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「壊れた橋」(短編、「バーネット探偵社」第6編)
THE BRIDGE THAT BROKE
初出:1928年 英語版「バーネット探偵社」に収録
◎内容◎
科学者のサン=プリ教授が庭の小川に落ち、岩に頭を打って死亡した。小川にかかっていた木製の橋にノコギリで切り込みが入れてあり、計画殺人の可能性が
高い。直後に隣人の証券マンが狼狽して帰宅、「ぼくは人殺しだ」と自白のようなことまで口にする。彼は事件直前までパリにいて一見アリバイがあるかに思わ
れたが、夜中に車を出していたことが判明し、ますます犯行を疑われて逮捕される。だが彼の妻は夫の無実を信じていた。奇奇怪怪な事件に、ベシュはまたもや
バーネットを引きずりだした。
◎登場人物◎(アイウエオ順)
☆サン=プリ教授化学を専門とする科学者。「壊れた橋」により不審死を遂げる。
☆ジム=バーネット
私立探偵。「調査費無料」を掲げる。
☆セシル=ルノルマンルイ=ルノルマンの妻。夫の無実を信じる。
☆テオドール=ベシュ国家警察部の刑事。ガニマール警部の直弟子。
☆デポルトボーブレに住む医者。ベシュの知人で事件への協力を依頼。
☆テレーズ=サン=プリサン=プリ教授の娘。
☆ルイ=ルノルマン証券ブローカー。サン=プリ教授の隣人で付き合いも深い。
☆ルノルマンの母親ルイ=ルノルマンの老母。パリに在住。
◎盗品一覧◎
◇新発明の染色剤の製造法サン=プリ教授が発明した染色業界に革命をもたらす秘密の製造法。
<ネタばれ雑談>
☆英語版のみに存在する謎の「バーネット」
この
『壊れた橋』(The Bridge that Broke)は、長い間その存在自体が忘れられていた
「バーネット探偵社」シリーズの一編だ。実はルパンの生みの親である
モーリス=ルブラン自身の手になるはずのフランス語版原文がまだ未確認で、たどれる「オリジナル原文」は英文しか確認されていない。
1928年にフランスで単行本『バーネット探偵社』が刊行され、その年のうちにイギリスで、翌年にはアメリカで英語版「バーネット探偵社」が刊行された
(英版は「ジム・バーネット乗り出す」、米版は「アルセーヌ・ルパン乗り出す」という訳題だった)。この英語版「バーネット探偵社」にはなぜかフランス語版にはない『The Bridge that Broke』なる1話がシリーズ第6話として収録されていたのだ。
このことが当時話題になったのかどうかは分からない。第二次大戦後は英米でのルパン熱は冷めてゆき、『八点鐘』よりあとの作品の翻訳書はほとんど絶版状態
になってしまったため、長い間この一編の存在は忘れ去られていた。これを1929年刊行のアメリカ版から発掘したのが日本の
「ルパン同好会」会員の皆さんで、刊行から80年後の1999年に同好会会誌「Raoul(ラウール)」誌上で会員の手になる本邦初訳が掲載された。一般向けには映画「ルパン」公開とあわせた特集を組んだ「ミステリマガジン」2005年11月号に
藤田真利子訳で掲載されたものが初披露となり、幻の一編発掘にいたる詳しい経緯が
住田忠久氏により解説されている。いまのところこのときの雑誌掲載のみで、単行本入りは果たしていないので未読のルパンファンも多いはずだ。
本国フランスでもこの一編の存在はまったく知られてなかったそうで、住田氏から存在を教えられたルブラン遺族もビックリ、フランスのミステリファンも驚き、ミステリファン雑誌「813」誌上において英語版からの仏語訳という形で本国でも初披露となった。
非常に不思議な話なのだが、ルブランは
『虎の牙』や
『八点鐘』を本国より先にアメリカで発表した前例がある。日本のルパン訳者・
保篠龍緒も
そうなのだが、翻訳出版を前提にして本国では未発表・未推敲の原稿を訳者に送ってしまうことも多かったらしい。『バーネット探偵社』シリーズはフランスでの雑誌掲
載以前の段階でひととおり書き終えていたと思われ、雑誌発表前にその原稿を英語版訳者に送っていた可能性が高い。このときに『壊れた橋』の原稿もふくまれ
ていて英語版ではそれが収録されたが、ルブラン自身がオリジナル原稿を紛失したのか、それとも内容的にダメを出して単行本収録を見合わせたのかして仏語版
単行本には収録しなかった、ということではないかと推測される。
もちろん、別の可能性として英語版にしかない『壊れた橋』は英米の訳者か作家による勝手な贋作ではないか、という推測もできる。すでに保篠龍緒が1920年の段階で
『青色カタログ』『空の防御』という、どうやら保篠自身の贋作と思われる2編を「ルブラン作」として発表している例もある
(この2編についてはパスティシュコーナー参照)。
だが『壊れた橋』は単行本に堂々と収録していること、内容的に他のバーネットシリーズと矛盾せずつながりがいいこと、フランス語のニュアンスを英語化する
ために苦心している形跡やフランス語そのままの表現があることなどから、ルブランのオリジナル原稿が存在していたはずと推定されるのだ。
そもそも『バーネット探偵社』の続編である
『謎の家』のなかで、ベシュが
「十二たび協力し、十二たびだまされたバーネット」と口にするセリフがある。仏語版「バーネット探偵社」の単行本に収録されたエピソードは8つしかないので、あと4つ未発表の作品があるのではないかとは指摘されていたのだ。ベシュは登場しないがバーネット探偵社は出てくる
『エメラルドの指輪』(Les cabochon d'emeraude)と
いう短編が1930年に『政治文学紀要』なんてえらく場違いなところにこっそり発表されていて、これは1975年に再発掘されて日本でも偕成社版全集に収
録された。これを入れればあと3つ、ということになっていて、この『壊れた橋』の発見により残り2編が存在するのかどうか、というところだ。
(以上の話は、「ミステリマガジン」2005年11月号および「戯曲アルセーヌ・ルパン」収録の住田忠久氏の解説を参考にまとめました) ルブランの著作は死後60年が経ってたいていの国では著作権が切れてパブリック・ドメインとなり、その原文はネット上で公開されている
(翻訳文については訳者の著作権があるため一様ではない)。この『壊れた橋』についてもアメリカの原書からコピーしたと思われる英文PDFが公開されているので興味のある方は以下を参照されたい。
http://www.ebooksgratuits.com/ebooks.php?auteur=Leblanc_Maurice
(↑ルブラン著作のフランス語原書がほぼ全て公開されている)。
☆ルブランらしい心理ミステリ そんなわけで、僕も2005年の秋になって初めてこの幻の一編を読んだわけだ。誕生100年目にして未読の「新作」を読めるとは…とずいぶん感慨にふけったものである。
物語は真夏の火曜の午後、暑さの中でバーネットが事務所でのんびりビールをやりながらくつろいでいるところへベシュが飛び込んでくるところから始まる。毎
度毎度「もう縁を切ろう」と思いつつ結局バーネットのところへ来てしまうベシュを、「これはこれは」と驚きつつ迎えるバーネット、というおなじみのパター
ン。本文中ではベシュがいまいましく思いつつも
『十二枚の株券』の一件では感謝していることが説明される。
つまりこの一話、明らかに英語版の収録順どおり『十二枚の株券』のすぐあとの話なのだ。真夏、という描写がちゃんとあることにも注目したい。なぜかといえ
ば、『十二枚の株券』の雑談で書いたように、史実では1909年7月20日に内閣がつぶれており、これが『十二枚の株券』事件のときのこととすると、本作
の「真夏(明記はないが8月だろう)」という季節設定はまったく矛盾なくつながってくるのだ。
いつものパターンでバーネットを事件に引っ張り出したベシュが向かう先は
ボーブレ(Beauvray)という町。地図で探してみたのだが見つからず、やはり事件が起こる町は一応架空としておくのだろうか。ただ作中でパリにいた
ルイ=ルノルマンが真夜中過ぎに車を出して、橋の工作をして二時までには余裕で戻ってこれるという記述があるので、車で片道1時間とかからないパリ郊外であることは明白だ。
今回の事件では、死体の検視にあたった
デポルト医
師がベシュの知人で、ベシュに直接出動を依頼している。そのあとでこの医師がパリ警察の本部と連絡をとり、ベシュが正式に事件の担当になったと話してお
り、現地警察(行政警察)であるボーブレ署の警官たちと全国組織の司法警察である国家警察部の刑事が協力して捜査にあたっている様子がうかがえる。現場を
警備する憲兵、事件捜査に参加する司法官である予審判事など、ルパンシリーズではおなじみの捜査現場スタッフも描かれている。
この一編は現時点ではお手軽に読める状況にはない。内容的にもネタばれが致命的と思えるところがあるので、いつもと趣向を変え、未読の方のためにここでは
極力ネタばれを避けて書くことにしたい。訳文が読みたい方はミステリマガジンのバックナンバーを必死に探していただきたい。
(追記:2013年にハヤカワ・ミステリ文庫入りした「ルパン、最後の恋」に「壊れた橋」が併録され、かなり手軽に読めるようになっています)
科学者が「壊れた橋」により不慮の死を遂げる。一見事故死なのだが渡っていた橋にノコギリで細工がしてあったため殺人事件と判断される。その前後で明らか
に不審な行動をとっている男がいて、当然疑われる。しかも疑われる当人がそれに対する弁明もせず、むしろ自分の犯行のようなほのめかしをしている。推理小
説としては当然この男は犯人とは予想されないわけで、バーネットがいかにこの男の無実を証明するかが読みどころになる。疑われている無実の人物を救うとい
う趣向は、バーネットものでは
『バカラの勝負』の系譜だ。
物語は二転三転して、読者を翻弄して真相に至る。バーネットの推理は捜査による物的証拠や論理性よりも、人間関係、とくに男女の心理を洞察して真相をつかみとるスタイルになっている。こうした趣向は『バーネット探偵社』シリーズ全体にあるものだし、『八点鐘』の一編
『テレーズとジェルメーヌ』に
も見られ、ルブランの短編ミステリの特徴とも思える。直接的証拠を犯人に突き付けて「落とす」のではなく、心理的に追いつめて自白を引き出すという形式な
ので論理的なミステリを好む向きからは嫌われそうな気もするのだが、もともと男女間の心理の機微を描く心理小説からスタートしたルブランならではのスタイ
ルと見てもいい
(だからいっそう本作が「ルブラン真作」と思えるのだ)。
以下、ややネタばれぎみのことを書く。
僕はこの「幻の一編」の面白さは、「偶然性」にあると思う。「ハプニング」と言ってもいい。犯人も、被害者も、容疑者も、いずれも想定外の偶然を積み重ね
る。思わせぶりな行動も「単なる偶然」であった、というくだりなどは僕にはむしろリアルさと受け止められた。これ自体がフィクション世界の話なのだが、現
実の事件もそうは計画的にいくものではなかろう。世の中、気まぐれと偶然の積み重ねではないか。
☆その他あれこれ 今回の事件の被害者
サン=プリ教授は化学者である。娘のテレーズのセリフによると5年前に発明した殺菌剤は多くの病院で使われていて、それで名声があがったんだとか。今回の事件の直前には
「染色業界に革命を起こす発明」すらしていた。結果的にはそれが命取りになってしまうのだが…さりげなくこの辺も読者に推理をさせる要素になっている。
サン=プリ教授はロシア人とのハーフの設定だ。
『ルパンの冒険』の雑談で触れたが、フランスとロシアはこの時期縁が深く、ロシア亡命者も多くパリに在住していた。サン=プリ教授はハーフということだが、弟は当時のロシアの首都
サンクトペテルブルグにいて、
「革命で工場を焼かれて殺された(英語原文「Revolutionaries burned the factory and murdered my uncle.」)」とあるので、ロシアではかなりブルジョア階級、あるいは貴族階級だったのではないかという想像もできる。
ここでいう「革命」とは、1917年に起こったいわゆる「ロシア革命」ではない。ルブランの執筆時点ではすでにロシア革命も起こって社会主義国「ソビエト
連邦」が発足しているのだが、物語中の年代はそれより前、おそらく1909年ごろだ。この「革命」とは1905年に起こった
「ロシア第一革命」のことだと推定できる。当時ロシアは日本と「日露戦争」を戦っており、そのなかで貧困が拡大し政治への不満が高まっていた。貧困の解消を訴えるデモ行進に軍隊が発砲して多数の死傷者が出た
「血の日曜日事件」(1905年1月)を
きっかけにしてサンクトペテルブルグほか各地で大規模な暴動が起こった。この騒乱は年内いっぱい続き、ロシア帝国政府は一定の民主化を認めて鎮静化をは
かった。この動きを「ロシア第一革命」と呼ぶ。こんな状況だからロシア革命以前からロシア貴族の多くがパリに亡命していたし、逆の立場の革命運動家たちも
亡命してパリをウロウロしていたのが「ルパンの時代」だったのだ。
バーネットシリーズのお約束、「ピンはね」は今回も健在。事件の鍵で
もあった「染色業界に革命を起こす発明」の秘密の製造法そのものを盗み出してしまっている。どういうものなのかは全く不明だが、バーネットはそれを染色会
社に売り込むつもりでいる。ベシュももうあきらめ気味で、今回は怒らずに「風船がしぼむように」ため息をつくだけだ(笑)。
「ちょっと嬉しいだろうな、ルパンという名で特許を取ったら!」(藤田真利子訳)と
いう最後の一文、面白いのだがちょっと気になることも。このセリフ、明らかにバーネットがルパンその人であることを前提にしたものだ。繰り返しているよう
に、「バーネット」シリーズは本文中ではバーネットをルパンその人と明示する記述はない。ただベシュが「アルセーヌ・ルパン並み」と口にするなど、ほのめかす程度
なのだ
(ベシュだってバーネットをルパン当人と思ってるわけではない)。ここではバーネット自身の口から「ルパン」の名が冗談とはいえ出ているわけで、やや「勇み足」の感がある。
英語版単行本ではフランス語版とは異なる「まえがき」でバーネットがルパンその人であることを明かしてしまっているうえに、アメリカ版はタイトル自体が
「アルセーヌ・ルパン乗り出す(Aresene Lupin Intervenes)」として「ルパン」を前面に押し出したものになっていた。またこれ以前に本来ルパンものではない短編
『プチグリの歯』が
英語版ではルパンものに改変され「アルセーヌ・ルパンのオーバーコート」のタイトルで掲載された例もあり、この箇所がルブランのオリジナル原稿にもともと
あったのか疑問を感じなくもない。
ところで「ミステリマガジン」に掲載された翻訳ではベシュが
「警部」になっている。これは英語原文では
「Inspector(インスペクター)」と表現されていて、フランス語では
「l'Inspecteur(ランスペクトゥール)」になる。ややこしい話になるのだが、英語で「Inspector」といえば確かに「警部」に相当するのだが、同じ語源をもつ単語なのにフランス語では「警部」とは限らないらしいのだ。この事情は偕成社版全集の『バーネット探偵社』を翻訳された
矢野浩三郎氏の解説に詳しく書かれていて、この当時のフランスでの「l'Inspecteur」はあくまでただの「刑事」を指す。『バーネット探偵社』のラストでベシュは
「brigadier(ブリガディエ)」すなわち「巡査部長」「班長」「警部補」と訳される地位に昇進するのでそれまではヒラの刑事だったとしか思えないのだ。ただ「l'Inspecteur」に「警部」の意味合いがないわけでもないらしく、師匠のガニマールも
「l’inspecteur principal(主任刑事)」と表現され「警部」と訳されている。
新潮文庫版の堀口大学訳「バーネット探偵社」はベシュを「警部」で統一している。ミステリマガジンの藤田訳文は英語原文が「Inspector」であるこ
とと、広く普及している堀口訳との整合性を考えてあえて「警部」にしてるんじゃないかと思う。この警部が昇進するとどうなるか、という話題については
『ベシュ、ジム=バーネットを逮捕』の雑談で触れたい。
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