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「虎の
牙」(長編)
LES DENTS DU
TIGRE
<ネタばれ雑談その3>
☆人種と文明と女性と宗教と
物語のほとんどがパリとその周辺で展開される『虎の牙』だが、一度ルパンとして逮捕されたドン・ルイスが、バラングレーとの政治的取引のなかで
「ある王国を進呈します」と言い出し、自分が行方不明の間に西
北アフリカ・モーリタニアの地に「帝国」を建設した経緯を語り始めるくだりがある。全体としては現実的でこじんまりとまとまっている感のある『虎の牙』だ
が、ここだけはいかにもルパンらしい――いや、これまでよりいっそう図抜けた大風呂敷が展開される。モロッコでベルベル人の捕虜となったルパンが、多くは
語らないがとにかく超人的大活躍のすえにこの地方を征服、
「モーリタニ
ア皇帝アルセーヌ1世」となっていた、というすさまじい話である。そしてこの帝国と帝位とを、一人の愛する女性のために投げうってフランス
に渡してしまう、というのがまた気宇壮大だ。
しかし現在このくだりを読んで、素直には楽しめない人も多いはず。現在だけではない、フランス人以外なら当時でもこのくだりに疑問を感じた人はいた。そ
の代表が日本探偵・推理小説発展の大功労者である
江戸川乱歩(1894
-1965)だ。
江戸川乱歩といえば名探偵・
明智小五郎。この明智小五
郎とアルセーヌ=ルパン本人が日本で対決する
『黄金仮面』
(1930-31年発表)という長編がある。この小説について詳しくはパスティシュコーナーで扱うとして、重大なのはこの小説の中でルパン
が
「殺人」を、
しかも平然と行うことだ。この小説、途中まで怪盗「黄金仮面」の正体が伏せられ、早期に気付いている明智がチラチラとヒントを出す展開になっているのだ
が、明らかに自分を殺すつもりで黄金仮面が拳銃を撃ってきたとき、明智は
「ちくしょうめ、日本人を、あのモロッコの蛮族同様に心得ているんだな」と
つぶやく。そして両者が直接対決するシーンでこんなやりとりがある。
「だがね、ルパン君、君
を笑ってやることがあるよ。さすがのルパンも少しもうろくしたなと思うことがだぜ。というのは、君が人殺しをしたことだ。(…中略…)浦瀬の殺人だけはど
うしてものがれることができまい。君は血を流したのだ」
「浦瀬は日本人だ」ルパンは傲然(ごうぜん)として言いはなった。
「おれはかつてモロッコ人を
三人、一時に射ころしたことがある」
「畜生っ」明智は憤激した。「君にして、白色人種の偏見を持っ
ているのか。じつをいうと、僕は君を普通の犯罪者とは考えていなかった。日本にも昔から義賊というものがある。僕は君をその義賊として、いささかの敬意を
払っていた。だが、今日ただ今、それを取りけす。残るところは、ただ唾棄すべき盗賊としての軽蔑ばかりだ」
「フフン、君に軽蔑されよう
が、尊敬されようが、わしは少しも痛痒(つうよう)を感じぬよ」
(江戸川乱歩『黄金仮
面』 創元推理文庫版より引用)
「モロッコ人を三人、一時に射ころした」とあるのは、
もちろん『虎の牙』で語られる、ベルベル人の捕虜となって奇跡の大逆転をするあのくだりのことだ。あの場面は明らかにルパン自らの手で三人を射殺してお
り、そのことについて何ら罪悪感を持たないどころかむしろ自慢げに、笑い話として語っている。またルパン自身が語ったわけではないが、ダストリニャック伯
爵の回想談でドン・ルイスが75発の弾丸で75人のベルベル人を射殺したという「英雄伝説」も出てくる。
『水晶の栓』で部下の殺人に狼狽・激怒し、『続813』のラストで自らが犯した三つの殺人のために自殺まで図り、『金三角』や『三十棺桶島』の凶悪犯人
に対しても自ら手は下さなかった
(『金三角』は微妙な線だが…)あ
のルパンがである。これは矛盾――?いや、そうではない。
彼にとって「モロッコ人(ベルベル
人)」は「人間」の範疇ではなく、それを殺すことは「殺人」にはあたらなかったのだ。
これはルパン、さらにはその生みの親にして冒険譚の語り手であるルブランがとくに人種差別主義者だったということではない。むしろ当時の平均値からすれ
ば進歩的な立場をとっていたと思われ、このくだりについても何の疑問もなくごく自然にアッサリと記述していることからも、とくに意識して書いたものではな
かったはず。つまりはこうした人種感覚が当時の欧米人にはひろく一般常識であった、ということなのだ。『金三角』の雑談で触れた黒人兵に関する当時の軍人
(敵のドイツ側も含む)の言葉も思い返してもらいたい。気をつ
けてほしいのは当時は現実に欧米の白人社会と文化が圧倒的な強さで世界を制覇した絶頂期であり、なおさらそういう感覚になる背景があったということだ。
だがリアルタイムでこの小説を読んだ非欧米人の中にはこの矛盾に気づく者もいた。その作品を読めば分かるように江戸川乱歩自身はルブラン作品からも強い
影響を受けており、ルブランに敬意を払っていたはずだが
(実際『虎
の牙』については推理小説として高く評価していた)、この『黄金仮面』ではあえてルパンを強烈な悪玉にして非白人である日本人を平然と殺さ
せ、その人
種差別意識を明智の口から痛烈に非難させた。おまけに『虎の牙』ではさんざんルパンにコケにされているウェベールをわざわざ日本まで出張させ、逆にルパン
を追い詰め慌てさせる「意趣返し」までやらせている
(『黄金仮面』
では「エベール」と表記)。
まぁルパンが先輩であるホームズ(ショルメス)を小馬鹿にした上しまいに殺人まで犯させた前例もあるし、ホームズだって先輩のデュパンやルコックをコケ
にしているから、後発はそういうことをするもの、という感覚もあったのかもしれない。またこの『黄金仮面』自体が乱歩作品中でもとくに大衆向け娯楽作とし
て作られているので明智のヒーロー化と合わせてルパンの悪役化を強めたということもあろう。大衆向けということで、当時の日本人の間に次第に強まっていた
欧米人への反発感情と軌を一にするものだったという指摘もできるかもしれない。
ただこの件、人種論だけで片付けるのは早計だろう。恐らくルブランなら、ルパンが仮に日本まで出かけたとしても日本人を平然と殺害することはないと断言
したと思うのだ。はからずも明智も言っちゃっている。
「日本人をモ
ロッコの蛮族同様に考えている」と。それは裏を返すと「日本人はモロッコの蛮族とは違う」と思っている、ということでもあるのだ。その区別
の基準は人種ではなく、欧米近代文明を共有する「文明人」であるかどうか、なのだ。日本は明治時代に「文明開化」と称して欧米文化を積極的にとりこんだ
が、そこでは「文明=欧米文化」と疑問もなく考えていたことを思い起こされたい。
ルパンシリーズでも『金三角』のヤ=ボンのようにフランスに忠実な人物であれば、人種差別的な表現はなされない。だが砂漠に住む「野蛮」なベルベル人な
ら話は別だ、ということなんだろう。ルパンシリーズに限らず、一昔前の冒険小説・映画・漫画をみれば、未開の地で「文明人」を襲ってくる首狩り族だの人食
い人種だのはよく出てきたものだし、それらはライオンやトラなど猛獣と同じように対処されていたものだ。
もっとも『虎の牙』のルパンの場合、僕には殺人より悪質だと思えるのがベルベル人の女性に対する扱いだ。ベルベル人の捕虜となったルパンは首長の妻たち
五
人を色仕掛けで籠絡して服従させ、彼女たちの協力を得て首長ら3人を殺し、部族を支配下におさめるのだ。これだけでもずいぶんベルベル人女性をバカにした
話だと思うし、おまけにその命の恩人たちに関してバラングレーに
「さ
ぞ美人だったのだろうな」と問われて
「不潔でね」とジョー
クのつもりらしい
(実際バラングレーは爆笑した)ひ
どい一言まで口にする。これでフロランスへの純愛をとなえて取引してるんだから…ルパンが無節操なまでの色男なのは重々わかっていることだが、それにして
もこれはひどいのではないか。
ところでこの「不潔でね」というセリフ、僕は以前から少々ひっかかっていた。創元推理文庫版も偕成社版も同じく「不潔」と訳しているのだが、話の流れか
らするとやや唐突な感じを受ける。最近になってようやく原文にあたったところ、このセリフは
「Immondes」と
なっていた。仏和辞書をひくとこの「Immonde」という言葉は確かに
「汚い、不潔」の意味が最初に上がっている。だが
「下劣、下品、みだら」という意味、さらに宗教用語的には
「けがれた、けがらわしい」という意味合いで悪魔とか罪のイ
メージになるようだ。ネットで自動翻訳にかけたら
「ファウル」と
出たのだが、これは「きたないプレー」という意味なのか。
では、英語版ではどうなっているのかというと…
「Hags!」と訳さ
れているのだ。「Hag」を英和辞書でひいてみると、
「魔女、醜い
老婆」とある。自動翻訳だと
「ばばあ」と出る。こ
れらを総合すると、ここは単に不潔というよりも少々年のいった女性であること、そして恐らくは異教のイスラム教徒であることで「魔」のイメージをも含めた
一言なのではないかと思う。
となると、なかなか適訳が思いつかないところだが、実は戦前に保篠龍緒が見事な訳をしている。それは
「人三化七(にんさんばけしち)」と
いう一語。これはおもに江戸時代に使われ、落語でもときおり顔を出す表現で、「三割が人間で七割が化物」と不美人な女性
(年齢のいった女性もふくむ)をからかっていう言葉だ。ただ単
に不美人と嘲笑するのではなく冗談めかして軽く使う表現でもあり、この場面でルパンが使うにはまさにうってつけの言葉。今日ではこの言葉自体を知らない人
が多いので再利用は難しいとは思うが、単純に「不潔」と訳するよりずっと豊かなニュアンスを含んだ名訳といえよう。
…ま、どっちにしても失礼な話だが(汗)。
なお、この会話でバラングレーが
「イスラム教徒は妻が五人」と
口にしているが、実際には
「四人まで」が正しいは
ず。これはイスラム教の戒律で決められているもので、イスラム教勃興時に多く発生した戦争未亡人を救済するため一夫多妻規定を定めたとの説明がなされてい
る。逆にいえば「4人まで」と明確に制限している戒律であり、5人いるというのはおかしい。もちろん「妻」という扱いでなければ話は別になってくるけど、
ルブラン自身がこの件では明白に間違った知識を持っていたとしか思えない。
イスラム教がらみでいえば、ルパンはこの「帝国」建設の過程で明らかにイスラム教徒になったものと思われる。少なくとも表面的にはそうしたはずだ。フラ
ンスでは過去に
ナポレオンがエジプト遠征の際にそういう
演出をした例もある。だが
「ス
ルタンの中のスルタン、マホメットの孫、アラーの息子」とまで名乗っちゃうのは明らかに冒涜行為である。ここではバラングレーの前で調子に
乗って冗談半分で言ってるものだとは思うが、モーリタニア地方のベルベル人たちはかなり原理主義的なイスラム教徒なので、そんなことを仮に冗談でも口にし
たら、たちまち離反を招いたことだろう。
☆モーリタニアの「建国神話」
では、ルパンが「帝国」を建設してしまったという
モーリタニアとはどういうところだろうか?地図で確認してみよ
う。
左図はフランスと西北アフリカが見えるように作図してみたものだ。緑色系に塗られているところがかつてのフランスの植民地だ。ルパン・シリーズでたびた
び出てきた
アルジェリアはすでに1830年代にフランス
によって占領され、同じく『813』でドイツ皇帝との取引材料に使われていた
モロッコは1904年以降フランスの支配下にあり、1912年の
「フェス条約」で「保護国」とされていた。しかしこの両国各地の砂漠地帯ではフランスの支配に抵抗する
ベルベル人たちによる根強いゲリラ活動も続けられていて、『虎の
牙』でもその様子を
(フランス側からの視点とはいえ)う
かがうことができる。なお、この時代の雰囲気を映像的につかみたい向きには、
ショーン=コネリーがベルベル人の族長をカッコよく演じた映画
「風とライオン」(1975年)をお薦めする。1904年のモ
ロッコで実際に起こった事件を素材にしたものだ。
肝心のモーリタニアはそのモロッコおよびアルジェリアの南部にある。現在の国境で考える必要はなく、この辺り一帯を大雑把にさしているものと考えたい。
ドン・ルイスことルパンはアトラス山脈の中央付近でベルベル人の捕虜となり、そこから一週間旅をしたところでその首長の一団を乗っ取ったとされる。それか
ら三カ月かけて部族全体を支配下におき、一万の兵士を得たところでフランス本国から60人の元部下たちを呼び寄せた。彼らが集結したのが
ワディ・ドラー(Wady Draa)の河口だ
(ワディとは渇水期に干上がる「枯れ川」)。そしてルパンに率
いられた軍団はアトラス山脈からサハラ砂漠へと征服活動を続け、15ヶ月後にはフランス本土の二倍はあるモーリタニア全域を支配下に置いてしまった、とい
うのだ。
ドン・ルイスことルパンが自分の称号をこう名乗っている。
「モー
リタニアのアドラール山のスルタン、イギディのスルタン、アル・ジェフ(エル・ジェフ)のスルタン、トワレグ族のスルタン、アウァブタのスルタン、ブラク
ナスとフレルゾンのスルタン」と。地図で確かめてみると「アドラール(Adrar)」という地名をアルジェリアとモーリタニアにまたがって
確認できるのだが、原文では「l'Adrar」と表記しており、創元版の注釈によると
「モーリタニア・モロッコ国境の山地」だとのこと。「イギディ
(Iguidi)」はアルジェリア・モーリタニアにまたがる砂漠の名前で、「エル・ジャフ(El-Djouf)」はマリとの国境付近の砂漠地帯の名前とし
て確認できた。
「トワレグ族(トゥアレグ、Touareg)」と
はアルジェリアからマリ周辺で生活するベルベル人の遊牧民で、その独特の民族衣装から「青衣の民」として知られる。「アウァブタ
(l'Aouabuta)」「ブラクナスとフレルゾン(Braknas et de
Frerzon)」については確認がとれなかったが、「ブラクナ(Brakna)」ならばモーリタニア南部にそういう名前の都市がある。
ルパンの言を信じるなら、この大征服は1914年末から1916年にかけて行われたものということになる。毎度のことだが初出の英語版では大戦前の段階
の話なので、少し前倒しして1912〜1914年にかけての征服活動ということになっていた。一部にこのルパンの砂漠の大征服は、第一次世界大戦中にオス
マン=トルコ帝国に対する「アラブの反乱」を扇動したイギリス将校
トー
マス=エドワード=ロレンス(1888-1935)、いわゆる
「アラビアのロレンス」の活躍をヒントにしたのではないか、との見
方があるようだが、これも実際にはロレンスが活躍する以前の段階で書かれていたわけで、「モナリザ盗難」の件と同じく、現実がルブランの創作の後追いをし
てしまった一例なのだ。
映画「アラビアのロレンス」ではロレンスがアラブのために戦い、結局はイギリスの政略によって使い捨てされたような印象が広められたが、実際のところ徹
頭徹尾イギリスの国益のために活動した工作員だったと言っていい。その意味でも、徹頭徹尾フランスの国益のために征服活動をしているルパンはロレンスに実
によく似ている。映画「アラビアのロレンス」の砂漠シーンのロケの多くはモロッコで行われているというつながりもあったりして。
当然ながらルパンの手など借りなくても、フランスによるモーリタニア征服はそれ以前から進められていた。その完成を見たのが1920年のことで、周辺の
セネガル(1895年編入)や
マリ(当時はフランス領スーダン、1893編入)などと共に
「フランス領西アフリカ連邦」を構成することになった
(上の地図の黄緑色が「仏領西アフリカ」)。モーリタニアなど
フランス領西アフリカ諸国が独立を獲得したのは1960年のことだ。
ルパンはモーリタニアについて
「はかりしれない富もあり、一千万
の人口と二十万の戦士をもった王国」と評しているが、現在のモーリタニアの人口が300万人弱であることを考えると、いささか吹きすぎの感
もある。ただ資源は豊富なようで、経済的にはそこそこの状況らしい。しかし砂漠地帯では「ルパンの時代」さながらに武装勢力の活動があり、2007末には
フランス人旅行者が殺害される事件が起こるなど治安は悪化した。このために長年名物であった
パリ・ダカール・ラリー(パリからセネガルのダカールまで走る過酷な自動車レース)が
ついに中止、今後はヨーロッパや南米で開催されることになってもいる。この「パリ・ダカ」じたいがフランスとかつてのフランス植民地を結ぶレースであるこ
とが一部から批判を受けていたということも付け加えておこう。
ドン・ルイスことルパンは物語の最後で、コスモ=モーニントンの二億フランの遺産を
「モロッコ南部とコンゴ北部に、道路を建設し、学校を設立するため」に
使うと明言している。モロッコのローティ将軍との秘密会談でモロッコ方面の「反乱平定」について語り合ったルパンは、やがて
「整然と道路が縦横に走り、学校や裁判所もととのって、発展たけなわの活気に
みちた帝国の姿」を夢想する。今日となっては批判されざるをえない植民地主義だが、やってる当人たちは「文明化してやった」という感覚で
あったことがよく分かる文章だ。これらの記述も単純に批判するのではなく、その時代を知るための貴重な材料として、修正したり削除したりすることなく、今
後も読まれるべきだと僕は考える。
なお、最初のほうで触れたように『虎の牙』には最初に東京創元社が「リュパン全集」で訳出・収録した「普及版」
(1932年刊行)があり、こちらはこのモーリタニア征服部分
がかなり省略された上に物語の最後にくっつけられている。このためルパンの殺人や女性をたぶらかすくだりが出てこず、植民地主義感覚の露出がかなり薄く
なっている。この「普及版」は『ふしぎな旅行者』での改変の例にもみられるように、「道義的にどうか」と思われる箇所を選んで手を加えている可能性があ
る。
また、南洋一郎版では
「大洪水に見舞われたモロッコのために、山林に
樹木を植え、堤防を築く」ためにモーニントンの遺産を使うとルパンが語ることに改変されている。南版は問題の殺人や女性たぶらかしの場面も
そのままあるのだが
(旧版では「土人」という表現が多用されていた
ため現在の版では全て「兵士」に改められている。そのため「女性兵士」という変な言葉が出てくるが…)、金の使い道については露骨な植民地
建設話は避け、あくまで人道的援助に変えたあたりが南洋一郎らしい。
☆これって、もしかして…?
ところで、いきなりだがアニメ
「ルパン三世」の話に
なる。アルセーヌのほうのファンだと「三世」の話題には眉をしかめる向きもあろうが、ちょっとおつきあいいただきたい。
アニメ「ルパン三世」は1989年以降、毎年夏に2時間枠の「TVスペシャル」が放映されている。そのスペシャルだけで実に20年も続いていることに驚
かされるが、このうち1996年に放映された
「ルパン三世 トワイ
ライト・ジェミニの秘密」(杉井ギサブロー監督)が
注目の一本なのだ。
冒頭、ヨーロッパ闇社会の帝王・
ドン・ドルーネ(Don
Dolune)がルパン三世をフランスの自宅に呼びつける。すでに100歳をはるかに超え、生命維持装置付きのベッドに寝たきり、余命もわ
ずかと思われるドルーネはなぜか
ルパンを
「ベイビー」としか呼ばず、昔から
「おれの若いころに似ている」と言って妙に可愛がっている。ドルー
ネはルパンに「トワイライト」という名のダイヤを渡し、そのダイヤがモロッコの砂漠で100年前にほろんだ民族の財宝の隠し場所を解くカギだと教える。自
分に代わって財宝を探し出してほしいとルパンに依頼するのだ。
モロッコに渡ったルパンは、ここで反政府ゲリラ活動を続ける砂漠の民「ゲルト族」の少女ララと出会い、財宝を求めて毎度おなじみのメンバーと大騒動を繰
り広げる。ま、この辺は実際に作品を見ていただくとして、注目すべきはその過程で次第に明らかになるドルーネの過去だ。かつて
フランス外人部隊の兵士だったドルーネはこの地でゲルト族を率
いてイギリスと組んだ敵部族と戦い、彼らの英雄になっていた…という、どこかで聞いたような話が出てくるのだ。しかも外人部隊にいるはずなのにドルーネ自
身は
「フランス人」だと明言されている。しかも活躍した
のが100年前というから当時20歳代としても120歳以上で、1996年から120年さかのぼると1870年代の生まれということになる。
「ゲルト人」自
体は架空のものだろうが、その設定はかなりベルベル人を意識したものだと思える。まぁヒロインのララは現地ではまずありえない、典型的アニメ美少女(笑)
なのだが…
意味深なはずなのに最後まで解き明かされない謎のシーンがある。モロッコの街を探索していた峰不二子が
ルパン三世と瓜二つの古い肖像画を目撃して驚くシーンだ。もちろん
それはルパンではなく、若き日のドルーネの姿だという。ってことは…?これって決定的だと思うのだけど、以後、この肖像画については一切触れられない。
ラスト、すべてを解決したルパンはドルーネのもとに報告に帰ってくる。報告を聞いたドルーネは涙を流しながら、
「ルパン、ありがとうよ…」と初めて「ベイビー」ではなく「ルパ
ン」と呼ぶのだ。原作漫画の「ルパン三世」で、ルパン二世
(つまり
三世の父親にしてルパン一世の息子)が三世に「まだまだルパンとはいえない」とか「ルパンらしくなってきた」といったセリフを吐くことも傍
証として挙げておこう。
だいたい「ドン・ドルーネ」って名前が「ドン・ルイス」を連想せざるを得ない。これがアナグラムになってたら完璧なんだが…。ともかく、細かい設定の食
い違いがあるのだが、分かる人にだけ分かるサインが散りばめられていて、あの
「カリオストロの城」以上に「初代ルパン」とのリンクがある作
品となっている。一見の価値はあると言っておくが、TVスペシャルの中ではお色気度も高めの作品なので、念のため。
☆ルパンの部下たち、全員集合!
さてそのモーリタニア征服で大活躍したと語られるのが総勢60人と語られるルパンの子分たちだ。
『ルパンの冒険』『奇岩城』で登場した
シャロレ父子、
『813』の
マルコと
オーギュスト、
『水晶の栓』の
グロニャールと
ル=バリュ。ここまでは過去の作品に登場した子分たち再登場で、こ
れも「ルパン最後の冒険」だからこその総登場だろう。
そのあとに続く
「私が二人のアイアースと名づけたブーズビル兄弟」
「ブルボン王家より高貴な血筋のフィリップ=ダントラック」「大男のピエール」「片目のジャン」「赤毛のトリスタン」「若者ジョゼフ」と初
登場の名前が列挙されている。このうち「ブーズビル兄弟」は『813』の
ドゥー
ドビル兄弟の誤りではないかと以前書いたことがあるが確証はない。ただマズルー以外の警察官の子分は一切引き上げているはずなので、ドゥー
ドビル兄弟もこれに加わっていたはずだろう。肩書が興味津津の「フィリップ=ダントラック」だが、『813』でフィリップという子分がちらっと登場したの
で彼がそうなのかもしれない。
これらの子分達の名前の列挙をみていると、ルパン一味にもまだまだ語られないドラマがあるのだと妄想できて楽しい。
しかしなんといっても『虎の牙』のルパンの子分といえば
「アレクサン
ドル」ことマズルー巡査部長だ。ルパ
ンが国家警察部長時代に警察に送り込んだ子分の一人であり、ルパンの「自殺」後は、かたぎの刑事として職務に励んでいる。死んだはずの親分が目の前に現れ
てビックリするが、
「あたしは正直のパンの味を知ったから、もうほ
かのパンは食べたくないんだ」と言い放って一度は協力を拒絶。警視総監の命令でルパンの身柄を断固確保すべく
「動けば撃つ!」とピストルを向ける名場面もある。
しかし心底親分にほれ込み、絶対的信頼を寄せているのも明らか。あまり役には立ってないし、トラブったときのルパンの八つ当たりの対象になるなどさんざ
んな目にも合うが、フロランスのことで落ち込んだ親分に自分の女房の話をしてなぐさめるなど、実に可愛い子分である。このマズルーが警察官の立場と怪盗の
子分の立場とのはざまで苦闘するさまを読むのも、『虎の牙』の隠れた楽しみだ。かくいう僕もルパンの部下で一番のお気に入りがこのマズルーである。
☆文学的な話でしめくくり
ドン・ルイスがバラングレーにモロッコでの冒険譚を語る中で
バルザッ
クの小説
『砂漠の情熱』を
引き合いに出す場面がある。これ、ドン・ルイスも言うようにかなり変わった短編小説で、砂漠の中で男が一匹のメス虎に出会い、明らかに人間の女性的な「彼
女」とのやりとりが描かれるという、一種の寓話小説だ。フランスでどれほど知られているものか分からないが、少なくともバラングレーは読んだことがあるそ
うだ。
引退したドン・ルイスが庭にたくさんの
「ルパン(=ルピナス)」の
花を咲かせる。そしてそこに
「かくてわが園にルパンの花咲きほこる
(Et dans mon potager foisonne le lupin.)」という詩の一節を書いた吹き流しでダジャレに追い討
ちをかけるわけだが、その元となった詩の作者が
ジョセ=マリア=ド=エ
レディア(ホセ=マリア=デ=エレディヤとも。José María de Heredia,1842-1905)。彼は近代ソネット
(14行の定型詩)の名手として知られる詩人で、キューバ生ま
れでスペイン系とフランス系の混血という変わった出自をもっていて、「高踏派」の代表的詩人とされる。1894年からアカデミー・フランセーズ会員にも選
ばれた。1893年に刊行した
『Les Trophées(戦利品)』が代表作。ドン・ルイスが元ネタにした詩はその『戦利品』の
なかの
「Villula」というソネットだ。エレ
ディアのソネットは
上田敏に訳されたものがあるようだ
が、残念ながら確認した限りではこのソネットの翻訳はないらしい。ということで参考までに、と大学の一般教養で使っていた仏和辞書とネットの自動翻訳で強
引に訳をつけてみた。思いっきり誤訳の可能性大なのでアテにしないこと(笑)。
Villula
Oui, c'est au vieux Gallus
qu'appartient l'héritage ほら、それは遺産と呼ぶべき老いたニワトリ
Que tu vois au penchant du coteau
cisalpin ; それはシザルパンの丘の斜面に見える
La maison tout entière est à l'abri
d'un pin 家はすっかり松の木陰におおわれてるが
Et le chaume du toit couvre à peine
un étage. わらは屋根をほとんどおおってない
Il suffit pour qu'un hôte avec lui le
partage. 彼と手分けすれば客をもてなすに十分だ
Il a sa vigne, un four à cuire plus
d'un pain, いつものワイン、パンを焼くかまど
Et dans son
potager foisonne le lupin. そしてその菜園にはルパンが咲きほこる
C'est peu ? Gallus n'a pas désiré
davantage. 少ないか?いやニワトリは多くは望まない
Son bois donne un fagot ou deux tous
les hivers, その森は冬にはひと束ふた束の薪をくれる
Et de l'ombre, l'été, sous les
feuillages verts ; そして夏には、緑の葉で木陰をくれる
À l'automne on y prend quelque grive
au passage. 秋には人々が通りでツグミをとる
C'est là que, satisfait de son destin
borné, そう、限られた運命に満足して
Gallus finit de vivre où jadis il est
né. ニワトリは自分が生まれたところに生を終える
Va, tu sais à présent que Gallus est
un sage. さあ、今や君にもニワトリが賢いことがわかったろう
ごらんのとおり、元の詩では「わが園」ではなく「その園」となっている。「Gallus」は辞書を引いても出てこず、いろいろ調べるとラテン語でニワト
リを指す言葉らしいとこう訳してみたのだが、同時に古代の「ゴール人」つ
まり現在のフランス人を指す言葉を二重にひっかけている気もする。ま、ともかく田舎の素朴な暮らしをうたった詩ということは間違いないんじゃないかと。こ
れが引退後のルパンの生活と重なるわけだ。
ソネットなどの西洋の詩は、漢詩と同じく決まった行の最後が同じ音で終わる「韻」をふむのがお約束だが、日本語にはこれが非常に訳しにくい。日本語の詩
は「七五調」の発音のリズムを特徴としているが、ここを創元版・井上訳は
「わ
が庭に 咲くやたわわに リュパン花」という俳句みたいな名訳をみせている。
ルパン(リュパン)がフランス語では「ルピナス」
(ハウチワマメ
科)と同じになることは、2004年製作の映画「ルパン」でも小道具として使われていた。アルセーヌの少年時代の部分で、母親の親類たちが
アルセーヌの父について
「ルパン(ルピナス)なんて変な名前」と
あざける場面があるし、ラストシーンで姿を消したルパンが現場に残していくのがルピナスの花だった。脱線ついでにいえば「LUPIN」はもともと「狼」を
意味する言葉で、植物の「ルパン」も狼のように貪欲に栄養分を吸収することからついた名前だとか。あの「ハリー・ポッター」に登場する
「ルーピン(LUPIN)先生」も狼に変身するし、アニメ「ルパ
ン三世」の英語版でルパンの愛称が「Wolf」になっているのもこのため。
このほかにも『虎の牙』ではドン・ルイスが『三銃士』のダルタニャンおよびポルトス、『モンテ・クリスト伯』のモンテ・クリスト、『モンソローの奥方』
のド・ビュッシー伯爵といずれも
デュマの作中人物にたと
えられるとか、「イーリアス」や「千夜一夜物語」への言及もあるし、名前だけだがシェークスピア全集も出てくるなど、文学ネタも結構多い。
逆に『虎の牙』という作品自体、タイトルそのもののインパクトもかなり強いせいか、後世にいくつかの影響を与えている。
有名なところで江戸川乱歩の少年探偵団シリーズにずばり
『虎の
牙』というタイトルの作品がある。これは南洋一郎ルパン全集と同じポプラ社から出版された際に混同を避けるため
『地底の魔術王』というタイトルに変更されている
(出版社が別なら問題ないらしく、講談社から出た文庫版は「虎の牙」のまま
だ)。ルパンの日
本版というべき毎度おなじみのあの人も出てくるので、ルパンファンとしてもちょっとチェックしておきたい作品だ。また明智小五郎ものの長編
『悪魔の紋章』は発端部分が明白に『虎の牙』の引用となってい
る。
『虎の牙』英語版のタイトルは
「The Teeth of
The Tiger」だが、この言葉をネット検索してみると、全く同じタイトルの2003年刊行の小説がみつかる。それも作者は
トム=クランシーという大物。おまけにこれ、「レッド・オクトー
バーを追え!」「パトリオットゲーム」など映画化も多いことでおなじみのポリティカル・サスペンス
「ジャック・ライアン・シリーズ」の一冊なのだ。邦訳も出てい
るが「虎の牙」というタイトルにするわけにもいかなかったようで
「国
際テロ」という平凡安直な訳題となっている。「アメリカ帝国主義」を見せ付けられる感もあるこのシリーズ、その意味では現代の「虎の牙」な
のかも。
タイトルではなく推理小説としての内容的な影響ということでは、現行のポプラ社版『虎の牙』巻末の
浜田知明氏の解説によれば、海外では
エラリー=クイーン、国内では
横溝正史と、
なかなかビッグネームが取りざたされている。
エラリー=クイーンには
『ドラゴンの歯(The
Dragon's Teeth)』という作品があり、ずばり歯形が事件の鍵を握っている。タイトルからして『虎の牙』の英題を意識している
のが明らかで、『龍の牙』とでも訳してほしかったところ
(まさに
“龍虎の争い”!?)。クイーンの代表作のひとつ
『Y
の悲劇』についても『虎の牙』の影響があるとの指摘もある。
横溝正史が最初に手がけた密室殺人の本格推理にして金田一耕助初登場という重要な作
品
『本陣殺人事件』は、冒頭で海外の「密室」ものの
名作を探偵小説ファン向けのヒントとして列挙していて、そのなかにルブランの『虎の牙』もふくまれている。『本陣』を
読んだ方は、シチュエーションの類似に思い当たることだろう。
そういえば『虎の牙』は莫大な遺産相続をめぐる連続殺人事件であり、複雑な系図が書かれて次々と知られざる相続人が出てくるところなぞ、
『犬神家の一族』など、「岡山編」以外の金田一ものに構造が似
ている気もしてくる。『金三角』『三十棺桶島』『虎の牙』と続いた「ドン・ルイス三部作」はそろって横溝ワールドとつながっちゃっているようである。
文学ではなく漫画作品にも『虎の牙』がある。といっても
永井豪・安田
達矢と
ダイナミックプロによる『劇画・怪盗ルパン』の一冊で、一応ルブランの原作・保篠龍緒訳をベースに漫画化したというものなのだが…
まるっきり違う話になっちゃっててビックリさせられる。なんと犯人が
本物の虎を使って連続殺
人をするわ、モーニントンの遺族たちが殺し合いをするわ、ルバッスールは意味もなくヌードを見せるわ(笑)、凄まじい内容。詳しくはそちらのコーナーで触
れることにしたい。
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