太平天国の乱 発端 金田蜂起の地を見る |
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インド大反乱 発端の地メーラトを見る |
インド大反乱 (セポイの乱) 1857年〜1859年 the Sepoy Rebellion , the Sepoy Mutiny.(セポイの反乱) | |||
かつては、セポイの乱と呼んでいたが、セポイ ( 東インド会社 傭兵 ) に留まらず、広範な層が参加し、インド全土の | |||
3分の2にまで及んだ大反乱であり、現在はインド大反乱と呼ぶ。また、大反乱はイギリスから見た呼び方であり、 | |||
インド側から見たIndia's First War of Independence (第一次独立戦争)とも言う。 | |||
メーラトでセポイが蜂起 | |||
1857年5月10日にデリー北東約60kmの都市メーラトの兵営でセポイが蜂起した。 | |||
メーラトの街を掌握した部隊は、デリーへ向けて進軍、デリーでも呼応決起があり、反乱は拡大していった。 | |||
デリーの大反乱は4ヶ月で鎮圧されたが、全土に拡大した反乱は1859年まで続いた。 | |||
セポイ | |||
【セポイ】(英) sepoy、(ペルシャ) sipāhi | |||
元はオスマン帝国の騎兵の名称であったが、 西欧列強のインド人傭兵の名称となり、 英東インド会社傭兵を指すようになった。 | |||
セポイの乱の名称全面見直しは、日本の史学会だけのようでIndian Rebellionで検索しても、Sepoy Mutiny 、Sepoy Rebellionが | |||
半数以上はある。 / インド大反乱/シパーヒーの反乱/セポイの乱-世界史用語解説 | |||
The Great Rebellion (1857) | India Explored Blog / Sepoy Rebellion | The Revolt of 1857 in India / | |||
10th May 1857 − the Great Indian Rebellion | Dorian Cope presents On This Deity / Sepoy Rebellion: 1857 / | |||
Sepoy Mutiny of 1857 Postcolonial Studies @ Emory / Sepoy Mutiny | Indian Revolt of 1857 / | |||
Sepoy - Wiki / インドのセポイ - Wiki / East India Company - Wiki / | |||
新式薬包の強制が引き金になったとされる。 | |||
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反乱関連地図 | |||
デリーの包囲 Siege of Delhi - Wiki / ナジャフガーの闘い Battle of Najafgarh - Wiki / アグラの闘い Battle of Agra - Wiki | |||
Central India Campaign (1858) - Wiki / カーンプルの包囲 Siege of Cawnpore - Wiki / | |||
チンハットの闘い Battle of Chinhat - Wiki / ラクナウの包囲 Siege of Lucknow - Wiki / | |||
カーンプル2度目の闘い Second Battle of Cawnpore - Wiki / ラクナウの攻略Capture of Lucknow - Wiki / | |||
反乱は、計画的なものではなく、突発的、偶発的なものでムガール帝国は形骸化しており、各藩王国が半独立状態にあり | |||
ムガール皇帝の統率力も不足していた。イギリスは、他地域の藩王国の懐柔に成功し、グルカ兵なども投入して反乱を鎮圧した。 | |||
反乱を鎮圧したイギリスは、東インド会社統治から本国による直接統治に切り替えた。 | |||
ムガル帝国 の滅亡と、イギリス領インド帝国の成立 | |||
イギリスは、1623年のアンボイナ事件 以降インドへの進出を開始、インドの植民地化をすすめていた。 | |||
この反乱の鎮圧後、イギリスは東インド会社によるインド統治を終わらせ、本国による直接統治に切り替えた。 | |||
1877年、イギリスのヴィクトリア女王 を皇帝とするインド帝国の成立を宣言。ムガル帝国 は、崩壊消滅した。 | |||
このイギリス領インド帝国には、現在のパキスタン、ビルマ(ミャンマー)、セイロンも含まれる。 | |||
藩王国 -wiki / マラーター同盟 -wiki / 東インド会社とムガル帝国 -wiki / 南アジア・東アジアの植民地化 / | |||
British Empire: Forces: Campaigns: Indian Mutiny, 1857 - 58 / Indian Rebellion of 1857 - Wiki / | |||
Causes of the Indian Rebellion of 1857 - Wiki / | |||
メーラト市街 | |||
メーラト市内のAugarnath寺院には、この反乱兵士が祀られている。 |
大きな地図を表示openstreetmap | ||||||
メーラト座標:28.989148,77.699776
googlemap | ||||||
ウッタル・プラデーシュ州 メーラト県 メーラト市 | ||||||
メーラト -wiki / インド大反乱 -wiki / イギリス領インド帝国 -wiki / 英国のインド統治 - Google 検索 / | ||||||
英国のインド統治がもたらしたもの(その1) / 英国のインド統治がもたらしたもの(その2) / | ||||||
イギリスのインド支配 / インドの植民地化 -wiki / アジアの植民地分割 - Google 検索 / | ||||||
アワド王国の闘い。 アワド王国ラクナウが最大の激戦地となった。 | ||||||
最大の激戦の地 ラクナウ ( Lucknow ) アワド王国 | ||||||
ラクナウ座標:26.848874,80.920143 | ||||||
インド大反乱で、激戦地となった、ラクナウの街。ニューデリーの南東約500km、アワド王国の首都 | ||||||
ウッタル・プラデーシュ州(Uttar Pradesh)の州都。 / ラクナウ - Wiki / インド大反乱におけるアワド - Wiki | ||||||
ラクナウに遷都する前の旧首都ファイザーバード (Faizabad) も激戦地となった。 | ||||||
一 八五七年の反乱におけるラクナウ政権の構造 PDF | ||||||
1856年、イギリスはアワド太守ワーシド・アリ・シャーを統治能力がないとして、コルカタに追放、アワド藩王国を併合、 | ||||||
王国は滅亡した。アワドからは、セポイが多数出ており、主家断絶に対して大きな反発があった。 | ||||||
アワド王家でも、王妃ハズラト・マハル(37歳)が、息子ビルジース・カドラをアワド王とし、蜂起した。 | ||||||
アワドはインド大反乱において最大の激戦地となった。1858年3月21日、アワドの首都ラクナウは激戦の末陥落、 | ||||||
ハズラト・マハルと息子のビルジース・カドラは、カトマンドゥに流刑となり現地で死去した。 | ||||||
独立後のインドでは、インド大反乱とその英雄が再評価されるようになり、ハズラト・マハルも、大反乱の英雄の | ||||||
一人として再評価され、1962年にウッダル・プラデーシュ州に、彼女の名前を冠した「ハズラト・マハル公園」が | ||||||
設立された。 / Begum Hazrat Mahal (ハズラト・マハル) - Wiki / Nawab of Awadh (アワド太守) - Wiki | ||||||
ハズラト・マハル 1820年〜1879年 シーア派イスラム教徒 | ||||||
ハズラト・マハル | ||||||
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Wikimedia Commons | ||||||
ラクナウの南西約280km ジャーンシーも激戦地となった | ||||||
激戦の地 ジャーンシー ( Jhansi ) | ||||||
インドのジャンヌ・ダルク Lakshmibai (ラクシュミー・バーイー) the Rani of Jhansi (ジャーンシーの王妃) | ||||||
ラクシュミー・バーイー (Lakshmi Bai) 1835年頃〜1858年6月18日 (1828年生まれ説もある) | ||||||
マラーター同盟の小王国ジャーンシー藩王国の王妃。「インドのジャンヌ・ダルク」と称される。 | ||||||
王との間には一子があったが、幼くして病没。ラクシュミー・バーイーは養子を迎えて王国の存続を計ろうとしたが、 | ||||||
王が病没すると、イギリスは、養子相続を認めず、1854年ジャーンシー藩王国を併合した。 | ||||||
1857年のメーラトでの反乱までは、目立った行動はないが、反乱勃発に伴い周囲に推戴されて、指導者となった。 | ||||||
ラクシュミー・バーイー - Wiki / Lakshmi Bai - Google 検索 / | ||||||
Jhansi (ジャーンシー)-wiki / 25.457961,78.575420 (ジャーンシー城) / Jhansi Fort - Google 検索 / | ||||||
ウッタル・プラデーシュ州 ブンデルカンド県 ジャーンシー市 ラクナウの南西約280km City of Rani Lakshmi Bai | ||||||
標高285メートル、夏の平均気温47°C。冬の平均気温4°C。 | ||||||
ジャーンシー城座標:25.457854,78.575424
googlemap | ||||||
大きな地図を表示openstreetmap | ||||||
インドの神様のポスターのような、ラクシュミー・バーイーの画像 | ||||||
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Rani Lakshmi Bai | ||||||
Hugh Rose commented that Rani Lakshmibai is "personable, clever and beautiful" and | ||||||
she is "the most dangerous of all Indian leaders". ( wiki-en ) | ||||||
ジャーンシー城攻めのイギリス指揮官ヒュー・ローズ少将は、彼女を、魅力的で、賢く、美しい。 | ||||||
全インドで最も危険な指導者だとコメントした。 | ||||||
ラクシュミー・バーイー の下に参集した義勇兵の中の女性兵士ジャルカリバーイー は、英軍包囲下のジャーンシー城を | ||||||
ラクシュミー・バーイーが変装して脱出する際、影武者となって奮戦援護した。 | ||||||
Jhalkaribai - Google 検索 / Jhalkaribai / | ||||||
ジャーンシー城落城後も、ラクシュミー・バーイーは転戦を続け、1858年6月18日、戦闘中に銃撃を受け戦死した。 | ||||||
第二次世界大戦に於いて、日本軍と協力してインド独立を計ろうとしたインド国民軍 の女性兵士部隊の名称が、 | ||||||
Rani of Jhansi Regiment ( ラニ オブ ジャーンシー連隊 )であった。 | ||||||
現在、ラクシュミー・バーイーの騎馬像は、インド各地に建てられている。 | ||||||
ベンガル湾、ニコバル島の ラニ ジャーンシー海洋国立公園、グワーリヤルのラクシュミバーイー国立体育教育大学と、 | ||||||
ジャーンシーのマハ ラニ ラクシュミバーイー医科大学は彼女の名にちなんで 名付けられた。 | ||||||
Indian National Army - Wiki / Indian Independence League - Wiki / | ||||||
Indian independence movement - Wiki / Indian Independence Act 1947 - Wiki / | ||||||
India's First War of Independence (term) - Wiki / Azad Hind - Wiki / British rule in Burma - Wiki / | ||||||
現在のウッタル・プラデーシュ州とメーラト、ラクナウ、ジャーンシー | ||||||
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このインド最初の民族独立運動をイギリスはどう見たか | ||||||
Justice 悪鬼のような土人を懲らしめる正義の女神 The Sepoy Rebellion of 1857 | Punch-A-DayPunch. | ||||||
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Justice, a print by Sir John Tenniel in an September issue of Punch. | ||||||
風刺漫画誌 パンチ1857年、テニエル (「不思議の国のアリス」の挿絵画家) 画 | ||||||
大反乱後の藩王国政策の変更 | ||||||
インド大反乱までは、藩王国併合政策により、多くの藩王国がイギリス領に併合されたが、 | ||||||
インド大反乱後は分割統治の傀儡勢力として利用する方針に転換、保護するようになった。 | ||||||
藩王国 - Google 検索 / 藩王国 - Wiki / | ||||||
イギリス帝国のアジア侵略 | ||||||
イギリスのインド亜大陸とその隣接地域支配 | ||||||
1757年 6月、プラッシーの戦い 英東インド会社 vs ベンガル太守+仏東インド会社。イギリスのインド支配 本格化。 | ||||||
1765年 英東インド会社、ムガル帝国からベンガル、オリッサ、ビハールでの租税徴収権を獲得。植民地化進行。 | ||||||
アングロ・マイソール戦争(1767〜1799)。アングロ・マラータ戦争(1777〜1818)。アングロ・シーク戦争 | ||||||
(1845〜1849)でインドを蚕食、実質的にインドはイギリス東インド会社の植民地となった。 | ||||||
1814年 英ネパール戦争(グルカ戦争 ) | ||||||
1824年〜26年 第1次 英ビルマ戦争(英緬戦争 )アッサム占領 | ||||||
1838年〜42年 第1次 アフガン戦争 ( カーブル占領) | ||||||
1845年〜46年 第1次 シーク戦争(パンジャブ進攻) | ||||||
1848年〜49年 第2次 シーク戦争(全パンジャブ併合) | ||||||
1852年 第2次 英ビルマ戦争( 南ビルマ征服 ) | ||||||
1857年〜1859年 インド大反乱 | ||||||
1858年 ムガル帝国を滅亡させ、インドの藩王国による間接統治体制に入る。 | ||||||
1864年〜65年 英 ブータン戦争 | ||||||
1877年 インド直接統治体制に切り替える (英ヴィクトリア女王がイギリス領インド帝国皇帝に即位) | ||||||
1878年〜81年 第2次アフガン戦争 | ||||||
1885年〜86年 第3次ビルマ戦争( ビルマをインドに併合 ) | ||||||
1903年〜04年 チベット遠征 ラサ入城 | ||||||
1947年 8月、インド・パキスタン分離独立 | ||||||
マイソール戦争 / シーク戦争 / マラーター戦争 / インドの植民地化 近代における世界の一体化-wki / | ||||||
東南アジアの植民地化 近代における世界の一体化 - wiki / | ||||||
イギリス領インド帝国版図 ( 1909年 ) | ||||||
インドシナ半島の東半分は仏領インドシナ。1896年に英仏は「シャムとメーコーン上流域に関する英仏宣言」を発表。 | ||||||
タイを英仏両国の緩衝地帯として残すことにした。 | ||||||
イギリス領インド帝国成立後のインド民族独立運動 | ||||||
インド民族意識の芽生えと反英独立運動の激化 | ||||||
イギリス領インド帝国成立の後も飢饉が続き、50万人、100万人規模の餓死者が出た。 イギリスは、「インド国民会議」を | ||||||
結成させ(1885年)、インド支配のクッションにしようとしたが、インド国民会議の中から、インド民族意識が生まれ反英化 | ||||||
していった。イギリスは、民族運動を分裂させる目的で、 1905年、ベンガル地方をヒンドゥー地区とムスリム地区に分割する | ||||||
「ベンガル分割令」を発布した。これに対して、インド国民会議は英貨排斥、スワデシ(国産愛用)、スワラジ(民族自治)、 | ||||||
民族教育の方針を採択した。イギリスは、国民会議を分断させる目的で、会議派内のムスリムに「全インドムスリム連盟」を | ||||||
結成させ、ヒンドゥーとムスリムの対立を煽った。これは成功し、後のパキスタン分離独立へ繋がった。 | ||||||
アムリッツァルの虐殺 | ||||||
1919年4月13日、パンジャーブ地方シーク教の聖地、アムリッツァル (アムリットサル)で、スワデーシーの要求と、 | ||||||
破壊活動容疑者に対する令状なしの逮捕、裁判ぬきの投獄を認めた"ローラット法"に反対する抗議集会に集まった市民に | ||||||
対してイギリス領インド帝国軍部隊が無差別発砲し、死者379名、負傷者1200名を出した。みせしめのための虐殺であった。 | ||||||
指揮したイギリス人、ダイヤー将軍は、この功績で貴族となった。 | ||||||
一方、この弾圧によってインドの反英運動は激化することになった。 | ||||||
アムリッツァルの虐殺 - Google 検索 / アムリットサル事件 - Wiki / アムリッツァル - GoogleMap / | ||||||
同時代の日本 | ||||||
1850年代の日本 | ||||||
1853年 黒船来航 / クリミア戦争 / 1850年〜1864年 太平天国の乱 | ||||||
1854年 7月 安政伊賀地震・12月23日 安政東海地震・12月24日 安政南海地震・12月26日 豊予海峡地震 (嘉永7年) | ||||||
1855年 1月 安政に改元。(旧暦では前年の11月) 11月 安政江戸地震(安政2年)。 | ||||||
1856年 9月、安政3年の台風、江戸に猛烈な暴風と高潮。死者10万人 | ||||||
1857年〜1859年 インド大反乱 | ||||||
1858年 安政5年。安政の大獄 捕縛開始 / 清朝がロシア帝国とアイグン条約 を締結 | ||||||
1859年 安政6年、安政の大獄 吉田松陰が斬首刑 / 米国でジョン・ブラウンの乱 | ||||||
1860年 安政7年、桜田門外の変 / 清朝が英仏と北京条約 を締結。 | ||||||
幕末日本知識人の世界認識 | ||||||
インド大反乱と佐久間象山 pdf- ( 慶應義塾大学学術情報リポジトリ ) / 幕末以降の日本と世界の年表 | ||||||
太平天国と日本 -wiki / 下関戦争 (1863年 -1864年) - Wiki / 薩英戦争 (1863年) / | ||||||
佐久間象山 - Wiki / 吉田松陰 - Wiki / | ||||||
明治維新 (1867年) - Wiki / 脱亜入欧 - Wiki / 富国強兵 - Wiki / 明治六年政変 - Wiki / | ||||||
幕末の年表 - Wiki / 幕末 - Wiki / | ||||||
同時代の東南アジアは、どういう状況だったのだろうか?。各国別の通史は見受けられるが、東南アジア全体を見渡した | ||||||
ものがWeb上にないので作成した。 (2013/6/27) | ||||||
同時代のインドシナ 19世紀〜1945年のタイ、カンボジア、ラオス、ヴェトナム、ビルマ(ミャンマー) | ||||||
ビルマ(ミャンマー)では、ビルマ最後の王朝コンバウン朝が、18世紀後半に全盛期を迎え、 | ||||||
1767年、タイのアユタヤ朝を滅ぼし、清のビルマ遠征軍を撃退した。さらに西方へ進出、インドのアッサム地方や、 | ||||||
アラカン地方に進出。インドを支配するイギリス東インド会社との間で紛争が発生。第1次 英ビルマ戦争(1824〜26) | ||||||
1824年 イギリス・オランダは、英蘭協約 で、マラッカ海峡周辺の勢力範囲を決める。 文政7年 | ||||||
1826年 イギリスとシャム(タイ)バーニー条約締結、イギリス領マラッカ海峡植民地 成立。 文政9年 | ||||||
1831年 第一次泰越戦争、タイがカンボジアの支配を巡ってベトナムと争う。( 文政13年 / 天保元年 ) | ||||||
1840年 アヘン戦争 。隣の超大国、清が敗北。 ( 天保11年 ) | ||||||
1841年 第二次泰越戦争 タイが再び戦争を起こし、泰越両国でカンボジアを共有する平和条約が締結された。 | ||||||
1852年 第二次英緬戦争と1885年の第三次英緬戦争で、イギリスがタイの北部国境まで進出。 | ||||||
1855年 タイはイギリスとボーリング条約(不平等条約) を締結。 | ||||||
1856年〜1873年、太平天国の乱 に呼応したパンゼーの乱 によって、宿敵ビルマは衰退、タイの脅威ではなくなった。 | ||||||
1857年 インド大反乱 アロー戦争 ( 安政4年 ) | ||||||
1858年〜62 仏越戦争。1862年 サイゴン条約。仏のヴェトナム侵略。(ナポレオン3世のインドシナ出兵) | ||||||
1865年から1890年 タイもパンゼーの乱の残党によるホー戦争の戦場となった。 | ||||||
1867年 仏は、コーチシナ全域を支配下においた。 慶応3年 大政奉還 / 1968年10月、明治元年 | ||||||
コーチシナの支配権を握った仏は、カンボジアに対するヴェトナムの宗主権の継承を主張、カンボジアを保護国とした。 | ||||||
1884年〜85 清仏戦争 1885年の天津条約で仏は、清からベトナムに対する宗主権を奪取した。 | ||||||
1885年〜86 第3次 英ビルマ戦争 コンバウン朝を滅ぼし、全ビルマを征服、英領インド帝国に併合した。 | ||||||
1887年 コーチシナ(南部)・アンナン(中部)・トンキン(北部)とカンボジアを統合したフランス領インドシナ が成立した。 | ||||||
1893年 仏泰戦争 パークナム事件 ( 明治26年 ) | ||||||
1894年〜1895年 日清戦争 ( 明治27年〜29 ) | ||||||
1896年 英仏は「シャムとメーコーン上流域に関する英仏宣言」を発表。タイを英仏両国の緩衝地帯として残すことにした。 | ||||||
1899年 フランスはラオスを保護国化、これを仏領インドシナに編入した。 | ||||||
1904年〜1905年 日露戦争 ( 明治37年〜38 ) | ||||||
1909年 英泰条約で泰緬国境線を確定。その後、仏とも、ラオス・カンボジアとの東部国境線を確定した。 | ||||||
このとき、タイ国領土であった地域の一部が、英領インド帝国と仏領インドシナに併合された。 | ||||||
1910年 日韓併合 1910年代初頭、全世界の4/5の地域が、ヨーロッパ列強諸国の支配下にあった。 | ||||||
1911年 辛亥革命/武昌蜂起 ( 明治44年 ) | ||||||
1916年 中国、各地の軍閥による全面的な内乱状態となる。( 大正5年 ) | ||||||
1937年 日中戦争始まる ( 支那事変 ) | ||||||
1939年 ヨーロッパで第二次世界大戦が勃発、タイは中立を宣言。 | ||||||
1940年 日本軍仏領インドシナに進駐 、タイはフランス軍と戦闘。( タイ仏印紛争 ) 日泰和親友好条約。 | ||||||
1941年5月、日本の仲介により東京条約を締結、仏印の一部をタイに併合。12月、日泰攻守同盟条約を締結。 | ||||||
1942年1月、タイは中立政策を破棄し、米英に宣戦布告、枢軸国側で参戦。その一方、同年4月ごろ、 | ||||||
「自由タイ運動」という抗日運動をアメリカでタイ人留学生が始めたのを黙認。 | ||||||
1944年ごろ、日本の敗色が濃くなり、タイは連合国に接近。二重外交を展開 | ||||||
1945年8月 日本が連合国に敗北すると、タイの宣戦布告は無効であると宣言。敗戦国としての認定を免れた。 | ||||||
ただし、東京条約で併合した旧仏印領はフランスに返還された。 | ||||||
マレーシアの歴史 - Wiki / アジアの植民地分割 / | ||||||
以上のように、19世紀にはインド亜大陸は、イギリスの、インドシナ半島はフランスの植民地となった。 | ||||||
1896年1月、英仏両国は"メーコーン上流域に関する英仏宣言"を発表して、タイを英仏両国の緩衝地帯として残すことにした。 | ||||||
1904年には英仏協商 を結び、英仏の植民地争奪の対立関係の終いをつけた。このことで、タイは西欧の植民地とならずにすんだ。 | ||||||
海上交通の要衝であった赤道アジアは、これらより早く植民地化された。 | ||||||
無数の島嶼からなるこの地域に、イスラムの都市国家が存在し栄えていたが、西欧に対抗できるだけの統一国家は | ||||||
存在しなかった。また、遅れてきた帝国主義アメリカは、米西戦争によって没落する帝国主義スペインの植民地を | ||||||
奪った。 | ||||||
植民地時代のフィリピン | ||||||
フィリピン 16世紀、スペイン領となる | ||||||
1521年、セブ島にポルトガル人の航海者マゼランがヨーロッパ人として初めてフィリピンに到達。 | ||||||
1529年のサラゴサ条約 でフィリピン諸島をスペインの勢力圏とした。 | ||||||
1565年にはスペイン領メキシコを出航した征服者ミゲル・ロペス・デ・レガスピがセブ島を領有。 | ||||||
1571年にはフィリピン諸島の大部分が征服され、スペインの領土となった。 | ||||||
18世紀になってスペインはフィリピン南部への侵攻を試みたが、イスラム勢力の抵抗で、最後まで征服できなかった。 | ||||||
19世紀末、アメリカ領となる | ||||||
1898年、米西戦争 により、アメリカ合衆国はフィリピン独立運動を利用し、スペインからフィリピンを奪って自国の植民地にする。 | ||||||
1898年のパリ条約によりフィリピンの統治権がアメリカに渡る。 | ||||||
フィリピン・アメリカ戦争期 ( 1899年2月〜1902年7月 ) | ||||||
1899年 フィリピン共和国がフィリピン人によって建国された。アメリカはフィリピン共和国の建国を認めず、 | ||||||
米比戦争 で60万人のフィリピン人がアメリカ軍により虐殺され、1901年、第一共和国は崩壊した。 | ||||||
フィリピンは旧スペイン植民地のグアム、プエルトリコと共にアメリカの植民地となった。 しかし、モロの反乱は1913年まで続いた。 | ||||||
1916年 アメリカはフィリピンの自治を認めフィリピン自治領が成立したが、実態は植民地のままであった。 | ||||||
二次世界大戦でフィリピンに進攻した日本は、フィリピンを軍政下においた後、1943年にフィリピンを独立させた(第二共和国)。 | ||||||
この第二共和国に対して、 アメリカの援助を受けて結成されたゲリラ組織、ユサフェ・ゲリラと共産系、フクバラハップ が抗日ゲリラ | ||||||
戦争を行ったが、日本軍はこれら抗日ゲリラを鎮圧することができず。実質的に支配できたのはフィリピン全土の3割程度であった。 | ||||||
フィリピン独立革命 - Wiki / アメリカ帝国主義 - Wiki / モロ - Wiki / プエルトリコ - Wiki / グアム - Wiki / | ||||||
アメリカのハワイ併合 | ||||||
ハワイ併合 1898年- wiki / ハワイ併合 - Google 検索 / ハワイの歴史 - Wiki / ハワイ諸島侵略史 / | ||||||
植民地時代のインドネシア | ||||||
インドネシア | ||||||
インドネシアは、18世紀には、オランダの植民地となっていた。 | ||||||
インドネシアは多民族国家であり、種族、言語、宗教は多様である。 | ||||||
5世紀頃からインドと中国をつなぐ中継貿易の拠点として栄え、大国の興亡があった。 | ||||||
12世紀にはイスラム教が広まり、イスラム化が進んだ。 | ||||||
16世紀に、ポルトガル、イギリス、オランダが来航。 | ||||||
17世紀には、バタヴィア(ジャカルタ)を本拠地とする、オランダ東インド会社による覇権が確立した。 | ||||||
18世紀には、オランダはジャワ島、19世紀にスマトラ島を支配するようになった。 | ||||||
1795年 ネーデルラント連邦共和国 (オランダ)はフランス革命軍に侵攻されて滅亡、 | ||||||
革命フランスの傀儡国家バタヴィア共和国 (1795年ー1806年)となった。 | ||||||
1799年 オランダ東インド会社が解散。オランダ本国の政体は代わったが植民地は保有し続けた。 | ||||||
1800年 ポルトガル領東ティモールを除く東インド諸島のすべてがオランダ領東インドとなり、 | ||||||
ほぼ現在のインドネシアの領域全体がオランダの直接統治下に入った。 | ||||||
1806年 オランダは、フランス帝国の衛星国ホラント王国 (1806年ー1810年)となった。 | ||||||
1811年から1815年のネーデルラント連合王国 建国までは、インドネシアは英国領となった。 | ||||||
1819年、イギリスがシンガポールをイギリス東インド会社領とする。 | ||||||
1824年、イギリス・オランダ両国が英蘭協約を締結。オランダ領東インドの領域が確定した。 | ||||||
20世紀初頭、民族意識がめばえたが、民族主義運動はオランダ植民地政府によって非合法化。 | ||||||
1942年 日本軍の侵攻によってオランダの植民地支配が崩壊、日本陸軍の軍政下に置かれた。 | ||||||
日本軍は、太平洋地域における戦局悪化を受けてインドネシア人の武装化を決定、 青年層に軍事教練を施した。 | ||||||
1945年8月15日に日本がオランダを含む連合国軍に降伏、 インドネシアの民族主義者は独立を宣言したが、 | ||||||
オランダはこれを認めず 独立戦争は4年間続いた、インドネシアの共産化を警戒するアメリカの圧力によって、 | ||||||
オランダはインドネシア独立を認めることになった。 | ||||||
インドネシア独立戦争 - Google 検索 / インドネシア独立戦争 - Wiki / | ||||||
太平洋諸島、オーストラリアの侵略 | ||||||
太平洋侵略史 - Google 検索 / オーストラリア侵略 - Google 検索 / オーストラリアの歴史 - Wiki / | ||||||
ニュージーランドの歴史 - Wiki / 太平洋島嶼史 - Wiki / 列強の太平洋諸地域分割 / | ||||||
インドの独立 | ||||||
チャンドラボースとガンジー | ||||||
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ガンディーは、1915年に南アフリカから帰国してから地方の闘争で名声を高めていた。 | ||||||
1914年(大正3年)第一次世界大戦の後に、 ガンディー、ネルー、チャンドラ・ボースらがインド国民会議 に加わり、 | ||||||
インド独立に大きく貢献した。1919年のアムリッツァル虐殺事件の後、1920年、「非暴力・不服従」を綱領として採択。 | ||||||
1930年にガンディーの指導で塩の行進が行われた。 | ||||||
チャンドラ・ボース は、即時独立を求める左派のリーダーとして1938年度の国民会議派議長に就任したが、 | ||||||
ガンディー路線と対立、辞任した。 1939年9月に第二次世界大戦が開戦すると、反英諸国の支援を受けインド人部隊で、 | ||||||
インドに侵攻して民衆蜂起でインド独立を達成する計画をたて、ソ連、ドイツに接触した。 | ||||||
1941年12月、日本が第二次世界大戦に参戦すると、ボースは日本へ渡航、1943年5月、東京に到着した。 | ||||||
同年7月、ビハーリー・ボースが、インド国民軍の指揮権をチャンドラ・ボースに移譲。 | ||||||
10月、チャンドラ・ボースはシンガポールで、自由インド仮政府を樹立、イギリスとアメリカへ宣戦布告した。 | ||||||
ボースらのインド国民軍による武装闘争と、ガンジーらの非暴力不服従闘争の結果、インドは独立を達成した。 | ||||||
二人はともにイギリスの大学に学び、方法は異なったが共にインド独立の英雄となった。( ガンジーはジャイナ教徒 ) | ||||||
インド独立にあたって、イスラム教徒がパキスタンとして分離独立した。 / インド・パキスタン分離独立 - Wiki | ||||||
スバス・チャンドラ・ボース - Wiki / チャンドラボース - Google 検索 / ガンジーとボース - Google 検索 | ||||||
Pax Britannica | ||||||
ヴィクトリア女王の時代 Victorian era | ||||||
ヴィクトリア朝 1837年から1901年 | ||||||
イギリス帝国の絶頂期 | ||||||
イギリス領インド帝国の初代皇帝となったイギリスのヴィクトリア女王の治世をヴィクトリア朝と呼ぶ。 | ||||||
日本では、ヴィクトリア朝 と呼んでいるが、英語では、 Victorian era ( ヴィクトリア時代 ) である。 | ||||||
王朝としては、ハノーヴァー朝の第6代女王となる。在位は63年7か月に及んだ。 | ||||||
産業革命の成果を享受し、世界各地を植民地化・半植民地化して繁栄を極めた大英帝国の絶頂期を象徴する女王である。 | ||||||
しかし、その恩恵に与ったのは、上流階級だけであり、下層民は悲惨な状況にあった。 | ||||||
ヴィクトリア朝 - Google 検索 / ヴィクトリア朝上流階級 - Google 検索 / ヴィクトリア朝中流階級 - Google 検索 / | ||||||
ヴィクトリア朝の下層社会- Google 検索 / | ||||||
「ヴィクトリア朝」は、主に社会、文化面に注目したネーミングである。 | ||||||
国際政治、世界秩序に注目すると、「パクス・ブリタニカ」と呼ばれる。 | ||||||
Pax Britannica 1850年頃から1870年頃 | ||||||
イギリスの金と力による世界秩序 | ||||||
この圧倒的経済力と軍事力を持った覇権国家、大英帝国の最盛期である19世紀半ばごろから20世紀初頭まで、 | ||||||
特に1850年頃から1870年頃の"世界の工場"と呼ばれた期間をパクス・ブリタニカ(Pax Britannica )と呼ぶ。 | ||||||
International relations (1814−1919) - Wiki / Imperialism - Wiki / victorian-times -webquest - cmdenglish / | ||||||
VICTORIAN TIMES - Google 検索 / Victorian Age Timeline / | ||||||
The Victorian vision of China and Japan - Victoria and Albert Museum / | ||||||
ハートの女王とヴィクトリア女王 | ||||||
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(L) Alice and the Queen of Hearts, drawn by John Tenniel in 1869. | ||||||
(R) Queen Victoria in 1887 Image in the public domain | ||||||
ハートの女王の外見は、ヴィクトリア女王に似せて描かれたと言われている。 | ||||||
ボーア戦争の勝利とイギリス帝国の落日 | ||||||
1867年、オレンジ自由国領でダイアモンド鉱脈が発見された | ||||||
1880年、ボーア戦争 - Google 検索 / 1889年、イギリス南アフリカ会社の設立 | ||||||
ディズレーリ - Wiki / セシル・ローズ - Wiki / イギリス南アフリカ会社 - Wiki / | ||||||
イギリス南アフリカ会社は、1889年に設立。1894年には南東アフリカ地域を支配した。 | ||||||
セシル・ローズとイギリス南アフリカ会社 / アフリカ侵略史 ボーア戦争考 / | ||||||
ボーア戦争 -wiki / 1880年、第1次ボーア戦争。1899年、第二次ボーア戦争 | ||||||
Big Hole - Wiki / アフリカ地図 / | ||||||
先住民を追い立て、移住して居たオランダ系住民のボーア人を、ケープ植民地を作って新参の | ||||||
イギリス系移民が圧迫、領土を拡大していった。ボーア人は、北方へ大移動し、2派に分かれ | ||||||
オレンジ自由国とトランスヴァール共和国を建国した。トランスヴァールで金鉱が、オレンジ自由国で | ||||||
ダイヤモンド鉱山が発見されると、イギリスは、この地の領有を計って二度の戦争で、獲得した。 | ||||||
この戦争で、"パクス・ブリタニカ"は落日をむかえ、"栄光ある孤立"を捨て、日英同盟を結ぶ。 | ||||||
もはや、イギリス単独ではロシアのアジア進出を食い止めることはできなかった。 | ||||||
イギリス人が認める自国の最も汚い戦争は、このボーア戦争だそうだ。 | ||||||
相手が有色人種ではなく白人であったためである。 | ||||||
有色人種が "建前だけ" でも、白人と対等になったのは二次大戦以後のことである。 | ||||||
日本占領中の米軍兵士相手の飲食店でも白人用の店と黒人用の店に分かれていた。星の数の差が全ての階級社会である | ||||||
軍隊でもそんなものであった。キング牧師の公民権運動は1960年代の話である。 | ||||||
シャープビルとソウェトを見る| 奴隷海岸を見る| マウマウ団の乱のケニア山を見る | アフリカ地図 | | ||||||
ビルマでの降伏日本軍人の抑留 - Wiki / アーロン収容所 中公新書 - Google 検索 / | ||||||
ヴィクトリア期の年表 | ||||||
ヴィクトリア女王が即位した1837年、日本では3月、大塩平八郎の乱、7月、生田万の乱があった。 | ||||||
1840年、アヘン戦争(-1842年) / 阿片戦争 - Google 検索 | ||||||
1848年、マルクスとエンゲルスが「共産党宣言」を発表 | ||||||
1848年、"1848年革命"革命風潮欧州全土に拡大 | ||||||
1851年、洪秀全が太平天国の乱を起こす。 | ||||||
1853年、黒船、浦賀へ来航 | ||||||
1854年、クリミア戦争(-1856年)。1856年、アロー号事件。1857年、セポイの乱。 | ||||||
1859年、横浜港開港。1860年、桜田門外の変。1861年、アメリカ南北戦争( - 1865年)。 | ||||||
1863年、 薩英戦争 。1866年- 薩長同盟成立 / ドイツ統一戦争(普墺戦争)。 | ||||||
1867年、明治天皇が践祚。大政奉還。1868年神戸港開港。 王政復古。戊辰戦争の勃発(鳥羽・伏見の戦い) | ||||||
1869年、戊辰戦争終結 (箱館戦争終結)。 | ||||||
1870年、普仏戦争勃発。1874年、佐賀の乱 / 台湾出兵。1875年、樺太・千島交換条約。 | ||||||
1876年、廃刀令発布、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱。1877年、西南戦争 | ||||||
1880年、第1次ボーア戦争 | ||||||
1883年、鹿鳴館開館。1889年、大日本帝国憲法公布。1894年、日清戦争。 | ||||||
1898年、戊戌の政変(西太后が実権掌握)。改革は頓挫。清は滅亡へ向かう。 | ||||||
1899年、第二次ボーア戦争 | ||||||
列強のアフリカ分割(その1) / 列強のアフリカ分割(その2) / 中国利権の争奪 / | ||||||
産業革命 - Google 検索 / 産業革命 - Wiki / 世界システム論 - Wiki / 世界の一体化 - Wiki / | ||||||
アフリカ分割 当時のアフリカの領有区分(イギリス)-wiki / | ||||||
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