遠くから来て、さらに遠くへ 《追悼論文》
――石堂清倫氏の九七年の歩みを考える――
中野徹三
(注)、これは、『札幌唯物論、第46号』(2001年10月、札幌唯物論研究会刊)に掲載された中野徹三論文の全文です。このHPに転載することについては、中野氏の了解を頂いています。原文中の傍点個所は、太字にしました。
〔目次〕
(石堂論文・手紙 掲載ファイル)、(関連ファイル) 健一MENUに戻る
本年の九月一日、石堂清倫氏が遂に逝去された。この報道は、氏を知るすべての人たちの胸のうちに、深い感慨と心底からの愛惜の念を呼びおこしたにちがいない。
ほとんど一世紀に及ぶ氏の生涯は、北海道新聞の文化欄(一〇月四日夕刊)に寄せた私の追悼の一文でも述べたように、「日本社会と、この社会のつくり直しをめざす社会運動そのものの民主的革新という二重の大課題を最後まで追求し続けた、比類ない生の軌跡にほかならなかった。」
昨年暮れに、苦楽を共にした文子夫人に九三歳で先だたれた直後から、氏自身も体調を崩して清瀬市の病院に入院されたが、この前後から石堂氏を囲む勉強会・清瀬シューレにつどう市民有志が「石堂基金」を設立して、夫人の入院・治療諸費用と石堂氏が一人暮しを始めるための住宅改造費用に充てる資金の募金を始めた。この「基金」の存在を察知した氏は、強くこの「基金」を止めるよう求められたが、呼びかけた市民たちはなんとかぬらりくらりと逃げ回って、募金を続けた、ということである。こうした市民の協力によって、氏は本年に入って退院できるまで快復され、近所の医者が定期的に往診に来てくれるようになり、また住み込みのお手伝いさんも出来、このなかで、氏がかねてから念願されていた「日本軍部論」の書き下ろしが始められた。今年一月には、昨年九月に生まれた「石堂清倫氏を囲む会」での氏の講演「二〇世紀の意味」の速記録が「囲む会」により出版されたが、七月には、この講演記録と書き下ろしの日本軍部論を含む氏の最後の著作『二〇世紀の意味』が、平凡社から出版された。九七歳にして、著作を遺しうる人が他にあろうか。この書はこうして、氏を知る市民たちの献身的な協力と、氏自身のまさに超人的な意志力とによって生まれた奇跡の書であり、氏の生涯を象徴するにふさわしいといえるが、その内容もまた、一世紀に生きるすべての日本人に贈る氏の遺書として、これまでの氏の主張をその最新のかたちで凝縮させたものとなっており、最後の瞬間までやむことのなかった氏のわかわかしい探求の情熱は、読む人の胸を強く打ち、励まさずにはおかない(氏は、「石堂基金」に献金したすべての市民に本書を贈られた)。
私が石堂氏にはじめてお会いしたのは、一九八六年三月、スターリン批判三〇周年を記念して東京の中央労政会館で開かれた「フルシチョフ報告三〇周年――『スターリン批判』の意味を問うシンポジウム」であった。氏はここで「新旧スターリン主義批判のために」と題して問題提起をされ、私は「日本型スターリン主義の体験」と題する報告を行った。九〇年四月から翌九一年一二月にかけて、私が『労働運動研究』誌に九回にわたって連載した「コミンテルン七〇周年と社会民主主義再評価のために」は、東欧革命の衝撃のなかでロシア革命とマルクスの社会・歴史理論の根底的な見直しを通じて、新しい社会主義像を模索するものだったが、石堂氏はこの私の仕事に強い共感と支持の言葉を寄せて下さり、以後私は氏との間の親しい個人的な交流を行う機会に恵まれる幸せを得た。上記の労研誌論文を軸に九五年、三一書房から出した私の著作『社会主義像の転回』の帯に、氏が次のような破格の推薦の辞を寄せられたことは、私にとってこの上ない喜びであり、励ましであった。
「人類解放の唯一の道である社会主義の可能性とその方向を原理的また歴史的に論証した画期的研究がついに現れた。既成の社会主義は亡びるべくして亡びた。それに代わって人類解放の真の道である新生の社会主義の可能性とその方向を、マルクスとグラムシの革新的精神と強力な分析力に立脚して論証したパイオニア的研究。」
また、氏は『労働運動研究』誌の九五年第四号に「新しい血は新しい革袋に」と題する私の本への書評を書かれたが、そこでは氏はグラムシの東と西の「二つの革命」論にもとづいてロシアの一〇月革命を「新しい革命の世界史的段階にあって古い革命を遂行した歴史的パラドックス」としてとらえ、「私は、グラムシ思想の核心に対応する諸命題が、別の言葉で、中野氏によって提示されているように感じている」と述べられたが、これは私に本格的なグラムシ研究をうながす重要な一契機となった。
氏との文通を通じて私は多くのことを教えられ、また種々の貴重な資料も頂いたが、九四年春以降は、上京のたびに清瀬市の氏のお宅を訪問し、晩年の氏から親しくお話をうかがう機会を得た。そして、そのたびに私は、内外の社会主義運動と思想についての氏のはてしないほどの知見の広さと深さとにひたすら圧倒される思いだった。私は今更ながら、氏との対話の際、テープレコーダーを持参しなかったことを悔いている。氏はしばしば、戦前と戦後の社会主義運動の「生き証人」といわれ、そしてそのことは、氏の無数の文章によって裏打ちされてもいるが、しかし、それは単なる「博覧強記」的なものとはまったく異質であって、氏自身の豊かな体験と、何物にもとらわれない主体的で創造的な思索の所産であった。以下は、氏の諸著作、特に、八〇年代の自伝的作品である『わが異端の昭和史』正・続(勁草書房)――本書は近く「平凡社ライブラリー」に上下二巻で再刊される予定となっている――ならびに私自身が氏からお聞きした事実にもとづいての、氏の生涯と思想の発展についての、私なりの要約の試みであるが、これは二〇世紀のほとんどを――年代的にもまた時代の主要な内実についても――蔽う、類い稀れな個性の歴史である、といえる。あわせて、氏が最後に到達された思想的地点である遺作『二〇世紀の意味』についての私なりのの紹介もここに含めたい。
一九八六年に出された『わが異端の昭和史』の正篇で、石堂氏は氏の生い立ちから、戦後の一九四九年の満州からの帰国までの時期を取り扱っている。
氏は一九〇四年四月五日、石川県石川郡松任町に生まれた。この地は加賀平野の米づくりの中心地で、一五世紀後半に起こった一向一揆の拠点でもあり、氏によれば、この地の何千人という先祖は、信長や秀吉に虐殺されたという(小学五年の担任は、よく一向一揆の話をしたらしい)。氏の父君は農科大学の実科を卒業して県立農学校の獣医・畜産の教員となったが、この農科大学の先輩には、かの古在由重氏の父君でのちに東京帝大総長となった古在由直がいた。小松中学に三番で入学したが、上級生には、のちに北大で雪の研究で知られるようになった中谷宇吉郎がいたらしい。氏の中学時代にはロシア革命や米騒動があり、大正デモクラシーの盛時であったが、三年生の時、四年生の二人の級長と相談して「自我解放の宣言」を控え室の黒板三面に書き、以後連日校長室に呼び出されて自発的に消すように説諭されたが、それに応ぜず、翌週誰かが消したが、三人とも何の処分もなかったという(「天皇制の歩みをたどる」『みすず』四四四号、九八年三月)。多感な石堂少年が、大正デモクラシーと人間の自由の精神をいち早く吸収していたことを、このエピソードは物語っている。
一九二一年、一七歳の時に金沢の旧制四校に入学したが、ここの二年生には中野重治がおり、以後中野の死まで、親交が続いた。四校の時代に山川均・堺利彦編『社会主義研究』などを買い求めて、社会主義思想に触れ、二年のときに「社会主義研究会」をつくるが、社会主義思想家・運動家としての石堂氏の出発は、二四年の東京帝大文学部入学と、その直後の新人会入会をもって始まる、と考えられる。
当時の新人会は、鶴見俊輔氏が『共同研究・転向』(平凡社)でいう新人会の歴史の第二期にあたり、二二年に新人会総会で「リベツ化」(大衆化)が決定されてから、その中枢部に属する学生は福本和夫を理論的指導者として、レーニンの論文を輪読し、純正のマルクス主義者たらんと努めた。第一期(一九一八〜二二年)の、吉野作造を後ろ盾とする日本的な自由主義ならびに社会民主主義の潮流から、やはり日本的なレーニン主義受容の潮流への、同じく日本的な急転換の時期である。しかもこのレーニン主義は、ソ連の党内闘争を反映して急速にスターリン主義化されてゆく。
石堂氏は、この過程の体験を最後の著書『二〇世紀の意味』のなかで、つぎのように書いている。
「……私たちが『レーニン主義の基礎について』を受け取ったのは、まだ学生であった一九二六年の頃でした。これが新規に学習のテキストとして上部から下げ渡されました。それを見てわたしたちは違和感に打たれました。これまでわれわれが学んできたマルクス主義と違って、単純で、したがって明快なカテキズム集と映じたのです。私たちは最初、これはマルクスの体系と違いはしないかと感じました。……ところがそれに対する答えがおかしいのです。『あの壮大なプロレタリアート革命を成功させたロシア人が、われわれよりもマルクス主義の理解が乏しいと考えるのは僭越である。……スターリンはそのボルシェヴィキ党書記長なのだ。……日本のマルクス主義者が疑問をもつこと自体、まだ至らざるところがある証拠である』と。このように思い直して、『レーニーン主義の基礎について』を勉強しはじめたことを思い出します」(二二〜二三頁)。
スターリン主義に対する若い石堂氏のこの正当な直感は、戦後になって氏の理論的確信に転化するわけであるが、自立化した思想家としての氏の出発点に、大正デモクラシー期のわが国の自由主義の最良の伝統があったことは、氏の学生時代の愛読書に『共産党宣言』や『共産主義のABC』と並んで、出隆の『哲学以前』や朝永三十郎『近世に於ける我の自覚史』などがあったと、氏が記していることからも想像できる。また学生時代の石堂氏が、東京帝大文学部の英文科学生であって、卒業論文が「シェリーの散文」であったことも、やや意外な、興味を誘う事実である。
二七年、大学を卒業した氏は、関東電気労働組合で働き、同年一〇月日本共産党に入党して『無産者新聞』の編集に携わり、翌二八年の「三・一五」弾圧で逮捕され、東京市内の留置所をたらい回しされるが、この間に獄中でロシア語と中国語を独習する。
三〇年一二月、保釈で出獄後、三二年一〇月の公判では治安維持法第三条違反で懲役二年六ケ月の求刑が行われたのち、三三年六月一〇日の佐野・鍋山の共同転向声明以後始まったいわゆる「大量転向」の波のなかで、氏も「転向」を声明し、その結果三三年二月の第二審判決で懲役二年、執行猶予五年の判決が下された。
この転向問題は、氏の問題としても、また親友中野重治を含む当時の日本の共産主義者の大部分が直面した思想と人間の真に主体的=根源的な問題としても私たちすべてにとつて重要であり、この点は節を改めて取りあげたい。
判決後、氏は三四年日本評論社に入社して出版部長となり、柳田国男の談話を文章化したり、軽井沢に行く車中で近衛文麿から取材するが、二・二六事件前後には尾崎秀実とも会っている。石堂氏の「転向」が、みずからの良心にかけて正しいと信じた思想の放棄ではまったくなく、この意味では「偽装転向」のひとつであったことは、その後の氏の一貫した行動から論議の余地なく明白である。そしてそのことが、氏が、マルクス主義を教条主義的に絶対化させることから距離を置き、他のリベラルな思想をも積極的に評価できる心の広さを有していたことと無関係ではない。このことは、氏が日評時代に同社の『学生叢書』の第一巻として河合栄次郎の『学生と教養』を刊行して好評をえ、さらにこれを踏まえて同じく河合の『ファツシズム批判』『改訂社会政策原理』『時局と自由主義』『第二学生時代』(以上四著は、三八年一〇月「安寧秩序をみだす」という理由で出版法第一九条により発売禁止になった)を刊行して、ファッシズム化に抵抗した史実にも、きわめて雄弁に語られている。石堂氏は、現実には遂に成立しなかった日本型「人民戦線運動」の、出版界でのもっとも実質的な一翼だった、といえよう。
三八年に入って、氏は南満州鉄道(満鉄)調査部から勧誘を受けて入社し、大連に赴き、同調査部の資料課第一資料係主任となるが、この調査部には、周知のように、中西功、尾崎庄太郎、栗原佑、具島兼三郎、野々村一雄、西雅雄、鈴江言一、堀江邑一等々、多数の「転向」マルクス主義者たちが、その能力を買われて集められていた。そして、尾崎秀実氏が支援し、中国共産党に入党していた中西功氏が中心となって組織された『支那抗戦力調査報告』は、日本軍による中国支配の不可能性を具体的に論証するものとなり、そしてこのショックに対する軍部統制派の反撃が、当時の関東軍憲兵隊司令官、東条英機による満鉄調査部への大弾圧であって、石堂氏は四三年七月逮捕され、満州の監獄をたらい回しにされたうえ、四五年五月有罪執行猶予の判決を受け、ただちに軍に召集される。そして氏は、ハルビンで二等兵として敗戦を迎えるのである。
このように、氏の前半生は、野蛮な日本の天皇制国家権力による弾圧と、それに対する粘り強く巧妙な抵抗の連続だった。
敗戦後の満州は、「王道楽土」の美名のもとに狩り集められた日本人移民にとって、一挙に地獄の世界と化したが、敗戦後漸く大連にたどりついた氏は、大連での日本人引き上げ対策協議会経済部の責任者として、当時の札幌市の人口よりも多かった二〇万余人の大連在住日本人(大連以外からの避難民を含む)の生活と引揚のための資金を集め、収容所をつくり、全員の引揚を実らせるために奮闘し、四九年一〇月帰国する。この間、ソ連や中国の軍当局と折衝しながら続けられた活動は、最近(九七年)出版された『大連の日本人引揚の記録』(青木書店)に詳しい。一般市民とともに戦ったこうした豊かな人生経験が、戦後の氏の思想活動の土台を支えていたことを、私たちは見落としてはならない、と思う。
四九年一〇月、帰国した石堂氏は直ちに日本共産党に入党、党本部員となり、党本部のマルクス=レーニン主義研究所書記として活動を開始した。氏の『続わが異端の戦後史』(一九九〇年)は、いっさいの歪曲や隠蔽を排除しての氏が体験した歴史の真実の記録であり、前篇とともに、本書を避けて日本の社会主義と共産主義の運動について語ることは、もはや出来ないであろう。この党所属ML研究所書記以後、石堂氏は一方では社会思想研究所、アジア研究所、国民文庫社などの創立にかかわるとともに、『マルクス=エンゲルス選集』全二三巻(大月書店、五〇〜五二年)、『毛沢東選集』全四巻(三一書房、五二〜五三年)、『レーニン全集』全四五巻(大月書店、五三〜六九年)、『マルクス=エンゲルス全集』(大月書店、五九〜七五年)等の刊行と翻訳の事業に精力的に取り組み、氏の豊かな語学力とヒューマン・ネットワークを生かして、中心的な役割を果たした。
当時の自分について氏は、率直に次ぎのように述べている。
「その頃の私は、というよりは、世界の共産主義者は大体そうだろうけど、理論的には完全なスターリン主義者だった」(続、九頁)。
氏によると、『レーニン全集』も『マルクス=エンゲルス全集』も一応大月書店の商業出版物だったが、『スターリン全集』だけは共産党直営で、共産党が大月書店に命じて出版させたものだった。しかし、当時の氏はけっして「完全なスターリン主義者」ではなかった。当時党本部には三百名位の勤務員がおり、本部細胞を構成していたが、その細胞委員をどう選ぶかで論争がおこり、徳田書記長は、書記局が任命すると主張したが、石堂氏は仲間と相談して規約通り選挙で選ぶことを主張し、結局選挙となり、氏は官僚主義反対・プロレタリア国際主義をスローガンに掲げて当選した。当選した一〇名の委員中、六名は氏と同じ立場だった、という。石堂氏が私に語ったところによると、徳田書記長はこのことを機に石堂氏を恨むようになり、氏がスパイである証拠を集めるよう本部員の一人に命じたが、その人物は、調べたがその証拠が出なかった、とのちに石堂氏に告白した(続、一一〜一二頁にも同様な記述がある)。五〇年のコミンフォルム批判で党中央が分裂した直後には、宮本顕治氏が片山さとし氏と石堂氏を呼び出して分派をつくると宣言し、同年五月一日以後、氏は本部出入を禁じられた。分派騒動とスターリンの指示による「五一年綱領」と軍事方針の押しつけは、党内外にすさまじい被害を生み出し、漸く六全協によって事態は収拾に向かうが、この体験は、氏の本来の批判精神を全面的に開花させ、内外のスターリン主義の徹底的批判に進ませる決定的な契機となった。
以後の氏の広大な活動の全容に触れているいとまはここでは到底ないので、遺著『二〇世紀の意味』(『二〇世紀』と略)での氏の到達点に即して、その要約を試みよう。
氏の理論的遺言ともいうべき本書のなかで、石堂氏は、日本共産主義運動が具体的体験によって確かめられる時間もなく、ロシアの経験と「マルクス・レーニン主義」という名のスターリン主義を無批判に受取ったこと、そして六全協以後も今にいたるまで、その責任を反省していない事実を指摘する。
「主流派と国際派の分裂を反省し、新しく統一を実現するために開かれた第六回全国協議会(六全協、一九五五年)は、同時に参加者全員が一致して五一年綱領を再確認しています。この綱領が極左冒険主義の源泉の一つであることを知らないものはありません。それを確認した人にはすべて、極左冒険主義を再確認した責任を負うことになります」(『二〇世紀』四四頁)。
六全協当時、日本共産党東京都委員会の一員だった氏は、分裂の原因や極左冒険主義と五一年綱領との関係、家父長的指導が維持された原因などの解明を行わない中央指導部を批判する意見書を提出し、その内容は東京都会議の報告に取り入れられた(その一部は、続、六八〜六九頁に収められている)。五一年綱領成立の事情にかかわる氏の重要な寄与は、スターリンが手を入れたといわれるこの綱領と、一年遅れて公表されたドイツ共産党の「ドイツ民族再統一綱領」とが瓜二つであることを、対照表にして明らかにした氏の論評である(『日本共産党批判』三一書房に、佐山信次郎の名で寄稿)。
六全協後党の理論・出版活動にもどった氏は、日本共産党の理論上の島国状態を打破するために、ヨーロッパ共産諸党の出版物を入手するルートを開発、『国際資料』の発行を実現する(のちに『世界政治資料』に統合)が、かねて注目していたイタリア共産党とその「構造的改良」の路線の紹介と解説に積極的に取り組む。この過程で氏はイタリア語をマスターし、六ケ国語(英、独、露、中、伊、仏)を駆使しての氏の多面的な活動は、私たちを瞠目させるに十分だった。
六全協から第八回大会(一九六一年)までの期間は、日本共産党には、新しい党綱領を決めるという大課題があり、石堂氏は先進国革命路線の典型として世界の注目を集めていた「社会主義へのイタリアの道」(新しい民主主義の道)の研究が不可欠であると考えて、その紹介に努めたのだったが、結局それは反党活動とみなされて、理論外的な打撃を集中的に浴びせられ、氏は第八回大会直前に離党届を提出する(これに対しては何の返事もなく、のちに氏は友人から、一年あまり後の六二年に除名になったと、知らされた。続、一二四頁)。
石堂氏はさらに、ソ連のスターリン主義そのものの批判の紹介に進み、七三年から七四年にかけて、わが国左翼のソ連観を大きく変えたロイ・メドヴェーデフの大著を全訳して上梓する(『共産主義とは何か』上・下巻、三一書房。引き続いて同じ著者の『社会主義的民主主義』三一書房、七四年)。その後氏はこの仕事を発展させてソ連の反体制派の地下出版物の邦訳刊行へと進む(『ソヴェト反体制』第一・二輯、三一書房、七六〜七七年)が、八〇年代にはグラムシ研究の深化ならびにソ連でのペレストロイカの進行とあいまって、ロシア革命そのものの批判的再評価に取り組んだ。この分野での氏の先駆的業績の一つは、『レーニン全集』第四版で除かれていた、「コミンテルン第三回大会のドイツ、ポーランド、イタリア代表団との協議会でのレーニンの演説」を発見し、レーニンが西欧での「左翼的愚行」を戒め、われわれが「より日和見主義的に」行動すべきだと述べた事実を明らかにした(一九六三年)ことである。
この「日和見主義」演説を含むコミンテルン第三回大会と同年のネップ採用を氏は「一九二一年の転換」と呼び、以後その意義を随所で強調するが、今回の『二〇世紀の意味』では、「レーニン主義」はこの時点で消滅した、とまでいい切る(『二〇世紀』、二五頁。この「転換」については当然種々の評価がありうるが、氏の主張が、ロシア革命のロシア的特殊性を普遍性にまで高め、絶対化したスターリン主義を批判し、西方の発達した文明諸国の革命のグラムシ的展望と対比して、その意義を相対化するところにあったことは、いうまでもない。そして最後の著作『二〇世紀の意味』では、この観点をさらに進めて、ロシア革命でのレーニンやトロッキーらボルシェヴィキ主流によるボルシェヴィキ単独の武装蜂起戦術の批判に通ずる、次の主張を行っている。
「たしかに市民社会的要素の希薄なロシアでは、上部構造を極度に緊張させることによって補う必要がありました。それは歴史的に止むをえないことであったかもしれません。しかし、それだけでは世界史的方向と結びつくことはできません。そこでは上部構造を下部構造に密着させる可能性を発見し、新しい民衆文化をつくり出す必要があったのです。
昨日の共産主義者が今日の『日和見主義者』にならなければならなかったように。だから憲法制定会議を解散したり、メンシェヴィキや左翼SR(エス・エル)を敵に回すのではなく、これらの統一戦線をつくるべきであったという認識に達したに等しいのです」(『二〇世紀』四三頁)。
この思想は、『社会主義像の転回』のなかで制憲議会問題についてのボリシェヴィキの態度の変遷を検討しうたうえでの私の主張と、完全に一致する。そして石堂氏がレーニンらの革命理論を批判的に相対化するうえで、決定的な意味を担ったのは、スターリン主義を獄中から事実上批判して、ロシアとは質的に異なった西方の文明諸国の社会主義的革命のありかたを原理的に探求した、グラムシの『獄中ノート』との氏の出会い、であった。イタリア共産党の戦後の路線とその最大の思想的源泉であるアントニオ・グラムシの思想の研究と紹介において石堂氏が果たした巨大な先駆的役割については、いまさら私がここで強調する必要はないであろう(翻訳、トリアッチ『平和論集』国民文庫、五五年、訳編『現代革命と反独占闘争』合同出版、六〇年、解説『グラムシ選集』1、合同出版、六一年、訳編『現代の君主』青木文庫、六四年、『グラムシ獄中ノート、三一書房、七八年等々』)。これらの仕事は、わが国でのグラムシ研究の道を開いた画期的な業績であり、私も参加した九七年の「グラムシ没後六〇周年記念国際シンポジウム」(東京、イタリア会館)でイタリアのグラムシ研究所長(当時)ジュゼッぺ・バッカはシンポジウムのレセプションの冒頭の挨拶で、石堂氏を「世界で最長老のグラムシ研究家」と呼んだ。氏の研究は、とかくアカデミズム的=文献解釈学的になりがちなわが国のグラムシ研究者たち――同じ傾向がイタリアにも生じていることを、片桐薫氏も指摘しているが――と違い、現代世界変革という強い実践的志向に貫かれている(「最近でも、現実と切り離して、純粋理論的に思想家としてグラムシを読むという読み方がありますが、……私にはレーニン死後の共産主義連動の内部的な自己批判として読んだ方がわかりよいんです。」『二〇世紀』、九八頁)。
この観点から氏は、グラムシが市民社会と国家の歴史的関係、民衆の同意を獲得するヘゲモニーの役割の重要性(土台と上部構造の「歴史的ブロック」)から出発して到達したヨーロッパ革命の次の「二つのサイクル」に注目する。
@ フランス大革命に始まり、一八四八年の最高潮を経て、一七七〇〜七一年のパリ・コミューンをもって閉じる、機動戦型=永続革命型のサイクル。
A 「パリ・コミューン」以後の陣地戦型のサイクル。「一八七〇年後の時期になると、ヨーロッパの植民的膨張にともない、これらすべての要素が変化し、国家の国内的および国際的な組織関係がいっそう複雑で、どっしりしたものとなり、『永続革命』の四八年方式は、政治学では『市民的ヘゲモニー』の定式にねりあげられ、のりこえられた」(石堂訳『獄中ノート』二〇一〜二〇二頁。ジェルラターナ編、原著、一五六六頁、強調引用者)。
氏はここから、八〇年代にロシア革命を「……一面では『永続革命』の継続であり、一面では新しい社会主義革命の発端でもあった」と規定したが、かの二一年の「日和見主義演説」は、この転換についてのレーニンの認識のはじまりとしてとらえられる(『異端の視点』勁草書房、八七年、三頁。この視点から晩年の氏はさらに、一八七〇年以降にビスマルクが導入した一連の社会政策のもつ意義と、これに対抗できなかったドイツ社会民主党の問題(綱領の「革命的立場」と運動の改良主義の分裂)を追求しており、また二〇世紀資本主義が新技術を活用して労働者をとり込む「フォーディズム」(グラムシの命名による)の役割に注目する(『二〇世紀』一三九〜一五三頁)。またイギリス人がインド各地に設けた診療所が死亡率を激減させるなど、帝国主義の上からのヘゲモニーへの「対抗」が、非暴力的抵抗のガンジー主義だった事実を、インドとアフリカを含めたグラムシ研究者たちの共同労作の紹介を通じて解明しているが、九〇年代の末には、国際関係論にヘゲモニー論を適用したグラムシアンの最新の仕事にも眼を配っている(『二〇世紀』一六四〜一六六頁、他)。
民衆の同意の獲得と、可能な限りの暴力の抑制という陣地戦での勝利の条件(「市民的ヘゲモニー」)は、とりも直さず、徹底した民主的変革の道である。この立場から、氏は全人類的価値はプロレタリアートの利益に優先するというゴルバチョフの「新しい思考」の画期的意義を、九七年の国際シンポでの特別講演「遠くから来て、遠くに行こう――グラムシに導かれて」で強調される。
「不破氏は、全人類的価値はプロレタリアートの利益に優先するという出発点に反対している。それは社会発展の原動力である階級闘争を抑制する反歴史的な結果を招くというのである。階級闘争が社会発展のための行動の一つでありえた時代には、人類共滅の引金となる核戦争は存在しなかった。……階級闘争の形態で遂行されてきた社会の改革は、今では別の方向と手段によらなければ果たしえなくなっている。このほかにも地球温暖化をはじめ環境問題、食料、労働力移動、防疫などのひろい範囲の問題があり、わけても女性解放問題の根本的解決のための国際協力の問題は、階級や闘争の次元を超えてとりあげられなければならない。それがゴルバチョフの主張であろう。それを反駁するのに、古い時代のレーニンに依拠すること自体アナクロニズムになる。……一九八六年一一月に、インドのニューデリーでゴルバチョフとインドのラナバジク・ガンジーとが共同宣言をしている。それは、人類の存続を確保すること、非暴力を人類共同体の活動の基礎にすることを含む一〇項目からなっていた。それは国際関係を律する道徳的・倫理的規範として歴史的時点をこえて高く評価されるべきものであった。」
悪夢のようなアメリカでの同時多発テロの遠因をなした旧ソ連の恥ずべきアフガニスタン介入をようやく中止させたのも、ゴルバチョフだった。彼に対する皮相な評価が旧ソ連内外で広がっている時、石堂氏の「ペレストロイカ=新思考」論は、まさに人類史的視座から吟味されるべきである。
さらに遺稿『二〇世紀の意味』で氏は、ソ連型「社会主義陣営」の突然の消滅という「誰一人として予想しなかった現象」が「マルクスの原思想の見直しをさえ要求するものでした」と記し、「階級闘争の思想もその一つです。……階級闘争は一定の歴史的事実であて、社会発展の原理だったわけではないということです」(六六〜六七頁、強調は引用者)と述べる。
狭義の哲学の相面では、グラムシがラブリオーラやクローチェを継承して展開した「実践の哲学」は、「マルクス=レーニン主義」哲学の側からは「観念論的」等々の批判を浴びせられたが、ヘゲモニー論を支えた意識とイデオロギー形態、文化の創造性の解明や、「歴史的ブロック」の提起が、マルクス主義哲学の革新に果たした役割は大きい。氏はこの方面については謙抑に多くを語らなかったが、私たちの印象に強く残っているのは、マルクスとエンゲルスの「哲学的同質性」に対する『獄中ノート』の鋭い批判に注目を促した、氏の指摘だった(その最新のものは、氏の論文『情況』九六年五月号の「エンゲルスとグラムシ」であり、これは前年に出た『エンゲルスと現代』御茶の水書房、の書評を兼ねている)。なお、九八年に『ネアンデルタール21』誌第四号に書いた論文「グラムシの哲学とマルクスの哲学」(上)で私は、『獄中ノート』のなかでのグラムシの人間定義――「人間とはひとつの過程である、正確には、かれのおこなう諸行為の過程である」(原書、一三四五頁)――と、『ドイツ・イデオロギー』におけるマルクスの人間定義――人間の存在とは、かれらの現実的な生活過程である」――とを対比し、両者の根源的一致を論じた。(なおここで私は、『ドイツ・イデオロギー』のなかのこの命題がエンゲルス出自でなく、マルクス出自であることをあわせて論証した。奇妙にもわが国では、人間についてのグラムシとマルクスのこれらの根本的規定の意味が、ほとんど深く考察されていない。)以下は、石堂氏が私のこの小論について寄せられた書簡の一部であるが、学生時代の氏と、同時代の新人会の様子がよくうかがえる興味深い感動的なものなので、ここに紹介させていただく次第である。
「……『グラムシの哲学とマルクスの哲学』(上)は、こんな背景があって胸にひびくものがありました。……人間=生活過程論はすでにうかがっていましたが、『ドイツ・イデオロギー』についての吟味は、きっと多くの人にとって指針になると信じます。私の世代のものは『ドイツ・イデオロギー』に接する前のものですが、それでも『独仏年誌』、『聖家族』などをつうじて暗中模索していたものです。ことに『ヘーゲル国法論批判序論』のなかで、理論が大衆をつかみうるためには、人に訴えるように(ad hominem)論証をおこなう必要があるというくだりを議論しあった時代を思いだします。そこにいた学生のうち最年長は二十三才の中野重治と二十二才の西田信春、大部分のものは私のように二十一才になったばかりのものでした。アド・ホミニムのラテン語はよくわかりませんでしたが、人間は、理論だけでなく感情も具えている。理だけでなく情をあわせて、人間を行動させること、つまり全人間的にという意味であろうと言いあったとき、一同が文字どおり歓喜したことを思いだします。それを書いたマルクスは二十五歳なのです。マルクスのこの見解は『現実的人間主義』『積極的人間主義』などいろいろに表現されましたが、『ドイツ・イデオロギー』や『経済学・哲学手稿』でもおなじ発展があったことはあとになって知りました。当時それにヒントを与えた(?)のは福本和夫さんの『理論闘争』でした。グラムシを知ったのはずっとあとですが、今日の社会の歴史的変革を遂行するには『国民的・民衆的』規模での『知的・道徳的改革』が前提となると表現されるまで、どれだけの人びとの犠牲があったのかわからないと思います。……六十年ののちに、私たちは人間=生活過程について再現されたことはじつに大きな意味があると信じます。グラムシ・シンポジウムがその機縁になるとすれば思わざる幸運でした。私はその幸運に浴することができましたが、そのよろこびを語りあうべき友たちはすべてはやく去っています。わたしはまもなく去ってゆきますが、それまでのあいだ何とか教えていただくことができればこんなありがたいことはありません。
一九九八年五月十一日 石堂清倫」
氏は遂に去られた今、わたしたちは氏の大いなる仕事を継承・発展させるべく、どれだけ仕事が果たせるであろうか?
すでに予定の紙幅を超えたため、「転向」問題をめぐる氏の立論――遺著に収められた『転向再論――中野重治の場合』はこの問題について氏の最新の論稿である――を詳しく紹介するいとまがないので、読者諸氏はぜひ直接『二〇世紀の意味』に接していただきたい。
だが、私はここで強調したいことのひとつは、石堂氏は、いわゆる「転向者」の一人でありながら、この問題を一貫して公平な態度で見すえ、考察しつづけてきたほとんど唯一の人だった、という事実である。『異端の視点』に収められた「転向について」をはじめ、『中野重治と社会主義』(勁草書房、九一年)での中野重治の転向問題、『思想と人間』(角川書店、七四年)に収められた鍋山貞親、福本和夫を含む当事者との対談等は、氏のこの熱意と公正さの証示であるが、それは、「転向対非転向」という不毛の二分法ですべてを割り切る形而上学的発想を批判し、問題が生じた全状況とのかかわりにおいて個別の事例を具体的に験証し、判断しようとするものであった。『中野重治と社会主義』のなかで氏は、わが国の「転向」の特殊性として、それが上から、最高の指導部から生じ、したがってそこから大量の「集団転向」が生じたことを指摘する。「最上層がもっとも弱い組織環であったということは、世界的にも異例ではなかろうか。党員の大部分は腹背から攻撃を受けて、戦意を喪失したようなものであった。」(一二〇頁)そして、これは、コミンテルンによってつくられ、「外から」方針(君主制廃止など)も与えられて現実に根ざした方針や活動形態も創造できなかった日本の共産主義運動自身がうんだ現象だった。氏自身は検挙されても、党組織について一言も述べず、検事には一言も物を言わなかったから検事聴取書もなかったが、予審判事から差入れられた佐野学予審調書では、佐野は一年もまえに石堂氏の党籍を認めていてショックを受けた、という(『異端の視点』二四一〜二四二頁)。
「……共産主義運動というものは、悪いことをしなかったかどうかで判断するのじゃなくて、何をやったか、日本社会の歴史のなかにどういうツメあとを残したか、ということで判断しなきゃならないんだけれども、それは運動全体を通じて非常に乏しかった。つまり、正しくあったのか、なかったのかということを証明する積極的な事実というものは非常に少なかった。だから判断の基準に、転向したか、しなかったかというような、ポジティブじゃなしにネガティブな側面に限られてきた」(『思想と人間』七〇頁)。
「転向再論」では、これらの諸点を総括したうえ、中国革命における中国共産党指導部の「反共啓事」対応問題の姿勢と対比させる。
蒋介石政府は一方で苛烈な弾圧を強行し、他方では逮捕した共産主義者を懐柔する方策を考案した。共産党員が、悔悟し政治運動を放棄することを約するならば放免してもよいという制度をつくった。それには自発的に「反共啓事」に登録し、署名捺印する方式が定められていた。劉少奇は、容易に応じなかった在獄の同志たちに手紙を送り、「新しい政治情勢と任務の必要にもとづき、また諸君が長期の闘争の試練をうけていることを考慮し、党は、諸君ができるだけはやく党活動ができるようにするため、諸君が敵の規定する出獄の続きを実行してよいだけでなく、実行しなければならないと認める。……」と記した。これによって一九三六年から三七年にかけて、博一波や楊献珍(のちのマルクス=レーニン主義研究所長)はじめ六一名が出獄したといわれる。戦後、「文化大革命」のなかで紅衛兵たちは、この問題を劉少奇の「反党行為」の一例に仕立てようとしたが、その企ては結局は失敗した。そして、石堂氏がこの劉少奇提案を引いたことは、転向問題をいっそう深い人間的次元で再考する視点を与えた、といえる。この論文の末尾を氏は次のように結んでいるが、これは戦後を含めてわが国の運動と人間の根底に触れる問題といわなければならないだろう。
「わが国の共産主義運動には、他に例のない現象があり、参加者がほとんど逮捕されたのに、逮捕された瞬間に党が見捨てるのである。戦争で捕虜になった者が見捨てられるのに酷似した不文律である。おかしいと感じても誰もそれを論じなかったのである」(『二〇世紀』一一九頁)。
鶴見俊輔、鈴木正、いいだもも三氏が本年刊行した『転向再論』(平凡社)は、石堂氏の転向論に大きく啓発されて生まれた書であり、石堂氏に捧げられたものであるが、この問題についての氏の仕事を補い発展させる積極的な試みとして、伊藤晃『転向と天皇制』(勁草書房、九五年)とともに私たちの検討に値する。
なお、『二〇世紀の意味』には、かねて氏が構想されており、昨年末から来年にかけて病中の九七歳の体を鞭打って渾身の書きおろしをおこなった日本軍部論が収められている。このなかには、満州事変前夜に軍が在郷軍人会などを動員して行った「満蒙処理=日本の土地問題解決」の全国的カンパニアと、これにまったく無策かつ無力であり、したがって以後ウルトラ・ナショナリズムに抵抗できなかった日本の左翼運動の敗北の教訓が、グラムシのヘゲモニー理論の一実例として描かれている。そしてここでの氏の透徹した日本軍部批判の内容は、「大東亜戦争」を極力合理化しようとする「新しい歴史教科書」が出現した今、国民すべての必須の常識となるベきもの、といえる。
遠くから始まった氏の長い旅の足跡は、遂にとまった。だが、氏が「異端」の身を賭して切り開いた小径は、今は変革の正道として、二一世紀の遥か前方にまで続いている。私たちはこの道をどこまで先に歩めるであろうか。
(なかの てつぞう 札幌学院大学名誉教授・社会思想史)
(注)、最初の4つは、『20世紀の意味』(平凡社)第1〜4章の内容です。
『20世紀の意味』 「永続革命」から「市民的ヘゲモニー」へ
『20世紀を生きる』 特別インタビュー 著書は「評論」形式に変更
『ヘゲモニー思想と変革への道』 「世界」1998年4月号
『コミンフォルム批判・再考』 スターリン、中国との関係
『上田不破「戦後革命論争史」出版経緯』 手紙3通と書評
ロイ・メドヴェージェフ『1917年のロシア革命』 石堂インタビュー、挨拶
(関連ファイル)
有田芳生 『私家版・現代の肖像 石堂清倫』
加藤哲郎 『石堂清倫著「20世紀の意味」書評』
東京グラムシ会 グラムシ思想案内、グラムシ研究、リンク集
石堂氏の略歴、主要著作リスト、功績の要点
東京グラムシ会会員、田之畑高広HP グラムシ案内、研究