大須・岩井通りにおける騒擾状況の認否

 

謎とき・大須事件と裁判の表裏 第3部2・資料編

 

(宮地作成)

 〔目次〕

   1、大須事件当日における2勢力の指揮・連絡体制 (別ファイル)

   2、中署・アメリカ村火炎ビン攻撃作戦の中止→東進へのデモコース変更

   3、平和デモ東進の250m・5分間の状況

   4、デモ隊250m地点到達からの1分間の状況

   5、崩壊デモ隊員による投石・罵声などの散発的抵抗

   6、大須・岩井通りにおける騒擾状況の認否

 

   7、〔資料1〕デモの性格・進路変更内容とその誤算

   8、〔資料2〕放送車内に投入された火炎ビン本数=2本

   9、〔資料3〕火炎ビン投入者=警察スパイ鵜飼照光

  10、〔資料4〕清水栄警視の拳銃5発連射状況の証言

 

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    (謎とき・大須事件と裁判の表裏)

    第1部 共産党による火炎ビン武装デモの計画と準備  第1部2・資料編

    第2部 警察・検察による騒乱罪でっち上げの計画と準備  第2部2・資料編

    第3部 大須・岩井通りにおける騒擾状況の認否  第3部2・資料編

    第4部 騒擾罪成立の原因()=法廷内闘争の評価  第4部2・資料編

    第5部 騒擾罪成立の原因()=法廷内外体制の欠陥  第5部2・資料編

 

    被告人永田末男『大須事件にたいする最終意見陳述八・九』宮本顕治批判

    元被告酒井博『証言 名古屋大須事件』歴史の墓場から蘇る

    元被告酒井博『講演 大須事件をいまに語り継ぐ集い』質疑応答を含む

 

    (武装闘争路線)

    『「武装闘争責任論」の盲点』朝鮮侵略戦争に「参戦」した統一回復日本共産党

    『宮本顕治の「五全協」前、スターリンへの“屈服”』宮本顕治の大ウソ

    伊藤晃『抵抗権と武装権の今日的意味』武装闘争方針の実態と実践レベル

    大窪敏三『占領下の共産党軍事委員長』地下軍事組織Y

 

    (メーデー事件、吹田・枚方事件、白鳥事件)

    『「藪の中」のメーデー人民広場における戦闘』共産党の広場突入軍事行動

    『検察特別資料から見たメーデー事件データ』

    増山太助『戦後期左翼人士群像』「日本共産党の軍事闘争」

          増山太助『検証・占領期の労働運動』より「血のメーデー」

          丸山眞男『メーデー事件発言、共産党の指導責任・結果責任』

    滝沢林三『メーデー事件における早稲田大学部隊の表と裏』

    脇田憲一『朝鮮戦争と吹田・枚方事件』

    中野徹三『現代史への一証言』白鳥事件、「流されて蜀の国へ」を紹介

          (添付)川口孝夫「流されて蜀の国へ」終章「私と白鳥事件」

 

 7、〔資料1〕デモの性格・進路変更内容とその誤算

 

 (宮地コメント)

 

 これは、最高裁に出した『上告趣意書』における永田末男『被告人の上告趣意』(1976年10月29日付)の一部抜粋(P.43)である。共産党は、彼を、11年前の1965年に除名していた。その後1966年、彼を被告団長からも解任した。その上告趣意において、彼は、被告・弁護団や被告団長芝野一三と異なる意見を提出している。その個所を、番号付の赤太字にした。それら相違点は、『第4部』の裁判闘争方針をめぐる問題点の検討で行う。

 

 永田末男が、『被告人の上告趣意』によって明白にした事実は、3つある。

 第一、名古屋市ビューロー地下指導部とビューロー・キャップ永田末男は、午後9時頃、第2地下指導部にいた軍事委員長芝野一三に「火焔瓶を全部球場に捨てるよう」指示した。その指示内容は、芝野一三→福田譲二→大須球場内の軍事委員渡辺鉱二に伝わった。

 

 第二、芝野一三は、大須球場内の現地指導部に行っていなかった。彼は、第2地下指導部にいて、その指示を福田譲二に指令して、大須球場内に伝えた。しかし、永田末男は、第2地下指導部を設置していた旅館名を挙げていない。一方、芝野一三は、『被告人の上告趣意』において、「八木旅館」と証言した(P.2)。

 

 第三、「火焔瓶を全部球場に捨てるよう」指示した内容にたいし、芝野被告は、「記憶がアヤフヤ」と公判で証言した。彼がそれを忘れたはずがない。一言だけ言えば、それは、共産党が、「火焔瓶を捨てるという指示が証明する火炎ビン武装デモの計画・準備」の存在を全面否認せよとの指令に芝野被告団長が服従したことを暴露している。

 

 永田末男『被告人の上告趣意』の一部抜粋

 

 (1)火焔瓶についても、私は全部球場に捨てるよう芝野被告に指示した。この点について、(2)芝野被告の記憶がアヤフヤであるからといって、私が指示しなかったと、いうことにはならない。判決は「同被告人(芝野)がこれを記憶していないということは、如何に二二年の時日を経過しているとはいえ、とうてい考えられないところである。」と断定的に云うがそんな事を裏ずける心理学かなんかの著書でもあるならば承りたいものだ。(2)芝野被告も全く記憶していないわけではないが、ハッキリしないだけなのだ。これは、むしろ芝野被告がウソのつけない男だという証拠にはなっても、記憶の悪い男だということにはならない。

 

 まして、このことから私の言ったことが無かったことになるという証拠にはならない。渡辺被告人、福田証人たちも、火焔瓶は携行しないとか、火焔瓶の使用を禁ずるということを記憶している旨の供述、証言があるのであるから、裁判所の断定は独断がすぎるというべきである。

 

 ただ芝野一三被告についての事実誤認について一言のべておきたい。判決では被告人芝野は球場の現地指導部へ行き、色々協議をとげたことになっているが、これは事実に反し、絶対にありえないことを断言する。彼は当時の日共名古屋市指導部のいわゆるビューロー員の一人であり、他の指導部員同様非公然活動に携っていたものであって、(3)直接大須球場内へ出向いて指示を与えるようなことはタブーだつたからである。われわれ同様、迂遠でもレポーターを使ってしか下部への連絡はできないからである。

 

 裁判所は、この点について直接の証拠がないので、推認にたより、それでも不安を感じてか、卑怯にも、芝野被告が直接出向かなかったとしても「結局は被告人芝野が右指令を下部組織に伝えた点では実質的な差異はない。」とまでいい、さらに「被告人芝野が被告人金泰杏等の右協議決定参与していなくても、被告人芝野の刑責に消長を来すものでもない。従って右程度の事実誤認は判決に影響を及ぼすというに足りない。」とむすんでいる。まさに切り捨て御免の論理である。

 

 

 8、〔資料2〕放送車内に投入された火炎ビン本数=2本

 

 (宮地コメント)

 

 これは、『真実・写真』(P.50)に載った文と火炎ビン2本の写真である。警察・検察と裁判所とも、警察放送車に投入された火炎ビンは、10本以上と証言し、断定してきた。その一方で、警察・検察は、自分たちに有利な物的証拠となるはずの放送車内の火炎ビン破片をなくしたと真っ赤なウソをついて、証拠隠滅という国家権力犯罪を、事件後21年間も続けてきた。

 

 放送車に投入された火炎ビン本数の真実は、2本だけだった。その真相が判明したのは、事件から21年後にもなった1973年である。それは、控訴審の最中だった。ところが、大須事件の真実が続々と発掘され、警察・検察側主張のぼろ・矛盾が多数出てくるに及んで、名古屋高裁裁判官は、1974年3月26日、突如、残る証拠調べを取消または却下し、事実調べ終結を宣告した。同7月1日、弁護側が、放送車の写真鑑定をした2人の証人調べを請求した。その4日後、裁判官は、その請求も却下した。名古屋高裁は、1975年3月27日、控訴棄却をし、91人に騒擾罪成立の有罪判決を下した。

 

 二十一年間隠されていた火炎ビン片

 

 放送車内の火炎ビンは、二個しか最初からなかったのだ。だからこの物証をかくしてしまった。そして、証拠かくしの権力犯罪をさらにかくすため、検事は二十一年間も「最良の証拠を失った」と法廷でウソをつき、なげいてみせていたのだ。

 放送車に「一〇発もなげ込まれた」と清水警視に偽証させたが、カケラ一個の証拠もないことを法廷で追及され、いたたまれず二十一年もたってからあぶり出されるように出してきたものである。

 

説明: kaen1  説明: kaen2

赤色線カラーで写したもの、二種に分かれる         1個は組立て可能

 

 

 9、〔資料3〕火炎ビン投入者=警察スパイ鵜飼照光

 

 (宮地コメント)

 

 『第2部2・資料編』で、鵜飼照光のことを載せた。ここでは、それ以外のデータを挙げる。

 『控訴趣意書』(P.286〜292)は、警察放送車内にたいする火炎ビン投入の瞬間について、それを目撃した証言を、12人の証言として載せている。そして、(P.295〜297)において、投入者は、警察スパイ鵜飼照光だとする根拠を、(1)彼自身の警察尋問調書多数と、(2)起訴前の検事調書、(3)共産党愛日地区軍事委員長森錠太郎の証言多数によって、詳細に証明した。

 

 1、『控訴趣意書』の結論

 

 鵜飼照光は、検察官の取調(起訴前の)において、同人の行為は率先助勢に該当すると言われており乍ら(公外78号647、648)、遂に騒擾罪としての起訴を免れたのであるが、そのような起訴免除を受けるべき理由は同人が本件当時からスパイであり、最初に放送車に対して火焔瓶を投げたこと以外にない。さればこそ、原審検察官は最初に火焔瓶を投げたものを故意に特定しようとしなかったのである(P.296)

 

 2、名古屋高等検察庁『大須騒擾等被告事件答弁書』

 

 これは、被告・弁護団の『控訴趣意書』にたいする名古屋高検の答弁内容(P.321)である。

 

 所論は、放送車に対して最初に火焔瓶を投てきしたのは鵜飼照光であるというが、同人に対する証人尋問調書(期日外三七・一〇・四及び三七・一二・六)によれば、同人は火焔瓶を投てきしたかについて明確な供述をしていないけれども、問答内容を詳細に検討すると、火焔瓶投てきを必ずしも否定していないところから、探津・福岡・加藤らと一緒に放送車に殺到し、これらの者と一緒に火焔瓶を投げた模様である。

 

 しかし、同人が最初に火焔瓶を投てきし、他の者がこれに誘発されたと、いうがごとき証拠は全くない。所論は、鵜飼照光は当時警察のスパイであったというが、同人が国警春日井地区警察署の深尾という警察官と接触したというのは、昭和二七年九月以降と認められ、本事件当時に接触があったと認める証拠はなく、同人が警察の意を受けて放送車に火焔瓶を投げたというがごとき主張は、全く根拠のない独自の推測に外ならない。

 

 3、『上告趣意書』の該当個所

 

 これは、最高裁に提出した『上告趣意書』の内容(P.197〜198)である。

 

 デモの先頭から一五、六列目(鵜飼照光の昭37・12・6尋調一八八、一九〇)に位置して(先頭部分)、行進をしていた鵜飼照光は、他の数名の者と一緒に自ら火焔瓶を持って警察放送車に「駈け出し」、「殺到して」、車内に火焔瓶を投げ込んだのであった(六二五、同人の昭37・10・4尋調一四八)。同人は少くとも同人自身の供述によれば原判決も認定するように大須事件直後の昭和二七年九月頃、警察の協力者・スパイとなったものである。

 

 しかし、プラカード(これは棒である)で窓を破ったとか、放送車の窓硝子が割れたとか(昭37・10・4尋調一四八〜一六一)、殺到して窓を割って火焔瓶を中に放り込んだ等(昭37・12・6尋調六二五〜六四四)、原判決判示の最初の放送車に対する攻撃状況の部分供述をしていることと大須事件直後右恐怖心が原因で自ら積極的に警察の保護を求めたという、自ら述べる事情などからすれば、右鵜飼昭光こそ放送車内に火焔瓶を投げ込んで発火させた張本人である疑いは極めて高い。というより、そう推断してよいであろう。

 

 むしろ、厳密にいえば、前示の通り、原判決認定の解読によれば、最初の火焔瓶投擲は二名の者による二個、石と棒による窓硝子の破壊という攻撃状況なのであるから、警察放送車への暴行はこの鵜飼昭光を含む二、三のデモ離脱・駈け出し・殺到分子によってなされたというべきである。而も、鵜飼らの右行為にかかわらず、デモ行進は行進を続け、その間警察放送車の車内発火は消火され終ったのであった。

 

 右鵜飼昭光は片山博ら被告人と異なり、その供述によっても「未だ発火をしていない時期」の警察放送車を認めての、デモが崩れかかってもいない時点での、デモの列から駈け出しての火焔瓶の車内投入であり、而も投入・発火と同時に同様デモが崩壊しかかってもいないのに、一目散に逃走し、デモ行進から脱走したのである(昭37・10・4尋調一六四〜一六八、昭37・12・6尋調六二五〜六二七)。これに対し、片山博らは、「発火した」警察放送車を目撃しての、デモ崩壊の中における火焔瓶投擲であり、それもせいぜい路上発火、そして全デモ参加者とともに潰走し、デモ行進の消滅と運命をともにしたのである。

 

 

 10、〔資料4〕清水栄警視の拳銃5発連射状況の証言

 

 (宮地コメント)

 

 『第一審判決』『控訴審判決』とも、清水栄警視の証言を基にし、その内容を真実と認め、警察放送車内の火焔瓶発火前後における現場状況を認定した。彼は、騒擾罪でっち上げの最前線指揮官だった。放送車内の火焔瓶2本発火という第一合図と並んで、彼は、拳銃5発連射によって、武装警官隊4大隊980人にたいし、大須・岩井通りで250m範囲に伸びきったデモ隊真横の北側車道から、いっせい側面襲撃をせよとの第二合図発令者という最重要任務を帯びていた。彼は、名古屋市警警視21人において、「あの人は非常にしっかりしているから」と選抜され、期待されたエリートだった。

 

 警察・検察が事前に予想したとおり、被告・弁護団は、最前線指揮官としての清水栄警視を、公判に呼び出し、何度も証人尋問をした。彼は、第一審公判において、1955年5月31日付108回公判調書証言から、1957年2月23日付140回公判調書証言にかけて、6回の法廷証言をした。

 

 証言を重ねる毎に、彼の証言内容のぼろ・亀裂が露呈されてきた。

 第一、彼は、法廷証言において、当初の「偽証」内容である「暴徒に包囲されたので拳銃を5発連射した」ことを、自ら否定した。

 第二、『控訴審判決』は、彼の「第2偽証」内容だった「自分一人が孤立した状態にあって攻撃を受けたので、暴徒へ向けて拳銃五発を発射した」ことに言及せず、その孤立状況の存在を否定した。

 

 名古屋市警宮崎四郎本部長の人選基準=「清水栄警視なら、公判で被告・弁護団から鋭い追求を受けても、平然と、立派な偽証を続けられるであろう」という目論見が外れた。検察庁・警察庁は、これ以上、彼を公判の証言台にさらしたらまずいと悟って、清水栄警視を失踪させ、死亡扱いにし、お墓まででっち上げた。よって、被告・弁護団が、第二審公判1967年5月11日第60回準備手続きにおいて、彼に再度の証人尋問を申請したが、警察・検察は、行方不明として、最大の証拠を隠蔽した(『上告趣意書』P.240)

 

 1、『第一審判決』の該当個所

 

 右放送車に対する火焔瓶、石等の攻撃により、車内で解散勧告の放送をしていた清水栄の腰に火焔瓶一個が当って発火したため、被服がボロボロになって肌が見える程になり、野田衛一郎は顔面に火焔瓶の溶液を浴びて加療一週間を要する第一度火傷、巡査部長沢田蜂雄及び巡査横井一男は硫酸の飛沫により顔面に軽度の火傷、岡林惣一は車内の消火を手伝うため乗車しようとした時足もとに火焔瓶が破裂して、左下肢、右手背に安静加療二週間を要する第二度火傷を受けたほか、野田、林、沢田の被服は火焔瓶の火焔及び硫酸のため上下共ボロボロになり、横井のズボン及び靴は使用に堪えなくなり、放送車は火焔瓶、石等を投擲されたため、後部窓硝子一枚、右側窓硝子四枚が破損し、車内の長腰掛及び床板は硫酸と火焔のため黒焦げとなった(P.124)

 

 清水栄は前記のように、放送車より下車して、警護員等と共に放送車を裏門前町交叉点東北角附近に退避させた後、さきに下車した部下の安否を気遣うと共に暴徒を逮捕する目的で、岩井通り車道の北側を百米余西に向い、途中火焔瓶一、二個、石数個を投げつけられて、前記空地北側車道附近まで来ると、その附近では既にデモの隊列が崩れていたけれども、多数の群衆が南側の車道及び歩道上に群がっていて、空地前にあった後藤信一管理の乗用車に火焔瓶を投げつける者があり、その後これを消していた二、三名があった。

 

 けれども、赤旗、プラカード等を持った者を含む五、六十名がさらに乗用車に放火しようとする気勢を示し、北側軌道上に進み出た清水栄に対して盛んに投石し、うち一個が同人に当って全治五日を要する右前胸部挫傷の傷害を与えるに至ったので、同人は自分一人が孤立した状態にあって攻撃を受け、かつ暴徒がなお乗用車に火焔瓶を投入しようとするような勢を見て、これを防止するためには拳銃を発射する以外に方法がないと判断し、午後十時十五分頃右軌道上より、西南方の前記気勢をあげていた暴徒へ向けて拳銃五発を発射したところ、これらは前記空地及び西方に後退した(P.127)。

 

 2、『上告趣意書』の該当個所

 

 「第八項、清水の拳銃発射は暴虐極まるものであった。」

 

 原判決の「相当性」の判断(P.336)

 ()原判決はさらに、清水栄は「発射前撃つぞと警告し、発射の効果をも確認しつつ必要な範囲で拳銃を発射した」と判示する。しかし、事前警告はそもそも証拠上認められるか。清水一審一三四回公調証言は次のとおりである。

 

 (弁護士) あなたは、その拳銃を発射される前にこれこれのことをしないと拳銃を発射するぞ、とか、撃つぞ、というような、いわゆる警告を群衆に対してなさったわけではないんですね。

 (清水) 群衆に対して、撃つときには、撃つぞということは言っておりますが、あらかじめ警告して撃つというような事態でもなければ、そのあれじゃないので、そうしたことは言っておりませせん。

 

 (弁護士) 撃つぞといって、いわゆる警告をして、それから、その群衆がそれに対して何らかの態度に出ない、そういう事情のもとで、あなたが発射したということではないんですか。

 (清水) 発射前に撃つぞといって撃ったことは確かです。それが警告だといわれれば警告になります。

 

 (弁護士) あなたが撃つぞといわれた。それとあなたが拳銃を発射される、その間の時間的な間隔は…

 (清水) 撃つぞといって撃っておるんですから、時間的間隔があるというようなものではないわけです。

 

 (弁護士) あなたが撃つぞといわれて、パッと間髪を入れず発射されておるということですか。

 (清水) 大体そうです。

 

 二、原判決の新しい認定−「孤立化」の否定− (P.338341)

 

 ()ところで、一審判決は清水の拳銃発射に関する判旨で、その直前に同人がおかれた状況を「同人は自分一人が孤立した状態にあって攻撃を受け」と認定した。

 

 ところが、清水栄は証言で自分が「孤立」していたことはそのまま維持したが、暴徒から「包囲」されていたことは否定した。

 (清水) そのときは、私個人だけでありまして、部隊との連繋が切れて居るので、拳銃を使用するほかそういう気勢を防止し得ないという考を起こしました。(一審一〇八回123項)

 

 (清水) そうした凶悪な犯罪を防止するに当たりまして、その当時としては私は単独で追行しておったのでありまして、拳銃を使用するほかに、その事態が極めて緊迫した情勢にありましたので、それで発射したわけであります。(一審一三四回公調2項)

 

 (清水) 勿論私が拳銃を撃ったときには、デモ隊との距離がありまして、群衆に取り巻かれたという状態で発射したわけではありません。

 (弁護士) そのとき、その群衆はあなたを目がけて喚声を挙げて、あなたの方を押しかけてくるという、そういう態勢にあったわけでもないんですか。

 (清水) そのときは、私に向かって攻撃を加えるというのではなく、むしろ私の方から、接近していったわけでありますから。(同27・28項)

 

 清水栄は従前の「暴徒から包囲された」旨の供述を一擲し、自分ひとりで孤立した旨の供述をさらに強調しようとしたことが右証言から読みとれよう。清水栄がその拳銃発射を正当化すべくえがきだした「急迫した事態」のなかから、清水が「群衆」から包囲されたという状態がぬけおち、他の部隊あるいは警官らとの連絡が切れて、単身空地北道まで到達し、「暴徒」の犯行を防止し、犯人を検挙せんとするも到底単独ではなし得ず、拳銃発射以外には方法がなかったとする状況のみが相変わらず、むしろ強化されて残ったのである。そして原判決も、明きらかに前記清水栄証言等を援用して、右「孤立状況」をそのまま認定したことは既にみたとおりである。

 

 清水がただ一人で「暴徒」と対峙し、職務を遂行しようとするのと、そうでないのとでは、同人に対する「暴徒」らのさしせまった暴行・脅迫の危険が質的に異なってこよう。殊に、警官などの職務は、通常、武装集団としての集団的機能が重視され、単独行動は例外とされる。

 

 ()ところが、原判決は、右孤立状況の部分、即ち一審判決の前記「同人は自分一人が孤立した状態にあって攻撃をうけ」の判示部分の言及がない。これは原判決が清水が「孤立した状態」にあったことをあえて認定しなかったと考える以外になく、明らかに原判決は一審判決が認定したところの清水「ひとりが孤立した状態にあった」事態を積極的に否定したものといわざるを得ない。

 

 仮に清水栄が実際に同人が一貫して供述するとおり「孤立した状態」にあったならば、どうして原判決がこれを放っておくのか、必ずや拳銃発射を正当化する根拠の有力なひとつとして使うに相違ない。それを使えなかったというのは、即ち原判決が右事態を認定し得なかったからに他ならないからである。これは極めて明瞭なことである。

 

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 (関連ファイル)

    (謎とき・大須事件と裁判の表裏)

    第1部 共産党による火炎ビン武装デモの計画と準備  第1部2・資料編

    第2部 警察・検察による騒乱罪でっち上げの計画と準備  第2部2・資料編

    第3部 大須・岩井通りにおける騒擾状況の認否  第3部2・資料編

    第4部 騒擾罪成立の原因()=法廷内闘争の評価  第4部2・資料編

    第5部 騒擾罪成立の原因()=法廷内外体制の欠陥  第5部2・資料編

 

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