飲酒運転の厳罰化
飲酒運転の罰則、更に厳しくすることが検討されているそうだ。
試案が出ていたが、酒酔い運転は”5年以下の懲役または100万円以下の罰金”だそうだ。現在は”3年以下の懲役または50万円以下の罰金”だから、罰金は倍になる。更に、運転者が酒を飲んでいることを承知で乗ったような場合は”3年以下の懲役または50万円以下の罰金”となる。更に、運転すると承知の上で酒を飲ませたり車を提供したりした場合も運転者と同等の懲役または罰金とのことである。
単に厳罰にするだけでなく、運転者の周囲にまで対象を広げており、飲酒運転をしにくいようにする目的もあるようだ。
飲酒運転、他の交通違反よりも危険性が非常に高い。そして、悲惨な事故も何件も起きている。その意味で、厳罰化を進め、更に飲酒運転をしにくい環境にすること、これは重要だと思う。その意味で、この法改正、歓迎したい。
長崎にて
凧のイベントで長崎に行った。長崎の凧は”ハタ”と呼ばれる小型の凧で、喧嘩凧である。日本を代表する喧嘩凧の一つだと思う。喧嘩凧を操る私としては、長崎は非常に重要な場所である。が・・・なかなかいけない場所であった。凧のイベント、これを機会に行って見ることにした。
さて、長崎。ここは広島と共に、被爆地でもある。凧が目当てではあっても、やはり平和公園などには行かなくてはならない。
長崎には夜行列車でついた。朝の9時。活動を始めるには非常に良い時間である。真っ先に原爆関連の施設へ、といいたい所であるが、ほかに行きたい所がいろいろあるので、科学館などを見た後にまず平和公園に行った。ここにある平和祈念像、東京で原型を見ているのだが、この像はやはりここで見てこそ意味があるものだと思う。この周辺にある原爆資料館、そして爆心地。やはり心に感じるものがあった。しかし、国立原爆死没者追悼平和祈念館。ここはとても厳粛な気持ちにさせられる場所であった。追悼施設であるが、国立なので特定の宗教を感じるものではないが、厳粛な思いにさせられる。爆心地に向かう方向に光の柱が立ち、その奥に原爆死没者の名簿が収められている。自然に亡くなられた方への追悼の気持ちが心の奥からあふれてくる。非常に良い施設だと感じた。
少し前に某国での核実験があったばかり。町の中にあった、”長崎を最後の被爆地に”の文字。原爆関連の展示施設を見ると、本当にその通り、と思う。現在の長崎の町からは被災を感じるものはない。しかし、原爆の被爆地を訪ねること。やはり、大きな意味があると感じた。”長崎を最後の被爆地に”これは以前から知っていた言葉である。しかし、今の時期に長崎で感じたこと。それは、この文字の重みであったのかもしれない。
事故の報道で 2005/4/26
これを書いている時点での死者76人、鉄道事故としては非常に大きな事故が起きた。死者は既に信楽鉄道での事故の数を上回っている。信楽鉄道での事故も信じられないような事故であったが、今回もまた信じられないような事故である。
事故原因、これは調査はこれからだろう。速度超過があったことはまず間違いないだろう。しかし、計算上の脱線速度を上回ることは、電車の性能上、難しいと言われている。また、今の時点でもそこまで早くはなかったようだ。とすれば、何らかのほかの要因が重なっての脱線と、とも考えられる。JRからは置石の可能性も示されている。ありえないような事故だけに、その調査が重要になるだろう。
さて、今朝のニュースを見ていて、非常に気になったのはマスコミの対応である。
ひとつは病院前での救急車でのこと。救急車の後ろ、怪我人を運び出そうとしているところにカメラマンが寄ってきているのが写されていた。怪我人を運び出すのは救急車の後ろから。そこで撮影をしていれば邪魔になるのは、ちょっと考えればすぐにわかることである。実際、病院関係者が"下がってください”とか、”邪魔です”と行っているのが聞こえる。
病院前は、災害現場ではない。こんな映像を放送してもたいした意味はない。無駄である上に、病院関係者に迷惑をかけている。
そしてもうひとつ、医師からの、ある患者に関しての状況の発表・・・。
これは必要なのだろうか? 大事故だけに怪我人は多い。少しでも治療に時間を割いてほしいし、一段落しているのなら、病院関係者を短時間でも休ませるべきだと思う。この取材もまた、医師に負担をかけるだけでまったく意味はない。ある怪我人の状況を詳しく知りたいと思うのは、その関係者だけである。個々の怪我人の病状を、テレビで知らせる必要があるとは思えない。
報道、これはとても重要なことである。だけど、不要な報道はどうかと思うし、まして支障が出るなんてことはしてほしくない。冷静な報道を期待したい
炭鉱跡の町 2005/3/17
私は、鉱山跡が好きである。
好き、といっても廃坑跡や施設の痕跡を回るほどではない。せいぜいその地に残る資料館などを訪れる程度である。
鉱山跡に作られた資料館の中には、残された坑道の一部に入ることが出来るところもある。場所によっては観光施設的であったりするが、それでも見るところは少なくなく、期待を裏切らないものが多い。
鉱山、これは以前は労働集約型であったため、働く人は鉱山関係者だけで一つの町が成り立ってしまうほどの数になる。商店、病院、学校・・・。鉱山の付近だけで十分生活できてしまうようなところも少なくなかった。しかし、日本の鉱山は外国と比べて小規模であったり、掘りにくかったりして、競争力を失ってしまう。現在、日本に鉱山はほとんど残っていない。数多くの鉱山が閉山されてしまった。閉山ともなれば町が一つ消えてしまうわけで、その周辺の経済などへの影響は相当なものだろう。
働いていた人の再就職も容易ではないが、人はまだ移り住むことも出来る。残された町は・・・? 町自体が消えてしまいそうな感じになったりする。もちろん、人口が大きく減りながらも観光などへうまく転換している例もある。しかし、鉱山の最盛期に及ぶものではない。鉱山で資料館見学に訪れると、どうしても以前の繁栄を想い、寂しさを感じてしまう。
さて、先日、かって日本最大の炭鉱のあった市の資料館を訪れた。資料館自体は非常に良かった。資料館としての規模は、たとえば石炭関連の夕張やいわき市にあるものには及ばないが、ここには新しい採炭設備も展示されている。実際に採掘の機械が動くのは、見ていて面白いし、勉強にもなる。炭鉱は閉山してしまったが、採掘技術は海外で生かされていることもある。展示は、港や鉄道も含め、模型や映像も取り入れての展示。なかなか良かった。満足の行く展示だった。日の当たる展示だけではなく、陰の歴史、ここで行なわれた強制労働。残念な歴史に関する展示もある。これもまた、忘れてはならない歴史であり、大切な展示である。
しかし・・・帰りに見た屋外展示には驚いた。
屋外の展示品は炭鉱で使っていた鉄道車両などであるが、これが相当傷んでしまっていた。長い間屋外で風雨にさらされていたからだろう。鉄は錆び、木は朽ちている。貴重な展示品なのに、と残念に思ってしまった。でも、もっと驚いたのは、その周りにある売店や公園である。正確には、売店や公園跡、と言った方が良い。これは・・・かなりの規模である。
中に入れないから外からみての雰囲気であるが、ちょっとした遊園地の売店を上回っている。売店も飲食店も、それぞれ何軒もある。その隣にある駐車場。これもまた大きい。しかし、これらが全て閉鎖され、柵で塞がれ、そして雑草の陰になっている。雰囲気は・・・テーマパークの廃墟、といったところである。一部は比較的きれいだから、少し前までは営業していたのだろう。しかし、今は全て夢の跡である。
そういえば、資料館のトイレ。これも、この規模の資料館にしては違和感を感じるほど大きいものだった。学校などからの見学に備えてのものかと思ったのだが、必ずしもそれだけではないのかもしれない。周囲の施設と合わせ、相当の訪問者を期待したこともあるのだろう。しかし・・・残念ながら、それほどの訪問者にはならなかったのだろう。というより、期待があまりのも大きすぎたのではないだろうか?この種の資料館だけでは人は集まらない。なのにこの規模の施設・・・。規模から見た訪問者数と実数とでは2桁は違うだろう。炭鉱での繁栄から閉山にむかったとき、その栄華を少しでも、との思いだけが空回りしているのだろうか?
屋外展示の近くにある池には野鳥がいて、私のわずかな気配に警戒してかなり前から飛び上がっていった。土曜日の午前。見学者は少なかった。しかし、野鳥がいるのだから、普段でも人は少ないのだろう。今の資料館だけなら維持は可能だろう。その価値はある。そして、失われてはいけない歴史上の意味もある。ここだけは廃墟にしてはいけない。
この日、資料館前のバス停跡を見ながら駅に向かって歩き始めたのだが、途中は広大な空き地であった。工業用地として確保したものだったのだろうか?道路わきに一つある廃材処理の施設、これも壁に開いた大きな穴がそのままになってしまっている。もの寂しさを感じながら通りかかったとき、奥にある家の犬の鳴き声が聞こえた。その寂しげな鳴き声、町の泣き声のようにも聞こえてしまった。
新聞に地雷除去の機械のことが書かれていた。開発が終わり、テストを行っているようだ。
地雷・・・これは、一番厄介な兵器の一つだろう。敵味方、民間人、それらには一切関係なしに爆発する。たとえ戦争が終わったあとでも・・・。地雷の除去、これはとても厄介だそうだ。その作業について、以前本で読んだことがある。
地雷除去、これは、少なくとも本で読んだ時点では、全て手作業なのである。地雷が埋まっているかもしれない土地をゆっくりと少しずつ土をよけ、地雷を探してゆく。地雷が見つかったなら、慎重に地雷の周りの土をよけ、取り除く。根気と集中力のいる、危険な作業である。そして、膨大な労力と時間を必要とする作業である。
なぜ地雷除去、といった危険な作業を手作業で行なうか? 機械を使って行なうことは出来ないのだろうか? あるいは、効率化は出来ないのだろうか? それは、地雷の除去が100%でないと意味がないからである。もし、99.9%の地雷が簡単に除ける装置が出来たとしよう。それは、戦時中ならば非常に有効である。地雷による味方の損害を抑えることができる。しかし、平和なときにはそれは有効とは限らない。除去できなかった0.1%による数個の地雷、これが、たとえばその後に建設された学校の下に埋まっているとしたら・・・。考えただけでも恐ろしい。たとえ1個でも、地雷が残っているとすれば、その土地は使えないのである。
仮に、100m四方の土地に、1万個の地雷が埋まっているとしよう。おおよそ、1m四方に1つの割合である。この地雷、9999個を除いたとしても、あと1個が残っているとしたら・・・。地雷がある以上、この土地は使えない。安全ではないからである。そして、どこに埋まっているか分からない以上、100m四方の土地、全てが使えない。安全を確認するには・・・。100m四方全てに対してもう一度除去作業を行なって取り除くしかない。言い方を変えれば、それまでに行った9999個の除去作業は、最後の1個が終わらない限り、徒労に終わるかもしれないのである。
これを機械で行なうことは可能だろうか? 前述のように、99.9%あるいはもっと高い数字の機械。これは可能だろう。地中の探査を行なう機械は沢山ある。それを応用すればよい。地雷除去のことを聞き、機械化を申し出た企業は、日本の企業も含め、沢山あるそうだ。しかし、地雷除去は100%でなくてはならないのである。99.99%を100%に上げるには・・・。その本が書かれた時点、比較的最近のことなのだが、その時点では手作業しかない、とのことである。
今の例で、1万個中、9999個が機械で除けたとしても、残り1個を除くには・・・。機械が見落とす可能性があるとすれば、100m四方の土地を全て手作業で除去しなおさなくてはならない。
地雷が少ない分、安全性は高いだろう。しかし・・・。100m四方の土地を手作業で掘り返す膨大な作業には変わりはないのである。
手作業による除去作業。そこには、正直さと信頼が不可欠だと言う。
さて、身の回りに信頼度100%なんてあるだろうか? 今動いている機器も明日には故障するかもしれない。新たに商品を購入したとしても、新しい商品にも初期不良がある。買ったのに壊れていた、という経験のある方は少なくないだろう。つまり、信頼度は100%ではない。全ての商品を念入りに検査したとしよう。それでも輸送中の振動や落下での故障はありうる。100%はありえない。
しかし、地雷除去は100%を求められる。
100%の信頼性・・・。品質管理を業務とする私にとっては非常に重い数字である。
衆議院議員選挙も終わった・・・。皆さんの意中の候補、当選されただろうか?
選挙の結果についてはいろいろと言われているが、それとはちょっと違ったことを書いてみようと思う。
新聞に、小選挙区で次点となり比例区で当選した候補の言葉が載っていた。次の選挙で当選した(つまりトップとなった)候補への雪辱を・・・、とのことである。この意欲はいいのだが、どこか間違っていないだろうか? と感じてしまった。
選挙戦、などと言われる。候補や関係者、そして熱心な支持者にとってはまさしく戦いだろう。相当な苦労があってのことだと思う。だけど、戦う相手は? この候補、他の立候補者と戦うつもりでいる、ということだろうか?
私は、選挙はいかに有権者の信を集めるか、と言うことだと思う。結果として、対立候補とその信の多さを競うことになるが、あくまでも他の候補との直接の対戦ではない。あくまでも、有権者に対してのものである。だから、もし、選挙戦を反省するのであれば、主張が有権者の意識とずれていないか、公約が妥当か、などでなくてはならない。それが、対立候補を破ること、と短絡してしまっているとすれば、それは、どこかおかしい、と感じてしまう。
対立候補、それは決して戦う相手ではない。
相手を蹴落とす・・・。
それは確かに選挙で当選するには有効だろう。もしそれをやるなら、相手の弱点を突けばよい。主張とは直接関係ない、私事での行動の問題を突いてもよい。だが、それは戦術ではあっても戦略ではない。1回の選挙では通用しても永続的な信にはつながらないだろう。
選挙活動・・・。
これは別の選挙でのことであるが、片側1車線の主要道路で選挙カーがゆっくりと連呼しながら走り、朝の通勤時間に行列を作っていたことがあった。また、別の選挙では、繁華街の混雑する交差点付近で1車線を完全に塞いで演説していた候補もいる。どうも選挙に勝つことばかり考えてしまっているのではないか。そうなってくると、公約も妙にむなしく感じてしまう。
選挙戦・・・。次の選挙では、もっと有権者のことを考えた候補、政党は出てきてくれるだろうか?
基本的ルールを守る、ということ 2003/10/ 11
高速道路、ここは車しか走らないし、信号もない。そういう意味で非常に走りやすい道路である。
とはいえ、速度が大きいため、ちょっとひやりとすることもある。これは、車による速度差が大きいことも理由のひとつである。たとえば80km/h制限の場所。これを守らないで120km/hあたりで突っ走る車も結構いる。そうなると速度の差は40km/h。一般道路の速さとそう変わらないのである。だから、無茶な後続車はあっという間に近づいてきたりする。先日、これが理由でひやりとしたことがあった。
そのときの状況である。私の乗っていた車、80km/hの制限のところで追い越しを行い、走行車線に戻ろうとしたとき、後続車が左から追越を掛けてきたのである。タイミングとしては、追い越し車線から走行車線の戻ろうとした直前、かなりの速さで追いついてきた後続車が、私の乗っていた車より先に走行車線に移り、そのまま追い越そうとしたのである。後続車はかなり早く(完全にスピード違反)、追突しそうな勢いであった。助手席に乗っていた私は、そのことを運転者に伝え、運転者もまた危険に気がついて車線変更を止め、無事にやり過ごすことが出来た。
私の乗っていた車、追い越した車との車間を取ってから戻ろうとしていたのだが、それが待ちきれずに車線変更してしまった、あるいはそのまま追い越し車線を走行しようとしているものと誤解した、そのどちらかだろう。いずれにしても危険な、やってはいけない追越である。
私の乗っていた車が車線変更を開始しようとしたとき、つまり方向指示を出そうとしたときの、追い越した車との車間は50m程度はあっただろうか? 速度差もまあまああり、戻るのが遅い、とは感じなかった。追い越される車が危険を感じないようにするのに適度なタイミングだと思う。しかし、50mあれば割り込むことは可能なので後続車がそれを行ってしまったのだ。
私の乗っていた車の運転に問題はなかったか? ”ない”、と言ってよいだろう。追越から戻ろうとしたときのタイミングは適当だったと思う。追い越しのときの速度差も適度にあり、これも問題はないだろう。原因はといえば、後続車の過大な速度であり、減速しないで左から追い越しを掛けようとしたことである。
車の追い越し、左側通行では右側からが大原則である。それを無視することは事故につながる。もちろん、追い越される側に問題のあることもある。最近増えてきたのだが、追い越しでもないのに追い越し車線を走る車、追い越しの速度が遅く並走してしまっている車、などである。これでは後続車が追いついたとき、追越ができなくなってしまう。そういうこともあって、追いついたときに無意識に左から抜こうとしてしまったのかもしれない。左から抜こうとするのは、ルール違反の車が増えた結果かもしれない。
実際、私も延々と追い越し車線を走り続ける車に追いついて、どうしょうか?、と悩むことがある。そういうとき、どうするのが正しいのだろうか?
・追い越し車線に移り、パッシングなり警笛を鳴らすなりして、追い越し車線からどかす。
ある意味、これは正しいのかもしれない。走行車線から抜く、という違反行為をしなくてもすむ。また、運転上の危険もない。(追い越された側が逆上する危険性はあるが・・・)
・抜かずに走行車線をある程度の距離をとって同じ速さで走り、走行車線に戻ってくれるのを待つ。
これはある意味、模範的なのだろう。でも・・・そこまで忍耐強い人は少ないだろうし、更に追いついてきた後続車が追い越しを行うかもしれない、そういう意味では、道路全体としての危険は変わらない。それに・・・走行車線を走ることに問題意識のない人はずーっと戻らないだろう。悩むところである。
ここでちょっと話題を変えてみよう。
ヨーロッパの某国では、助手席側にドアミラーがないそうだ。オプションでは付けられるのだが、ドアに溶接する必要があるので結構高くなるのだそうだ。日本からその国に滞在する人の多くが助手席側のドアミラーがないことに不安を感じ、オプションを注文しようとする。だが、ディーラーの人は笑って答えるそうだ。
”この国では助手席側から追越を掛ける人なんていませんよ”と。
実際、しばらく走ってみるとそれを実感するそうだ。もちろん、意味もなく中央より(日本では右側)の車線をゆっくり走る車がいないことが大原則でもある。そうでないと、助手席側(日本では左側)から追越を掛ける必要が出てしまう。
もし、意味もなく中央よりを走る車がいたら・・・警笛などで非常に厳しく責められ、ときには追い越された後に直前に出てブレーキを掛けられるなど、ルールを守らない車には非常に厳しく、また容赦ないそうだ。
こういう基本的なルールが守られていた場合、非常に運転しやすい。左側から追い抜く車がいないとすれば、車線変更で安全確認が非常に楽になる。最初に書いた出来事のようなとき、早い後続車が来ればすばやく左に移ればよいのである。追い越された車がいたとしても、そのままスピードを上げてくることはないから危険はない。
車線変更、これは事故の危険性の高い行為の一つである。
そこで気を使うことが減るなら、とても楽になると思うし、事故もまた減ると思う。
ルールを守る、そして守らない人には容赦しない。
大人の社会だと思う。より理想的だと思う。でも、日本では当分、無理だろうな・・・。
目的外利用? 2003/ 8/11
昨日の夕刻、北陸自動車道を利用した。
石川県松任市の徳光パーキングエリア、ここが満車で閉鎖されていた。ここにはハイウエイオアシスもあり、利用する人も少なくない。だけど、満車というのは通常はありえない。通るときに見てみると上り下り両方向が閉鎖になっていてた。昨夜はこの近くで花火大会があり、それを見に来ている人が停めているような感じである。
花火・・・。夏の風物詩の代表でもあり、見物客が非常に多い。だけど、いくら近いとはいえ、高速道路のパーキングを占領してしまうとは思っても見なかった。
パーキングエリアで車を停めての花火見学。これ自体は間違っている、とはいえないにしても、高速利用者からすれば迷惑であり、危険でもある。危険、というのは疲労その他で運転を休もうと思っても休めないわけであり、また急にトイレに行きたくなったとしても利用できないことになる。閉鎖となれば無理をしても次のパーキング、下り方向の場合は約20Km、約10分少々、運転の継続を強いられることになるからである。
そういう意味では、車を長時間停めての花火見学。これはパーキングの利用目的からすれば外れた行為だといえる。間違っている、とはいえないにしても問題ある行為だと思う。
似たような状況として、小松基地の航空祭、これは併用している小松空港からもよく見えるのだが、このときは小松空港の駐車場はこの日は空港の利用者、それも航空機の搭乗者などに限定される、と聞いている。これは当然のことだろう。お祭りの見学者のために予定していた便に乗れなかったりすると大迷惑である。
本来の目的から外れた利用、これは新しい需要の開拓にもなるわけで、否定するわけではない。だけど、本来の利用者に迷惑がかかりまた危険を強いることになるとすれば、それは問題だろう。
本来の利用者のことを考えない目的外利用・・・。これも自分勝手な行動の一つといえると思う。
性能の向上と新しい事故 2003/ 2/1
ここ数日、金沢は雪と低温が続き、道路は凍結した状態になっていた。今日は凍結はしていないものの、路面には溶けかけた雪が残り、非常に滑りやすい状態になっている。しかし、相変わらす無茶な車が少なくない。特に朝の通勤時間がそうだ。雪のためにブレーキの効きがかなり悪い場所もあるのに、夏並みに車間を詰めてくる車が少なくない。そして、スピードを上げている車も少なくない。雪があるところで何かあればとても安全に止まれるとは思えない運転である。このような運転、朝のことだから遅刻ぎりぎりで急いでいるのかもしれない、とも思うのだが、どうもそれだけではないようにも思える。その原因・・・車の性能が向上したことがあるのではないだろうか。
実は、似たようなことが旅客機で起きている。飛行機の事故の原因、以前は飛行機の設計ミスや故障が少なくなかった。現在、これらが原因による事故はかなり少なくなってきている。おかげで事故そのものは大きく減ってきているのだが、その一方で新しい事故原因も増えてきている。その一つには、自動化が進んだり機体の信頼性が上がったりしたため、パイロットが飛行機任せにしすぎることによるものがあるという。
たとえばオートパイロット。設定したとおりに、外部の影響があってもちゃんと補正して設定した進路や高度を維持してくれる。だけどその一方で、何らかの異常が起きたときでもついオートパイロットに任せたままにしてしまい、限界を超えたとたん、オートパイロットが外れ、急な変化にパイロットが対応しきれない、といったこともあるという。(本来はすぐにオートパイロットを解除しなくてはならない) また、期待の信頼性が向上したため、なにかあっても軽く見すぎてしまう、ということあるらしい。
自動車の場合、オートパイロットというものはない。だけど、信頼性の向上などにより、自動車を信じすぎている傾向があるのではないかと思う。
私が免許を取って間もない頃。といってもそんなに前でもないが、自動車の安定性は今ほどよくなかった。更に前は、故障も結構あった。だから、高速道路で100km/hを少し越えた速さ、それだけでかなりの疲労を感じたし、同時に故障のことも考えながら車の様子も注意して走っていた。
今なら平気である。高速での安定性は格段に良くなっている。この高速走行で急ブレーキを掛けても車は安定して止まれる。ハンドル操作も不安を感じることはない。そして、故障の心配も少ないから、緊張感がかなり薄れてしまっていると思う。では、雪道ではどうだろう。タイヤの性能の向上や除雪、融雪が進み、これまた以前ほど危険を感じることは減ってきた。路面が凍っても融雪剤の散布が行われたりする。車の性能、特に四輪駆動車が増え、雪道でも走りやすくなってきている。だが、滑りやすいことには変わりない。
私の場合、雪道に弱い車を使っているからだろうか。タイヤの状況には敏感なほうである。タイヤのわずかな滑り、これを感じることができる。実は、これを感じない人は結構いる。私が助手席にいて、”あ、
(タイヤが)滑ってる”と言っても肝心の運転者が”そう?”で軽く流されたりする。しかし、実は私が感じている以上にタイヤが滑っていることに最近気が付いた。私の車、滑りやすい道でアクセルを踏みすぎたとき、空転を抑える装置が付いている。アクセルを踏んでいなくても、たとえば雪でタイヤの回転数にバラツキが出ればそれを空転と感じて補正してくれる。このとき、警告のランプが付くのだが、これが運転中に結構付くのである。だが、見かけ上はとても安定していて、危険をまったく感じない。しかし、タイヤは空転により安定性は極端に落ちているはずだ。だが、気が付いていない・・・。
そして四輪駆動車。四輪駆動車は、タイヤを4つとも回すため、雪道など滑りやすいところでも加速しやすい。ところが、ブレーキ性能はたとえば普通の前輪駆動車などと同等である。ブレーキはどちらも同じようにタイヤ4つについているのだから。むしろ、四輪駆動のために重くなっているため、これが不利になることさえある。
でも、加速は出来る・・・。だから、つい止まれると思い込んでついスピードが出てしまう。そういうこともあるそうだ。二輪駆動では、加速時にタイヤのすべりを感じてスピードを抑えるはずのところが、四輪駆動ではそれを感じないためにスピードが出てしまう・・・。これまた一部の性能向上のために危険を感じなくなっているだけのことである。
なんのことはない、飛行機同様、車の性能が良くなって危険の予兆に鈍くなっているだけのことではないか。本来は危険な雪道などでスピードを出したり車間を詰めたりしてしまう。これも理由の一つではないだろうか。
危険に鈍くなって良いことはひとつもない。これは、車の運転だけでは決してないと思う。火や水の危険、あるいは電気やガス。安全装置の普及もあり、危険は減っている。しかし、決して皆無ではない。本当に安全になっているのだろうか? 見かけの便利さにただ鈍くなっているだけではないだろうか? もう一度考えてみるべきかもしれない
理性的判断・・・ 2001/ 9/8
先日は防災の日。そのちょっと後の会社でも避難訓練があった。新宿での火災もあり、いつもより緊迫感が高かったような気もする。
さて、防災の日、ラジオを聴いていたのだが、そのなかで神戸での震災のときの録音が流れていた。被災者へのインタビューの中なのだが、ある男性に家族の様子を聞いたところ、”多分、息子が今頃死んでいるだろう”ということだった。
地震で家が崩れ、みんな脱出できたのだが、ただ一人息子さんが埋もれ、助け出せなかった。生きているのは間違いないのだが、火災が近づいてきてやむなく避難した。息子も火災が近いことを知り、”逃げてくれ”といっていた。見捨ててきたようなものだ・・・。とのことだった。聞いていて涙が出てきた。インタビューでは、淡々と他人事のように話しておられたが、これは多分、息子さんの死を確かめていないから、生きている可能性がまだあるから、だろう。きっと助かっている、との希望もあってのことだろう。
身内が瓦礫の山の中にまだいる。が、どうにも助けられない。周りには未だ救出の手が伸びていない。そういう状況で火災が近づいてきたら・・・。これは逃げるより他にないだろう。一緒にいれば、他の家族も焼け死んでしまう。私がそとにいたら・・・。やはり同じ判断をするしかない。そして、私が埋もれていたら。やはり、”逃げろ”というだろう。理性で考えれば、これ以上の判断はない。が、とても悲しい判断だ。家族を見捨てた・・・。理性では正しい判断だが、この思いは一生残るかもしれない。
私たちにできること・・・。やはり、こういう究極の判断をしなくてもすむようにすることだろう。防災、である。
防災。まずできることは何だろう? 一番手軽で効果があるのは、家具の転倒防止だそうだ。阪神の震災でも、倒壊した家屋に押しつぶされるのに次いで家具の転倒による死傷が多かったそうだ。これが防げれば生き延びる可能性は高くなる。ホームセンターには転倒防止の器具が沢山売っている。また、寝室に家具を置かないことも安全のひとつだろう。家具のない部屋を一つ作り、そこに逃げ込めるようにする。いろんな対策はあるだろう。
まずは揺れから生き延びる。避難を考える前にまず行わなくてはならないことのひとつだと思う。
異文化への配慮 2001/5/27
これは、かなり前の新聞の投書にあったことである。
まずは、その当初の内容から書き始めよう。投書したのは、若い男性である。
ある女性とつきあい始め、最初に食事をしたときのこと、食べ終わった後に彼女が食事後に割り箸を折った。私からすれば、それは不思議な行為であり、周りの人も変な顔をしてみていたが、彼女は平気でにこにこしていた。割り箸を折る、というその行為、なんだか、とっても野蛮な感じがし、それ以降は疎遠になってしまった・・・。
というものである。その後は? というと、この投書への反論的なことはなにも載らなかった。
私は、実はこの習慣を知っている。 それは、人が使ったものには精霊が宿る、という考えから来ている。人が使い、それをそのままにしておくと精霊が閉じこめられたままになる 。これを、箸を折ることで逃がしてやる、というものである。割り箸に限らず、たとえば山の中で木の枝を箸の代わりにしたときも必ず行う行為である。多分、その女性にとっては、それはごく自然な習慣だったに違いない。
私は、その男性、とってもすばらしい女性に出会いながら逃してしまったのだな・・・と、つい思ってしまった。おそらく、古くからの風習を大切にし、精霊の考え方も知っての上だろう。多分、とても心優しい女性なのだと思う。
この男性の正しい行動は・・・。
それは、なぜ箸を折るのか、尋ねることだったろう。そうすれば、この風習のこと、その言われ、などを聞くことができただろう。その考えから言えば、使った割り箸をそのままにする、つまり精霊を閉じこめたままにする
などということはとんでもない行為であり、それこそ野蛮な行為、となってしまう。そして、それがきっかけになっていろいろな風習のことなども聞くとが出来ただろう。それは、とっても有意義な内容だったにちがいない。
でも、私はこの男性の行動を攻められないな、とも思う。異文化を知り、尊重する。とても大切なことであり、お互いの理解を深め、知識を増やす上でとても大切なことである。これは、言われれば、だれもが理解し、そう行動したいと考えるだろう。でも・・・。それは容易ではない。人はつい、まず自分の物差しで考えてしまいがちである。そして、その結果として、相手の行動を理解しないで、”野蛮な行為”などと考えてしまったりする。日本の中でさえ、こうなのだ。世界にはもっと違った風習がある。 そういう中で、より望ましい行為を取る自信・・・。それは、私にも全くない。
事故への連鎖 2001/3/6
ハワイ沖でのえひめ丸と潜水艦の衝突事故、事故原因の究明がある程度進んできている。事故の原因が、見えてきたような感じはある。たとえば、・・・
・浮上前の潜望鏡確認が不十分だった。
・ソナーの探知を正しく報告しなかった。
・安全確認が不十分と感じていながら艦長に進言しなかった。
・高速で、ソナーが十分機能しない状態だった。
これ以外にも事故につながったのではないか、と考えられることがいくつか指摘されている。
これらの原因であるが、いずれもそれ一つ取ってみれば致命的ではない、ということだ。たとえば潜望鏡確認が不十分であったとしても、ソナーがしっかりとらえていれば船の存在はわかったはずだ。逆も同じである。つまり、これらは全てが揃って初めて事故になる、ということである。これはまさに事故への連鎖である。鎖なのだから、輪がどれが切れれば鎖としての用はなさなくなる。つまり、
今回もどれかがおきなければ事故にはならなかった、ということになる。
これは今回の事故に限ったことではない。ミスにミスが重なった、あるいは不慮の自体に何かが重なった、時にはなぜこんな偶然が重なるのか、というようなことが起きて、大事故につながっている。だから、要因のどれかが断ち切れれば事故は起きなかった、といっても、事故の予防は必ずしも簡単ではない。なぜなら、いずれもが必ずしも致命的ではないからだ。些細なミス、と思えば予防は難しい。
更にもう一つ、偶然、という要素がある。今回、潜水艦が浮上する場所に偶然、えひめ丸がいた。もし、横に20mとかずれていたなら、事故は起きなかったかもしれない。あるいは、軽い事故で済んだかもしれない。もちろん、逆の方向にずれていたらより多くの死者が出たかもしれない。
これは、我々も心しなくてはならないことだと思う。つまり、大事故につながるようなミスの連鎖をやっていたとしても、偶然、事故につながっていないだけかもしれないのだ。仮に、
ある人が時々歩道に突っ込むような危険な運転をしても、そこに歩行者がいなければ人身事故にはならない。これは極端な例だとしても、危険な運転が必ず事故になるとは限らない、ということは想像できると思う。そして、事故が起きなかったから危険ではない、と考えたとしたら、これは重大な間違いである。事故につながる行為である以上、危険な行為を続けていれば、必ず事故は起きるだろう。
だから、”私は今まで事故を起こしていないから大丈夫”あるいは、”何回かやったけど事故にはなっていない”と考えること如何に危険か、理解していただけるのでは、と思う。
事故から学ぶこと、それは如何に事故への連鎖を断ち切るか、である。起きる可能性のあることは必ず起こる。アメリカでは、たとえば飛行機事故では、故意でもない限り、事故責任は問われないという。これは、事故の全容を明らかにし、事故を予防するための措置だそうだ。仮にパイロットにミスがあったとしても、ミスを起こさせるような原因があったなら、きっと別のパイロットも事故を起こすだろう。そのためにも、事故原因を明らかにし、予防する必要がある。私も車の運転をしていてひやっとする事はある。タイミングが悪ければ事故になっているはずである。でも、放っておけば同じ原因での事故につながる。この段階で原因をつかみ、予防することが出来れば確実に事故は減らせる。
どんなに些細な原因、滅多におきないことであっても、無視してはいけないことなのだと思う。
ロシアの宇宙技術 2001/3/24
昨日、ロシアの宇宙ステーション、ミールが南太平洋に落下処分された。その際、一部の報道では日本にも危険があるのでは?などと伝えられ、必要以上に危機感をあおっているように思えた。特にその際、”ロシアの技術力が信頼できない”的な報道もされていた。これに関しては、個人的には不快にさえ思えた。
ロシアの技術力、必ずしも高いわけではない。これは事実である。しかし、宇宙技術に関してはどうだろうか? ミールは15年近く宇宙を飛び、その間、日本人を含む数多くの人が滞在している。中には非常に長い期間宇宙に滞在した人もいる。こういう経験は、もう一つの宇宙大国、アメリカにも存在しないのだ。これは高く評価すべきではないか。まして、日本には有人宇宙飛行の
実績はないのだ。打ち上げているのは無人の人工衛星などだけ。それも最近は失敗続き。そんな国の、しかもただの放送会社のアナウンサーがいう言葉ではないと私は考える。
ここで、有人宇宙飛行の技術をちょっと考えてみたい。
有人宇宙飛行に必要なのはどんな技術なのだろうか? 最先端技術だろうか? それは否である。宇宙は遠い。もし、事故が起きても簡単に救援に行けない。また、脱出もできない。救援そのものが危険であったりする。だから、まず事故が起きないように、そして事故が起きても自力で解決できるように
・・・。そのように宇宙船は作られている。だから、宇宙船に必要なのは最先端の技術ではない。必要なのは、いわゆる、”枯れた”技術なのだ。最先端のものは高性能である。だが、一般に故障も多い。また、使い込んで初めてわかるような問題点も出きってはいない。だから、ある程度使い込まれて、実績のある技術が宇宙船に使われるのだ。信頼性の技術、といってもよい。最先端を追い求めるのとは方向性が違う。しかし、決して簡単なことではない。
そしてもう一つ。宇宙飛行士の訓練である。宇宙飛行士は、いざというときに自力で生きて帰ることが出来なくてはならない。秒速8Kmで軌道上飛ぶ宇宙船を、手動で正確にコントロールし、正確に帰還する技術を持っている。そんな飛行士を、それも、宇宙とは全く環境の違う地上で育てるのである。これには非常に高い教育システムを作り上げる必要がある。
ロシアは、それらの問題を乗り越えて継続して有人宇宙飛行を行った。これは決して過小評価をしてはならない技術だ。それを見逃しているのではないだろうか?
ミールは正確に制御され、大気圏に再突入した。日本の宇宙技術が必ずしも高くないことは、最近の事故で分かっているはずではないか? それを考えたら、日本の衛星の大気圏再突入の方がよっぽど危ないのでは?
なんて思ってしまう。ロシアの宇宙技術、決して低く評価してはならないと私は考える。
人が鬼になるとき 2001/2/12
インターネットで、ある人が日記として書いている記事を読んだ。 裁判官の話である。
これを読み、いろいろと考えさせられた。裁判官は、業務として犯罪を犯した人を裁くこともある。裁判の場で、その罪を判断し、刑を決める。それは、法に照らし合わせ、ときには判例を参考にしたりして行うのだろう。しかし、その罪によって何かを失った人がいる。それは、かけがえのない人を失うことかもしれない。そして、裁かれる側にも事情はあり、家族もいる・・・。それぞれに立場があり、人間としては同情したくなるときもあるかも知れない。だが、裁判には私情は一切挟んではいけない。あくまでも公平に、そして法に基づいて決定されなければならない。その結果は、罪を犯した人の命を奪う判決になることさえある。
人の命を奪う決定をする。これは、非常に苦しい決断だろう。しかし、裁判官は法の名の下にその決定しなければならないのだ。更に苦しいこと、と言えばその刑を執行する人もいるのだ。
理屈から言えば、こうなる。
法を定める。
法に基づいて決定する。
決定を執行する。
それぞれは完全に独立している。別の人が行っているのだ。法を定めるときには特定の個人は見えないし、見てはいけない。その他人の定めた法を、特定の個人に対して適用の決定をする。そして、その他人の決定に従って執行する。執行する人が判断をしたわけではない。
それぞれの人は、あくまでもその人自身ではなく、法の定めに従って動く。その意味では、私情はない。だがしかし、全ては人間が行うのである。コンピュータがプログラムで行うのではないのだ。小心者の私としては、とても苦しい仕事であり、とても勤まりそうもない。
だが、この通りに行わなければ法は法としての意味を失ってしまう。その結果としてより多数の人が不幸になる。法とは、ときには鬼になって適用しなければならないことなのだ。
だが、考えればこれは法に関することだけのことではない。日常の社会生活の中でも行われていることである。たとえば会社の中で上司が部下に対して何かを決定する。業務の割り振り、査定、転勤、そして・・・解雇もありうる。あるいは仕入先や取引先を決定する。あるいは、停止を決定する。これらは、場合によっては人の一生を左右するかもしれないことなのだ。だけど、もちろん決定は必要なこと。そして、そこに私情は挟んではならない。合理的に決定し、ときには心を鬼にして実行しなければならない。
2月の節分には豆まきを行う。豆をまくとき、”鬼は外”という。だが、人は時には鬼にならねばならない。その覚悟がなければならない、ということ。これを改めて認識させられた。
そしてもう一つ。人は時には鬼にならねばならない。だが、決して自分のために鬼になってはならないのだ。あくまでも、他人のために鬼になる。さもないと、本当の鬼になってしまう
戒律と法律 2001/1/7
今朝の新聞を見ると、日本の食品メーカが、調味料を製造するのに現地の宗教では禁じられている食材を使ったため、技術担当役員などが逮捕されたという。
日本では”戒律”というとお坊さんなどごく一部の人たちのみ、のことのように思ってしまうが、他の宗教では決してそういうことはない。普通の信者にも厳しい戒律があり、厳格に守っている人たちは決して少なくはない。その、戒律の中の一つが食べ物に関するものである。
今回の場合、禁じられた食材は、材料としてでは無く、”触媒”として使用した、という。触媒、というのは、化学反応などを促進するために使用するもので、これ自体は食品になるわけではない。でもこれは、同社の中でも言われているように、”認識が甘かった”というのが適当だと思う。信者以外の人がふれてはいけない、という戒律がある場合だってあるのだから。
これは別の宗教での話だが、蟹を食べてはいけない、という戒律があるという。だけど、せめて蟹蒲鉾を食べたい、という要望があって、信者向けのものを製造したという。主原料自体は蒲鉾だから問題はないものの、味付けに蟹のエキスが入っているから、普通のものはそのままではだめ。このため、エキスの代わりに化学合成のものを使ったという。また、製造では、他のものと機械は同一でもよいが、完全にスチーム洗浄し、48時間以上経過した後、製造する、ということで承認を得たそうだ。
私たちから言えば、わざわざ化学合成で味付けした味の落ちるものを、という気もしないではないが、これが戒律、というものだろう。(その前に、模造、とはいえ蟹を食べることは良いのかな? という気がするのだが・・・)
さて、私がもうひとつ驚いたのは、”逮捕”ということだ。これは日本では考えられない。信仰の自由があり、これを保証している以上、特定の宗教に反する行為だから逮捕、というのはやはり考えにくい。だからといって、もちろん、許されるべきことではない。だけど、”不買運動”などで社会的に制裁を受ける程度が適当なのかな、などとつい考えてしまう。
そういえば、私の使っている手帳に載っている各国の休日。これに宗教的な意味合いの強い日が結構載っているのを思い出した。日本では、”建国記念日”が議論を呼んでいるが、これはどちらかというと神話的なものであり、宗教とはちょっと違うような気もする。そういう意味では、日本は政教分離が進んでいる国の代表、なのかもしれない。
しかし、認識不足があったとしても、これはやはりまずい出来事だったと思う。宗教も含め、他国の文化を尊重すること。これがこれからのインターネット時代ではより一層求められることなのだから。
決断 2001/1/26(1/27、一部修正/加筆)
今日の帰宅時、ラジオのニュースでホームからの転落事故を伝えていた。一人が転落し、それを助けようとした2人を含め、3人が死亡・・・。聞いていてとても悲しい事故だ。助けようとしたのは落ちた人の知人だったのだろうか。比較的年輩の人のようだから、助けられると思ったのに間に合わなかったのだろうか・・・。勇気ある尊い行動だったのに残念なことだ。
論理で考えるなら簡単だ。電車との距離とスピードを考え、またホームと線路の構造から最前の救助方法を考え、所要時間を見積もって、助けられそうなら線路に降りる。だめなら見捨てる。でも、とっさにそこまで判断できるものだろうか。判断に時間を要していては助けられるものも助けられなくなる。また、無理とわかっても落ちた知人を簡単に見捨てられるものだろうか・・・。
いずれにしても一瞬の決断が必要である。それも命を懸けた決断を、である。このニュースで思い出したのが、鉄道の鉄橋で中学生がはねられた事故である。これは約80mの鉄道用の鉄橋の中央付近に中学生数人が入り込み、通りがかった特急列車に
はねられた。特急列車の運転手が橋の中央にいる生徒を発見し、警笛を鳴らすと同時に急ブレーキをかけた。気づいた生徒はすぐに走り出した。しかし、橋の中央まで数秒。逃げ切れずに次々にはねられた。橋は線路の両側に鉄板があり、高さが1.5m位。ところどころに梯子があった。この高さだから登るのは困難。梯子まで行って登り切るまでに列車は来てしまう。また、40mを数秒で走りきるのはオリンピック選手でも困難・・・。
しかし、逃げる手段はあったという。それは線路の隙間から川に飛び降りること。これならなんとか間に合ったかもしれない。だが、これを瞬間的に決断し、実行する。
一刻でも迷いがあったらもう間に合わない。極限の状況で冷静に判断する、それが簡単にできるとは到底思えない。なにしろ、自分の命がかかっているのだから。多分、焦り、冷静な判断が出来ず、とっさに走り出してしまうだろう。あるいは、身がすくんでしまうかもしれない。その結果はいうまでもない。とっさに適切な判断を下せるようになるにはどうすればいいのだろう、などとこの事故のとき考えたのだが、結論なんて出ない。強いて言えば、危険な状態の入らないこと、となるのだろう。あるいは、常にここで○○が起きたら・・・なんて考えることだろうか。やはり始めから危険な状態を回避するのが最前なのだろう。
最後に、もし目の前で人がホームに落ちたら・・・。やはり助けようとするだろう。助けられないにしても、努力もせずに見捨てるなんて出来そうもない。論理的に判断し、行動する・・・。どうもそこまで論理に徹することは私にはできなさそうだ。
追記: 1/27、昼ごろのニュースでは、助けようとした人は落ちた人と直接関係ない人らしい、とのこと。
救助を試みたお二人の勇気ある行動に深く敬意を表し、ご冥福をお祈りいたします。
フィルタ 2001/1/25
フィルタというのは、たとえば写真を写す際にレンズの前に付けたりするものである。これを使うことにより、余分な光を遮り、効果的な写真にすることができる。表現したい物を際だたせ、逆に余分な物を目立たなくする、ということができる。しかし、一方では、”色眼鏡”などという表現もある。色眼鏡、すなわちサングラスも一種のフィルタであるが、確かにフィルタを通った光は偏っているわけで、これも面白い表現だと思う。
ここで話は本に飛ぶ。最近読んだ宮脇俊三氏の本に、読者は本を読む際に自分の経験と対比してしまう、との表現があった。たとえば、”北海道の旅行記に接すれば、何年か前に自分が北海道へ行ったときのことが念頭に浮かんで、読書と言うよりは思い出にふける仕儀になる。”ということだ。氏によると、これは同じ本を読んでも、読む人によって印象が全然違ってくる、ということになる、とのこと。これはあまり考えてみなかったことではあるが、とても大きな問題だと痛感した。たとえば、私はこのWebに凧のことをよく書いている。しかし、これを読む人は凧に関して熱心な人とは限らない。この一方で、凧の大先輩も読まれているかもしれない。また、凧の祭りの記事では、参加した人もいればそうでない人もいる。そうなると、同じ文なのに印象がずいぶん変わってしまうかもしれないということなのだろう。これはまさに読み手のフィルタである。うまく表現さえすれば、書き手の主張が伝わる、などと考えていたのだが、とんでもない間違だということではないか。また、逆に私が本を読んで作者の主張がわかったつもりでいても、実はとんでもない誤解かもしれない、ということではないか。文字で表現することの恐ろしさ、みたいなものを感じてしまった。
これは、本のような文字による媒体では特に顕著なのかもしれない。もちろん、映画などでも同じことはあるだろう。でも、映像でより具体的に表現できる分、まだ伝わりやすいようにも思える。そういう意味では、どんな境遇の人が呼んでも、自分の意図が伝えられること。これが名文の条件なのかもしれない。
しかし、読み進むうちに更に恐ろしい一文に当たった。ここでは、文中に堀淳一氏の著書を引用している。それは、ドイツの風景が単調だ、ということに関して”確かに単調といえば単調だ。しかしそれは、単調としか見る目がないのに過ぎないのであって・・・”というものだ。私はこの一文を読んで、私の心にナイフを突きつけられたように感じた。
本に限らず、”著作物”は、作成者が心に感じたことを表現したものだと思う。心に感じたこと、これを画家は絵で表現する。作曲家は歌で、詩人は詩で表現する。しかし、その心に感じること。これがなければそもそも表現のしようがない、ということになる。この文を呼んだ瞬間、”おまえはそれをちゃんと感じることが出来るのか”、と聞かれたように思えた。心に感じることも十分出来ないくせに、Webで駄文を書いていて良いものだろうか・・・。大いに悩んでしまった。
著作物は、作者のフィルタを通し、更に読者のフィルタを通す。それも怖いが、感性を失っていないか、ということはもっと恐ろしい。感性を高めること。この年では難しいのかもしれないが、せめて失わないように努力はしたいものだ。
風に吹かれて ちょっと重い話
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