日野市七福神巡りでは、参拝客はいずれかの寺院で色紙を求め、各寺院でご朱印を押してもらう。
期間は元旦から七日までであるが、それ以降でもかまいません。
アクセスガイドは、日野市七福神巡り案内図
真照寺:清谷山蓮華院真照寺の草創は、藤原氏全盛期の長和年間(1012〜1016年)頃とわれ、開基弘意僧都は長元9年(1036年)3月3日入寂と記録されており、中興の法流の祖善意僧都は16世紀後半天正年間(安土桃山時代)であり、現住はそれより16代目に当たる。
当寺は大正10年(中興14世野村宥慶住職の時)不慮の火災により、山門、本尊様以外は、堂宇(9間〜7間)、仏像、古文書等すべて焼失してしまいましたが、焼失を免れたご本尊様は元禄9年(1696年)の作で、山門は元禄15年の建立である。
なお、武相三十三観音の第8番の霊場として名高く、安産、子育観音として世に広く信仰されている。
石田寺:愛宕山石田寺は、今から620余年前の慶安元年(1631年)6月22日大雪が降って多くの民が餓死したので時の国司が天下泰平国土安穏を祈るため堂を建て、吉祥坊慶譽がこの堂主となりこれが開基で時に1364年である。
永和3年(1377年)にいったん廃寺となったが、天文13年(1544年)に大水があり立川普済寺の近くの十一面観音が流れこの地に漂着、観音堂を
建立「北向観音」と呼ばれ、大いに信仰うを受け文禄2年(1593年)沙門慶心が本堂を再建
して石田寺と名づけられた。
毎年10月17日露天も出て北向観音祭りが行われ、樹齢600年の「カヤの木」があり、近年訪れる人が多い。
土方歳三の墓
安養寺
:田村山極楽院安養寺は、真言宗智山派に属し高幡山金剛寺の末寺である。本堂(元禄時代初期、約300年前)は田村氏の書院の一部を使い建立されたものであり、また、庫裏(客殿)は本堂よりも古く約400年前に建立されたものである。
なお、このたび平成の大修理により、創建当寺の姿を復元した。
本尊阿弥陀如来坐像(都重宝)は、安養寺の前身である万願寺の本尊であったものと思われ、平安時代後期の作で瑞麗で細部の手法も見事である。
また、藤原時代の毘沙門天像、鎌倉時代の大日如来立像等、多数の古仏を安置している。
なお、毎年4月第1日曜に、毘沙門天祭を行い、護摩供養厳修し、張子の虎を授与している。
高幡不動尊金剛寺:
高幡山明王院金剛寺は古来関東三不動の一つに挙げられ、高幡不動尊として親しまれている。 古文書によれば、大宝(701年)以前の開創とも、奈良時代行基菩薩開基とも伝えられるが今を去る1100年前、平安時代初期に慈覚大師円仁が清和天王の勅願によって当地を東関鎮護の霊場と定め、不動明王をご安置したのに始まる。
のち建武二年(1335年)8月4日夜の大風によって山中の堂宇が倒壊したので時の住僧儀海上人が、康永元年(1342年)麓に移し建てたのが現在の不動堂で、関東稀に見る古文化財である。
続いて建てられた仁王門ともども重要文化財に指定されている。
足利時代の高幡不動尊は「汗かき不動」と呼ばれていて鎌倉公方をはじめとする戦国武将の尊崇を集め、江戸時代には関東十一檀林に数えられ、大防の不動尊として広く庶民の信仰を集めた。
当時門末三十六ヶ寺を従え、関東地方屈指の大寺院であったが安永八年の業火により大日堂をはじめ大師堂、山門、客殿、僧坊等を一挙に消失した。
その後歴代住持の営々たる努力により徐々に復興に向かったが、殊に昭和五十年以降五重塔・大日堂・鐘楼・宝輪閣・大回廊・奥殿等の工事が相継ぎ往時を凌ぐ程の寺観を呈するようになった。
総重量1100キロを超える巨像で古来日本一と伝えられた重文丈六不動三尊はこの度千年ぶりの修復作業が完了し現在奥殿にご安置されている。
殉節両雄の碑 土方歳三の像
延命寺:有王山地蔵院延命寺と称し、延命地蔵菩薩をご本尊とする寺である。開基不詳だが一説によると南北朝時代の創始とも新田義貞の鎌倉攻めで落武者の内藤一族が帰農し戦死者や先祖を弔うため堂宇を建立したとも伝えられる。
尊作者が鎌倉初期の京仏師(1200年頃)である点、本堂前の文明の板碑(1470年・市指定文化財)江戸幕府初期の本末改め等から鎌倉時代の帰農武士が古い檀家の先祖と推測される。
本堂大修理庫裡改築時、棟札が発見されたが焼失し、本堂等の建立時期も不明である。
高幡不動尊金剛寺の古文書によれば約300年前、火災焼失し、その後建立されたのが現在の本堂である。
善生寺:当山は、江戸時代、豊田の地を知行していた地頭大久保勘三郎忠良殿が、寵愛の息女を僅か22歳で亡くし、その菩提所として正保2年(1645年)に建立した寺です。
平成10年、大黒天勧請を発願したところ予定地に大石があり、小石を沢山含んだ大石で国
歌の「さざれ石の巌となりて」になぞらえる吉瑞石とみなして、大黒天をその石の上にお祀
りしました。
お姿は昼夜を問わず遊行しながら人々をお守りする姿。小石を沢山含んだ大石に因み、子寶
大黒天と命名されました。
また、境内には丈六(4.8m余)の露座の釈迦牟尼大仏を祀り、広く信仰を集めています。
宗印寺:当山は大澤山宗印寺と称し開創は慶長4年の頃とされる。開山は柚木の永林寺第四世傑秀賢
大和尚といい、開基は知行の中山助六郎照守という。
しかし開創前すでにこの地に一寺が在 していたようで、約七、八百年前より一庵が開かれていたようである。
やがて廃庵となるも 本尊の観音菩薩が、人々の求めには必ず応え意の叶えられぬことがないという。
そこで当地知行の中山照守は永林寺の傑秀賢禅師に頼みこの地に観音菩薩を本尊として一宇
を建てたのがはじまりであると伝えられている。
宗派は曹洞宗(禅宗)。境内には東国武士として一の谷の合戦で名をはせた、平山季重公の墓(都の旧跡)をはじめ、公の木彫座像や日奉地蔵、千体地蔵などがまつられています。