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「真夜中から七時まで」(長編)
DE MINUIT À
SEPT HEURES
<ネタばれ雑談その2>
☆ロシア革命の余波
小説としてはイマイチ、と言わざるをえない本作だが、ひとつ注目すべき点をあげるとすれば、それは本作に濃厚に描かれる
「ロシア」関連の描写だろう。
『ルパンの冒険』の雑談ですでに触れているが、フランスとロシアは古くからなじみのある友好国で、第一次世界大戦中のロシア革命(1917)以前からフランスにはロシアからの亡命者が多く、ロシア人の存在は割と身近だった。『ルパンの冒険』のヒロイン、
ソニア=クリチノーフはロシア人だったし、ルパン自身
ポール=セルニーヌ伯爵をはじめロシア人に変装した例が多い。英語版のみに収録された
『バーネット探偵社』の一編
『壊れた橋』でも、家族がロシア第一革命(1905年)の被害で殺された人物が登場していた。
第一次世界大戦のさなかにロシアでは革命が起こり、最終的に
レーニンらのボリシェヴィキが政権を握って、世界初の「社会主義国」
(のちのソビエト連邦)を成立させた。それ以前は革命を起こそうとする側がロシアから亡命したものだが
(小説版ではソニアの親は革命家の設定だった)、社会主義政権のもとでは貴族やブルジョア層を中心に、大量のロシア人が財産ごと国外に亡命することになった。その中にはこの小説で描かれるようにロシアに家族や財産を残してきてしまった人々も少なくなく、ジェラールと
バラトフのようにその「救出」の手引を商売にする者たちもある程度実在したものと思われる。ルブランはそんなロシア情勢をヒントにこの物語を構築したのだろう
(本筋との絡みはうまくないけど)。
物語の舞台となる亡命ロシア人が経営し、ロシア人でごった返しているペンションの描写も印象的だ。ここの経営者はジェラールに救出されなければ「今ごろシ
ベリア送りか、土の中か」と話しており、ボリシェヴィキの迫害を逃れて来た者とおぼしい。ペンションのパーティーで流れる
「ボルガの舟歌」は世界的に有名なロシア民謡だが、とくに1921年にソ連を亡命してパリで暮らした世界的オペラ歌手
フョードル=シャリアピン(1873-1938)によりポピュラーになったもので、この小説の描写もそれをふまえると興味深い。
なお、このあとで書かれた
『特捜班ビクトール』のヒロイン、
アレグザサンドラも秘密警察に家族を殺されながらも優雅な亡命生活をおくるロシア貴族だ。
物語中、年代の明記はないが、ロシア革命の最中の1917年5月に
ネリー=ローズの父・
デストール氏が
バリーヌ伯
爵に証券類を渡していること、その中に十歳のときのネリーの写真があることから、1927年以前と推定できる。1917年段階でネリーが十歳を過ぎていた
とも考えられるし、スターシャの年齢が7、8歳であることを考慮するともう少しさかのぼれるだろうか。筆者としてはなんとか1923年か24年あたりまで
さかのぼれないかなぁ…と思っているのだが
(理由は後述)。
この物語が執筆された1931年ごろは世界恐慌のなか
スターリン指
揮下のソ連が急成長している時期で、西欧の進歩派の中にはスターリン独裁の実態を知らずソ連を理想化して語る人も少なくなかった。フランスでは革命を逃れ
て来たロシア亡命者が多かったせいだろうか、本作や『特捜班ビクトール』におけるルブランのソ連描写は、直接的ではないものの冷酷な抑圧体制のイメージで
描かれているように感じる。
偕成社版を翻訳した
大友徳明氏も指摘しているが、ほとんどフランス国内を舞台にするルブラン作品には珍しく、本作では主人公がロシアと
ポーランド国境付近を彷徨い、危険を冒して少女と隠し財産を発見して国境を越えて行く様子が自然や集落の光景も含めてじっくりと描写されている。大友氏の解説によるとルブランは若い時にヨーロッパ漫遊旅行をしており、そのときロシアのこの地方を見たことがあったのかもしれないという
(確認は全くできない)。
ポーランドは第一次世界大戦終結まで長い間ロシアの統治下にあり、大戦後のヴェルサイユ条約で独立を達成した国だ。この物語の時点ではロシアとポーランドの国境は現在よりずっと東にあった。物語で描かれている国境の川に特定のモデルがあるのかあるのかは分からない。
ネリーの父・デストール氏が石油の利権を持ち、大戦中にそこで死んだという
ルーマニアは19世紀後半に成立した国家で、実際に古くから石油の産出で知られていた。
☆その他あれこれ ネリー=ローズの母、
デストール夫人は
フェリックス=フォール(Félix Faure、1841-1899)が大統領の時代に、その美貌で夫から求婚されたことになっている。フェリックス=フォールがフランス大統領になったのは1895年のことで、彼の時代には外交的には露仏同盟の強化、アフリカ方面での植民地の拡大
(イギリスと対立)、国内的には
ドレフュス事件で再審を拒否して進歩派から批判を浴びたりといったものがあるが、彼の名をもっとも歴史にとどめたのは1899年2月16日にエリゼ宮(大統領官邸)内で若い愛人と密会中に急死してしまった「艶死スキャンダル」であったりする。
ここでフォールの名前がわざわざ出されているのは、もしかするとデストール夫人の浮気性とイメージを重ねるためであったかもしれない。
物語の中盤、母親たちに連れ去られたネリー=ローズが監禁される
アンジアン(アンギアン、Enghian)はパリ北方郊外にある別荘地で、ネリー=ローズがボートで渡ったアンジアン湖や、通り抜けたサンテュール通りというのももちろん実在する。記憶力のいい方は「あっ!」と気付くはず。そう、ここは『水晶の栓』の冒頭、ルパン一味が
ドーブレックの別荘に押し入るくだりでも舞台となっているのだ。ルパンもネリー=ローズ同様にアンギアン湖をボートで渡って逃走していた。
ルパンシリーズではない本作だが、主人公のジェラールの冒険野郎ぶり、女たらしぶりは確かにルパンに通じる。さらにいえば「ジェラール」というのがあくま
で「偽名」であって、名であるのを姓と偽っているあたりも「ルパン的」ではある。第一次世界大戦当時に、志願兵として黒海方面で活動していたというところ
もなんとなくルパン風味だ。
だがもちろんルパン当人であるはずはなく、身元は明確。父親は第一次大戦で死亡しており、老いた母親がノルマン
ディーの故郷で待っている。故郷は
エヌ―ビル(Énouville)といい、彼の姓も
「デヌービル(d’Énouville)」で、かつて住んでいた城館もあることから、先祖はこの地の領主であったこ
とがうかがえる。こうした設定は『ジェリコ公爵』とよく似ている。
エヌ―ビル村は
イブトー(Yvetot)の西数キロのところにあることになっている。イブトーは
『カリオストロ伯爵夫人』でもチラッと出て来た実在の町だが、地図で調べた限りさすがにエヌ―ビル村は実在しないようだ。
ネリー=ローズに結婚を迫る男、
「バルネ」の
名前を見て、「こいつがルパンか?」と思った人もいるかもしれない。かつて保篠龍緒がそう訳したように、「バーネット」のフランス読みは「バルネ」だから
だ。しかし日本語カタカナで書くと同じ発音になってしまうが、「バーネット」は「Barnett」、この小説の「バルネ」は「Valnais」で、全くの
別人である。
実はよく読んでいると、もっと「こいつがルパンか?」と思える登場人物がいることに気がつく。まったくの端役キャラなので存在自体意識しない方が多いと思うのだが…この物語終盤の名探偵、
ナンタス主任警部……ではなく、その部下に
「ビクトール警部(l’inspecteur Victor)」というのが出てくるのである!これってもしかして
『特捜班ビクトール』の
ビクトール刑事その人ではあるまいか?
物語中ではナンタスの忠実な部下として動き回っているだけで、とくに印象には残らない。だが初登場時に
「四十がらみのずんぐりした男」とわざわざある描写がちょっと気になる。『特捜班ビクトール』はルパンが四十代後半、五十近い時点での物語と推定され、年齢的にはあって来る。「警部」という肩書きがちょっと気になるが、『壊れた橋』
『ベシュ、ジム・バーネットを逮捕』の雑談で触れたように、「l'inspecteur」はフランス語では本来「刑事」であり、警部とは限らない
(特捜班ビクトールも警部の可能性はあるが)。
この物語に出てくるビクトールは「特捜班」ではないようだが、ナンタスと共に「司法警察(la police
judiciaire)」に属する私服刑事である点は「特捜班ビクトール」と共通する。年代的には本作が『特捜班』より以前のことでなければならず、やや
苦しいところもあるのだが、1922年か1923年の事件とすればなんとかつじつま合わせができそうだ。
まぁ、ビクトールなんてありふれた名前だし、ルブランが意識して書いたとはあまり思えないんだけど、深読みしてみると楽しい話ではある。
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