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「結婚
指輪」(短編)
L'ANNEAU NUPTIAL
初出:1911年5月「ジュ・セ・トゥ」誌76号 単行本「ルパンの告白」所収
他の邦題:「結婚の指輪」(保篠龍緒訳、創元版)「結婚リング」(ポプラ)など
◎内容◎
イボンヌは不仲の夫・ドリニー伯爵の策謀により息子を連れ去られ、自室に監禁された。イボンヌとの離婚を望む伯爵は、イボンヌが結婚指輪をなくして密か
に別の男性の名を刻んだ指輪をつけていることを知って、これを離婚の理由としようとしていた。途方にくれたイボンヌは、本の間から一枚の名刺を発見する。
かつて「助けがいるときにはこの名刺をポストに入れなさい」と、ある青年から渡された名刺。そこに書かれた名前は「オラース=ベルモン」…
◎登場人物◎(アイウエオ順)
☆アルセーヌ=ルパン
怪盗紳士。
☆イボンヌ=ドリニー
ドリニー伯爵の妻。夫との間に息子が一人いるが、夫から離婚を迫られている。
☆イボンヌの息子
イボンヌとドリニー伯爵の息子。
☆オラース=ベルモン
謎の青年。イボンヌとは6年前に知り合っている。
☆ドイツ人家庭教師
イボンヌの息子の女性家庭教師。ドリニー伯爵と結託。
☆ドリニー伯爵
イボンヌの夫。妻の不貞を理由に離婚して、愛人と暮らすことを計画。
☆ドリニー伯爵夫人
ドリニー伯爵の母親。イボンヌのことは嫌っているが、宗教上の理由から離婚はためらっている。
☆ベルナール
ドリニー伯爵の忠実な召使。
☆宝石職人
イボンヌの指輪を外すために呼ばれた職人。
☆わたし
ルパンの友人にして伝記作者。
◎盗品一覧◎
◇金の指輪
結婚指輪をなくしたイボンヌが代わりに作らせて指にはめていたもので、以前思いを寄せていた男性の名前をお守りとしてひそかに刻ん
でいた。
<ネタばれ雑談>
☆小粒で小粋な人助け話
ルパン・シリーズにはルパンがまったく悪事を働かず、むしろ人助け
(そ
の多くの対象が女性)のために無償で活躍する話がいくつかある。ルパンがこうした「人助け業」もしていることはすでに
『ユダヤのランプ』で触れられているが、この
『結婚指輪』はその代表的な一作。そして僕個人としては、「人
助けルパン」の最高の一話と考えている。
話としては小冒険どころか、ほとんど事件ですらないような出来事だ。指にくいこんだ結婚指輪に夫以外の男の名が刻まれている、それを種に夫に離婚を迫ら
れた女性が、ルパンのちょっとしたアイデアと「芸」で救われる。まとめてしまえばたったそれだけの話なんだけど、実に小粋なトリックだ。初読で種明かしさ
れるまで気づく人はいないんじゃなかろうか。泥棒の話でこそないが、種明かしされれば「ああ、やっぱりルパンの話だ」と納得しちゃう。
そして最後にきっちりオマケのオチがつく。このラストがあるから素晴らしく余韻のある好短編となったのだ。
もっとも話のカッコよさに眼を奪われがちだが、冷静に考えればかなり無理もある話。そもそも6年も前に渡された名刺を封筒に入れてその辺の道端に落とし
ただけで、あっという間にルパンが駆けつけてくるのがムチャ。実はフラれてからもず〜〜〜〜っとストーカーよろしく動向をうかがっていた…というなら分か
らないではないが(笑)。
それから伯爵の手紙から宝石職人の住所をつきとめ、買収して成り代わるのはまだいいとして、本物の結婚指輪とそっくりな外見でしかも同じ日付を入れた、
ちゃんと切れているニセモノ指輪をこの短時間にどうやって調達したのか。イボンヌのもとを離れたのが午前3時、午前11時には全ての準備を整えて屋敷に
戻ってきているのだ。南洋一郎ではないが、それこそ「スーパーマン」であるルパンの辞書には不可能はない!ってことで納得するしかないか(笑)。
ところでトリックの核心部分である「手品」だが、本作でルパンは
「手
品はいろいろ知ってるんだ。ピックマンという手品師のもとに半年いたからね」と語っている。もっとも原文では
「ピックマン(Pickmann)」については「手品師」とは一切
言っておらず、単に「ピックマンと半年いっしょにいた」という表現になっている。書きぶりからもしかすると当時有名な人だったんだろうか?と思っていたの
だが確認できないでいたら、掲示板でご教示いただいた。当時
ジャン=
ピックマン(Jean Pickman,1857−1925)という手品師が実在したのだそうである。スペルがn1文字が足りないという違
いはあるが、当時の読者はそれで十分ピンと来たのだろう。なお、右図は掲示板で教えていただいてネットで見つけた、そのピックマンのポスターである。
なお、『ルパンの脱獄』の裁判シーンではルパンが「ロスタ」という名で、奇術師
ディクソンのもとで助手として働いていたという話が出てくる。それ
がルパンの脱獄が行われた1900年の8年前、つまり1892年、ルパンが18歳の時の話とされる。ディクスンとピックマンの関係が気になるところだが、
実は『結婚指輪』のジュ・セ・トゥ掲載時には「ピックマン」のところが「ディクソン」になっていたそうで、単行本収録時に「ピックマン」に改めたのだとい
う。とすると、この場合両者は同一人物と考えてもいいのでは。実はルパンは本物のピックマンに弟子入りしてたんだけど、プライバシーの問題上小説では名前
を変更したりスペルを変えたりしたとか(笑)。
☆「再登場」したオラース=ベルモン
作中で「わたし」が言うように、
「オラース=ベルモン(Horace
Velmont)」というルパンの偽名は、これ以前に発表された
『おそかりしシャーロック=ホームズ』で登場している。そして
この「ティベルメニル城館事件」でオラース=ベルモンがルパンその人であることは暴露されているため、
『結婚指輪』のエピソードはそれ以前の話ということになる。
『おそかりしホームズ』はだいたい1901年ごろの事件と推測されるから、『結婚指輪』の事件は1900〜1901年あたりなのではないかと思える。
注目はルパンはオラース=ベルモンの名前で、すでにこの時点より
6年
前にイボンヌと知り合い、一時ルパンの側からアプローチしたらしい…という点だ。1900年から6年前というと1894年。
『カリオストロ伯爵夫人』で明らかになるルパンの生年が
1874年だとすると、ルパンが20歳ごろの話ということになり…あれ?『カリオストロ伯爵夫人』と同じ時期では?ということは、
クラリス=デティーグと結婚する前後のことということだから、また
もや「三股疑惑」が!いや、『続813』のところで考察したように同時期に
ジュヌビエーブの母親とも関係していたことになり…うわぁ、もうグ
チャグチャ(笑)。
『続813』の雑談で触れた
「ARSENE」なる
ドキュメンタリー番組でもこの件は触れられており、そこではルパンがジュヌビエーブの母親と出会う前にこの失恋があったのでは、という解釈になっていた。
しかしこの時点で名刺を渡して「何かあったら」と声をかけているということは、すでにルパンが一定の実力をつけていたということになるんだけど…ま、要す
るにルブランはそこまで考えていなかった、というのが実情だろう。
『太陽のたわむれ』の冒頭で、「わたし」がこの『結婚指輪』の逸話を以前からルパンにほのめかされていたことが分かる。そしてこの話は、珍しくパリから
離れた
モンテ・カルロ(モナコ市街地)で偶然イボン
ヌ母子と再会したことをきっかけに、ルパンが「わたし」に回想を打ち明ける…という構造になっている。この時点でイボンヌの息子は16歳の若者に成長して
いることから、この物語の「告白」がなされた年代はだいたい1906〜1907年ぐらいなんじゃないかな、と思える。この線から『太陽のたわむれ』『影の
合図』『地獄の罠』といった一連の事件の年代の推測もできるかと。
そういえばルパンによると、イボンヌはルパンがどんな変装をしていようと必ず見抜いて挨拶するそうである。「おそかりし〜」の話でちょっとだけオラース
=ベルモンと出会ったホームズ(ショルメス)も以後ルパンの変装はいずれも見抜いてしまっている。またオラース=ベルモンは友人達に「ルパンに似ている」
と言われていたそうだから、ベルモンはルパンの「素顔」に近い外見になっていたと考えられる。
オラース=ベルモンの偽名はその後
『緑の眼の令嬢』で
登場している。ルパンはこのとき別の偽名を名乗っていたのだが、帽子に「H・V」のイニシャルがあるのを女盗賊
ベークフィールドに見つけられ、「オラース=ベルモン」すなわちル
パンであることを見抜かれるくだりがある。
ルパンの本名でもある「ラウール」を別にすれば、同じ偽名が何度も登場するのは異例のことで、ルパンが、そしてそれはとりもなおさず作者のルブランが、
「オラース=ベルモン」という名前を気に入っていたということかもしれない。
☆カトリックにおける離婚事情
ところでまた
南洋一郎版の話になるのだが…
南版ではこのエピソード、旧全30巻「怪盗ルパン全集」では
「ル
パンの大失敗」に、現行の全20巻「シリーズ怪盗ルパン」では
「七つの秘密」に収録されている。大筋は原作と同じ話なのだ
が、イボンヌの息子の名前が「ジャン」となっていること
(原作では
名前の明記はない)、指輪に「オラース・ベルモン」の名が刻まれていたというオチは
「O・B」というイニシャルが刻まれていてルパンが「自分ではない
別人」と明確にする、という変更がなされている。
まぁ確かに「H・V」が正しく「O・B」なら別人のイニシャルであるわけなんだけど、なぜかルブランが
「君の変名と同じ頭文字じゃないか」と言ってしまっている。こ
れはローマ字なら読める少年少女向けにと思ってわざとやったのだと考えられるが、ルパンが明確に自分ではないと否定しちゃうのは、やはり不倫問題になるの
で南洋一郎の倫理基準にひっかかったからではないかと…(笑)。
倫理基準といえば、この話は離婚したがっている夫が、その実現のため自分の母親に妻の不貞を証明しようとする。母親は明らかに息子の嫁であるイボンヌを
嫌っているようだが、宗教的理由から離婚はなるべく避けようとしていることが分かる。宗教とはもちろん、フランスでは多数派であるキリスト教の
「カトリック」である。
カトリックはローマ教皇(法王)を頂点とした教会組織により、中世以来西欧世界に絶大な支配力をもった宗派だ。そこから16世紀の「宗教改革」によりル
ターやカルバンによる聖書重視の「プロテスタント」が分派して、フランス国内では「ユグノー」と呼ばれたカルバン派とカトリックの間で凄まじい宗教戦争
(ユグノー戦争)が展開されたこともあった。ユグノー戦争は
アンリ4世に
よる
「ナントの勅令」で信仰の自由が認められて終結した
が、そのアンリ4世から始まるブルボン王家はカトリックを貫き、フランス全土でも一応カトリックが多数派だ。
カトリックでは結婚は神のもとで夫婦が永遠の愛を誓う神聖なものであり、いったん結婚したからには離婚は原則的に認められない。海の向こうのイギリスの
話だが、ヘンリー8世が離婚したいがためにカトリックから離れて「イギリス国教会」を作っちゃった例もある。プロテスタントだってむやみに離婚するわけで
もないし、カトリックの国でも離婚を絶対に認めないというわけでもないようだが、この20世紀初頭の時期のカトリックの間ではまだまだ離婚はタブー視され
たものであったようだ。調べてみたところフランスでは1884年まで法律により離婚そのものが禁じられていたそうである。この時期ではこの小説に描かれた
ように妻の不貞が明らかとなればそれを理由に離婚することはできたようだ
(もっともこの話では保守的な母親の説得がもっと重要のようだが)。
夫婦の合意のみで離婚ができるようになったのは実に1975年のことだったそうで…。
ついでに言えば南洋一郎自身も実はカトリック信徒だったという。彼の「怪盗ルパン」シリーズがルパンの恋愛関係、ことに不倫ネタにうるさく、慈善事業へ
の寄付や「悪事」の否定に熱心なのもそうした宗教的背景がある程度影響していたと思われる。
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