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「雪の上の足あと」(短編、「八点鐘」第7編)
DES PAS SUR LA NEIGE
初出:1922年6月「メトロポリタンマガジン」誌に英訳発表 1923年1月「エクセルシオール」紙に仏文発表
他の邦題:「雪の上の靴跡」(保篠訳)「雪の上の足跡」(新潮・創元)「雪の上の靴あと」(ポプラ)など

◎内容◎

 前回の事件の心身の傷をいやすためバシクール村に滞在していたオルタンスから、パリのレニーヌに手紙が来た。手紙の中でオルタンスは村で起こった ささいな騒ぎを伝え、事件が起こる可能性をレニーヌに示していた。レニーヌが村にやってくると、はたして事件が起こっていた。三発の銃声が聞こえ、夫が姿 を消し、妻とその愛人が逃亡しようとしたところを駅で逮捕されたのだ。現場には夜に雪が降り、雪の上に残った足跡は殺人事件の決定的な痕跡と思われるのだ が…?



◎登場人物◎(アイウエオ順)

☆アントワネット=エルムラン
オルタンスのいとこ。おばあさんぐらいの年齢で、オルタンスの面倒をみる。

☆オルタンス=ダニエル
26歳の赤髪の美女。バシクール村で静養中。

☆検事補
事件の捜査にあたる検事補。

☆ゴルヌ男爵
落ちぶれた貴族の子孫。大酒飲みで荒々しい。

☆ジェローム=ビニャル
資産家の青年。ナタリーに恋して、ナタリーとの駆け落ちを計画。

☆セルジュ=レニーヌ公爵
謎の青年公爵。オルタンスを誘拐され、焦燥しつつ探索を進める。

☆ナタリー=ド=ゴルヌ
マチアスの美しい妻。ほとんど囚人のような生活を送っている。

☆バッスールじいさん
村の仕立て屋。名前のみ登場。

☆班長
現場の管理にあたる憲兵隊の班長。

☆マチアス=ド=ゴルヌ
ゴルヌ男爵の息子。法律の勉強をしてアメリカに渡ったが、すかんぴんになって帰国。


◎盗品一覧◎

なし。


<ネタばれ雑談>

☆独創的トリックによる古典的短編

 この「雪の上の足あと」は、同じ『八点鐘』に収録された「テレーズとジェルメーヌ」と並び、トリックの独創性から推理小説史上においても重要視され、評価の高い一編。現在読むとそのアイデアに「古くさい」なんて声も上がりそうだが、これを最初に思いつき、ストーリーを組み立てたルブランの手腕はやはり評価されるべき。単純なだけに明快なトリックで、こうした「足跡トリック」はその後の推理小説に多くの模倣を呼んだ。「古くさい」と感じてしまうのは、このアイデアがあまりにあちこちで紹介・模倣されて、広く知られてしまっているせいでもある。

  「テレーズとジェルメーヌ」は「密室殺人」だが、今回も一種の密室。雪が積もったために一定時間内の人の出入りは足跡からわかり、人間一人がその家に入っ たまま出ていった形跡はなく、その姿が消えている。出ていった足跡は状況から殺人を犯したと疑わしい男のものだけ。死体は見つからないが凶器となるピスト ルは発見されており、銃弾三発が消え、銃声も三発聞こえている。現場には容易に調べられない深い井戸がありその周囲に格闘の痕跡が…といった舞台設定。推 理小説ファンの間では、こうしたシチュエーション自体がずばり「雪の上の足跡」と呼ばれ、あまりにポピュラーなためかえってその元祖が何だったのか忘れてる人も多いぐらい。

 「テレーズとジェルメーヌ」の項で触れたように、推理作家・二階堂黎人さんがご自身のサイトに掲載している「足跡のない殺人リスト」にこの「雪の上の足あと」も当然名を連ねている。二階堂さんは「『八点鐘』という一冊の短編集の中に、二つも「足跡のない殺人」が出て来るのだから驚くばかりだ。ここで生み出されたトリックも、「足跡のない殺人」のトリックの完全なるスタンダードである」とコメントで賞賛している。
  密室、足跡のない殺人、に加えて、本作は「人間消失」トリックの先駆の一つともいえそうだ。タネが明かされれば「なーんだ」と思っちゃうところもあるが、 手品なんてそんなもの。この話の場合、「被害者」自身に消える動機があるので読んでいてなんとなく察しちゃう人がいそうだとは思うが。
 あまり一般には知られていない本格ミステリ古典短編を児童向けに分かりやすく漫画で紹介するシリーズ、森元さとる作画「ミステリークラシックス〜甦る名探偵たち〜」(「マガジンGREAT」連載)は、あまり本格もの扱いされないルパンシリーズからも多くの短編を採用してくれている。これまでに『ルパンの告白』『バーネット探偵社』『八点鐘』から傑作が選ばれていたが、2008年9月号掲載分でやっぱり「雪の上の足あと」が取り上げられた。


☆今度はフランス中部へ

 前回の結末でオルタンスは静養のために親戚がいるフランス中部バシクール(Bassicourt)村に出かけた。これが実在するのかどうか調べてみたが、ネット検索では『八点鐘』本文にぶつかるばかりだったのでやはり架空の地名らしい。その中のラ・ロンシエール(La Roncière)という地区にいとこと滞在しているのだが、こちらも発見できないでいる。
 ではレニーヌがバシクールへ向かうべく列車を降りた駅があるポンピニャ(Pompignat)の町はどうだろう。フランス語版Wkipediaで「Pompignat」を検索すると「シャトーゲイ(Chateaugay)」という町の項目に飛ばされる。Maltimapで調べてみるとこのシャトーゲイのすぐ隣にポンピニャという地名があり(下地図参照)、合併でもしたのかもしれない。現在の地図で見る限り、やや離れたところにパリからの鉄道路線は通っているのだが近くに駅は見当たらない。

 シャトーゲイ・ポンピニャはフランス中部オーベルニュ地方、ピュイ・ド・ドーム県にある。ここから8km離れた所にバシクール村があることになるのだが…。ここで注目したいのは本文中、バシクール村からポンピニャとは逆方向へ行くと県道にぶつかり、そこから「急行列車のとまる県庁所在地の町」に行けるという記述があること。この県庁所在地がどこなのか本文中には明記がないが、ピュイ・ド・ドーム県の話とすれば、その県庁所在地はクレルモン=フェラン(Clermont-Ferrand)。世界史の教科書でおなじみ、十字軍派遣が決定された「クレルモン公会議」が行われた地である。
  ポンピニャという地名があり、近くに県庁所在地の町がある…という条件をここはどうやら満たしてくれる。この地図の中でポンピニャから8km、逆方向に行 けばクレルモン=フェランという地点にバシクールがあることになるのだが、ここぞ、とハマるところは見つからない。ルパン・シリーズは地名に関しては意外 に実在のものを多く使っているのだが、ここで「県庁所在地」がなぜボカされているのか気になるところ。
 
 「テレーズとジェルメーヌ」は 10月2日にまだ海水浴ができそうなくらいの暑さとなっていたが、ほんの一ヶ月半後のこの話ではいきなり一面の雪景色。もちろん大西洋沿岸とフランス中部 の違いによるものだが、調べたところではオーベルニュ地方で11月の初雪は珍しくないようだ。
 ところでこの事件は11月何日なのだろう?冒頭に出てくるオルタンスの手紙は11月14日付だ。この手紙を読んだ日曜日の夜にレニーヌは列車に乗り込み、翌日、つまり月曜日の午前中(11時より前)に 現地に着いている。ここまで『八点鐘』の推定年代としてきた1908年だと11月14日は土曜日。翌15日が日曜日で、この日の夜に事件が発生、16日の 月曜日に事件解決、というスケジュールになる。14日の午前中にでも手紙を出して次の日の夜までにパリに届けば問題ないわけだが…当時の郵便配達速度がわ かる方に聞いてみたいところ。
 この次の「メルキュール骨董店」では冒頭に11月30日付のレニーヌの手紙に「あれから二週間」とあるので、16日だと確かにつじつまはあうのだ。

  物語のラスト、オルタンスは何も言わずにレニーヌの前から姿を消す。手紙の中でも「来ないで」と言いつつしっかり誘いをかけており、レニーヌはますますオルタン スの愛を確信、いよいよ物語はゴールへと向かっていく。このあたりの恋愛小説仕立ての心理描写が、『八点鐘』を単にトリック満載のミステリにとどまらない 名作にしている。冒頭のピエール=ラフィットへの献辞にあったように、純文学心理小説出身でひょんなことから推理・冒険小説に手を染めることになったルブランの、「文学的愉悦」の 結実の一つが『八点鐘』だと言えるだろう。


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