ翌年、本書『バルカンの火薬庫』は刊行された。前作では作者名は「アルセーヌ・ルパン」とされ、実際の作者名は伏せられていたのだが、この2冊目で作者がボワロ=ナルスジャックであることが公表され、その序文でなぜ今「新ルパンシリーズ」を書くのか、彼ら自身の文章で説明され、その意気込みが改めて示された。
 作者の正体も公表したからなのか、前作が「ルブランのルパン物語の模倣」であったのに対して、この『バルカンの火薬庫』はボワロ=ナルスジャックのオリジナルの色が濃くなっていると感じる。もちろん主役はルパンだし、ルパンの言動はルブランのルパンのキャラをちゃんと踏まえているし、ルブランのルパン・サーガにそう不自然なく組み込めるような設定にもなっている(この点、前作はやや無理があった)。それでも展開されるストーリーは当時のフランスを代表するミステリ作家によって練りに練られたもので(途中までいささか込み入りすぎとも思うけど)、謎が謎を呼ぶ展開、それがヨーロッパを揺るがしかねない問題にまで発展、最後のどんでん返しまで、一気に読ませてしまう。ルブランとは一味違った読後感を抱く人も多いはずだ。ルパンがあくまで探偵役に徹してるあたりもその表れだろう。

 その一方でルパン・サーガに不自然なく組み込めるようになっている、と書いたのは、本作の年代設定がしっかりしていて、他作品とリンクする登場人物がいるからだ。
 『ウネルヴィル〜』はラストでサラエボ事件が起きる1914年6月の物語となっていたが、こちらはそれよりややさかのぼる1912年の事件という設定。それはルパンがシモーヌのカルテを読むシーンで「1892年生まれだから今年で二十歳」と言ってるから明らかだ。そして1912年といえばルパン・サーガにおいては『813』の事件が起きた年。ボワロ=ナルスジャックはちゃんと心得ていて、ルパンの変名がセルニーヌ公爵であるだけでなく、その住所もちゃんと「オスマン大通りとクールセル通りの交差点」。ルパンの部下たちの中にパリ警視庁の刑事ドゥドヴィル(ドードビル)兄弟を紛れ込ませているほか、あのバラングレーの名前も「外務大臣」として言及している箇所がある。本作に登場はしないのだが宿敵ガニマール警部もまだ現役で活躍中ということになっている。
 さすがに例の国家警察部長は登場してないが、たぶん『813』未読者への配慮。もっともボワロ=ナルスジャックのシリーズではその点もネタバレさせちゃってるのがあるんだが。

 同じ1912年の事件といっても、その内容から『813』より前の段階であることは明白。『813』は1912年4月16日に始まる事件なので、それ以前ということになる。バラングレーが外相ということは、このあと政権に変化が起きて彼が外相から総理兼内相になった、ということなのだろう。だが困ったことに『バルカンの火薬庫』の本文中に「11月24日木曜日」という日付が書かれている場面があり、これでは『813』との前後関係が矛盾してしまう。ここはボワロ=ナルスジャックはもうっかりしていたということだろうか。
 このときルパンは38歳。25歳のミカエル大公を眺めて、自身の25歳ごろは何をしていたっけ、とふりかえって『ハートの7』『おそかりしホームズ』を回想している場面がある。こうしたところにもルブランのルパンシリーズにうまく融合させようという作者の姿勢を感じる。

 時代設定といえば、本作の序盤、シャトレ劇場や男爵夫人邸の場面で、舞踏家や貴族、評論家や文化人など1912年当時に実在していた著名人が数多く登場している。これらの人物については新潮文庫版・榊原晃三訳でそれぞれの実在人物について簡単な注釈をつけてくれているので、ここでは省く。なぜか注釈がない「ファリエール大統領」について補足しておくと、これもレッキとした実在人物、1912年当時のフランス大統領アルマン=ファリエール(Armand Fallières、1841-1931、在職1906-1913)のことである。
 ルブランが執筆していた当時では同時代人である彼らをホイホイと出すわけにはいかなかったろうが、1970年代ともなれば彼らももはや歴史上の人物だから遠慮なく登場させられたわけだ。いずれも名前が出てくるだけで、ほとんど風景描写と同じなのだが、そうした名前が出てくることで読者はこれが1912年という時代の物語であることを実感する仕掛けで、ボワロ=ナルスジャックにとっては「新ルパン」を書くのは歴史小説を書くようなものだったということだ。


☆「火薬庫」をめぐる国際情勢

 おっともう一人、チラッチラッと顔見せ程度の登場ばかりなのだが、物語の核心に関わる実在人物が登場している。フランスを訪問して大歓迎を受けているセルビア国王「ピエール1世」だ。「ピエール」はフランス語読みで英語の「ピーター」、ドイツ語の「ペーター」、ロシア語の「ピョートル」になるわけだが、セルビアでは「ペータル」となる。本文中に「ピエール=カラゲオルゲヴィッチ」とフルネームが書かれているように、これがセルビアの「カラジョルジェヴィッチ家」出身のセルビア国王ペータル1世(1844-1921、在位1903-1921)であることは明白だ。小説中で触れられている彼の略歴、若くしてフランスに留学、陸軍士官学校に入り、普仏戦争ではフランス軍兵士として活躍、のちにフランスの最高勲章「レジョン・ド・ヌール」を授与された、というのも史実である。

 ここで当時のセルビアの歴史を簡単にまとめておこう。というか、これを理解しないと本作の核心部分、たかが手紙の束がなぜヨーロッパを大戦争に巻き込みかねないのか、サスペンスの背景が分からない。
 セルビアを含むバルカン半島は、19世紀半ばまでオスマン帝国の支配下にあったが、オスマン帝国の衰退にともなってギリシャ、ブルガリア、セルビアといった国々が19世紀末までに独立を達成してゆく。しかし今度はこうした独立国同士が領土をめぐって戦争を起こし、そこにオーストリア=ハンガリー帝国の南下、ロシア帝国やドイツ帝国の影響力浸透、さらにはイギリスやフランスの思惑まで絡んできてグチャグチャなことになっていく。本作の原題の通り「火薬庫」となってしまったのだ。

 セルビアには国王候補となる名家が二つあった。ひとつがオブレノヴィッチ家、もうひとつがカラジョルジェヴィッチ家だ。まず国王となったのはオブレノヴィッチ家のほうで、カラジョルジェヴィッチ家のペータルが幼少期から亡命生活をおくりフランスで長年暮らしていたのもそうした事情だ。そして、オブレノヴィッチ王家は南下を進めてくるオーストリア帝国に対して親和的姿勢をみせていたため、1903年に民族主義的な軍人らのクーデターが起こされ、国王・王妃が暗殺される事態となる。そのあとを受けてカラジョルジェヴィッチ家のペータル1世がセルビア国王に即位したわけだ。
 この王家交代により、セルビアは反オーストリア・親ロシア(ロシアはセルビアと同じスタブ民族である)に転じる。当時フランスはロシアと同盟して、ドイツ・オーストリアの同盟に対抗していたから、フランス育ちのセルビア国王は当然大歓迎だったろう。1912年当時本当にペータル1世がフランス訪問をしていたのかは未確認だが、ここまではっきり書いてるところをみると史実なのではないかと思う。

 さて問題はそのペータル1世の甥にして王位継承者とみなされている「ミカエル大公」だが、こちらはさすがに架空人物。ペータル1世には息子が二人いて、兄の方は不行跡により王位をあきらめ弟が継いだりしてるのだが、甥がどうのという史実はない。物語の核心であるたけにフィクションの人物にせざるをえなかったのだろう。
 この物語では、ミカエル大公が隣国シリリアの王女マリカと政略結婚させられそうになり、恋人シモーヌへの手紙の中でついつい王女の悪口などを書き連ねてしまったことになっている。もちろんこのマリカ王女も、シリリア王国なる国も架空のもの。小説中の記述だと「シリリア」はセルビアとハンガリー(ここではオーストリア・ハンガリー帝国をさす)とブルガリアにはさまれた山間部にある小国、となっているのだが、当時の地図を眺めてもそんな国は見当たらない。『813』における「ベルデンツ公国」のようなもので、ヨーロッパはあちこちに小さい国が実際にあるから創作ででっちあげても一定のリアリティが感じられてしまうわけだ。
 ただし架空とはいえそんなポジションにあったら、小さいとはいえこの国がもつ地政学的価値は高い。この国がセルビアに転ぶかオーストリアに転ぶかで、それでなくても火薬庫状態のバルカン半島が大きく変化してしまう。セルビアはミカエル大公とマリカ王女を結婚させることでシリリアとの同盟を強化しようとしているが、そのミカエルがマリカを罵倒してると分かればシリリアの民族主義者たちが黙っていない。それを煽るべくオーストリア帝国のハンガリー人たちが手紙を入手しようと暗躍している…というのが、本作の中盤でようやく明らかになる事件の構図だ。

 そんな、たかが個人的な手紙くらいで…と思う向きもあろうが、小説中でも例に出されている「エムス電報事件」という世界史的に名高いものがある。1870年7月、当時プロイセン王国とフランス帝国はスペイン継承問題でモメていたが、プロイセン国王ヴィルヘルム1世がこの件についてビスマルク首相にあてた電報を、ビスマルクがわざと一部を編集して「無礼なフランス大使をプロイセン国王が追放した」ように読めるように工作して公表、プロイセン・フランス両国の国民感情を刺激してまんまと戦争勃発にしむけてしまった。これが「普仏戦争」で、フランスはプロイセンに敗北、プロイセンはドイツを統一して「ドイツ帝国」となり、フランスは第二帝政から第三共和制に移行、まさしく「ルパンの時代」へと向かうきっかけとなった事件なのだ。フランス人としては屈辱的な記憶であり、政治・外交における「情報操作」の重要性と怖さを思い知らされる例である。

 この小説におけるミカエルのラブレターがそこまでの影響力をもつかどうかちょっと疑問もあるんだけど、似た設定がシャーロック=ホームズ・シリーズの短編『第二の汚点』(第二のしい、第二の血痕の邦題も)にある。この短編ではヨーロッパ某国の君主がイギリスの外交政策に腹を立て、一時の怒りから激しい内容の私信を外交ルートを通さずにイギリス政府に送りつける。その私信が行方知れずとなり、もしその内容が公表されると戦争になりかねない、という設定だ。一時の怒りにまかせて書いた手紙が…という設定がよく似ていて、ボワロ=ナルスジャックは『第二の汚点』を念頭にこの小説を書いたんじゃないかな、と憶測もする。


☆その他あれこれ

 『バルカンの火薬庫』では、手紙を発端とするヨーロッパ大戦の勃発はルパンの機転により一応回避される。しかし2年後の1914年6月、セルビア青年がオーストリア皇太子をサラエボで暗殺、第一次世界大戦を招いてしまうのは歴史の授業で習う通り。
 これじゃわかりにくいとでも思ったのだろうか、ポプラ社「怪盗ルパン全集」におさめられた南洋一郎による本作のリライト『ルパンと時限爆弾』では、年代をわざわざ1914年6月に変更していて、終盤のクライマックス近くでサラエボ事件の知らせが入る、という趣向になっている。それを聞いたルパンはミカエル大公を飛行機に乗せてスイスのアルプスまで飛び、そこで落下傘降下させるというまったくオリジナルの展開まで用意されている。なお「時限爆弾」というのは世界大戦へのカウントダウンのことを意味していて、世界大戦の勃発は「大爆発」と表現されている。

 南版『ルパンと時限爆弾』は、大筋は原作をなぞった展開なのだが、後半が大きく改変されている。原作ではシモーヌが自殺をはかる理由はミカエルが自分を捨てて王女と結婚すると思ったからなのだが、南版では、それでは児童の読者にミカエルがひどい男と思われそうだと判断したか、オーストリア側の組織がミカエルがシモーヌに絶縁を通告する偽手紙を作成し、それを読んだシモーヌが絶望して…という展開に変えられている。「シリリア」も登場せずオーストリアの王女との政略結婚工作ということにされていて、ミカエルのラブレターが国際情勢に与える影響はまるっきり違ってしまっている。先述のようにサラエボ事件が作中で起こってしまう改変もそうした設定変更にともなうものでもあるだろう。

 また…この作品も読む機会が得られてない人も多そうなのでネタバレ回避で書くが、ラストにどんでん返しがあって意外な真相が明かされるのだけど、南洋一郎的にはこの結末は児童向けにマズイと判断したのだろう、どんでん返し自体をなくして、哀しくも美しい話でラストをまとめている。また終盤で第一次世界大戦がおこるので、同全集『ルパンの大作戦』(「オルヌカン城の謎」が原作)においてルパンが軍医として戦場ではたらく設定になっていたのを生かして、こちらと話がつながるようにしている。


 さてルパンの活躍した20世紀初頭は「自動車の時代」の幕開けでもあった。ルブラン作品でも自動車がしばしば登場、ルパンが猛スピードで飛ばすシーンも数多いが、車の種類に言及していたことはなかったように思う。ところが本作では自動車が登場するたびに車種、メーカーの名前がはっきり明記されているのだ。
 まずセルニーヌ公爵ことルパンが、オクターブという部下に運転させているのは、ドイツ製「メルセデス・ベンツ」。ルパンが一度誘拐され、脱出する際に敵の一味から奪って運転したのはフランス製の「鈍重なディオン・ブートン」。私立探偵エミール=モングージョが運転しているのはフランス製の「中古の1908年型ルノー」。クライマックスでミカエル大公が載って来て、ルパンが運転して敵一味とカーチェイスを繰り広げるのがドイツ製「40馬力のダイムラー」…といった具合だ。
 これもボワロ=ナルスジャックが本作を「歴史小説」のように書き、当時の雰囲気を出す小道具に自動車を使っているということだろう。


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