2004年6月号 考課表

作品 作者評者


 


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ジョン ジョージ・ソーンダース +1+2+0-1+1+0+1+0+0+0+0.40
ある日の“半分になったルンペルシュティルツヒェン” ケヴィン・ブロックマイヤー +2+1+1-1-1-3+0-1-1+1-0.20
基礎 チャイナ・ミエヴィル +3+0+0+1+2+1+0+1+2+2+1.20
飛ぶのは未だ越えざるもののため ジェフ・ヴァンダーミア +0+1+0-2+0-1+0+0+0+1-0.10
ほかの都市の物語 ベンジャミン・ローゼンバウム -1+1+2+3+1-3+1+1+0+1+0.60
あこがれ 博物館惑星・余話 菅浩江 +1-1-1+1+0+3+1+0-1+0+0.30
海原の用心棒 秋山瑞人 +3+0+0+3+0+2+1+0-1+0+0.80
パンドラ [41] 谷甲州 __+1_____+0_+0.50
地球スコープ2004[6] 笹公人 _+0____+0+0-1+0-0.20
飛ばされていく 行き先[6] タカノ綾 _+0____+1+0_+1+0.50
おまかせ!レスキュー[72] 横山えいじ _+1+0+0__+0+1+0_+0.33
SFまで100000光年[10] 水玉蛍之丞 _+1+1___+1_+1_+1.00
評者個人総計 +9+6+4+4+3-1+6+2-1+6
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たぶん一回きり企画 SFM考課表考課表

というわけでテスト企画。考課の考課である。かって、著名なファンジンで存在したらしい(僕は実物を見たことがないのだ)SFマガジン考課表では、参加者の一人が、他の参加者の考課を採点していたという故事にのっとり、ここでも考課を考課してみようというてこ入れ企画である。諸般の都合(主に僕のやる気)のため、思いっきり時期外れの公表となり申し訳ない。

原典での処理方法は寡聞にして知らないが、今回はメタ考課を許すとした方のうち、各作品の考課コメントがあるもののみを対象とした。採点のみでメタ考課を許すといってくれた方には申し訳ないが、点数だけにコメントをつける能力と自信は僕にはなかったということでご了承いただけるとありがたい。

なお、原典ではどうやら点数をつけていたようだが(繰り返すが、実物を読んだことは無いのだ)、どうやったらそんなことができるのか見当もつかないのでコメントのみとした。(林)

7/27追記 鈴木力さんが原典の紹介をしてくださいました。そうか、こんなだったのか。


鈴木力
冒頭の「6月号の「スプロール・フィクション特集U」鑑賞のポイントは、スプロール・フィクションという括り、あるいは個々の作品の出来不出来を一旦脇に措いて、小川隆という監修者の作家性(?)を味わうところにある」という視点の提示は良いのに、具体的な個々の作品評にそれが活かし切れていないというのが難点。講評を前記のように始めたのであれば、自身の小川隆観を提示し、その枠に対して個々の作品がどのように位置付けられるかを示すべきだが、そのあたりが弱い。ミエヴィル評にやや伺える程度か。「特集観」と「個々の作品評」の間に、「それはそれとして」など前段を前段そのものとして独立させる一文があればまだしも、それもないため、「評価基準を示したのに、それとは別の基準で評価している」ように見えてしまい、結果、採点への信頼性を弱めているのが問題だ。
個々の採点について。ミエヴィルへの高評価自体は理解できるが、+3とまで高く評価するのなら、「好きだから」でもいいから、なんらかの理由が欲しいところ。「小川カラーが濃厚」というのが理由である可能性はあるが、それなら評価の低いヴァンダーミアとはどこが違うという言葉が欲しい。他は、ソーンダースの評価がやや高い、秋山の評価が(本人も書いているが)過剰、など同意しかねる部分はあるものの総体としては納得の範囲。
犬街祐司
スプロール・フィクションという特集自体に対する強く否定的な言葉が並ぶ。内容は、SFファンの意見として、当然出るであろうものであり、共感できる部分は多い。村上春樹をこの流れで出す恥かしさなど、罵倒のポイントもツボをついている。また、ジャンルSFとして読むという立場の表明にもなっているため、後段の個々の作品評価との相性が良いのもポイント。ただ、特集に対する評価が、「わたしにとって価値が無い」(=嫌い)ではなく、「価値が無い」(=悪い)であるように読めるのは、スタンスが明確になる反面、過度に反感を招くところでもありマイナスか。
個々の作品評は、SFであることに重きを置くスタンスが明確であり、小気味良い。+3から-3まで、点数の幅を大きく使うあたりも、爽快である。ブロックマイヤーのとぼけたおかしさや、ローゼンバウムの、星新一の最後期作品を思わせる味わいを切り捨ててしまうのはもったいないと個人的には思うが、大きなお世話というものだろう。ただ、国内作品の評価が、特集作品に対する低評価の反動で高くなりすぎているようにも見受けられる。次号や、前号に載っていてもその点数だっただろうか。
一歩
こちらもスプロール・フィクションという特集に対して否定的である。「幻想小説というべきか、ドラッグ小説というべきか」という記述をみるとスプロール・フィクションを取り違えていないかという疑問がわいてくるが、結果としての過去の掲載作はそのようなものが多いため、この意見も否定しがたい。作品評での「ぐわっ、肺腑を抉る」の繰り返しなど、全般に「自分にとっての印象」が多く、作品評価よりは、評者のひととなり、あるいは評者の現在の状況の方に目が行く講評となっている。
ブロックマイヤーからヴァンダーミアまでの3作に0がならぶなど、やや面白みには欠ける点数配置。採点理由も、個人の状況が強く出ており、突っ込んでもなあというところはある。ふだんの本人の文章込みでないと楽しむのは難しい。結果としての評価の妥当性はともかく、講評としての面白さは評価し難い。とはいえ、毎号やってるとこうなるというのは良くわかります(←私情)。
姫川みかげ
冒頭は、こちらもスプロール・フィクション特集に対して否定的な意見。「意義は認める」と譲歩を示しつつ、頻度の多さに文句をつけるというバランスの良い否定となっている。個々の作品評価およびその講評との一貫性も高く、きれいにまとまっている。「(笑)」が逃げたようにも見える最後の一文が、主張性を弱めているのが惜しい。
具体的な作品評価は、全作品-1〜+1と振幅の少ないもの。採点自体の面白みは無いが、講評はソーンダース、ヴァンダーミアの評のように、特集をどう読んだかというスタンス、そのスタンスから作品をどう捉えたかという結果が明確で読みでがある。採点時に、号単位でのメリハリと、通算での評価の整合性(ある号の中で面白い方の作品と、別の号の中でつまらない方の作品のどちらが面白いか)のどちらを優先するかは各自のポリシーの問題であり、結果、点数分布がつまらなくなることは多いにありうるが、そこを丁寧な講評でカバーしているところ、毎月の投下エネルギーを思うと頭が下がる。
向井淳
特集に対する評価は一言で、あとは作品評のみ。考課表のフォーマットからすれば妥当なスタイルなのだが、特集主体の号であるため、大事なところに言及してないように見えてしまう。総体としての考課の価値をあげるためにも、もう少し特集に対する立場を見せて欲しいところだ。
作品ごとの講評で気になるのは、あらすじが書かれたり書かれなかったりする点。点数が高いものにあらすじがあるというわけでもなく、法則性が見出せない。最も丁寧なあらすじがあるソーンダースの講評を読んでも、になんらかの思い入れがあるように見受けられないし。詳細度の濃淡を付けるのはいいが、なぜその濃淡になるのかという点に工夫が欲しい。点数は、ミエヴィルが+2、あとが-1から+1と、おとなしめの採点。この号の作品に対する評価としては妥当なところだろう。講評の具体的な内容としては、特集作品よりも国内作品の方にみるべきところがあった。
林哲矢
特集全体に対する言葉がなってない。「コラムも含めて全体を読めば少しはスプロールフィクションとぶち上げる意図が見えてくる」と書いておきながら、「なにが見えてきた」を書かないのは卑怯という他あるまい。また、理と情に分けて、二重の立ち位置を確保しようとする姿勢も美しいものとはいえない。わかってもないことをわかったふりをして逃げる記述をするくらいなら、なにを思ったのか率直に書くか、一切書かないようにするべきた。猛省を促したい。
作品ごとの講評にも問題あり。講評に点数が記述してないというのは、読者のことを考えていないとしか思えない。たしかに、考課表からリンクを辿る場合、リンク元に点数が記されているのだが、読者の便を考えれば講評の方にも点数を付記するのが当然というものだろう。採点は起伏の無い面白みの無いもの。ミエヴィルへの低評価はともかく、それを講評で「技量はわかるけど、読む側の調子が悪くて」などと言い訳している様はかなりみっともない。

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