<
怪盗ルパンの館のトップへ戻る
>
「斧をもつ奥方」(短編、「八点鐘」第6編)
LA DAME À LA HACHE
初出:1922年5月「メトロポリタンマガジン」誌に英訳発表 1923年1月「エクセルシオール」紙に仏文発表
他の邦題:「斧を持った女」(保篠訳)「斧を持つ貴婦人」(新潮)「斧を持つ女」(創元)「殺人魔女」(ポプラ)など
◎内容◎
パリ市内で18か月の間に次々と若い女性ばかりが誘拐され、いずれも八日後に頭を斧で割られた惨殺死体となって発見されるという事件が5件続発
する。犠牲者の名と数字を記したリストが回収され、そこに記された6人目の女性もやはり惨殺体となって発見された。リストの筆跡から犯人は身分のある女性
と推定されたため「斧をもつ奥方」と呼んでパリ市民は戦慄する。そして7人目の誘拐が予想された当日、オルタンス=ダニエルが失踪した。レニーヌはオルタ
ンスを救出するため、「斧をもつ奥方」の探索を開始する。
◎登場人物◎(アイウエオ順)
☆アルダン嬢銀行家の娘。「斧をもつ奥方」の二番目の犠牲者。
☆イレリー=コブロークルブボワの洗濯女。「斧をもつ奥方」の三番目の犠牲者。
☆エルベット=ウィリアムスンオートゥイユで子守りをしている女性。「斧をもつ奥方」の六番目の犠牲者。
☆エルマンス=バノールルチエ=バノーの夫人。
☆オノリーヌ=ベルニッセお針子。「斧をもつ奥方」の四番目の犠牲者。
☆オルタンス=ダニエル
26歳の赤髪の美女。突然消息を絶つ。
☆クレマンレニーヌ公爵の運転手。
☆グロランジェ夫人女性画家。「斧をもつ奥方」の五番目の犠牲者。
☆シュザンヌルルチエ=バノーの内縁の妻。
☆セルジュ=レニーヌ公爵
謎の青年公爵。オルタンスを誘拐され、焦燥しつつ探索を進める。
☆フェリシエンヌルルチエ=バノーの乳母。
☆ラドゥー夫人医師の妻。「斧をもつ奥方」の最初の犠牲者。
☆ルルチエ=バノー元植民地総督。
◎盗品一覧◎
なし。
<ネタばれ雑談>
☆恐怖の連続殺人事件!
ここまで軽いタッチの話が続いた
『八点鐘』、しかもこの前がほとんどコメディのような
「ジャン=ルイの場合」だったのに、この
「斧をもつ奥方」は一転してスリラー・タッチで残虐な連続殺人が扱われる。おまけに被害者がヒロイン・
オルタンス自身で、
レニーヌは
もちろん読者も手に汗握るサスペンスフルな展開。『八点鐘』全体の中でもこの一話は起承転結の「転」に相当し、オルタンスのレニーヌに対する信頼はいよい
よ増し、それまで遊び気分でもあったレニーヌが本気で恋をしている自分に気づく。ここから二人の関係もいよいよゴールに向けてコーナーを曲がることにな
る。
医師の妻、銀行家の娘、洗濯女、お針子、画家、子守り…と、若い女性という以外とくに共通点もない女性たちが次々と行方不明とな
り、必ず8日後に斧で頭を割られて発見される。やがて犯人のメモが発見され、それが理由不明の計画に基づいて機械的に行われていることが判明する。狂気ゆ
えに綿密、正確に実行される連続猟奇殺人、それも一種の快楽殺人という内容は、今日も映画などで定番のジャンルである
「サイコ・スリラー」そのものと言っていいだろう。これ以前に同種の小説があったのか、何が最古のサイコ・スリラー(笑)なのか僕は知らないのだが、「斧をもつ奥方」はその種のかなり先駆的な例なのではないかと思う。
エラリー=クイーンが本格推理小説の観点から『八点鐘』を高く評価したことが知られるが、彼らが編集長をつとめた「エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン」の第9号(1943年)に本作が掲載されているのも、そのアイデアの先駆性を評価したものではないだろうか。
実際に起こった同種の事件としては何と言ってもイギリスの
「切り裂きジャック事件」(1888)が有名だ。娼婦ばかりが次々と殺され、結局迷宮入りした事件で、時期的・地理的に重なることから名探偵
シャーロック=ホームズと絡ませるパスティシュの例も多い。この「切り裂きジャック」に触発されて1890年代のフランスでも無差別な連続殺人事件が起きている。
サイコ的なものとは違うのだが、第一次大戦中のフランスで起こった
「ランドリュー事件」(1915〜1919)もこの作品にヒントを与えたかもしれない。犯人の
アンリ=デジレ=ランドリュー(中年男)は
新聞に未亡人との結婚を前提とした交際を求める広告を出し、応じた女性と交際して金を巻き上げたうえ次々と殺害していた。要するに結婚詐欺なのだが、逮捕
の決め手となったのが女性たちの名前や情報を書いたメモ帳だったこと、それと新聞広告が利用されるあたりが、なんとなく本作を連想させなくもない。ランド
リュー事件は第一次大戦終結直後のフランスで国民的な話題となり、ルブランが『八点鐘』を執筆していた時期はその大騒ぎのころだった。なお、このランド
リュー事件は
チャップリン映画「殺人狂時代」のモデルとなったことでも有名。
☆「H」を読まないフランス人 サイコ・スリラーであるところの本作は、この連続殺人犯がいかなる法則にのっとって犠牲者を選んでいるかを解き明かすことが鍵となっている。四日間必死に考えた末、ついにレニーヌが気づいた「法則」とは、犠牲者の名前のスペルの共通点だった。
ここが作者の読者に対する挑戦のニクいところで、冒頭で列挙される犠牲者の名前にはファースト・ネームが一部の人しか書かれていないのだ。もともとの新聞
記事がそうだったということで読者もレニーヌと同じ材料を与えられていることにはなるのだが、最初から全部氏名が載ってたらアルファベット使用圏では気づ
く人も多かったんじゃなかろうか。
冒頭で挙げられる5人のうち、フルネーム表記は
「オノリーヌ=ベルニッセ(Honorine Vernisset)」一人だけ。そして新たに判明する第6の犠牲者が
「エルベット=ウィリアムスン(Herbette Williamson)」というイギリス系の女性だ。これに加えて第7の犠牲者になりかける
「オルタンス=ダニエル(Hortense Daniel)」が出てくると、注意深く読んでる欧米系読者は共通点に気付いたかもしれない。しかしよく読むとコブロー嬢については一度
「エルミーヌ=コブロー(Hermine Covereau)と書いてる個所があって、あとで実名
「イレリー(Hilairie)」が判明するというちょっとズルもやっている
(もっともこれについてはウッカリの可能性もある。字数が違うだけで「H」はあるので)。
日本人読者にはそもそもサッパリな話なのだが、注意深い人だと
「ファーストネームの最初がア行だな」と気づいたかもしれない。そして読み進むとそのスペルが出てきて
「頭文字がH」ということが説明される。ここで「あれ?」と思ってしまう読者もいただろう。
「Hなのになんでハ行じゃなくてア行なんだ?」と。僕も実は中学生のときにこのお話で知ったのだ、
「フランス人は“H”を発音しない(できない)」という事実を。
なんでそうなっちゃったのか分からないのだが、フランス語では「H」は書くことはあっても読まない。そして不思議なことにHから始まるスペルの語は結構
あって、いずれもHを無視して次の音を読むことになる。英語でも「Hour(アワ―)」などの例があるがこれもフランス語から英語に入り込んだもの。この
ためフランス人は「H」音、つまり「ハヒフヘホ」の発音は困難で
(F音のファフィフフェフォはできる)、外来語や外国の固有名詞でもHを飛ばしたりする。僕は大学時代にフランス語を習ったがフランス語のスペリングは読まない文字がやたらに多く
(単語の最後の子音も読まないってルールがあるし)、テストでは泣かされたものだ。
レニーヌが犯人に誘いをかけるために使った女性名が
「エルミニー(Herminie)」、そして犯人の名前が
「エルマンス(Hermance)」だ。こうして並べてみると「H」から始まる8文字の女性名って多いんだな〜。もっともレニーヌは
「エルミーヌにしろイレリーにしろエルベットにしろ、みんなもう流行おくれの名です」と言ってるので、少々古風な名前もかき集めたのかも知れないが。男性名でもポピュラーな
「アンリ(Henri)」(英語の「ヘンリー」)がある。
レニーヌも言うように、フランス語の「8」も
「Huit」でHから始まる。そして問題の「H」は「アッシュ」と呼んで、
「斧(アッシュ=Hache)」に通じる。「斧」と「H」の謎かけは
『おそかりしシャーロック=ホームズ』でも出てきたので、ああ、そういえば、と思い当たったシリーズ読者も多いだろう。フランス人には凶器に斧が使われてるというだけで仕掛けに気づくのかも知れない。
この「H」にまつわる仕掛けをルブランはいつか使おうと思ってヒロインの名を「オルタンス」にしたんじゃないかと思うんだけど、どうだろう。ところで「オルタンス
(Hortense)」という女性名はフランスではポピュラーなほうらしく、もともとはラテン語の「庭師」の意味なんだそうだ。
☆その他いろいろ この物語ではオルタンスが誘拐された日付が
「10月18日金曜日」。レニーヌが早めのタイムリミットに設定し、実際その日に事件を解決した日付が
「10月24日木曜日」だ。
さきの
「秘密をあばく映画」の中で
「9月18日金曜日」とあった。これが該当するのは1908年だと書いたのだが、困ったことに
同じ年の9月18日と10月18日が同じ曜日になるはずはない。これは明らかにルブランのミスと思われ、「ルパン史」の年代を決定する上でどっちが正しい日付なのか判断に苦しむことになる。一年前の1907年なら10月18日が金曜日になるのだが、それだと
『奇岩城』より前の年代になってしまうため
「テレーズとジェルメーヌ」の内容と矛盾してしまう。そこで「9月18日金曜日」の方が正しいものと考えたい。
この事件の犯人が狂気に陥る直接の原因は、植民地
(おそらくアルジェリア)に
おいて、自分の目の前で双子の息子を自動車に轢かれて死なせたことだった。自動車が普及していった「ルパンの時代」には、こうした自動車事故の悲劇も増加
しだした時代でもあったのだろう。『奇岩城』でもベリーヌ男爵の娘・ガブリエルが自動車事故で夫と長男を一度に失ったことになっていた
(この件をふくめルパンと自動車事情については和田英次郎氏『怪盗ルパンの時代』が詳しい)。
「斧をもつ奥方」の連続殺人事件はパリ西部を中心としていた。第6の犠牲者・エルベット=ウィリアムスンの遺体が発見されたのはパリ西部郊外の
ムードンの森の中だった。そして糸口をつかんで訪ねた
ルルチエ=バノーの屋敷は
クレベール通り。そして犯人がいたのはやはりパリ西部郊外、
ビル=ダブレーの精神病院だった。オルタンスの狂った夫もここに収容されていて、これが犯人がオルタンスに目をつけるきっかけとなっている。
発見された犯人の筆跡から、専門家と筆相学者が
「教養もあり、芸術に関する趣味とゆたかな想像力をかねそなえ、感受性のゆたかな女性」と一致した見解を唱え、これが
「斧をもつ奥方」の呼び名
(個人的には堀口訳の「貴婦人」のほうが好き)を生む。名前と数字が書かれただけの筆跡からそこまでわかるのか?と思っちゃうのだが、実は筆跡からその人物の性格まで推理する
「筆跡心理学(筆跡学、graphologie)」はフランスが本場なのだ。19世紀フランスに生きた修道院長で学者の
ジャン=アポリート=マション(Jean‐Hippolyte Michon,1806‐81)が
筆跡を近代的に研究する学問を生み出し、「グラフォロジー」という名前をつけたのが始まり。フランスでは今日でも筆跡鑑定士が大勢いて企業でも利用される
というのだが、筆跡と性格を安易に結びつけることについては疑問視する声もある。犯罪捜査に絡めて言うと、この時代の少し前には人相・骨格などにより「犯
罪者顔」なるものが判定できると信じられた時期もあったし、今だって犯人像を推測する「プロファイリング」なるものがどこまでアテになるのかという疑問も
ある。
南洋一郎版『八点鐘』である
「八つの犯罪」で
は、この一編は「殺人魔女」のタイトルで収められている。大筋は変わらないのだが、やっぱりというべきか、ルルチエ=バノーの「内縁の妻」の存在は削除さ
れている。そしてオルタンス救出の場面ではレニーヌは犯人に斧で背中を直接たたきつけられながらこれをはねかえしてしまい、実は防弾チョッキを着けていた
(!)という大きな改変をほどこしている。おまけに
「日本のむかしの武士がもちいた、くさりかたびらから思いついて、とくにつくらせたもの」と言い、
「ジュウドウの一手」まで使ってしまう。南版にときどき見られる、日本の子ども向けサービスの一環だろう。
永井豪・安田達矢とダイナミックプロ版
「八点鐘」は原作をダイジェストにまとめたりオリジナルの話を加えたものだが、漫画的にも面白いこのエピソードは
「魔女の呪い」と
題してかなりのページを割いて漫画化している。ただし話はかなり変えており、オルタンスがレニーヌの目の前で馬車に乗った魔女に誘拐されたり、「エルマン
ス」がバノーの妻ではなく娘に変えられ、その娘が植民地で狂犬に噛まれ狂犬病で8日間苦しんだ末に死に、それがもとでバノーの妻が発狂して「犬を殺すと発
作が治まる」という設定を加えている
(このアレンジは原作をうまく生かした例だ)。魔女が実は男なのではないかと疑わせる二転三転の展開や、ラストに炎の中からオルタンスを救出するなど派手な場面もある。
<
怪盗ルパンの館のトップへ戻る
>