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「ふし ぎな旅行者」(短編)
LE MYSTÉRIEUX VOYAGEUR
初出:1906年2月「ジュ・セ・トゥ」誌13号 単行本「怪盗紳士ルパン」所収
他の邦題:「不思議な旅行者」(新潮)「奇怪な旅行者」(創元)「奇怪な乗客」(ポプラ)「謎の旅行者」(岩波・ハヤカワ)

◎内容◎

 脱獄に成功したルパンはルーアンに住む友人達の招待を受けてル・アーブル行きの特急列車に乗り込んだ。ところが偶然同じコンパートメントに乗り合わせた 凶悪犯に襲われ、金品を奪われたうえ縛り上げられてしまう。ルパンは言葉巧みに立ち回って犯人を「アルセーヌ・ルパン」に仕立てあげ、自動車で大追跡を開 始する。



◎登場人物◎(アイウエオ順)

☆アルセーヌ=ルパン(Arsène Lupin)
青年怪盗紳士。ラ・サンテ刑務所を脱獄して間もない。

☆オノレ=マッソル(Honoré Massol)
ルーアン警察の刑事。ベルラと共に「アルセーヌ・ルパン」を追跡する。

☆ガストン=ドリベ(Gaston Delivet)
ルーアン警察の刑事。ベルラと共に「アルセーヌ・ルパン」を追跡する。

☆ギョーム=ベルラ(Guillaume Berlat)
実はアルセーヌ=ルパンの偽名の一つ。国会議員ということになっており、ルーアンに友人がいる。

☆ジョルジュ=アルデル(Georges Ardelle)
ルノー夫人の弟。ルーアン銀行の支配人をしている。

☆デルボワ夫人(Madame Delbois)
ラ・フォンテーヌ通り殺人事件の被害者。ピエール=オンフレーに二人の娘ともども惨殺されてしまった。

☆ピエール=オンフレー(Pierre Onfrey)
オートィユ町・ラ・フォンテーヌ通り殺人事件の犯人。かなりの凶悪犯で、同じコンパートメントに乗り合わせたルパンとルノー夫人を襲って金品を強奪、逃走 する。

☆ルーアンの警察署長(le commissaire)
ルーアン駅でルノー夫人とベルラから説明を受け、「アルセーヌ・ルパン」逮捕に乗り出す。ベルラの見事な推理力にかすかな疑念も覚える。

☆ルノー(Renaud)
刑務所の副所長。サン・ラザール駅まで妻を見送りに来る。

☆ルノー夫人(Madame Renaud)
ルノー氏の妻。ルーアンまで列車で一人旅をすることに。同じコンパートメントに乗り合わせたギョー ム=ベルラともどもピエール=オンフレーに襲われ宝石を奪われる。弟はルーアン銀行の支配人。



◎盗品一覧◎

◇ルノー夫人の手さげ袋の中身
現金・宝石類など、「ちょっとでも価値のあるものはすべて」ルパンが頂戴し、べっこう細工の櫛と空の財布だけ残しておいた。ルパンいわく「仕事は仕事。それに彼女の夫はまったくもってけしからん職業についてるんだから」。しかも手さげ袋だ け夫人に返したことは「エコー・ド・フランス」紙上で大々的に賞賛して報じている(笑)。


<ネタばれ雑談>

☆なんとルパンが強盗の被害者に!?

 見事な脱獄をした直後で気が抜けていたのかルパンがやってしまったドジな一幕と言っていい。なんとルパン自身が強盗の被害に遭い、金品を奪われたうえぐ るぐる巻きに縛り上げられてしまうのだ。『ルパン逮捕される』同様ルパンが一人称で語る作品で、途中まで語り手がルパンであることに気づかせない工夫がな されており、他人事のようにルパンの噂話をしていた当人が「アルセーヌ・ルパンともあろうこのぼくが」と歯噛みして暴露するところがトリッキーだ。読者に 正体を明かしてからはさすがはルパン、明晰な推理力と行動力を発揮して犯人追跡にとりかかるが、追う相手を「アルセーヌ・ルパン」にまんまと仕立ててしま うところもユニーク。

 この作品でルパンは「ギョーム=ベルラ」なる偽名を使っているが、ほとんど変装はせず地のままの顔である。だからサン=ラザール駅に現れたとき鉄道公安 官らに気づかれて騒ぎになってしまうのだ。前日に「欠席裁判で懲役二十年の刑を言い渡されてる」と いうのに不用心すぎるというしかない。彼を招待したルーアンの友人達も「ルパンに似ている」とからかっていたというから、素顔のままのつきあいだったのだ ろう。そしてこの事件の結果その友人達を訪問するのは無期延期にせざるを得なくなるのだ。
 それでもルパン自身のセリフにあるように新聞(恐らくルパンの機関紙「エコー・ド・フランス」)に 脱獄後のルパンが外国に行き、この冬はトルコに行っているというニセ情報を流してはいたようだ。

 ところで日本で恐らくもっとも流通したルパン訳本と思われるポプラ社刊の南洋一郎訳「怪盗ルパン全集」は、原典からの忠実な訳ではなく、子供向けに大幅 に改変されたものである。改変は全集全体でかなり多いのだが、初期作品ではこの「ふしぎな旅行者」(南版で は「奇怪な乗客」) の改変が目立つ。本文がルパンの一人称になっていないだけではなく、ギョーム=ベルラで登場し続け、物語の終わりに伝記作者(ルブラン)に「ギョーム=ベ ルラ氏が君なんだね」と暴露させる「どんでん返し」が使われている。しかもルパンはオンフレーと格闘する際、「コシグルマ」「オオソトガリ」など柔道の技 を使った事になっており、明らかな日本の子供向けのサービスが感じられる。
 そしてなんといっても大改変なのが、ルノー夫人のバッグの中の宝石類をそっくり返したことになっている点だ。女性を大切にする騎士道精神がなんとやら 言っているが、「怪盗紳士」の名がすたるではないか!

 (以下、後日の加筆)…と思っていたのだが、原文も照らし合わせた方からご指摘を受けた。『怪盗紳士ルパン』翻訳 の底本となるフランス語原書は複数のバージョンがあり、その中には収録作品が異なり(「黒真珠」「アンベール夫人の金 庫」が抜け、「うろつく死神」が収録される)本文の一部に改変がく わえられているものがあるのだ。現在日本で出ているものでは創元推理文庫版、ハヤカワ・ポケットミステリ版などがこれを底本をしている。このバージョンで はルパンが「仕 事は仕事。それに彼女の夫はなんともけしからん職業についてるんだから」と言いながらルノー夫人のバッグの中身をそっくりいただいてしまうくだりが完全に削除されて いるというのだ。そしてラストの「エコー・ド・フランス」の自画自賛記事はそのままなので、これだとルパンがバッグの中身を返したようにも読めてしまう。 重大な改変と言えるが、このバージョンが出たのが第一次大戦期ということもあり、国家権力を小馬鹿にしていること、そして女性に対する行動として倫理的に もとると批判をうけかねないとの判断から出版社側が自主規制したのかもしれない。
 つまり南洋一郎もこれを底本としている可能性もなくはないのだ。ただすでに戦前 以来の保篠龍緒訳でこの話の本来の姿はよく知られていたと思うし、南洋一郎のルパンが全体的に「義賊」化を強めていることもあって、僕はわかっててやった ものと思っている。


☆20世紀初頭ヨーロッパの鉄道事情

 「ふしぎな旅行者」の前半はパリ〜ルーアン間の鉄道の旅が描かれている。ギョーム=ベルラことルパンはパリのサン・ラザール駅からル・アーブル行きの特 急に乗り込んでいる。サン・ラザール駅はパリの北部にあり、この方面へ向かう列車のターミナルだ。ヨーロッパの大都市では行く方向ごとにターミナル駅が作 られているのが一般的だ(東京でも新宿・上野、かつての両国といった例があるにはあるが、一つの駅に集中さ せたがる傾向が強い)
 この駅でルパンはルーアン行き一等切符を買い、国会議員のパスで改札を抜けて急行に乗り込んだが、顔を見られて騒ぎになった事に気づいてルパンは特急列 車に乗り換えている。しかしコンパートメント(車室)に7人もの男が乗り込んできたので隣のコンパートメントに移り、ここでルノー夫人およびピエール=オ ンフレーと同室することになった。

 このコンパートメントというやつ、日本の鉄道では一部豪華列車を除いて馴染みが無いが、ヨーロッパでは長いこと伝統になっている(恐らく馬車の発想から客車を作ったからかと)。「車室」と訳されているように車内がいくつもの部屋に 仕切られており、乗降するドアもその部屋ごとについている。しかも本文中に「ぼくの乗った列車は旧型で、車 室の外側の通路がなかった」とあるようにルパンがこの時乗った客車は内部の通路なしで完全にコンパートメントだけで仕切られたものだったよ うだ(状況からすると8人程度が同室できるサイズらしい)
 こうしたコンパートメントはしばしば見ず知らずの他人と密室内に同室して旅行しなければならなくなる。パリからルーアンまで当時は2時間かかり、ルパン としてはむさくるしい男どもとの同室は避けたかったし、ルノー夫人も見るからに紳士であるベルラ氏との同室で安心できたわけだ。もっともそういう密室だか らこそオンフレーに金品を奪われ縛り上げられることにもなったわけだが。

 ここでパリ〜ルーアン〜ルアーブルの位置と、この地方の諸都市を結ぶ鉄道路線図を確認しておこう。
 ルパンが利用し、強盗にあうことになってしまった鉄道はご覧のとおりクネクネと曲がって流れるセーヌ川沿いに走っている。逃げたピエール=オンフレーは アミアン行きの列車に乗っており、ディエップやパリに逃げる可能性があるというセリフもこの図を見るとよく分かる。

 このルーアン、ディエップ、ルアーブルを含む地方を「コー地方」といい、ルパン・シリーズ ではたびたび登場する「ルパンのふるさと」的な地域だ。『獄中のルパン』で出てくるマラキ城 もルーアン-ルアーブル間コーデベックのセーヌ川沿いにあることになっており、『おそかりしシャーロック・ ホームズ』『奇岩城』『カリオストロ伯爵夫人』などこの地方を舞台にした名編は数多い。理由は簡単、作者のルブランがルーアン出身でこの地 方に精通していたからだ。

 ルブラン自身が土地勘があったためでもあるだろう、『ふしぎな旅行者』にはルーアン近くの駅や地名が数多く登場する。詳しい地図で調べたら、ピエール= オンフレーやルパンの動きがかなりよく分かった(ルーアン周辺地図を下に示した) 。ルパンたちの乗る列車はサン・テティエンヌ駅を過ぎ、セーヌ川を渡ってまもなくのトンネルで工事のために速度を落とし、オンフレーはこれを利用して列車 から飛び降り、近くのダルネタル駅へ向かう。ルパンは時刻表からオンフレーの動きを推理しているが、もしかするとルブラン自身実際の列車時刻表を調べてス トーリーを構想したのかもしれない。


☆スピード狂ルパンの登場

 ルパンはその職業がら(笑)、常にスピードを求めている。シャーロック=ホームズが馬車で移動するイメージがあるのに対して、ルパンはしばしば猛スピー ドで自動車やバイクで疾走している。もちろんこれは移動手段の技術革新が急速に進んだ時期に当たるからでもあるのだが、ルパンシリーズは潜水艦や飛行機な ど、当時の最先端の乗り物が次々と登場する。

 「ふしぎな旅行者」でギョーム=ベルラことルパンはルーアンで友人達のもとを自動車でまわるつもりで車だけ国道経由でルーアンに届けさせ、自分は特急列 車でルーアンに向かっている。この自動車を「届けさせた」というのは誰かに運転させてということなのだろうか?当時は自動車自体が発明されて間もない時期 で(ダイムラーとベンツによる実用的自動車の発明は1887年)、まだまだ貴族趣味の乗り物 で、この作品でもよく読むと走り出す際に整備工がクランクを回して起動している描写があるように一人で手軽に動かせるものでもなかったみたい。

 ルパンがこの作品で乗り回す自動車は「35馬力のモロー・レプトン」と記されている。ルパ ンはこの車でルーアン市内を疾走してダルネタル駅へ向かい、さらに猛スピードで急行列車を追って23キロメートル先のモンテロリエ・ビュシー駅まで突っ走 り、特急に二十車身も抜き去って先にゴールしている。この間19分でモンテロリエに着くことになっているから平均時速はおよそ73km/hということにな る。ルパンと自動車のかかわりについては和田英次郎氏が『怪盗ルパンの時代』で一章を設けて詳細に考察しており、それによれば当時のフランス国鉄は事故防止のため最高速度を88km/hに設定していたため自動車でこれを追い抜くと いうことは十分可能だったと書かれていた。まして当時は地方では車なんてめったに走っていなかったろうし、交通ルールも明確でない時代だ。もっとも道路も 舗装はされていなかったろうから、猛スピードを出すのはかなり危険だったのでは…。

 なんてなことを考えていたら、うまい具合に「怪盗紳士ルパン」原著の「ふしぎな旅行者」の挿絵画像を入手できた(左図)。列車に追いつけ、追い越せ、のまさに名場面を描いたイラストである(グスタブ・ルルー画)。当時の原著の挿絵だけに、当時の自動車のスタイルが具体的にわかる貴重な資料 だ。

 画質のせいもあって見づらいが、運転している男(もちろんルパン)が飛行機のパイロットが 身につけるような「眼鏡」やヘルメットをつけていることにご注目。当時はこの手のオープンカーしか存在しないから、スピードを上げて走る場合は飛行士並み の「防護服」を着て運転に臨んだものなんだそうで。それにしてもこんな車(現代人の偏見かもしれんが)で 舗装されていない道を80km/h以上で疾走…おっそろしく危ないことのような。

 この「ふしぎな旅行者」はルパン脱獄直後の時期と思われることから、1901年秋以降の設定と推測される。前出の和田英次郎氏『怪盗ルパンの時代』によ れば、当時は都市間カーレースが大流行で、1903年に行われたパリ・マドリード間の自動車レースでは数十万の群衆が熱狂して沿道に押しかけ、そのために 多数の死者を出し、以後都市間レースは中止になったとの逸話が紹介されている。


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