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「金三 角」(長編)
LE TRIANGLE D'OR

<ネタばれ雑談その3>

☆「金三角」における外国人たち

 『金三角』にはフランス以外の国から来た「外国人」が多く登場する。彼らについて考察してみよう。

 まず主人公パトリスの忠実な部下、顔と片腕に重傷を負って言葉も話せないが、怪力で頼りになるセネガル人兵士のヤ=ボンから。
 セネガルというのはアフリカ北西部、大西洋に面した国 で、首都はダカール。「パリ・ダカール・ラリー」で知られるあのダカールだ。この地域全体がかつて広大なフランス植民地で、だから「パリ・ダカ」なんて レースができたわけ。1810年にフランス植民地となったセネガルの公用語は今もフランス語で、フィクションではあるがルパンが帝国を作ってしまった「モーリタニア」は隣国だ(これについては『虎の牙』雑談にて)
 第一次世界大戦は基本的にヨーロッパの列強同士がぶつかり、ヨーロッパを主戦場として戦われた戦争だが、その戦場には非ヨーロッパ人も数多く参加してい た。特に世界中に広大な植民地をもつイギリス・フランスは人員不足を植民地から動員した兵士や労働者によって補っていた。フランスでは植民地支配にも深く 関わっていたシャルル=マンジャン(1866-1925)将 軍が開戦前から西アフリカ出身の黒人兵士部隊の設立を強く主張、開戦直後に西アフリカから1万5000人近い黒人兵が徴兵されている。人員不足が深刻化し てきた1915年以降はフランス政府が大々的なキャンペーンによる大規模な徴兵が行われ、最終的に西アフリカから16万人もの兵士が動員されることになっ た。
 マンジャンは植民地支配の経験から「黒人兵の有用性」を主張したわけだが、その理由に「アフリカ人部隊は無限の予備軍を有し、その人的資源は敵の手に届かない所に ある」といったものと同時に、「黒人には知性がな い。知性がないから痛みも感じないし恐れることもない」などと、今日からみればビックリしちゃう人種差別感覚の説明をしていた。彼に限ら ず、当時 のヨーロッパ人の多くにこうした意識が共有されており、植民地政策の正当化に使われた「黒人は野蛮で凶暴」というイメージとあいまって、敵国ドイツはこの 黒人兵投入をひどく恐れ、なおかつフランスの行為を「野蛮」と激しく非難したという。

 調べたところセネガルでは「志願兵」という形で兵士が募られ、現地に比べれば高い報酬を魅力に兵士になる黒人も多かったようだ。またフランス側もセネガ ル兵については軍事奉仕義務とひきかえに「フランス本国市民と同じ 地位を承認する」ことを1915年10月に決めている。世界史の本で見かけた「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」1月16日号のイ ラスト(実質写真代わり)でも看護婦たちにプレゼン トをもらって喜ぶセネガル戦傷兵が描かれており、セネガル人兵士というのは割とポピュラーな存在で、比較的好意的に扱われていたのかもしれない。
 ルブランがセネガル人兵士を重要キャラクターとして配置したのも、そうした世相が反映しているとも考えられる。「フランス人に忠実な黒人兵」という、支 配側のフランス人が思い描く勝手な理想像という見方もできるが、マンジャン将軍の発言に見えるような、ほとんど動物扱いの露骨な差別意識はなく、あくまで 「同じ人間」ととらえる描写の数々は、この時代にあってはまだ進歩的な姿勢だったと思う。

 しかし敵に回っている外国人に対してはこの小説は容赦ない。
 最大の敵であるエサレス=ベイ(南版ではフランス語風に「エサレ」と表記している)について はこれでもかとばかりに悪辣なキャラクターにされており、最後にはルパンによってほとんど殺人といっていいほどの自殺強要をされ最期を遂げる。デマリオン の説明によれば「表向きはエジプト人だが実はトルコ人で、イギリス に帰化しながら、なおかつ エジプトの旧支配者であるトルコと秘密の関係を保持している」といい、コラリーの説明からするとコラリーと結婚したことでフランス国籍を とっていた時期もあるという複雑な人物だ。金庫の暗号に「コーラン」の「コラ」を使っていることからもイスラム教徒と思われる。

 エサレスが小説中でエジプト人ともトルコ人ともイギリス人とも言われるのが分かりにくいむきも多いだろう。歴史を確認しておくと、エジプトは16世紀以 来オスマン・トルコ帝国の支配下にあったが、19世紀初頭にオスマン帝国からこの地に派遣された軍人ムハンマド=アリーが事実上の独立国を作り、オスマン帝国からエジ プト総督の地位の世襲を認められる形でその支配から離脱した。しかし19世紀の末にはエジプトにイギリスの影響力が強まり、1882年にイギリスの保護国 化されてしまう。それでも形式的にはエジプト総督家はオスマン帝国に属しており、第一次大戦勃発までこの国の支配関係はかなり複雑になっていた。エサレス はこうした状況の中で巧みに国籍を使い分けていた、ということではないだろうか。『金三角』ではやはり国名の名指しを避けているが、明らかにドイツと思わ れる国ともエサレスは通じており、戦争前からフランス金貨の国外持ち出しに従事していたことになっている。
 彼がエジプトで「ベイ」の称号をうけたとあるが、 これはトルコ系民族が中央アジアにいたころから使っていた「族長」を意味する「ベク」がなまったもので、オスマン帝国時代には総督の下ぐらいの高級官僚に 使われていた。20世紀初頭のこの時期ではさして実態が伴っていたとは思えず、あくまで名誉称号みたいなものなんだろう。現在のトルコでは「ベイ」は男性 への敬称として軽く使われるとのことである。

 コラリーが幼少期から深くかかわるのがギリシャの都市サロ ニカ(テッサロニキ)。ギリシャはもまた16世紀以来オスマン帝国の支配下にあった国で、ヨーロッパ諸国の支援も あって独立したのが1830年のこと。しかしサロニカは1912年にギリシャ軍に占領されるまでオスマン帝国領で、コラリーが生まれ育った間はまだオスマ ン帝国の都市だったことになる。コラリーは17歳の時にサロニカの平原でトルコ人たちに誘拐され、その地方の知事の「けしからぬ望み」のためにその宮殿の 奥で二週間過ごした、という話が出てくるのもそのため。つまり知事の「後宮」に入れられたものと推測されるが、ヨーロッパ人女性が誘拐あるいは捕虜として トルコ人の「後宮入り」する、という話はヨーロッパ人がしばしば素材にしていたもので、彼らの一方的なイメージが強いことにも注意されたい(もっともこの小説ではこの誘拐自体がエサレスと知事のしめしあわせた芝居で あったようにも書かれている)。当時のヨーロッパにおいて広まっていたトルコ、イスラム圏の支配者層に対する偏見イメージは、ルブランの非 ルパンもの小説である『バルタザールのとっぴな生活』(1925年 刊)でもチラリと顔をのぞかせている。
 このほか、実際の正体はフランス人なのだが、物語のカギを握る人物シ メオン=ディオドギスはギリシャ人の設定。コラリーの父はセルビア貴族のオドラビッチ伯爵となっていた。セルビアはもちろん第一次大戦では フランスの味方。ついでにいえばボワロ=ナルスジャックに よる新ルパンシリーズの一本『バルカンの火薬庫』は、 セルビアの王子をルパンが助けるお話だ。

 エサレスを脅迫して金のありかを聞き出そうとするファキー大佐と その一党はブルガリア人の設定だ。
 ブルガリアもまたかつてオスマン帝国領となっていた国で、19世紀後半になってオスマン帝国の衰退とともにロシアの支援を受けて自治権を獲得、1908 年の青年トルコ革命を受けてついに独立を達成した。1912年の「第1次バルカン戦争」でブルガリアはギリシャやセルビアとともにオスマン帝国を攻撃した が、その翌年に領土紛争から起こった「第2次バルカン戦争」ではブルガリアはセルビア・ギリシャなどバルカン諸国を相手に戦い、敗北するハメになってい る。こうした経緯からブルガリアは今度はオスマン帝国(トルコ)およびドイツと接近、第一次世界大戦では同盟国側について参戦することになる。したがって フランスから見ればブルガリア人も「敵性国民」であったわけ。
 ファキー大佐の一味にムスタファ=ロバライヨフという 男が出てくる。「ムスタファ」という名前は明らかにイスラム教徒であることを示しているが、「ロバライヨフ」という名前は明らかにスラヴ系だ(ほかに「ブールネフ」という男も出てくる)。オスマン帝国に 長い間支配されていたブルガリアではトルコ系の移住者もいたしイスラム教徒に改宗したブルガリア人も少なくなく、現在でもブルガリア国民の約12%はイス ラム教徒だという。
 

☆その他いろいろ

 ストーリー終盤のどんでん返し。暗く重苦しいストーリーの中で、「ルパンらしさ」が見事に発揮されるのが偽造旅券を扱うジュラデック医師にいつの間にかルパンが化けて先回りしている、と いう場面だ(物語全体のバランスを崩してる感もあるが…)。 ルパン扮するジュラデック医師の姿はこう描写されている。

 60歳ぐらいの男であったが、挙措動作が若々しく、ひげははやしていなかっ た。右の目に片眼鏡(モノクル)をはめており、そのため、顔全体がひきつっている。全身を大きな手術着でつつんでいた。(偕成社版、363p)

 「ルパンと言えばモノクル」という絵画イメージがあるので、ジュラデック医師が片眼鏡をしているだけで「こいつはルパンだ!」と思っちゃった人もいるか もしれないが、当時モノクルはいたって普通の上流男性ファッションだ。むしろルパンはそのモノクルを外し、素顔(?)を明らかにしている。洗顔料と思われ るクリームを取り出して顔を洗っているから、60歳の年齢に見せるために何か顔に塗っているのだろう。それと、先述のドン・ルイスの初登場場面では「細か いひげ」を生やしていたとあるから、変装にあたってひげも剃っていることがわかる(あるいはドン・ルイスはつけひげなのか?)。ルパンの変装と いうのが俳優のメイクレベルのものであることがよく分かる場面だ。

 シメオンの前に正体を現し、完全勝利をものにしているルパンは、それまで我慢していたいつもの癖が炸裂(笑)、怒涛のようにしゃべりまくり、相手に毒舌 を浴びせ、罵倒する。中でも印象に残るのは次のセリフだろう。

 「そりゃ大旅行のさ。旅券はできている。パリ発地獄行き。片道切符。急行。霊 柩寝台。それでは、ご乗車ねがいます!」(同、 386p)
 (Mais au grand voyage. Ton passeport est en règle. Paris-Enfer. Billet simple. Train rapide. Sleeping-Cercueil. En voiture !)

 どぎついがシャレた台詞なので以前から原文がどうなってるのか気になっていた。原文を見ると、「パリ発地獄行き」は「Pris-Enfer」となってお り、「パリ―地獄 間」といったほうが正確かもしれない(創元版で は「パリと地獄間」になっている)。「片道切符」「急行」はまさにそのままだが、「霊柩寝台」というの は名訳であろう(創元版は「霊柩車」)。原文は「Sleeping-Cercueil」となっており、 「Cercueil」とは次作『三十棺桶島』の原題にもあるように「棺桶」のこと。「Sleeping」は英語そのままで、英語で寝台車を 「Sleeping Car」というから、それを洒落てみせてるのかもしれない。フランス語では「寝台車」は「Voiture Lit(ヴォワチュール・リ)」あるいは「Wagon Lit(ワゴン・リ)」というのだが(Litが「ベッド」)、鉄道用語はイギリスから入ってきたも のがあるようで、現代仏語辞書でも「Sleeping」は「寝台列車」の意味で出ている。


 ドン・ルイス=ペレンナことルパンがシメオンの策略にまんまとひっかかってしまうきっかけとなったのが『フランクリン回想録』。これはもちろんパシーの地に在住して いたこともある、科学者・外交官にしてアメリカ独立の英雄ベンジャミン =フランクリン
(Benjamin Franklin、1706-1790)の回想録だ。
 フランクリンはあの『独立宣言』が発布された1776年に、フランスに赴いている。当時アメリカはイギリスに対する独立戦争を勝ち抜くため、イギリスに 対抗する強国フランスの支援を得る必要があり、すでに70を過ぎていたが政治家・外交官としての実績があるフランクリンがアメリカ代表使節として派遣され ることになったのだ。1778年にフランクリンの努力が実ってアメリカとフランスの間に同盟関係が成立、翌年にフランクリンはアメリカの駐仏全権公使とな り、その後対英講和やヨーロッパ各国との交渉に活躍、ようやくアメリカに帰国したのは1785年のことだ。
 フランクリンはこのフランス滞在のおよそ8年間、当時はパリの城壁外にあったパシー(パッシー)の地に住んでいた。パシーにはリューマチな どに効く鉱泉で知られていたというから、高齢のフランクリンもそれでこの地に居を定めたのかもしれない。フランクリンはフランスに渡る前から自伝(本人はあくまで「回想録」と呼んでいた)の執筆にとりかかっ ており、このパシーの地でも自伝の続きを書いていたことが分かっている。

 ただし、彼が亡くなる直前まで書かれたこの自伝は彼自身の多忙もあって1757年ごろまでのことしか書かれておらず、歴史的意味で彼の大活躍がある独立 戦争以後のことは書かれていないのだ。このコーナーのために僕も岩波文庫の『フランクリン自伝』を買って読んでみたが、パシー在住時に書 かれた部分はあるものの、パシーでの生活や体験について書かれた部分はない。したがって、ルパンが読んだ『フランクリン回想録』の「ルイ16世の治世の末期に書かれた文章」、フランクリンがパ シーへ行って鉱泉を飲み、池の機械仕掛けを見せられた、なんて箇所は本物のフランクリン回想録には存在しない。まぁフランクリン回想録も資料の問題から バージョンがいくつかあり、未発見の文章があったりするのかもしれず…このへんは、『奇岩城』にもあった『ガリア戦記』や『アングロ・サクソン年代記』と いった史料の使い方同様、フィクションとしての史料偽造ということだろう。


 パトリスがエサレス邸に向かうきっかけとなるのが「火花の雨」を目撃したことで、パトリスはこれが「ツェッペリン飛行船」の襲来の合図ではないかと疑っている。 「ツェッペリン飛行船」については先にアップした『空の防御』(保篠龍緒のパスティシュと推定される)の雑談で触れているの でここでは簡単に。
 「ツェッペリン」とは1908年に実用的な飛行船を建造することに成功したドイツの
フェルディナンド=フォン=ツェッペリン伯爵(1838-1917)に由来し、大戦開始とともにドイツ軍が占有する兵器として使用され、開戦直後 にツェッペリン飛行船によるパリ空襲も行われている。大戦の長期化が明らかになった1915年3月からパリにはしばしばツェッペリン飛行船による空爆が行 われており、パトリスの台詞から1915年4月3日の一週間前にも空爆があったことが分かる。
 第一次世界大戦では飛行船のみならず飛行機も戦争に使用され始めた。『金三角』でもパトリスの軍歴をつづった部分で、パトリスがマルヌ会戦で片足を失っ た後、軍用機に偵察員として乗り込み、溜散弾のために撃墜、重傷を負ったことが書かれている。
 パトリスやヤ=ボンがそうであるように、第一次世界大戦では命を失わないまでも腕や足を切断し、あるいは顔面に大きな損傷を受ける兵士が大量に出た。こ のために義手・義足・義顔の技術が大きく発達し、パトリスも勧められたような外見的には本物そっくりの高価なものも製造されている。パトリスはそんなもの をつけるのを笑い飛ばし、戦争による身体の損傷はむしろ名誉の証と誇るが、これは当時大量に出た戦傷兵たちに対する作者ルブランの励ましでもあっただろ う。

 なお、そのルブランは1917年の『金三角』連載終了時にはエトルタの地に疎開しており、「スフィンクス荘」という邸宅を別荘として借りて住んでいた。 この年に参戦したアメリカの兵士たちはエトルタが休息地となっており、当時アメリカでも大人気だった「ルパン」の作者が近所にいると聞いたアメリカ兵たち がルブランのもとへ殺到し、ルパン新作のストーリーを教えてくれとねだったという。
 翌年、ルブランはこの別荘を買い取って「ルパン荘」と名づけ、『金三角』にちなんで庭の芝生を三角形に刈らせたりしていたとのこと。このころには戦争も ぼちぼち終結が迫っており、心の余裕もあったのかもしれない。
(「ルパン荘」関係の話は例によって『戯曲アルセー ヌ・ルパン』の住田忠久氏の解説に拠っています)


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