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「塔の てっぺんで」(短編、「八点鐘」第1編)
AU SOMMET DE LA TOUR
初出:1921年10月「メトロポリタンマガジン」誌に英訳発表 1922年12月「エクセルシオール」紙に仏文発表
他の邦題:「古塔の秘密」(保篠訳)「塔の頂きで」(創元)「古塔の白骨」(ポプラ)など

◎内容◎

 不幸な結婚生活から逃れるため、美女オルタンス=ダニエルはつまらぬ男と駆け落ちを計画した。ところが謎の青年貴族レニーヌ公爵が二人の駆け落ちを妨 害、オルタンスをアラングル屋敷と呼ばれる廃墟の探索へといざなう。二人が屋敷に忍び込むと、突然古時計が動き出し、「八点鐘」が鳴り響いた。古時計の中にはなぜか 望遠鏡が隠されており、屋敷の塔にのぼってその望遠鏡を覗いた二人は、そこに恐るべき光景を目撃する――。



◎登場人物◎(アイウエオ順)

☆オルタンス=ダニエル
26歳の赤髪の美女。狂人の夫と不幸な結婚をしており、夫の叔父の屋敷で生活している。

☆エーグルロッシュ伯爵
オルタンスの夫の叔父。オルタンスの財産移譲要求をかたくなに拒絶する。

☆セルジュ=レニーヌ公爵
謎の青年公爵。

☆ロッシニー
エーグルロッシュ邸にやってきた客。オルタンスと駆け落ちを計画。


◎盗品一覧◎

なし。


<ネタばれ雑談>

☆傑作シリーズ「八点鐘」の開幕

 『八点鐘』は短編集の形式になっているが、同じ主役二人が活躍するそれ ぞれ趣きの異なる8つの短編が組み合わさり、全体でひとつの長編となるという巧みな構成の連作シリーズだ。だから当コーナーを作るにあたって『八点鐘』を 「一作」とみなしてまとめて論じた方がいいかなぁ、とも考えたのだが、一作一作に趣向が凝らされ独立性が高いのも確かなので結局短編一作ごとに扱うことに した。

 『八点鐘』の連作が最初に発表されたのは1921年。『虎の牙』のときと同様、本国フランスに先駆けて英訳版が「メトロポリタンマガジン」誌上で連載さ れている。本国フランスではおよそ一年遅れ、1922年年末から「エクセルシオール」という新聞紙上で連載されたのが初お目見えとなる。この「エクセルシ オール」はルブランにルパン・シリーズを書かせた「ジュ・セ・トゥ」発行者、つまり怪盗ルパンのもう一人の生みの親といっていいピエール=ラフィットが発行する新聞だ。
 そういう経緯もあって『八点鐘』の単行本の巻頭には作者ルブランからラフィットへの献辞が載せられているのだが、現行の邦訳では偕成社版・新潮版ともに この献辞が省かれていて読むことができない。東京創元社「アルセーヌ・リュパン全集」(1959〜1960)に収録された井上勇訳『八点鐘』のみがこの献辞を訳出しているが、この訳文はい まだに創元推理文庫入りしてないため、これを読む機会はほとんど得られない状況だ。そこで井上訳の献辞をここに引用、紹介しておきたい。

 ピエール・ラフィットへ
 親愛なる友よ
 きみの導きによって、私はかつて足を踏み入れようとは、つゆさら思いも染めなかった道にはいって行った。そして、きみの名前をこの書の巻頭に記し、私の 敬愛の情と、深い感謝の念を、ここに表明するのが正当と思われるほどの文学的愉悦をそこに見出した。
 モーリス・ルブラン

 少し読み取りにくい文章だが、本来純文学畑のルブランをルパン・シリーズを始めとする推理・冒険小説の道に足を踏み入れさせた張本人が友人の編集者ピ エール=ラフィットであり、そのおかげでルブラン自身も「文学的愉悦」を覚えたと感謝しているわけだ。
 
 ここまでの「雑談」でたどってきたように、ルブランは第一次大戦直前に『虎の牙』をいったん書きあげ、ルパン・シリーズにひとつの区 切りをつけた。その後大戦中に『金三角』『三十棺桶島』と いったルパンが主役ではなく救世主的に登場する小説を執筆、その後戦後に時代を移した『虎の牙』を改めて発表している。そしてこの間に『三つの目』『驚天動地』といったSFミステリ作品、映画のノ ヴェライズ『赤い輪』など、ルパンシリーズ以外の冒険小 説にも手を染め、作品の幅を広げることにも挑戦している。
 だが、結局また「ルパン」に戻ってきてしまったわけだ。これはやはり人気シリーズの宿命というやつで、作者の意向はどうあれ、なんだかんだでシリーズ新作を書くよう周囲が追い込んでいってしまうのだろう。

  ただし、ルブランはシリーズ新作を『虎の牙』の後日談にはしなかった。すでに引退させてしまったわけで、それから後の話を作るのはさすがに無理がある。ま たルパンの年齢がすでに40代半ばを過ぎており、物語の主人公を務めるにはちと年が行ってしまった。そこで年代は第一次世界大戦前にさかのぼり、いまだ平 和な「ベル・エポック」に設定、ルパンもまだまだ若く、ちょうどうまい具合に一時期ルパンが姿を消していた時期の物語となった。作風も第一次大戦シリーズ に見られた暗く、陰惨な事件が扱う大長編から打って変って、ロマンチック・コメディー風味の小粋なミステリ短編連作とされた。
 もっとも構想当初 はルパンシリーズとは別もののつもりだったのではないかな…などと考えることもある。ここまでしばらくルパンシリーズ以外の作品が続けて書かれていたわけ だし、内容的にも主人公がとくに「ルパン」である必然性はない。確かに毎度おなじみの超人的活躍を見せてくれるが、『八点鐘』の主人公・レニーヌ公爵は一 切盗みや犯罪に手を染めない。また男女のカップル二人が主役でその「恋愛勝負」をからめて描き、最終的に恋が成就してハッピーエンドになるのも、もともと 「ルパンシリーズ」の位置づけのつもりではなかったのではないかと思わせる。

 単行本『八点鐘』では冒頭に作者自身の言葉が掲げられてい る。そこではこの物語がルパン当人から、「友人のレニーヌ公爵の体験」として作者が聞かされた話だと記されている。だが作者自身から「レニーヌはルパン自 身ではないのか」とほのめかされ、あとは読者の判断にお任せ、というわけだ。これも裏事情を深読みすると「もともとはルパンシリーズじゃなかったんだけど ね、いろいろ事情がありまして」とルブラン自身のエクスキューズであるように思えちゃうのだ。こんなのも、変幻自在のルパンというキャラクターならではと も言えるけど。


☆自立したヒロイン像

 各地が舞台となる『八点鐘』の第一話の舞台となるのはサルト県にあるラ・マレーズ城一 帯。サルト県というのはパリから南西方向に離れた地域で、県庁所在地が耐久レースで有名なル・マン。ラ・マレーズ城というのはさすがに架空のものと思われ るが、文中にサルト県北部一帯との明記があり、「小スイス」の異名を取る風光明媚な土地だとされる。
 この部分、なぜか英語版ではもう少し地理情報が詳しく、「Before her was the rugged and picturesque stretch of country which lies between the Orne and the Sarthe, above Alencon, and which is known as Little Switzerland. (彼女の前にはアランソンの向こう、オルヌ県とサルト県の間に横たわり「小スイス」として知られる険しく絵のような景色が広がっていた」となっている。これだとオルタンスがいるのはオルヌ県側とも読めるのだが…南洋一郎版ではサルト県としたうえでわざわざサルト川の渓谷の描写まで入れている。

 この土地に城をかまえるエーグルロッシュ伯爵(エーグル=鷲、ロッシュ=岩で、これが謎解きのきっかけになっている)は周辺の城館の主たちを集めて狩猟を催しているというから、この当時でもフランスの地方貴族たちは優雅な生活をしていたのだなぁと思わせる。
 なお、『八点鐘』作中に年代の明記はないが、シリーズの一作「斧をもつ奥方」「第一次大戦前」とあり、「テレーズとジェルメーヌ」中の記述から『奇岩城』よりは後の話と確定でき、「秘密をあばく映画」「9月18日金曜日」の日付が確認できることから、『八点鐘』の一連の事件は1908年秋のことと推定される。第一話「塔のてっぺんで」はその9月5日の事件だ。これから三ヶ月間の恋と冒険が展開されるわけで、やっぱりラブストーリーは秋が定番なのかな…?しかしこの年の春に『奇岩城』なんだから、ルパンも立ち直りの早い人である。まぁ例の「一年が一般人の十年にあたる」人だから…。

 『八点鐘』のヒロイン、オルタンス=ダニエルは ルパン・シリーズ中珍しい赤毛の美女。赤毛=活動的というイメージがあるのだろうか、オルタンスはこれまでルパン・シリーズを彩って来たヒロインたちに比 べ、かなり積極的なキャラクターで、この第一話からして彼女はいきなり愛してもいない男との駆け落ちを実行するという形で初登場する。
  7年前にエーグルロッシュ伯爵の甥と結婚というから19歳で結婚したことになるが、この夫は精神を病んで監禁状態にあることになっていて、どういう事情で 結婚したのかは判然としない。後日の「秘密をあばく映画」では美人女優の妹が夫に見せた態度にやきもちを焼いた話が出てくるし、「斧をもつ奥方」のエピソード でこの夫の療養先を時々見舞いに訪れていることがわかるので全く愛情のない結婚とは思えないのだが、エーグルロッシュ伯爵が二人の結婚を希望して、何らか の契約が結ばれているという表現もあるので、純然たる恋愛結婚というわけでもなさそう。昔の日本でもそうだったが、この時代の貴族の結婚となるといろいろ と政略的・経済的な事情がつきまとったものなのだろう。察するところ、オルタンスの実家はそこそこの財産家だったのではなかろうか。

 物語の冒頭、オルタンスは叔父夫妻に対して持参金の返還を求めて拒絶されている。この当時のフランス、のみならずヨーロッパ社会では結婚する妻側が「持参金」つきで嫁入りし、その金額の多寡が結婚相手を決めてしまうようなことすらあった。『金髪の美女』でもジェルボワ教授が娘のシュザンヌ「宝くじの当選賞金が手に入ればおまえの持参金になって結婚相手もよりどりみどり」と いった発言をしている。オルタンスも結婚にあたって持参金を夫に預け、その夫が精神異常になり監禁措置がとられたことで持参金も夫の保護者である叔父夫妻 の管理下に置かれてしまっている。そこでオルタンスは持参金のうち夫が監禁以前に使った分については自分に権利があるはずとして返還を要求しているわけ だ。
 『結婚指輪』(「ルパンの告白」所収)の雑談でも触れたように、この時代、離婚は一応可能にはなっていたが現実にはなかなか難しく(エーグルロッシュが妻の殺害を図る背景にもそれがあるようだ)、 まして妻側からの離婚要求などできなかった。オルタンスの場合、夫が精神異常で判断能力を持たない以上離婚は事実上不可能で、だからこそせめて経済的には 自立しようとし、それが拒絶されると駆け落ち逃亡という非常手段に走った。あくまで小説中の話であるが、この時代の女性にはこうした実例はけっこうあった のではなかろうか。そうした辛い境遇を自ら打破しようとし、積極的に冒険(アバンチュール)へと飛び込むオルタンスという新鮮なヒロイン像には、過ぎ去っ たベル=エポックを回顧する時代設定をとりつつも、女性の自立が現実のものとなっていった第一次大戦後のフランス社会の変化が反映されているようにも思 う。

 なお、例によって例のごとく、南洋一郎のリライト版ではオルタンスは結婚すらしておらず「両親に死に別れた不幸な少女」と いう設定に変えられ、意地悪な叔父エーグルロッシュに両親の遺産を奪われて…ということになっていた。永井豪・安田達矢とダイナミックプロによる「劇画・ 怪盗ルパン」も同様の設定に変えていて、こちらではなんとエーグルロッシュが最後にレニーヌを銃で射殺しようとし、それと察していたレニーヌが事前に銃口 をふさいでおいたため銃が暴発してしまうという結末になっている。
 ジョルジュ=デクリエール主 演のTVドラマ版では『八点鐘』と題してこの「塔のてっぺんで」のみが映像化されているが、ここでもオルタンスの夫はの存在はカットされ、エーグルロッ シュが実の叔父でオルタンスの財産を横領しているという設定になっていた。また、このドラマ版ではルパンはレニーヌ公爵ではなくロシア貴族ポール=セルニーヌ公爵に変更されている。
 JET作のコミック版「八点鐘」(2008年から「ネムキ」誌に連載)では、オルタンスは貧乏貴族の娘で「結婚という名目で金で買われ、狂人の夫の面倒を見る小間使いとして雇われている」という設定になっていて、オルタンスの肌には「夫」から受けた虐待の跡すらある。原作ではオルタンスの夫はすでに病院送りになっているのだが、この漫画では「塔のてっぺんで」に限り城館内に監禁されている設定になっていた(なんか「獄門島」っぽい…JETさん、横溝作品も漫画化してるし)。連載開始時の扉絵のアオリ文句は美しき人妻オルタンス嬢の前に現れた美貌の青年レニーヌ侯爵」で、原作全訳以外では初めてオルタンスを明確に「人妻」と打ち出した例になる。


☆その他あれこれ

  『八点鐘』はルパン・シリーズ中において「短編推理小説連作」として古来非常に評価が高い。一作一作に趣向を凝らしたトリック、そのアイデア一つで長編が 一本書けそうな、と言われるトリックやアイデアが短編一つ一つに贅沢に使われることがその評価の一因。その第一話である「塔のてっぺんで」は「遠隔殺人トリック」といったところで、密室殺人ものの変形とも言える。
 20年後にして発覚しちゃうわけだが、この事件の犯罪は一応「完全犯罪」だ。殺人が行われた事実そのものすら隠してしまっているんだから。塔の上で二人を密会させ、それを約800m離れた位置から望遠鏡で確認、距離を綿密に測定してライフルで狙撃(なおこの時代のライフル銃には照準をあてる望遠スコープはついていなかった)、 塔の上にあがる階段を破壊して密室殺人の出来上がり…というわけだ。遠隔狙撃が成功するかどうかに危なっかしさがあるが、一応犯人がハンティングの名手で あることは事前に明かされ、読者に対するフェアプレイも心がけている。なぜかいつも飲まない酒を飲んでいる描写がさりげなく入っているのもミソ。

 狙撃といえばレニーヌ公爵も、距離は不明だが隠れた場所からの狙撃で自動車の前輪・後輪のタイヤをきっちり三発で三つともパンクさせる芸当を見せている。殺しはしないことがモットーのルパンだから銃器を使う場面はあんがい少ないが、『水晶の栓』で死刑執行阻止のために銃撃の腕前を披露したことがあるし、『虎の牙』では戦場で75発の弾丸で75人の敵兵を射殺したことが語られている。
 和田英次郎氏の『怪盗ルパンの時代』によると、当時の自動車のタイヤがパンクすると、その修理には最低30分はかかったとか。それを3つだから、最低1時間半という計算になるが、それは手慣れた者の話なのだろう。ロッシニーは「2、3時間足止め」とぼやいている。


 この話の中で「その筋に訴えるのか」と言われたレニーヌが「もう時効になってますよ」と返すセリフがある。この殺人事件は20年前に発生しており(ただし事件発生日は「9月5日日曜日」とあり、万年暦で調べると1886年9月5日が該当し、正確には22年前となってしまう)、単なる駆け落ち、消息不明事件としてろくに捜査もされぬままほったらかしになっている。今さら殺人事件として訴えても時効により罪に問えないというのだ。
 犯罪者が主人公であり、犯罪が多く登場するこのシリーズで「時効」という言葉が出てきたのはこれが初めて。気になったので調べてみると、この事件発生の時点でのフランス刑法では重罪にあたる犯罪については公訴時効が10年と決められていたようだ。意外に短いな、と思ってしまうが、実は日本でも明治初期に国内の法整備をするにあたって刑法・民法はフランスのそれをベースにしており、日本でも最初は殺人事件クラスの重罪の時効を10年と定めていた(その後15年に延長、2005年以降は25年に延長している)。フランスでは現在も一般犯罪の重罪の時効は10年とのことで、テロが30年、麻薬犯罪が20年、ナチスなど人道に関する罪については時効なし(これはもちろん戦後に導入されたもの)、といった特別枠も設けられているが、アメリカやイギリスみたいに「殺人については時効なし」という国に比べるとずいぶん短いとも思える。
 ただ現在のフランスでは厳密には「捜査終了から10年で時効」と なっているようで、これがこの当時も同じだったとすると、そもそも事件として捜査した気配がないのでもしかすると「その筋」に訴えればそこで捜査が始まり 罪に問えるのかも知れない。もっとも行方不明事件として捜査はしているのかもしれないが…。どっちにしてもレニーヌとしてはそんなことはどうでもよく、そ れを取引材料にしてオルタンスの自由を勝ち取ることが目的だったろうし、レニーヌも言うように20年にわたって捜査におびえ罪の意識にさいなまれ続けたこ とで罰は十分に受けている、という考え方もあるだろう。「時効」という制度の根拠の一つにそういう考え方も実際にある。


 最後にこの話における「ルパンらしさ」について。
  レニーヌ公爵という青年貴族になりきり、あくまで好奇心からと、女性の興味を引くための冒険であるため本作のルパンは一切盗みをしない。しかしこの第一話 で実にさりげなく、泥棒テクニックを披露している。アラングル屋敷に入るために「七つ道具付きナイフ」で錠前をいじって門や扉を次々とこじ開け、肩で扉を ぶち破り…と、「押し込み強盗でもやりそうな連続的破壊行為」を披露するのだ。 「これくらい僕には子供の遊びみたいなものですよ。僕は以前、錠前屋だったこともあるのですよ」とことだが(笑)、これまでにも「僕の前には、扉なんてものは存在しないも同然」(『奇岩城』)というセリフがあるものの、意外にもその華麗なテクニックを披露してるのは盗みをしないこの一話なのだ。デクリエール主演のドラマ版でもこのドア開けの場面がほぼ忠実に映像化されていた。


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