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「プチグリの歯」(短編)
LA DENT D'HERCULE PETITGRIS
初出:1924年 「レ・ズーブル・リーブル」誌42号 改訳英語版は1926年に米誌「ポピュラー・マガジン」掲載

◎内容◎

 大臣ルクスバルはある重大事件を抱えていた。凱旋門下の「無名戦士の墓」に、ある伯爵夫妻が戦死した自分の息子の遺体をすりかえて埋めてしまった疑惑が もちあがったのだ。ルクスバルは伯爵夫妻とその協力者を呼び出して尋問することにしたが、それに先だって総理大臣から一人の「名探偵」を紹介される。やっ て来たのはみすぼらしい服装と容貌に異様な歯を光らせた怪人物・エルキュール=プチグリだった。



◎登場人物◎(アイウエオ順)

☆エルキュール=プチグリ
元警視庁刑事。総理大臣から信任をうけるほどの名探偵。

☆ジャン=ルクスバル
大臣(法務大臣?)。息子二人を大戦で失っている。

☆ジュリアン=ド=ボア・ヴェルネー
ボア・ヴェルネー伯爵の令息。ヴェルダンの戦いで戦死。

☆ボア・ヴェルネー伯爵
ジュリアンの父。

☆ボア・ヴェルネー伯爵夫人
ジュリアンの母。戦死した息子を強く悼んでいる。

☆マキシム=レリオ
第一次大戦で各地を転戦した青年。


<ネタばれ雑談>

☆「ルパン外伝」扱いの一編

 『プチグリの歯』(原題は「エルキュール=プチグリの歯)はルブランの手になる非ルパンものの短編推理小説。1924年に未発表作を集めたアンソロジー雑誌「レ・ズーブル・リーブル」の第42号に掲載され初公開された。1924年というとルパンシリーズでは『カリオストロ伯爵夫人』の単行本が発行された年である。
 もともとルパンシリーズではないので、日本でも現在刊行されているルパン全集の類で本作を収録しているものがない。非ルパンもののルブラン長編は収録している偕成社版全集でも短編である本作の収録は見送っている。だからこの短編を読む機会自体がほとんどない状況だ。

 ただし、戦前以来ルパンシリーズを独占的に翻訳し続けた保篠龍緒は 自身のルパン全集のほとんどに本作を収録していた。『プチグリの歯』の日本語訳は保篠版全集にしか存在せず、僕も昭和44年発行の保篠版ルパン全集を古書 で手に入れてようやく読むことができた。保篠版全集が家にあったようなオールドファンの人ぐらいしか本作を読んでいないと思われる。
 保篠版全集における『プチグリの歯』は、「準ルパンシリーズ」である『女探偵ドロテ』と セットで一冊に収録しているケースが多い。僕が所有する日本文芸社版全集「女探偵ドロテ」の前書きで、保篠は本作に「ルパンは登場しない」と断りつつ、主 人公プチグリがルパンとしか思えないという理由で、ドロテ同様の「ルパン外伝」として扱うとしている。保篠版ルパン全集では『刺青人生』(「バルタザールのとっぴな生活」)『赤い蜘蛛』(「赤い数珠」)の非ルパンもの二編がルパンが登場する展開に勝手に書き換えられた例があるだが、『プチグリの歯』についてはその誘惑をこらえたらしく、ルパンのルの字も出していない。原文と照らし合わせた限りではほぼ原文に忠実な訳文と思える(ただ最後の部分がやや簡潔のような?ルブランから最終形態でない原稿を贈られていたのかも?)

 読む機会がなかなかない人も多いだろうから、あらすじを紹介しておこう。
 時は作品発表時とほぼ同時期の1920年代初頭と思われる。大臣ルクスバルボア・ヴェルネー伯爵夫 妻が戦死した我が子の遺体を発掘し、ひそかに凱旋門下の「無名戦士の墓」に埋葬してしまったのではないかという疑惑を調べていた。国家のために命をささげ た無名兵士を顕彰・慰霊する「無名戦士の墓」に特定の一個人、しかも自分の息子をわざわざ埋めたとあっては大問題。この件を尋問するべく伯爵夫妻と、埋葬 を手伝ったと見られる元兵士の青年マキシム=レリオとをルクスバルは官邸に呼び出したのだ。
 ところがその直前に、総理大臣から一人の「名探偵」がルクスバルのもとへ派遣されてきた。その男こそ、元刑事のエルキュール=プチグリ(保篠訳では「ヘルキュール」と表記。クリスティのポワロの名と同じ)。 プチグリはルクスバルが全く気付かぬうちにいつの間にか大臣室に入り込んで、ルクスバルを唖然とさせる。えらく貧弱な体つきと品のない風貌で、ギラギラと 光る牙のような糸切り歯の持ち主。古びた羊羹色のフロックコートを身につけ、口を開ければえらく訛りの強い下品な口のきき方をして人を不快にさせる。「性 遅鈍にして酒癖わるく」という理由で警視庁を免職になったとまで話すのだ。なんでこんな男を、といぶかしがるルクスバルだが、なぜか総理大臣たっての推薦 なので、プチグリを部屋の隅に座らせたまま、伯爵夫妻とマキシムの尋問を開始する。
 尋問の結果、伯爵夫妻は容疑を否定はしなかった。ルクスバル は彼らの国外追放で穏便に処理しようとするのだが、息子の遺体から離れたくないと伯爵夫人は断固として拒絶する。こうなってはスキャンダルの立件のほかは ないとルクスバルは言い渡し、伯爵夫妻は立ち去ってゆく。ただち首相官邸へ向かおうとしたルクスバルだが、その場にずっと座っていたプチグリはニヤニヤし ながら「お待ちなせぇ、十分もすればある男が現れて、あることが起こりますよ」と押しとどめた。果たして立ち去ったばかりの伯爵が十分後に引き返してきた。興奮のあまり自分の外套とプチグリの外套を間違えて着て出てきてしまった、と言って。
 そして戻ってきた伯爵の口から真相が語られる。プチグリはとっくに全てをお見通しで、外套をわざととりかえ、伯爵の宣誓書までいつの間にやら用意していたのだった……
 
 核心部分は伏せておいたが、だいたいこんなお話。正直なところ推理小説としてそれほど面白いものではない。ただ風采の上がらない(というより人を不快にさせるほど)下品な元刑事のオッサンがそばで話を聞いているだけで真相を見抜き、それを処理するために先手先手を打っていた、というキャラクターの面白さが読ませどころになっている。
  保篠龍緒も指摘するように、プチグリは実に「ルパン的」なキャラクターだ。その登場の仕方、人を食った口調、卓越した洞察力、先の先まで予言するかのよう に事態の展開を読んでいるところなど、アルセーヌ=ルパンとほとんど変わらない。その品のない外見や口調はかえって「変装」を感じさせるものだし、ただの 元刑事のくせになぜか総理大臣と懇意であるらしいところもルパンくさい(総理ってバラングレーじゃないの?と思う人も多いはず)。保篠龍緒は「バルネ(バーネット)の顔に入歯をして歯をむき出させれば、簡単にプチグリに化ける事が出来」と書いてもいるのだが、『バーネット探偵社』は本作のずっと後に書かれているのでこれはさすがにコジツケというもの。

 とにかく主人公が「ルパンにしか見えない人」なのは確かで、2年後にアメリカの雑誌「ポピュラー・マガジン」10月発売号に英訳が掲載された時には「アルセーヌ・ルパンの外套(The overcoat of Arsène Lupin)」と改題され、物語の終盤に改変がほどこされてプチグリがアルセーヌ=ルパンその人に他ならないことが明記される形になった(保篠龍緒もこのバージョンの存在は知らなかったのだろう)。これがルブランの指示あるいは承認によるものなのか、商売上の狙いからアメリカ側の訳者か編集者が勝手に書き換えたものなのかは確認できない。そんなわけでこの作品はルブラン作でありながら「ルパンシリーズ外典」という位置づけになる。
 原文を参照されたい方はこちらを。「アルセーヌ・ルパンの外套」の仏語訳はこちら。フランス語に自身のある方は終盤の違いをご自分でチェックしていただきたい。


☆「無名戦士の墓」とはなにか

 さて、この物語、「無名戦士の墓」というのがどういうものなのか分からないと読んでいてサッパリである。
  「無名戦士の墓」とはその名のとおり、どこの誰だか分からない身元不明の戦死兵の遺体を選抜して埋葬する施設だ。無名の兵士を埋葬し慰霊することで、その 無名兵士を代表として全戦死者を弔うという機能を持つ。いつからあったのか知らないが、少なくとも近代以降のヨーロッパで国民国家の成立と共に定着した習 慣だ。各国の政府要人が外国、とくにかつて敵国として戦った国を訪問する際にその国の「無名戦士の墓」を表敬訪問することで平和友好を演出するのも外交儀 礼として定着している。アメリカではアーリントン墓地ほかに、イギリスではウェストミンスター寺院ほかにこうした「無名戦士の墓」がある。日本では千鳥ヶ 淵の戦没者墓苑が身元不明者の遺骨を埋葬していて、しいて言えばこれが「無名戦士の墓」にあたるのだが、欧米のように「誰か無名の兵士の遺体を選んで代表 させる」という形式はとっていない。

 フランスは第一次世界大戦で130万人を超える戦死者を出した。その第一次大戦の「無名戦士の墓」はパリの凱旋門の下に設けられている。この物語で問題となっているのもその凱旋門下の無名戦士の墓だ。
  1918年11月11日、ドイツは休戦協定に調印して第一次世界大戦は終結した。それから2年後の1920年11月11日にパリ凱旋門下の「無名戦士の 墓」に無名兵士の遺体が埋葬された。ここに埋葬される兵士は全戦死者を代表する立場になるため、その「無名性」が徹底的に重視される。激戦地となったヴェ ルダンの戦場から8つの身元不明の遺体を収めた棺が運び出され(このことは小説中でも言及されている)、第123歩兵連隊のオーギュスト=ティエンによって連隊の番号の数を足して「1+2+3=6」ということで6番目の棺が「無名戦士」に選ばれ、凱旋門下に埋葬されることになったのだ。
 この小説ではその「無名戦士」を選ぶ過程で、伯爵の息子(1916年のヴェルダン要塞の激戦で戦死したことになっている)の遺体が掘り出され、「無名戦士」とすり替えられて凱旋門下に埋められた、という疑惑が描かれる。もちろんフィクションであり、その厳重な選定過程を知ってしまうとすり替えはそもそも無理なんじゃないかな、とも感じる。

  それにしてもルブランはどういうつもりでこんな作品を書いたのだろうか。当時の雰囲気を100年後になって正確に分かるはずもないが、第一次世界大戦は終 わった直後であり、ずいぶん生々しく微妙な問題をふくむ素材を選んだものだ、戦死者遺族から抗議とかなかったんだろうかとまで思ってしまう。もちろん作中 で自分の息子を「無名戦士」として国家に埋葬してもらおうとするその意図は、二人も息子を戦死させている大臣から激しく非難されるし、発覚すれば重大な反 国家的行為として描かれるのだが、僕が読んだ印象では息子の戦死を無意味なものとしたくはない母親の痛切な気持ちもよく描かれているし、この母親に共感す る女性読者も少なくなかったのではなかろうか。
 開戦当初は『オルヌカン城の謎(砲弾の破片)』で強烈な愛国心と自己犠牲を訴えたルブランも、『金三角』『三十棺桶島』と進むにつれて厭戦気分をかもしだしてゆく。戦後に改めて発表された『虎の牙』でも戦争がベル・エポックを消し去ってしまったとしてやはり否定的に言及される。本作は「無名戦士の墓」をめぐる不正疑惑というアイデアを使いつつ(あまりその料理の仕方はうまくないのだが)、 第一次大戦が奪っていったあまりにも多大な犠牲を悼み、残された遺族の哀しみを描く趣旨だったのではないだろうか。発表こそ1924年だが、もしかすると 「無名戦士の墓」が作られて間もない時期の執筆で、内容的にさしつかえもあるのでほとぼりが冷めるまで公表を見送っていたのかもしれない。そして実はもと もとルパンが登場する話だったが、ルパンかどうかぼかした形に変えられた、という想像も可能だと思っている。


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