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「金歯の男」(短編、「バーネット探偵社」第4編)
L'HOMME AUX DENTS D'OR
初出:1928年2月 単行本「バーネット探偵社」
他の邦題:「金の入歯の秘密」「金の入れ歯の男」(ポプラ)
◎内容◎
パリ近郊の村の教会に泥棒が入り、教会の宝物が盗み出された。司祭は犯人である「金歯の男」を目撃しており、金歯を持つ容疑者もベシュの捜査によってす
ぐに捕えられた。しかし困ったことに、司祭が目撃した「金歯の男」と、捕えられた「金歯の男」とでは、金歯の位置が左右逆だったのだ!困ったベシュはしぶ
しぶバーネットに協力を求める。
◎登場人物◎(アイウエオ順)
☆アレクサンドル=ベルニソンなぜか毎年3月4日に村を訪れる針商人。右側に金歯がある。
☆アンジェリクバヌーユ村のお針子。故人。
☆オノリーヌベルニソンの妻。かなり嫉妬深い。
☆グラビエール男爵バヌーユ村の教会の隣人。二十年前から農地を開墾している。
☆ジム=バーネット
私立探偵。「調査費無料」を掲げる。
☆テオドール=ベシュ国家警察部の刑事。ガニマール警部の直弟子。
☆デソル神父バヌーユ村の教会の神父。でぶで血色のいい中年男。
◎盗品一覧◎
◇年代物の家具・骨董品の時計や絨毯・自動車グラビエール男爵の最後のひと財産。捜査のついでにバーネットが頂戴してしまう。
<ネタばれ雑談>
☆アイデアが奇抜な一編
『八点鐘』にも見られた、推理そのものよりもアイデアの奇抜さが楽しい一編。登場人物も限られているので犯人についてはたいていの読者はなんと
なく見当がついてしまうだろう。また「金歯の男」の金歯が実際に捕まった男と目撃者とで左右逆になることについても真相の見当がついてしまう人は多いので
はなかろうか。僕も中学の時の初読で見当がついてしまったクチなのだが、今回読み返してみたらバーネット自身も
「中学生にだってとける謎だぞ!」と言ってることに気づいて、苦笑してしまった。
なお、「中学生」の部分は原文では
「collégien」で、辞書で引くと確か「中学生」に相当する言葉なのだが、同時に「未熟者」「子供っぽい」「青二才」といったニュアンスを含む、とある
(実際「子供でも解ける」と訳した例がある)。思えば日本語でも「中学生」は似たような扱いをされてるような。
それでもその両者をミックスしてみせたところがこの一話のうまいところだし、ベシュと神父が「右だ!」「左だ!」としつこく何度もやりあうギャグの反復だ
けでもかなり楽しめる。そしてベシュが「いやな予感」をいだいていると、読者の期待にたがわず(笑)バーネットがしっかり「ピンはね」をしていたというオ
チがやはり楽しい。冒頭の「司祭が信者を殺したのか?」「司祭が殺されたのか?じゃあ誰を助ければいいんだい」というやりとりも爆笑もの。こうしたギャグ
とテンポのいい展開とで、この一編は『バーネット探偵社』シリーズを代表できる一本になっていると思う。
バーネットの推理過程は理路整然としていて、実に分かりやすく真犯人に到達している。逆にベシュが無能にしか見えなくなってくるのだが…それでも事件現場に駆け付けるや足あとを確認し、到着からわずか3時間で容疑者
(完全に冤罪とはいえ)を確保しているのだから腕利きの刑事には違いないのだろう。
その初動捜査のすばやさをバーネットにほめられて有頂天になるベシュの口調が
「黒人の少年でもやりそうな片言まじりに」(新潮版、堀口大学訳)と表現されている。この部分、偕成社版(矢野浩三郎訳)では
「ことばづかいまでおかしくなりかけていた」という訳文になっているのだが、原文を確かめてみると
「et qui pour un peu eût parlé petit nègre」と確かにそういう表現があり、偕成社版は黒人関係の表現を問題視してぼかしたのではないかと思われる
(「虎の牙」の表現なんかはそのままなんだが…)。この部分、創元版だと
「まるで黒ん坊の片言フランス語みたい」ともっと露骨な表現になっているのだが、それよりもっと古い
保篠龍緒訳では
「ほめられていい気持ちになった」としか書かれていない。
その一方で偕成社版は原文では単に「まったく簡単なことさ」となっているところを
「簡単しごくのお茶の子さいさい」と「超訳」し、ベシュが浮かれて変な口調になってる様子をうまく再現している。
この事件の舞台となるパリ近郊の
バヌーユの小村(Le petit village de Vaneuil)を地図で探してみたのだが、今のところ発見できない。だから架空の村なのだと思われるが、
ベルニソンが
シャンティイ(Chantilly)へ向かっていったというセリフがあることから、パリ北部近郊の村という設定と推定できる。シャンティイはパリ北方40kmぐらいのところにる実在する都市なのだ。
ここで少々気になるのが、ベシュ刑事は職務上ここにいきなり飛び出していくことが可能なんだろうか、ということだ。ベシュは国家警察部
(訳により保安課、保安部)の刑事なので一応パリの事件のみを扱うわけではない。師匠の
ガニマール警部がそうだったように、国家警察部は本来全国を管轄する司法警察なので地方の重大事件の捜査に関与することはある。だがパリ近郊の、それもそう重大とは思えない盗難事件にすばやく対応するということはありえるのか?という疑問も感じる。などと思っていたら、
ジョルジュ=デクリエール主演のTVドラマ版の「バーネット探偵社」の回
(「金歯の男」「十二枚の株券」をそこそこ忠実に映像化している)を見てみたら、教会盗難事件を警視庁で耳にしたベシュが「それは管轄外だ」と口にしていた。
☆教会のお宝の数々 今回の事件で盗まれるのは教会の宝物の数々。しかしベシュが心配したようにバーネットが盗むことにはならなかったので、「盗品一覧」の項目には入れてない。ここで解説しておこう。
教会から盗まれたのは
「金の聖体顕示台」2つ、
「十字架像」が2つ、
「燭台」「聖櫃(せいき、「せいひつ」と読むことも)」の合計九つの宝物。原文では燭台の数について明記はないのだが、
堀口大学訳のように燭台は4本だったと解釈すべきだろう。
南洋一郎版ではなぜか燭台は「一つ」とされ、聖櫃が一つなのは確実だから「そのほか全部で九つ」と解釈されている。いずれもカトリック教会では儀式で使われる重要な祭具だ。
まずカトリックにおける「聖体」というやつを理解しておかねばならない。カトリック教会では無発酵の薄いパン
(ウエハースに近いらしい)を聖別して「キリストの肉体=聖体」とし、それをミサなどで口にしてキリストとの一体化を
(あくまで精神的に)実現する。「聖体顕示台(ostensoir)」というのはその聖体をおさめて信者たちに示す入れ物で、中心の聖体から光を放つように放射状の金細工が使われているものが多い
(右図参照)。保篠龍緒訳では
「聖台」、堀口大学訳では
「聖体龕(せいたいがん)」、
石川湧訳では
「聖体盒(せいたいごう)」、南洋一郎訳では
「聖体入れ」とかなりまちまちに訳されている。いずれも使用例があるようだが、現在の日本では「聖体顕示台」と呼ぶことが多いようだ。
偕成社版では単に「十字架」と訳しているが、ここで盗まれたのは正確には「十字架像(crucifix)」。単純構造の十字架ではなく磔刑にされたキリス
トの像がついているやつだ。「燭台」については省くとして、ちょっと難しいのが「聖櫃(tabernacle)」。南洋一郎はあえて訳さず
「タバナクル」と
そのまま書いているのだが、もともと「tabernacle」とは「天幕」「幕屋」と訳されるもので、旧約聖書でモーセが神から与えられた十戒を入れた
「契約の箱」(アーク)を収める、いわば移動式の神殿のことだ。それが転じてカトリックや東方正教会では聖体を保管する箱のことを
「tabernacle」と呼んでいる。
☆いろいろな「金歯の男」
バーネットはこれら教会のお宝に手を出すことはなく、代わりに(?)グラビエール男爵の財産をあらかた、それも男爵の車ごと持ち去ってしまう。読者はここ
で「ああ、もう前夜のうちにやっちゃってたのか」と大受けしてしまうわけだが、南洋一郎版ではこの部分がまるまるカットされている。グラビエールが神父に
罪を告白して前非を悔いる様子を見たバーネットは感動し、
「おれも一度くらい正直にしていたほうがいいと思ってね」と言って、いっさいピンはねをしない結末になっているのだ。パリへ帰る車の中で、
「明るい、きれいだ、美しいフランスの野だ。人の心は美しいもんだね。この野のように、空のように、春の光のように…」というしみじみとした名セリフを吐く。感動しちゃった方には気の毒だが、原作はこのように容赦のないブラックな結末なのだ。やはり南洋一郎自身がカトリック教徒であったことも改変の一因なんだろうか。
実は南版の『金歯の男』にはこれに先行するもうひとつの別バージョンがある。南洋一郎ルパンの
『七つの秘密』旧版(1959年刊)は
『ルパンの告白』をベースにしつつそこから5編、『バーネット探偵社』から
「空飛ぶ気球の秘密」(偶然が奇跡をつくる)と
「金の入歯の秘密」の2編がまとめて収録され、すべてのタイトルに「秘密」がつく、という変則構成になっていた
(詳しくは南版全集の専門コーナーを参照)。ここに収録された「金の入歯の秘密」は現在読める
『ルパンの名探偵』所収の
「金の入れ歯の男」と細部でかなり違いがある。
まず話の導入部分がかなり異なる。これは「七つの秘密」旧版のなかではバーネット(バルネ)とベシュの関係は「空飛ぶ気球の秘密」のみであるためだ。これ
にともない村に向かうまでの過程が現行版とはあちこち違っている。それ以降の大筋の展開はほとんど変わっていないのだが、物語の結末部分、真相が暴かれる
とグラビエル男爵がピストル自殺しようとし、それをバーネットたちが阻止する場面でいきなり終わるという現行版とはかなり異なる形になっている。現在読め
る美しい人情あふれる結末はその後『ルパンの名探偵』を執筆する際に改めて付け加えられたものなのだ。
前述のように『金歯の男』はフラ
ンスのTVドラマ版「怪盗紳士アルセーヌ・ルパン」の一編「バーネット探偵社」の原作として「十二枚の株券」ともどもとりあげられており、このシリーズの
中ではかなり原作に忠実なほう。教会の宝物がどんなものかも、このドラマなら映像で確かめられる。ただし小さい「金歯」では映像向きでないと判断したよう
で、戦争で片腕を失った「片腕の男」に設定が改変されている
(このドラマシリーズは第一次大戦後、1920年代後半の時代設定)。鏡を使ったアイデアも原作のままなのだが、神父と犯人が格闘する場面もあって、これで「左腕」「右腕」を間違えるはずはないんじゃないかという気もする。グラビエール男爵の設定はほぼ原作どおりだが、バーネットが「口止め料」としてピンはねするという結末になっている。
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