| 教会分裂といえば、キリスト教教会が、西方教会と、東方正教会とに分裂した東西教会の分裂を指すことが多いが、 | ||||||
| 1378年から1417年の間、ローマとアヴィニョンに それぞれ教皇、枢機卿団が並立。カトリック教会が分裂した教会大分裂もある。 | ||||||
| ヨーロッパの主要国は一方を支持して対立した。現在の教会史では、ローマ教皇庁の教皇を正統として、それ以外の教皇は対立教皇としている。 | ||||||
| アヴィニョン教皇庁の建物は、 1906年以降、国立博物館として管理されている。1995年には、アヴィニョン歴史地区としてユネスコ世界遺産に | ||||||
| 登録された。 | ||||||
| アヴィニョン教皇庁 -wiki / Palais_des_Papes -wiki / Western_Schism -wiki / シスマ -wiki / 教会大分裂 -wiki / | ||||||
| アヴィニョン教皇庁の建物 | ||||||
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アヴィニョン教皇庁
-Wikimedia Commons / | ||||||
| アヴィニョン教皇庁の地図 | ||||||
アヴィニョン教皇庁
-googlemap
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西方教会分裂中のローマ支持派(青)、アヴィニョン支持派 (赤)、および中間派(オレンジ) を示す地図。 | ||||||
教会大分裂
-wikimedia commons/ | ||||||
| アヴィニョン教皇庁には、1309年から1376年まで、7人の教皇がアヴィニョン(現在フランス領)に住んでいた。 | ||||||
| この状況は教皇庁とフランス王室の対立から生じ、フランス国王フィリップ4世はコンクラーベに圧力をかけ、1305年にボルドー大司教を | ||||||
| 教皇クレメンス5世に選出した。クレメンス5世は、1309年に教皇庁宮殿をプロヴァンス伯領のアヴィニョンに移し、67年間留まった。 | ||||||
| アヴィニョンの7人の教皇は、全員がフランス人で、全員がフランス王室の影響下にあった。1376年、グレゴリウス11世はアヴィニョンを | ||||||
| 放棄して宮廷をローマへ移し、1377年1月に宮殿に入った。1378年にグレゴリウス11世が死去すると、後継者のウルバヌス6世と一部の枢機卿 | ||||||
| 集団との関係が悪化、西方教会分裂が起こった。これにより、アヴィニョン教皇の2度めの系統が始まったが、1398年9月、フランスは最後の | ||||||
| アヴィニョン対立教皇ベネディクト13世の支援を撤回、 ジョフロワ・ブシコーの軍隊がアヴィニョンを占領、ベネディクトゥス13世が居座る | ||||||
| 教皇庁を5年間包囲した。 この包囲は、ベネディクトゥス13世が1403年3月12日にアヴィニョンから脱出、アンジュー公ルイ2世の領地 | ||||||
| ペルピニャン(現フランス領カタルーニャ)に避難することで終結した。教会分裂は1417年のコンスタンツ公会議で終結した。 | ||||||
| 教会大分裂/大シスマ -世界史用語解説 / 対立教皇 -wiki / Antipope -wiki / アヴィニョン -世界史用語解説 / | ||||||
| ベネディクトゥス13世(対立教皇)-wiki / ウルバヌス6世_(ローマ教皇)-wiki / グレゴリウス11世_(ローマ教皇)-wiki / | ||||||
| コンスタンツ公会議 | ||||||
| 1409年のピサ教会会議では、3人の教皇が存在するという事態になった。その後、ヨハネス23世は廃位され、グレゴリウス12世は退位。 | ||||||
| ベネディクトゥス13世は退位を拒んだが、1417 年に廃位が宣言され、教会大分裂収拾の下準備が整った。 | ||||||
| コンスタンツ公会議 (1414年〜1418年)は、神聖ローマ帝国内コンスタンツ司教領で開催された。 | ||||||
| ジョン・ウィクリフと、ヤン・フスを異端、有罪とした。1415年7月6日、フスは焚刑 に処せられた。 | ||||||
| ウィクリフとフスの主張は、封建領主としての教会の腐敗と堕落を糾弾したものであった。1417年10月、公会議は、公会議を定期的に行い、 | ||||||
| 教皇権の暴走に対する抑止力とすることを決定。公会議主義が教皇権に優越することになった。しかし長くは続かず公会議主義は危険思想と | ||||||
| みなされるようになった。教会改革は行われる事がなく、宗教改革への下地となっていった。 | ||||||
| コンスタンツ公会議 -世界史用語解説 / コンスタンツ公会議 -wiki / フス -世界史用語解説 / ウィクリフ -世界史用語解説 / | ||||||
| アヴィニョン | ||||||
| 962年、教皇ヨハネス12世はオットー1世にローマ皇帝の帝冠を与え、神聖ローマ帝国が成立した。この見返りとして神聖ローマ帝国は | ||||||
| 教皇領を保障した。1274年、フランス王フィリップ3世はアヴィニョンを除く、アヴィニョンの周囲一帯のコンタ・ヴネサン(ヴネサン | ||||||
| 伯領)を教皇領に割譲した。アヴィニョンは、プロヴァンス伯領であった。 | ||||||
| 1309年、教皇クレメンス5世は、プロヴァンス伯領内、アヴィニョンに教皇庁を置いた。 | ||||||
| 1348年、プロヴァンス伯兼ナポリ女王ジョアンナが教皇クレメンス6世にアヴィニョン市を売却。 | ||||||
| アヴィニョンを含むコンタ・ヴネサンはフランス国内の教皇領の飛び地となった。教皇領は神聖ローマ帝国の保護下にあった。 | ||||||
| アヴィニョン Avignon 見聞記–教皇庁の時代– | 飯野和夫ホームページ / 教皇領 -wiki / | ||||||
| 黒死病 | ||||||
| 黒死病のパンデミック以前、世界の人口は4億5000万人未満であった。 1346年から1353年にかけての大流行によって2500万人から1億人が | ||||||
| 死亡したと推計されている。ただし当時正確な人口調査はなく、推計ではある。 | ||||||
| この時期のローマ教皇はアヴィニョン在住の、クレメンス6世であった。(教皇在位 1342年5月から 1352年12月) | ||||||
| 1348年にアヴィニョンの町が黒死病に見舞われたとき、クレメンス6世はアヴィニョンから脱出、エトワール・シュル・ローヌ(フランス南東部 | ||||||
| ドローム県)へ避難している。 黒死病は、17世紀には、1629年にミラノ、1656年から57年にローマとナポリ。1665年から66年ロンドンで | ||||||
| 起こり1日数千人の死者を出した。 | ||||||
| 黒死病/ペストの流行 -世界史用語解説 / Black Death -wiki / 黒死病 -wiki / クレメンス6世 (ローマ教皇) -wiki / | ||||||
| 十字軍 | ||||||
| 一般に1096年の第1回から、1270年の第7回までとされる。 | ||||||
| 十字軍 -wiki / 十字軍/十字軍運動 -世界史用語解説 / | ||||||
| 9~10世紀の西ヨーロッパを統一的に支配する者はおらず、ローマ教皇が、そのような立場にあった。 | ||||||
| 第1回十字軍は聖地回復に成功し、ローマ教皇の最盛期(12~13世紀)が出現した。それ以後の十字軍は、全て聖地回復に失敗した。 | ||||||
| 第4回十字軍(1202年 - 1204年)は、コンスタンティノープルを攻撃、占領、破壊、殺戮し、東ローマ帝国はこのために衰退、1453年に滅亡した。 | ||||||
| 十字軍の失敗によって、扇動主導した教皇の権威が弱まり、繰り返した遠征による東西交易、貨幣経済の発展により荘園制が崩壊。 | ||||||
| 各地の武装勢力の領袖、国王の権力が増大していった。そして、交易により、北イタリア諸都市が勃興、繁栄していく。 | ||||||
| また、中世ヨーロッパでのユダヤ人に対する本格的な迫害は、十字軍運動と連動して始まっている。 | ||||||
| On the Jews and Their Lies - Wiki / ユダヤ人と彼らの嘘について - Wiki / 陰謀論の源流は中世ヨーロッパに - SWI swissinfo.ch / | ||||||
| 反ユダヤ主義の歴史: 原始教会時代から1400年まで | ホロコースト百科事典 / | ||||||
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「第七の封印」 (c)1957 AB Svensk Filmindustri イングマール・ベルイマン監督(スウェーデン映画) | ||||||
| 1303年のアナーニ事件 | ||||||
| 1302年教皇ボニファティウス8世は、教皇勅書を出し、地上権力に対する教皇の絶対的優位を宣言した。 | ||||||
| これに対して、フランス王フィリップ4世が教皇を逮捕、虐待し、老齢の教皇は、1303年10月にローマで死亡。教皇権の衰退を印象づけた。 | ||||||
| これに続く、アヴィニョン幽閉、教会大分裂(大シスマ, 1378-1417年)によって教皇の権威は衰退し、ルネサンス期から宗教改革へと向かう。 | ||||||
| アナーニ事件 -wiki / Outrage of Anagni-wiki / | ||||||
| アヴィニョン捕囚と教会大分裂 | ||||||
| 1309年から1377年までの68年間、教皇がアヴィニヨンに移った ことを、教皇のバビロン捕囚と呼ぶ。幽閉されたのではなく、 | ||||||
| フランス王室保護の下、優雅に暮らしていた。1377年に教皇グレゴリウス11世は、フランス王室が反対する中、ローマへ帰還した。 | ||||||
| しかし翌年、グレゴリウス11世は病死してしまった 。 教皇選出会議が開催されたが、フランス人枢機卿とイタリア人枢機卿が対立。 | ||||||
| イタリア人のウルバヌス6世が選出されたが、フランス側は反発し、アヴィニヨンに教皇クレメンス7世を立てた。こうしてローマと | ||||||
| アヴィニヨンに教皇が併存する「教会大分裂」の時代となった。 | ||||||
| 教皇のバビロン捕囚 -世界史用語解説 / Avignon Papacy -wiki / アヴィニョン捕囚 -wiki / | ||||||
| 1409年から1415年の間は、ローマ、アヴィニョン、ピサにそれぞれ教皇が存在した。アヴィニョン対立教皇は5人、ピサ対立教皇は2人。 | ||||||
| ピサ宗教会議 3人の教皇 | ||||||
| 1409年、枢機卿団の主催でピサ宗教会議が開催され、カトリック教会大分裂の解決が試みられた。 | ||||||
| ピサ宗教会議はローマ教皇とアヴィニョン対立教皇の両者の廃位を決め、ミラノの大司教をアレクサンデル5世として選出した。 | ||||||
| しかし2人の教皇はこれを拒否、3人の教皇が鼎立する事態となった。 ピサ教皇は、限られた支持しか得られなかった。 | ||||||
| この会議は、教皇の招集によるものではないので公会議として承認されていない。 | ||||||
| There were once three popes at the same time. - History Facts / Year of three popes -wiki/ / | ||||||
| The crazy truth about the time when there were three popes-grunge.com / | ||||||
| 異端審問 | ||||||
| 異端審問は、11世紀に始まり、12世紀に急増。17世紀前後が最盛期であった。 | ||||||
| 1184年の教皇勅書(ルキウス3世)によって教会による公式な異端審問が示された。 | ||||||
| 1232年に、カタリ派、ヴァルド派を弾圧するために異端審問所が設置された。 | ||||||
| 異端審問 -wiki / 異端審問 -世界史用語解説 / 魔女裁判/魔女狩り -世界史用語解説 / | ||||||
| ゾッとする…10万人が死んだ魔女狩り「拷問マニュアル」書いた男の異常な執念 | ダイヤモンド・オンライン / | ||||||
| 宗教裁判所 -世界史用語解説 / 対抗宗教改革 -wiki / Counter Reformation -wiki / | ||||||
| カタリ派 -wiki / アルビジョワ派 -世界史用語解説 / ヴァルド派 -wiki / ワルド派 -世界史用語解説 / | ||||||
| トリエント公会議 (1545年から1563年) | ||||||
| 反宗教改革の始まり 16世紀には、ドイツでルターの宗教改革が始まり、カルヴァンはスイスで活動を開始した。 | ||||||
| カトリック教会は危機意識を持ち、教皇パウルス3世は1545年から1563年にかけてトリエント公会議を召集。 | ||||||
| ここから対抗宗教改革(反宗教改革)が始まった。その中心機関が、1542年にローマにあった宗教裁判所(異端審問所)であった。 | ||||||
| 異端審問で大活躍したのが、ドミニコ会とイエズス会であった。検邪聖省長官はドミニコ会が独占していた。 | ||||||
| ルター -世界史用語解説 / カルヴァン -世界史用語解説 / 宗教改革 -世界史用語解説 / | ||||||
| 死の舞踏 Holbein Dance of Death | ||||||
| 中世の疫病 パンデミックと「死の舞踏」-日経ビジネス / Danse Macabre -wiki / | ||||||
| ハンス・ホルバインの「死の舞踏」シリーズは、1526年にバーゼル滞在中に描かれた。最初の書籍版は、1538年に出版され、 | ||||||
| 1562年までに11版が出版された。 16世紀には100点以上もの海賊版が作られた。 | ||||||
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| ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世 (教皇在位 1978年10月〜2005年4月)は異端審問、十字軍による大量虐殺を正式に謝罪した。 | ||||||