淇園文訣 卷之上
皆川淇園〔口授〕、皆川允〔筆録〕
(『淇園文訣』 天王寺屋市郎兵衛〔京都〕 日付ナシ)
※ 〔参考〕「叡智の杜WEB」公開本、GoogleBooks等。
※ 他本刊記に「天明丁未季秋」とあり。天明七年(1787)刊行か。
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(序)(皆川允)
卷上
卷下
(序)
允 自リ二弱冠一來趨庭ノ之間毎ニ聞キ下有-二益ナル於作文・觧書ニ一之訓ヲ上、即チ退キテ而手-二録シ之ヲ一、積歳幾ド至ルレ盈ツルニ二篋笥ニ一。因リテ輯メテ作シ二一巻ト一、置ク二之ヲ坐右ニ一。頃ロ有リレ客、来リテ二允ノ室ニ一論ズレ文ヲ。次デニ允取リテ二前ナル巻ヲ一示スレ之ヲ。客讀ミレ之ヲ大ニ悦ビテ曰ク、吾常ニ自ラ苦シムレ味フニ二於古文ノ脉理ヲ一。今觀レバ二此ノ巻ヲ一、例大ニ備ハリテ而其ノ録スルコト甚ダ詳カナルコト、燎乎トシテ若シ三闇室ニ獲タルガ二一炬ヲ一也。此レ實ニ習文ノ之楷梯、晰章ノ之舟筏ナリ也。學者由テレ此ニ温習セバ淂ルコト二鴻益ヲ一也必セリ矣。有ラバレ如キコトレ令ムルガレ為ラ二蠧魚ノ之食一、甚ダ可シレ惜ム。君豈ニ無カランヤレ意乎ト。允思フニ二其ノ言ヲ一、亦似タリレ有ルニレ理也。因リテ更ニ繕ヒレ書ヲ、命ジ二工人ニ一、乃チ乞ヘバ二命ヲ於家ノ先生ニ一、曰ク淇園文訣ト。若シ夫レ家ノ先生ノ晰ムル二文理ヲ一之著ニハ本ト有リテ二問學擧要ノ一書一、久シク已ニ行ハル二乎世ニ一矣。讀者以テレ彼ヲ参ゼバレ此ニ、則チ必ズ互ニ有ラン二相發スルモノ一焉。允手-二録シ此ノ冊ヲ一、且ツ以テ命ズル二剞劂ニ一者ハ、其ノ志抑モ亦以テナリレ有ルレ在ルコト二乎是ニ一焉。
男允謹ミテ題ス。
允自弱冠來趨庭之間毎聞有益於作文・觧書之訓、即退而手録之、積歳幾至盈篋笥。因輯作一巻、置之坐右。頃有客、来允室論文。次允取前巻示之。客讀之大悦曰、吾常自苦味於古文脉理。今觀此巻、例大備而其録甚詳、燎乎若闇室獲一炬也。此實習文之楷梯、晰章之舟筏也。學者由此温習淂鴻益也必矣。有如令為蠧魚之食、甚可惜。君豈無意乎。允思其言、亦似有理也。因更繕書、命工人、乃乞命於家先生、曰淇園文訣。若夫家先生晰文理之著本有問學擧要一書、久已行乎世矣。讀者以彼参此、則必互有相發焉。允手録此冊、且以命剞劂者、其志抑亦以有在乎是焉
男允謹題。
允 弱冠より
來趨庭の之間毎に於作文・觧書に有益なる之訓を聞き、すなはち退きてこれを手録し、積歳幾ど篋笥に盈つるに至る。因りて輯めて一巻と作し、これを坐右に置く。頃ろ客有り、允の室に来りて文を論ず。次でに允前なる巻を取りてこれを示す。客これを讀み大に悦びて曰く、吾常に自ら於古文の脉理を味ふに苦しむ。今この巻を觀れば、例大に備はりてその録すること甚だ詳かなること、燎乎として闇室に一炬を獲たるがごとし。これ實に習文の之楷梯、晰章の之舟筏なり。學者此に由て温習せば鴻益を淂ること也必せり。蠧魚の之食為らしむるがごときこと有らば、甚だ惜むべし。君豈に意無からんや乎と。允その言を思ふに、亦理有るに似たり。因りて更に書を繕ひ、工人に命じ、すなはち命を於家の先生に乞へば、曰く淇園文訣と。若しそれ家の先生の文理を晰むる之著には本と問學擧要の一書有りて、久しく已に乎世に行はる。讀者彼をもつて此に参ぜば、すなはち必ず互に相發するもの有らん。允この冊を手録し、かつもつて剞劂に命ずる者は、その志抑もまた乎是に在ること有るもつてなり。
男允謹みて題す。
[漢文エディタ原文]
允 自リ 2( 弱冠 )1 |來(このかた)趨庭ノ之間毎ニ聞キ 2{ 有- 2( 益ナル於作文・觧書ニ )1 之訓ヲ }1 、即チ退キテ而手- 2( 録シ之ヲ )1 、積歳幾ド至ル^盈ツルニ 2( 篋笥ニ )1 。因リテ輯メテ作シ 2( 一巻ト )1 、置ク 2( 之ヲ坐右ニ )1 。頃ロ有リ^客、来リテ 2( 允ノ室ニ )1 論ズ^文ヲ。次デニ允取リテ 2( 前ナル巻ヲ )1 示ス^之ヲ。客讀ミ^之ヲ大ニ悦ビテ曰ク、吾常ニ自ラ苦シム^味フニ 2( 於古文ノ脉理ヲ )1 。今觀レバ 2( 此ノ巻ヲ )1 、例大ニ備ハリテ而其ノ録スルコト甚ダ詳カナルコト、燎乎トシテ若シ 3( 闇室ニ獲タルガ 2( 一炬ヲ )1 也。此レ實ニ習文ノ之楷梯、晰章ノ之舟筏ナリ也。學者由テ^此ニ温習セバ淂ルコト 2( 鴻益ヲ )1 也必セリ矣。有ラバ^如キコト^令ムルガ^為ラ 2( 蠧魚ノ之食 )1 、甚ダ可シ^惜ム。君豈ニ無カランヤ^意乎ト。允思フニ 2( 其ノ言ヲ )1 、亦似タリ^有ルニ^理也。因リテ更ニ繕ヒ^書ヲ、命ジ 2( 工人ニ )1 、乃チ乞ヘバ 2( 命ヲ於家ノ先生ニ )1 、曰ク淇園文訣ト。若シ夫レ家ノ先生ノ晰ムル 2( 文理ヲ )1 之著ニハ本ト有リテ 2( 問學擧要ノ一書 )1 、久シク已ニ行ハル 2( 乎世ニ )1 矣。讀者以テ^彼ヲ参ゼバ^此ニ、則チ必ズ互ニ有ラン 2( 相發スルモノ )1 焉。允手- 2( 録シ此ノ冊ヲ )1 、且ツ以テ命ズル 2( 剞劂ニ )1 者ハ、其ノ志抑モ亦以テナリ^有ル^在ルコト 2( 乎是ニ )1 焉。
男允謹ミテ題ス。
淇園文訣 卷之上
平安 皆川愿 口授 男 允 筆録
文章を書き習はんとするに、肝要とすべきことを、宋の歐陽脩が言へるに、三多と云ことあり。看多・做多・商量多の三つなり。看多は、古今の文を看ること多きを云、做多は、自身に文を書くこと多きを云、商量多は、其書きたる文の字句篇章の間に付きて、ひたと吟味をして、工夫を付くることの多きを云。此三多の功を積まざれば、文章に名あることには、なられぬと云へり。尤もさあるべきことなり。
初學の人には、此外に肝要とすべき務あり。三多にしていへば、讀多・觧多・做多なり。其故は、文章を書き習はんとするに、先づ文章には、文字の鎖の貌付と云ものあることなり。此貌付と云ふものは、我文章を書き出す時に、我神氣が、我心の辞作りをする時の思案を付くる際にあたりて、何となく、其辞作りの物好の條理をば、様々に出し、心にあてがひて、工夫を付させ、筆を動かさする便となるものなり。是心神の妙用なり。多く古書を讀みて、様々の文字の鎖を、心目に熟記して居れば、文を書く時の、其機發にあたりて、其覺へこみたる古文の文字鎖の貌付が、其時の相應〳〵に、心に浮み出来りて、筆尖を導くなり。此心神の妙用に、彼文字の貌付を、多く持たせ置にあらざれば、如何なる才ありても、文を書くことはならぬものなり。故に多く讀まずばあるべからず。
然れども、右の心神の妙用の導く所は、拍子の如くなる物にて、唯此を以て、其轉ばせ様の條理を、古文の貌付きに似たる様に、付け行くまでなる故に、其熟記したる文字の義理を、預じめ、とくと觧して覺へ居らざれば、其神氣の導く時にあたりて、出来る所の辞の、鎖り様の雛形が、機發の拍子は、合たる樣なれども、文中の神理に中らぬ拍子のみ多く出来るものにて、其のみに便りて書き出す時は、貌付は相應なる様なれども、神理に中らぬ故に、刷違ひに乗ること多し。刷違とは、或は辞の掛様迂遠に廻りて、意理を闇滞せしむるか、又は言足らずして、道理つまらず、聞へぬことを、書き連ねて、人には通ぜぬ文字となること多し。多く觧して、熟記して居れば、其浮び出る貌付が、自然と、其書出さんとする所の、機≠ノも、條理にも、程よく中る様に行くものなり。故に多く觧せずばあるべからず。
然れども、讀と、觧するとは、畢竟心に入るのわざにて、文章を書くは、心より出すの所作なる故に、出入の相違あり。故に、別に心より條理を付け、辞を作り出すことを為習ざれば、筆の舒ることは出来ぬものなり。筆の舒ること出来ねば、多讀・多觧の功を積といへども、譬ば、足痿たる者の杖を蓄へたるが如くにて、文章を書く為の役には、立たぬものなり。故に、多く做さずばあるべからず。此初學の人の為には、肝要の三多なり。
初學の文章を書き習ふには、右の文字の貌付を覺ゆる為なれば、兎角古書・古人の文を捜索して、其書んとすることに、似よりたる文面あらば、それを抄録をし、書あつめ、見合はせ切續綴りて、吾文章に為立ることを、為習ふべし。尺牘は尺牘、記事は記事、序は序、論は論、各古人の體に倣て、これを為すべし。此の如くすること、一年ばかりの間には、自然に、文字の貌付を、多く覺ゆるものなり。
切續綴る文章にも、幾端も、あることを書んとすべからず。唯一道の事情を、始終其意持の一貫する様にして、書習べし。幾端もあることを、最初に書んとすれば、初學の人は、文字を取扱ふところの記魄が、いまだ強厚ならざる故に、條理まぎれて、文章にならぬものなり。文章軌範に、放膽文を先にし、細心文を後にせるも、初學にては、入くみたることは、書くべからざることを示せるなり。尤なることなり。されども、一道の事を、始終一貫する様に、書んとすることは、細心文にいたりても、やはり同じ心持なる事にて、畢竟は枝葉の入くみ多きまでの相違なり。故に、一貫する様にして書んとすることは、いづれにも、餘程心苦しく、大義(*ママ)なるものなり。然れども、右の通りを心掛て、ひたと、それを為れば、我書たる文章の、始末の文字鎖を、一字も遺さず二三日は宙に記臆(*ママ)する様になるものなり。度毎に此記臆を為慣れば、我記魄いつとなく強厚になりて、文叚(*ママ)の長きことをも、餘計に心に持たるゝことになるものなり。さて、其に慣て久しくしては、其餘計なる文叚中の曲折を、前後に運移して、工合を合はする働が、自然に生ずるものなり。さて此働を助くるものは、已前に言たる文の神理なり。此神理は、觧書の力の多少強弱によりて、中不中ありと知るべし。
さて此文の神理と云ものは、原来字義の積みて、文理を成したるものにて、其文理の中に、其語意のはづみを寓す。此はづみは、即ち精神活用の機≠ノて、機≠ニは、其上下先後及び明晦等が、自然と、天地・上下・四時・晝夜の道に叶ひ、天下の民の性情に合へるものを云ふなり。故に精神の機の、然あるべき所に據りて、名付け稱すれば、神理なり。即ちやはり文理のことなり。故に古書を觧するにも、字義より積みて、其を以て探らざれば、古文の文理は得られぬものなり。文理を得ざれば、其意味も、とくとは聞へぬものなり。是故に字義に多く熟し、文理に精しからざれば、古書を觧するにも、只上つらをはしりて古人の真義を取りはづすことのみ多し。上つらをはしるとは、文十字の中にて、四五字の識りたるあれば、其を以て、其餘の五六字は、無理に誣付け、押廻して見取ることにして行くことなり。是をば、文義の大略を觧すと謂ふべし。文理に通じて觧するに非ず。文理に通じて觧せざれば、たとへば、有と云ことも、不無と云ことも、一つにし、無と云ことも、不有と云ことも、一つにして見ることになることなり。是の如くに粗畧なれば、古人の語氣の、あたり〳〵に響合ありて、活用したる處を見ることならず。其を積みては、毫厘の差と思へども、末にいたりては、千里の謬を生ずることにて、古人の書きたる本意とは、けしからざる相違になることなり。此處のことは、漢人も心付き少き故に、古代歴々の名賢大儒も、徃々文義のみを以て、古書を觧して、文理をあやまり、古人の真意を失へること多し。されども、漢人は、原来其國の人にて其國の言語・文字を取扱ふことなれば、古言には、闇けれども、自分に書き出す、文叚の工夫の働きには、自然に、自力が持ち合ひて、字義の後世にては叚々淺くなりたるなりにて、其を使ひまはして、當時相應に聞こゆる文理は、成し行かるゝことと見ゆ。其も助字には、使ひ方に間違ふことありと見へて、蜴q厚(*柳宗元)が杜温夫に與ふる書に、杜が文中、也矣焉の使ひ方、古義に合はざることを言たること見へたり。又禅真後史と云ふ俗語の書中に、一書生玉蠏の事を書きたる文末に、助字を重ね書き、人の笑ひたることを載せたる等を以て考ふれば、漢人も、心を用ひて學ばざれば文理を成すことは、難事なりと見ゆ。まして本邦の人は、猶更此あやまり多かりやすければ(*ママ)、文の神理を得て、彼文叚の工夫の働を助けんと思ふものは、多く字義を知らずばあるべからず。余初學の為に、助語には、左傳・史記・詩経の助字法、虚字には、虚字觧を著はせり。此等に據りて、古書の使ひたる例を引合せ、吟味をせば、字義の大畧は、得らるべし。
さて又文理と云ものも、畢竟は、字義と同じ素性なるものなれども、此も吟味して、古文の文理の格合を合點し、案内を識りて居らざれば、古書を觧するにも、處〻にて疑惑を生じて、通曉なり難く、文章を書くにも、其文理を行ること、定法をはづれ、或は不足、或は迂廻の辞理を付け、拙なきことになること多し。故に下條に文理のことを詳に著はせり。此文理のこと、余が問學擧要中にも、大畧を論じ置きたり。併せ見て熟味し、其例を覺へ、古書の他文にても、此文理のそれ〴〵を、自由に見付らるゝ様にならんことを心がくべし。
文理・字義を積みて、我文章を為立んとするには、殊の外心苦しきものなり。最初には、いか樣なる氣力ある人にても、一二字・四五字の間より外へは、文理のつゞきは、見へぬものにて、それより外は、真闇なるものなり。其を、ひたと、心を付けて、吾書んと思ふことを、是非とも、其文理に合ふ様にして、書きならへば、久しくして、彼真闇なる處に、おぼろに取つくべき道路を生ず。此時の境界、たとへば、漆室中に一線の明光を生ずるが如し。此明光の如くなるもの、甚微細にて取つき難きを、さま〴〵に艱苦をして、取り付け〳〵字義と文理とに合ふ樣に、強勉して書きおゝせ〳〵して行けば、久しくして、彼一線の明光の如きもの、叚〻にふとくなる樣に覺ゆ。此時一篇の文字を書くに、一日に書き終らねば、其絲口を失はんことを懼れ、一日に為立つれば、殊の外に神氣さへて、夜に至りても、其思たる癖心にのこりて、寐られぬこともあるものなり。余が経歴したる境界、此の如くにて、其頃にては、文章を書くことは、何様にも身の為には毒なることなりと思しこと多かり。それをこらへて幾度もなし行けば、彼明光次弟(*ママ)〳〵に、ふとくなりて、彼最初の真闇なる處は、全く無くなりて、いか程なる長き文叚を案ずるにも其心持平常にかはらず出来るものなり。されば腹氣たしかならざれば、最初の稽古の時に、血氣上逆して心に結ぶを、腹力がほどき得ずして滯らば、病を生ずること多かるべし。用心をして、かゝるべきことなり。
古の名賢鴻儒も、文理を誤りたりと云ことは、遽に(*ママ)聞く人は、不審あるべきことなり。故に今更にこれを論ず。文理と云ものは、至極大切なるものなるを、世人は多く、文義も文理も同じことの様に心得ることなり。其故は、今日用の言語にては、人の百千言を言ふことをも、聞者の意に、其言語の微細なる處に渉らず、大畧の旨を、それにて聽取りて、合點をして、其事を濟ませ行くことなり。文と云も、やはり言語の通りを書きたるものなれば、同様に心得たるも、さあるべきに似たることなり。されども、文章にして見る時は、言語を聞とは、又格別の心得あるべきことなり。其故は、直に其人の言語を聞には、其語氣の大小・語勢の緩急の、引はなしにて、其意味を助けて聞こへさする故に、大畧を聞取りて、合點をするにも、大方刷違はなきものなり。文字にては、右の助けなし。助けと云は、字義と文理のみなり。此字義と文理を、粗畧にしては、何を以て、其作者の意に通ずべき。先儒の注釋、徃々に古義を失ひたることは、多くは此心得なかりしにや。當時の人の言語を聞く如くに心得て、古文を取扱ひたる故に、文の真義を失ひたること多しと見ゆ。其甚しきに至りては、仁義は人の道なるに、それさへ前儒の説は、古義の全きを得ずして説きたれば、人の心得相違あるべしと思ふことになれり。此類の義余著わせる名疇に悉しくしたれば、贅せず。いづれにも文理の詮義(*ママ)の粗畧にて、誤りを傳へたることは、字義・文理に心を盡さん人は、久しくして、自から知らるゝことなり。先儒の此詮義なかりしことは、誠に口惜く歎息すべきことなり。
文章を初學に書習ふには、只一道の事を、始終して書べしと、言ふことに付きて、甞て思ひ合せたることあり。余が識れる所に一人の圍碁の名手あり。此名手の家へ、余が朋友數〳〵圍碁に徃きたりしが、其後此人碁を打やめたりしに、名手余に話(*ママ)りて、彼人の碁は、上手になるべきよき筋の碁立なり。打やめたるは、惜むべきことなりといひたり。余因て、上手になるべきよき筋の碁立とは、如何なる所を以ていへるにやと、問たれば、彼名手答て、其人の碁立は、最初の一石を打はじめたるより、終りまで、唯一筋の思ひよりを立て、打給ひて、中頃より物好のかはることなし。是上手になるべき、よき筋の碁なりと云たりき。文章の稽古も、たゞ一道のことを以て筋を立てゝ行くことを心掛けて習はざれば、上進しがたきこと、碁と同じことなり。しかるに、初學文を書くには、兎角文字を餘計に取出して、書ならぶることを、好めるもの多し。此は書ならぶると云ものにて筋を立るとは、相反することなり。書ならべんと思へば、旁通多可(*脇道に入っていくらでも書けることか。)にて擇なし。擇なければ、筋は立ゝぬものなり。心得て慎しむべきことなり。此は文章のみにあらず、詩作の稽古も同じことなり。
世諺に、好こそ物の上手なれといへること、尤なることなり。好けば、自から、心長く骨を折りて、其藝の上がる様に心掛る。心掛くれば、人の古より善とする所を捜し覓めて、次弟に其を識るに至る。是を以て、其藝はあがるものなり。下手は藝のいまだ成就せざるに、世に誇らんと思ふ心を先に立てゝ學ぶ故に、常に人の己を譽んことを好み、心短かく、骨を折らず、人の古より善とする所を識らず、何事も、己が身と心を以て矩に立てゝ、後には卑近なる旁門に入り學ぶことになりて、速に成らんことをのみ求む。利根なる様なれども、其も其なりに、一生やめざることなれば、上手になりたる人に較べ視れば、後にいたりては、迥に劣り。あさましき猿智惠と云ものなるべし。余少年の時笛を學びたりし比、一老伶官ありて、余をば衆伶官の會集して合奏を習ふ中へ伴徃て、其指授する所を、共に聽かせ教へたるが、或日、其老伶が旁より拍子を撃ち居れる、節奏のぐあひを、余心に會得し悟りたる様に覺へて還りたり。其次日、徃きて聽くに、老伶の拍子惡き様に聞こゆ。是はあるまじきことなりと思ひ、心を靜めて聽けば、やはり余が拍子のあしきなり。人の善の得がたきこと、何事にも斯類のこと多かるべし。少年の人は猶更心得あるべきことなり。或人の詩を余に見せ正を請たるに、其詩に片舟と云ふ文字あり。これは無きことなり。扁舟か、片帆の誤りなるべしとて、舟を帆と改めやりたれば、其人感謝して後、無き文字の、片舟も、面白き處ある樣なりと言て帰り去りぬ。人の善に服することも、難きことなりと其時始めて思ひ知れり。されども、斯人の如きは甚しと云べし。
何事にも、骨を折らぬは下工なるべし。源應擧は、當今の畫の名手なり。余嘗て徃きて話りたる時、其家に鳩を畜置きて其を觀て、畫扁の鳩を畫き居て語れるに、我程に心を盡して描象んには、たとひ畫を、學び(*ママ)ざる人も、描き得らるべしと思ふことなりといへり。余心に、彼畫は、唯是の如きを以ての故に、日に進みて名手となりしことなりと知れり。文章に骨を折るべきこともやはり同じ心得なるべし。
源應擧或寺壁に古人の龍を畫きたるを評せしに、其雲烟の態、壁上にのみ限り止まりて、滿堂の意なきを以て憾とせしことあり。余聞て、尤なることに思へり。書も、思の筆先に在りて、布畫の位置、拘疊局促ならざることを貴べること、二王(*王羲之・王獻之)などの筆跡を見ても知るべし。碁も、布置の疏遠(*ママ)なるを善として、本邦の名人道作(*本因坊道策)は、碁盤四局を併合して、其に滿つべき思なりと言傳へたり。詩も、盛唐の諸人の詩は、其思皆曠遠にて、辭皆優柔不迫なり。されば、文章も、其思を用ひ、象を立つる所の、規模の弘大ならず、辭旨の含蓄少なく、卑淺なるは、皆旁門の小家敷なりと知るべし。
何事も目筭と云こと大事のことなり。人の一生の事業も、勿論少年よりの目筭に因ることなり。諸事諸藝も同じことなり。學文も、最初に、かゝる時より、始終をつもりて、此は先、此は後と云所をつもりてかゝらざれば、跡もどりなること多くして、其間に、年老精衰へて、成就せぬことになるべきなり。文章の稽古も、其為かたの目筭あしければ、真の文章にはなり難かるべし。文章一篇を書んとするにも、其言かたの先後のつもり、全篇の結構の目筭なければ、書きても條理を得ずして、文章にならぬものなり。
文章には象を立つると云ことを知るべし。易繋辭傳に、聖人立象以盡意といへり。八卦の象のことなれども、畫にあらはせば、八卦の四象、心に持てば、意象にて、同じことなり。いづれにも、象を立つると云ことなければ、文意は盡し難きものなり。象とは山といへば、其を聞く者、心の想に、山の象を立てゝ聽き、又讀む書の中にて、山と云ふ字を望みては、山の象を立てゝ後に其文意をば、其立てたる山の象に引合せて、合點すべし。川といへば、心想に、川の象を立つべし。百物百事、並に皆同じことなり。さて右の通りに象を立つれば、明界・暗界と云もの立つなり。明界とは、衆目の矚することを得べき所の塲處にて、凡そ物の形體より外は、皆明界なり。暗界とは、其物の體裏又は中心等なり。此を分くるには、九籌の紀實體用道と云ふことあり。此は余が著せる、易原及び名疇・詩経助字法などに詳にせり。文理をば此九籌の明暗界に、はめて見れば、甚明白にわかるゝものなり。されども、文字を象に立つることを、為つけたる人に非ざれば、此九籌をば用ゆることは出來ぬことなり。
文章と云ふ物を、初學の間にては、たゞ文字上の事なりとのみ思ふことなれども是は、一を知りて、二を知らざる故なり。初學の間にては、文字に熟錬せざる故に、文字を付くる所のこと艱難なれども、文章に長じては、何となりとも、文字の廻らぬことはなきものなり。其より以上は、巧なるものは上手に言取り、拙なるものは、下手に言取るの差のみなり。さて其巧も拙も、心の巧拙にて心到れば、筆到り心到らざれば、筆到らず。茲を究竟して見るべし。文章と云ものは、文字にあらずして、心の物を明かすの條理によることなり。絰藝(*ママ)に熟して、物に博逹なれば、其文も自然に明暢なり。物に博逹ならざれば、心の惑ひ、言辞にうつる故に、辞理も自然に闇澁なり。是故に、周人は胸中に物の條理の立ちたる所を、指し名付けて、文といへり。周易に聖人の文を言ひ、周文王の文を言ひ周語に晋悼公の文を稱し、論語に夫子の文章といへる類見るべし。
心の文の起りは、象なり。象なるが故に、文は言語をよせ合せて、其物象の條理を明かしたるものなり。よせ合さるゝ言語は皆名なり。名とは乃ち象の符牒付なり。符牒付なる故に、國々にて、言語と名とは不同なり。符牒付とは、本邦にては、そらと云、漢人は、天と云ふの類なり。象の符牒付とは、言語の上にては、正當にては、名は入らざるものにて、名の入用は、不正當の處のことなり。不正當なるを、呼出すが名の用なり。故に、名は人心に覺へて居れる象をば、呼出して想わする為の符牒付なり。言語・文字の用は、究竟是の如きに過ざるものなる故に、言語のつゞきたる所は、畢竟象をばよせ合せたるものなり。象をばよせ合せたるものとは、たとへば松の木に菊の如き形の白き花咲たりと言んに、聞人心に松の木の象を設け、それに、白菊の花を、よせ合せて想ふことなり。たとへば又其僧還俗したりと言はんに、聞人、心に其僧の面貌・形容の象を生じ、それに、外の俗體有髪の様子を取り合せて想ふことなり。是の如く、よせ合せて出來たる言語をば、文字にうつせるものなるが故に、文章の起りは、象なりと言ふなり。右の如く象なる故に、其象の立ちかた明かならざれば、文章の條理闇澁になるなり。さて其闇澁を致すの本は、彼よせ合せを取り出す元象が、符牒付にしかと乗て無き故なり。元象のしかとのることは、字義に精しからざれば、出來ぬことなり。尤も助字に精しからざれば、たとへば、宮室を組立つるに、材木の製造の枘鑿牝牡正しからず、釘、かすがひの柔軟にして堅からざるが如し。正當に無名と云ふこと文章を作すものゝ工夫すべき第一の要義なり。詳なることは後に出せり。
文章の物事を形容するに、とかく其類々を一つに打よせて書き取るべし。たとへば、人より書を我に贈りたるに、我其時にかく思ひ、其後又書を贈りたるに、我其時にかく思ひたりと云ことを書んとせば、其人より書を兩度贈りたるに、我最初の時はかく思ひ、次の時には、かく思へりと、書を贈りたることは、贈りたる類、思は思の類によせて書くべし。萬端の書かた、並に皆此心得を專とすべし。文に章叚と云ことあるは、此通りの心持にて、一事づゝの書き切〳〵が、章叚になることなり。さて章叚と章叚との文意のつゞけ様は、其末を承け〳〵すべからず、兎角其頭〳〵へ見合せて書くべし。たとへば、幾端もあることにても、其頭〳〵の處を以て、並べて貫く心持なり。末を承け〳〵て、長たらしく續合す心持に作るべからず。綱目を以ていへば、綱と綱とにてつなぐべし。目に綱を承けて書くべからず。さて初學の人は、此章叚の全旨見取りて此は是事を言たることなりと、見すゆることが、危ぶみありて出來ぬものなり。此くゝりを見すゆることが出來ねば、綱に綱を承けて書くことも出來ぬものなり。此を見すゆる法は、其辭の裏を心に立てゝ權衡を設けて察するにあり。裏とは、たとへば天とあれば地、東とあれば西、行とあれば住の類なり。權衡のことは問學擧要に詳にせり。精しきことは口授にあらざれば盡しがたし。
初學の文、兎角繁になるものなり。漢人も是弊あることと見ゆ。宋の陳後山(*陳師道)、己が作りたる文を携へて、曽南豐(*曽鞏)に謁して見せたりしに、南豐其文を見たるによりて、己が人よりョまれたる文を、事多きによりて、後山をたのみて書せたり。後山其文を數百言に書きて南豐に見せたりしに、南豐これを見て、大畧はよけれども、冗字多しと言けり。後山乃改竄を請たれば、南豐筆を把て、數處を抹せしに、抹處ごとに、一兩行を連ね、凡一二百字を削去けり。後山それを讀に其文意尤も全くなりたりけり。後山これに因て欽服して、つひに其を以て、後日文を書の法とせりと云ことあり。初學文を書もの、此心得ありて冗字なき様に心がくべし。
初學に紀事の文を書がよきや、議論の文を書がよきやと云こと人の多く尋ぬることなり。此は紀事を書ならふを先とすべし。されどもそれも難くば、先づ尺牘を書習ふべし。紀事の文も、初にはよくは出来ぬものにて、議論の文をも書き得らるゝ筆にならざれば、自由になることは無ものなり。倭歌を讀みならふに、四季・雜歌はよみやすく、戀の歌はよみがたし。戀の歌を讀かなふること出来ぬ人は、四季・雜歌もいまだ自由になるべからずと云ことを、亡弟成章(*富士谷成章)余に話りしに、紀事の文は四季・雜歌の類にて、戀の歌は議論文の類なるべしと、思ひしことありき。
紀事の文を書くにも、本邦の人の紀事の心得、漢人とは相違なること多し。漢人の正文は、事實の大叚の處を傳ふることを專要とす。唯面白く書んとのみ心掛たるものは、俗文なり。本邦の紀事の、源平盛衰記・太平記等の書かたは、右に言たる俗文の體にて、俗語水滸傳などの趣なり。無用なる甲冑の毛色などを書たるは、事實の大叚にかゝらぬ瑣末のことなり。されば此類の書中の紀事を、譯せんと思はゞ、無用なる處は、情をつくして刪り去りて、其餘の大叚の處を書くべし。
漢人紀事の文に、史漢の類の正文の外に、傳奇の文あり。唐人の小説、虬髯客傳、龍女傳、霍小玉傳、並に唐の時の名人の作にて、五朝小説中に見へたり。此類の傳奇の文は、別に一種の風味あり。總別人事の細なる奇なる所の情態を、雅文を以て、巧に書き取らんと、心掛て書たるものにて、此も人の賞玩とすることなり。近時世に梓行せる、明の瞿宗吉が剪燈新話・餘話又は近日舶來の聊齋志異等の文は、並に皆唐人小説の文に倣ひて書きたるものなり。正文の體には非ざれども文の自由を得んと思はゞ、此傳奇の文體にも、筆の働くことに非れば、正文にても、手のきかぬことあるべし。
文章を書ならはんとする者は、古書を廣く讀べし。古書の讀べきは、
詩 書 易 春秋 論語 左傳 公羊傳 穀梁傳 儀禮 禮記 周禮 國語 戰國策 史記 漢書 孟子 荀子 韓詩外傳 老子 莊子 列子 韓非子 呂覧 淮南子 晏子 賈誼新書 説苑 新序 楊子法言 文選
此外史子集雜は心まかせに讀べし。史類は資治通鑑を本だてにして讀べし。
文章を書に考となるべき書には、
記の集めたるは 名山勝槩記 遊名山記
墓銘の例を見るには 金石三例
論文を集めたるは 古論大観
戰鬭のことの集たるは武備志戰略考
賦を集めたるは 賦彙 賦珍
書畫の序跋には 書畫譜
文體を知るには 文體明辨
此外尚多けれども大畧を記せり。
初學の人の宗とすべき文體は、史記に過たるものなし。古の事を書にも、今の事を書にも、通じて書るゝ文體なり。左國はよけれども、其文體を以て、今の事を書んとせば、少し不自由にてまはり難かるべし。漢書は、體裁は嚴整なれども、史記ほどに活動の處少し。されども、全體の處、諸家の體に、自由に通じて、皆吾筆尖に出る樣に心掛ざれば、いづれにも、集大成の事には到りがたし。
議論の文には後世にては、及弟の文の書かたに、其叚の取り様の大法ありて、名目を設く。論冒・論腹など云ことあり。論學臧耳(*未詳)と云書に、此を細かに著わしあり。されども格別の用にも立ゝぬことなり。
文章を書ならはんとする者は、古書を廣く讀むべきこと勿論のことなり。俗語小説の書をも、兼て讀むべし。其故は、文章を書くは文字を、吾心神の思ひ持つ所の象に合せて、用ゆることをするわざなり。然るに、古書ばかりを讀ては、古書の文多くは簡なるものにて、しかも其道理打あがりて、通じがたきこと多く、繁なるものも、古の文理辭氣は、今我俗の辭つきとは、事格別にかはりてある故に、吾精神の今日の活用にする處の義と、其文字とは、始終一重の膜皮を隔たる様にて、其文字の義、終に吾心神の用に入り難し。俗語小説は辭氣は異なれども、全全(*ママ)體に事を瑣細に述たるものにて、鄙情に近きこと多き故に、其中の文字を玩べば、自然に、文字をば心にてこなして使ふ氣分生ず。此氣分文字の用に旺すれば、其はたらき、いつの間にか、自由になるものなり。されども俗語小説の言へる所は、鄙猥のことのみ多き故に、心得なくして玩べば、心術を害すること多し。文字の益と、心術の損とは、一得一失の中にも、失の方に損多し。されば深く用心をしてこれを讀むべし。
文章の稽古の為に、俗語小説をも、助けにすると云こと、知らざる人は可笑思ふべきか。されども漢人のなせる所のものを、今我邦の人にて、これを學成んとするには、何事にても、此心得あるべきことに思はるゝことあり。たとへば書を學にも、古法帖を多く學ても、其人の學得たりと思ひて、書たる跡を觀るに、形勢は似たれども、骨力精神がとかく似ず。且つ字畫の様子外がわを筆はしりて落つかず。漢人の書は、今長崎へ來る賈人といへども、其書跡を觀るに筆畫の精神落つきて、遒勁なるもの多し。此遒勁なるを得て後に、古法帖を學ばざれば形勢は似たりとも、古人に及ぶべからず。されば文章の語氣を、先づ俗語に得て、後に正文にうつすべきことも、同じ心持なることなるべし。俗語に得て後に、正文にうつすとは、俗語を正文に出すべしと云にはあらず。全體俗語にて、漢人の語氣を吞こみ、心得て、それをば、影の拍子に持ちて、さて漢人の古文を視れば、文理の諸法、自から掩ことなく顕はれ見ゆるを、其を法に取て正文を書ことを云ふなり。
唐音を學べば、文章を作るためになると云こと、近來より人の多く言ふことなり。唐音にて素讀することが為になると云ことならば、四書六経等の文字直讀にて、記臆しやすき故に云ふか。さらば、やはり吾以前にいへる、貌付きの思出しやすきに付けて云ならんか。それも素讀したるまでにて、其直讀の内に義理が聞へねば、貌付の出るにも、格別の益は見へぬことにて、倭讀も同じことなるべし。俗語が役に立つといはゞ、吾いへる小説の助と同じ説なるべし。いづれともに、本邦の人にては、無用なる骨折なるべし。吾に一法あり。本邦の字音を、四聲に呼び分て、直讀にし、直讀已に熟して、其熟したる文字中の助字・虚字を、讀下しに聞ゆる様に、義を取り付け為習ふことなり。助字・虚字を、讀下しに聞ゆる様に義を取ることは、やはり助字法・虚字觧の義を、今少し細密にして心得れば、右の用に立つことなり。さて其肝要の處は、本邦の讀のかへり點のある處、一二三四、上中下、甲乙丙丁、などある處を、幾叚も、入れ子にして見て行くことなり。入子の見て行き様は、下にある程を、叚々に虚の又虚と見、上にある程を、叚々實象に近しと見ることなり。精しきことは、口授にあらざれば喩しがたし。
助字の重なりたる處、たとへば、無不、莫不、何不、無乃の類何にても、下の助字より皆辞にして讀むべし。其法如左。
無不然 然らずと云辭の付くことなし。
莫不然 然らずと云辭の付くことは出てこぬ。
何不然 何とて然らずと云辭の付くことになるや。
無乃然 乃ち然りと云辭の付くことになること無らんや。
如此に讀みて、其意を得べし。直讀にて文義を觧する法も、此を以て求めば、思半に過ぐべし。
右の如く言へば、最上にある助字は、辭と見るべからずと云に似たれども左にはあらず、やはり辭なり。されども此には、と云辭の付くと云讀を付るに及ばずして、自然にかの實象に近き辭となること聞ゆべき故に、それに及ばぬなり。總じて文字皆實を形容するしかたを、言語にてなしたるものなりと云ことを、かりにも忘るべからず。此を忘るれば、書を讀む意、いつの間にか、其文字の虚象中に、其實象の理を求め探るべきことを忘れ、文字を打越して、其實象へかゝるものなり。打越すことは無理なる故に却て實象も識れぬことになりて、其文字の様子も聞へぬことになり行くこと多し。此はたとへば、漢人の語意を聽んとするには譯人の語によりて審聽すべきを、譯人を打越て、直に漢人にかゝり、譯人の語をも聞はづすに同じ。吾は此を、實もたれの病と名付く。従來の學者、文字をば虚辭の形容なりと云ことを心に忘れ古文の觧し樣手重くなり、實にもたれて、觧を失へること多し。實にもたれては、原来の文理に離るゝ故に、文を書にも、筆固滯して舒がたしと知べし。
文に斤兩と云ことあり。上に四字なれば、下に四字、上に五字なれば、下に五字、上に十字なれば、下に十字と相承けて書きて、語意のつり合を合はすことなり。つり合よければ、自然と語勢とゝのひ、意味収りて聞ゆ。此は詩律の對語を得て、自然と上下の旨の圓成するが如し。されども、これも、上古より周漢の比までは、言數長短参差として、合ざれども、それにて一語を圓成したるもの多し。此は其文字の義、當時の人心にしかとあたりて、前後の響合を、それにてよく持たる所ある故なり。後世に降りては、日用の言語と、文字と二途になりて、古き文字の、當時の言語には通用ぜぬを、文章に臨みては、其を取出して使ふ故に、古時にて活用したる真義は、いつしか取失ひ、只其上面ばかりの義を以て通用する故に、文字の義皆危くなりて、一字の響合にて、語氣の収りを持たすこと、思もよらず。因て字數の都合のみにて、語氣の収りを取ることになれり。此抑〻後世四六文の起たると、同一機のことなり。されば字數を合せ、斤兩を論ずることは、古文にも有たることなれども、先は東漢より以後の文體の、專要とする所なりと知べし。
助字・虚字の義は、甚肝要なるものなりと云ふことに付きて、余が徃事の物語あり。余は少年の時より、文人と云になることを好まず。父より命ぜられたる事もありて、経義の古より闇くなりてあるをば、闡明にせんことを心がけたるが、所詮文章にて吾意を通ずることがならねば、其闡明したる所の義を人に傳ふること出來難かるべしと思ひたるより、文章を書ことをも心がけたり。されども文人にならんと思ふ心に非ざれば、文をば、我意の通りを述て、人にも聞へ易き様に書たく思へり。十七八歳の頃、ある時、文一篇を書て、一朋友に示したりしに、其人我文を閲て、此處はかく改たし、此處はかく竄すべしといへり。余因て其由を詰たりしに、只何となく、此方がよき樣なりと答へたり。其時我心に、好惡のわけ立ゝずば、彼が文も我文の如きに、改むべきはづはなきことなるべしと思へり。其よりして、文章の斯く書ねば叶はぬと云所を、見識る為かたを思惟するに、文意の大叚は、何事にても、助字の引まはしに由ことなれば、助字明かならば右のわけも知らるべしと心付て、助字の吟味に打かゝりたり。吟味の為かたは、我日用の言語に、助字の打合て、入用になる處を、見付ることを專要として、其用ひどころを究めたりしが、一年餘にして業略成りぬ。さて世にある我邦人の文と云ものを、其眼にて視るに彼朋友の文のみならず、今の世に名ある文人の文にも、其瑕疵あるは、皆吾目に付きて、しかも其瑕疵たるのわけ、明白に言わるゝことになり、我文にも、吾意のたけをば、略自由に書るゝ樣になりたり。其より又虚字の用例をあつめ、吟味をして、其字義を開きしにも、數十年の後には、別に開物の法と云ものを得て開きて、數千字を積たれば、文理のことに於ては、以前より更に又明白にて、惑はざる樣に思ひたりしが、今より顧みて、其頃書たる文を視ればそれさへもやはり瑕疵多し。かくあれば後より今を視るにも、又しかあるべし。されども助字・虚字を知らざる已前とは、何事も格別の相違は覺へたることなり。初學の人の心得にもなるべく、兼て余が志のありし所をも、告知らせたしと思ふ故に、徃事をば、斯く話ることなり。
助字・虚字の義をば、初學の人は其わけを知らずして、余が斯く言ふところをば、疑はしく思へる人もあるべし。其には射復文をせば、自から知るゝことになるべし。射復文とは、漢人の文を人に讀ませて、其讀の通を片假名にうつし、さて本文の字數を幾十言と云ことを知り置き、其字數に合する樣にして、彼片假名をば、文字に直して見ることなり。虚字・助字の力多き人は其失少く、力少き人は失多かるべし。此文字の讀ばかりにては、其字義を得べからざる證據なり。されども讀かた惡くては、此射復文も出來がたきものなり。余此射復文に、習文録と云書をこしらへ置たり。彼によりて射復をして見るべし。其わけ、自から知るゝことになるべし。
四六の文と云ものは、漢の時にはなかりしものにて、六朝の比より起りたり。四字・六字と書く句多き故に、四六文と名付け云ふことなり。北周の庾信より別に巧を出して四六の文體一變せりと覺ゆ。唐人の四六は多く庾が體にならへり。
有韻の文は、賦・頌・箴・銘・賛にて、多くは皆前序を散文にて作ることなり。賦は本は、商賣徃來など云ふ如くなるものを本とす。其を叚々に文飾して、司馬相如などが賦體となれるものなり。唐に至りては別に律賦と云體出て、平仄・對語の吟味、一叚むつかしく成たり。頌の韻は、終篇同韻なるもあり、四句づゝにて韻を換ることもあり。別に又離騒の辭に倣ふものあり。此も有韻の文なり。いづれにも、詩経の用韻の法とは、事かはれり。此は問學擧要中に詳にせる故に、贅せず。
序は宴序四六の文にて書くことあり。王勃が滕王閣序の如きこれなり。宴序・送序共に散文にて書くこと、韓・蛯謔關キになりたり。詔にも四六あり、散文あり。
文の工拙と云は、戰國・秦漢の比より、文に貴べる旨あり。辭簡にしては、能く奥深なる處を言取り、繁なれば能く物の微細なる情状を盡すを工とす。此に反するを拙とす。されば戰國の際には、屈原・宋玉・荘周の類、並に皆妙に辭を置きて、物情を形容せるを以て稱せられたり。此流風漢に至りて、司馬相如が賦の物情を曲盡し、淮南子の辭の冨贍なるを、武帝の感賞して、能文とせるを思ひ、司馬遷が史記に李斯・鄒陽が書等を載せたるを以て、當時の文に崇尚せし旨の在る所を、推し知べし。司馬遷が文の撲實にして、善く事情を連ね、活動したる所を寫したるを、能文と稱したるも、楊雄が諸文の辭采華贍なるを貴も、並に同じ心持なり。
古今の文變を論ぜば、上古は文字もなく、唯言語にて、其情をば通ぜしことなり。其後文字興りても、易に作二書契ヲ一代フ二結繩ニ一といへるを見れば、亦唯此を用ひて物を記して、遺忘に備るの用にせしのみと見ゆ。聖賢出て、善政美言の傳ふべきありてより、其嘉績法語を記して、簡策に遺すことになりたり。三代の聖賢それを道とし學びて、政を為し、太平の化を致せしより智逹の士は又其道を論じ、言を立ゝ、後に遺すこと出來りたり。されば、周末の文は、孔夫子及び其門弟子の言を記せし、論語を始め、其流より出たる國語・左傳・禮記の類、其文の主意、並に世の法となるべきことを録したるものなり。戰國の諸子にいたりては、其道も、其説も、様々同じからざれども、要するに、古聖人の道を、古道のまゝにては、當世に通じ難しと見て、己が意を以て見取りて、切要に説つめ、又は鄙近なることにたとへを取り、説碎きて人に、早くそれを聞かせんとしたる意持になりたることは、いづれも一轍に出たるが如し。故に戰國の文は言辭繁にして、辨を好み、道理を縦横に肆説せるの文多し。諸子先王の道を右の如く分裂して、言辨繁多になり、むつかしくなりたるより、秦の詩書を焚の禍おこれり。西漢の人は其政治には自家の法制を用ゆれども、稍く儒術に嚮べき風ありて、陸賈・賈誼が文、漢初に出づ。武帝より、文飾するに儒術を以てして、聖道の隱湮せしを、尋求て興さんとせしより、其時世の文、自意を立て、其徴證に飾り引くに、経藝の文を以てせるもの多し。是に於て、辭の文飾の贍麗なると、物の事情には、心を用ひて深く捜りて、能言盡すを以て、巧とせる風になりたる故に、司馬相如・枚乗が詞賦おこり、董仲舒・司馬遷・劉向等が著作出たり。後漢にいたりては、政治は、自家の政治に行へども、聖人の道義の名を用ひて、外面を裁制し、飾らざることを得ざる勢になりたるが、此風儀、文字にうつりて、體製も嚴整になり、辭樣も駢儷を尚ぶことになれるは、自然の勢なるべし。されども其風教、周の世の如くに、人心より被化せざる故に、人の材質を拘縛する如くになれり。魏人よりは、此嚴整なることは、元來矯偽のわざなる故に、其をば厭へる心より、流れ迸脱して放逹の風となり、竹林の稽(*ママ)・阮が属出て、道も玄虚を尚ぶことになり、言辭も簡佚なるを喜び、晋人の清談これに由て出でゝ其清談の趣が、又駢儷の文に合し、華洒落なるを主とする風になりぬ。其より宋・齊・梁・陳・隋には、老・釋の道益盛になり、人心儒・老・釋の三家あるに疑惑し、中に主なく、外には華なるを尚ぶの跡を追たる故に、遂に文章も文字の膚立せるのみにて、浮靡に流れ、後には愈〳〵軽薄になりて、淫惰に安んじ、陳言のみを排列せり。唐の太宗天下を一統し、稗政を改め給ひしによりて、文章稍く雅正になりたり。されども六朝の餘氣は、未其中世までも去らざりしが、韓退之・蜿@元出るに逮びて、遂に唱へて、古文を復し、陳言を去つて駢儷の習を除けり。韓・蛯謔闌繧ヘ、文體の古雅・正大なるを貴ぶことは世に定まりて復移り易らぬことになりたれども、其なりを以て、時に隨て又變化す。宋の歐陽脩、韓・蛯継て、復古を唱へて、三蘇・王安石・曽南豐(*曽鞏)出づ。此韓・蛯ニ併せて八大家なり。されども韓・蛯ヘ、古文を辭と氣とに求めて書ける故に、其文自から、氣格く、其歩驟古人に逮べる處多し。歐陽よりしては、辭趣に泥みて、稍古氣に乏しく、且其流の文辭の弊が、後には全篇の結構さし定まりたる熟套を以て作ることになり、且つ八家の文、古文に略折等の法あることを知らざる故に、其文竟に古と同じからず。明人これを變ぜんとして、夢陽(*李夢陽)・景明(*何景明)よりこれを前に企て、攀龍(*李攀龍)・世貞(*王世貞)これを後に継げるが、これも文理を講ずることを知らずして、唯其讀がたきを、古文と思ひて、古文の佶屈贅牙なる語を綴緝して、古文辭と名付けたるは、甚しき粗淺の見なるべし。其より後、八家の文を言ふもの、唐荊川・帰有光輩あれども、振ひがたく、後に又王穉登・徐文長等が文出て、其風益偏にして、靡弱極りぬ。以上古今文變の大略なり。韓・蛯謔阨カ體を正しくせしは、誠に偉功なり。されども、古三代立言の旨を宗とせずして辭華に流れ、且つ古文の文理を講ずることを知らざりしは、返々も惜むべきことなり。
明の王穉登が文は、故事づくめにて、辭をつくりて書けり。古には一向なき體なるものなり。是は文を書く次手に、己が博識を、きかし知らしめんとてかゝる辭體をば創めけるにや。されども其何事を云ふにも、故事によせて言たる故に、自然に實意薄く、軽薄子弟の口合とやらんを聞く如くにて、厭ふべきものなり。
尺牘の體、明末の人王穉登が文に倣ひたるもの多し。是は四六の書啓の體の一變して出來たるものと覺ゆ。されども是は尺牘の體を失ひたることなり。尺牘と云は、たゞ書と云にてもなく、ざつと書たるが尺牘なり。然れば歐・蘇などの書ける所、却て其體を得たりと覺ゆ。されども、かやうのことは、時代にしたがひて、兎角古めかしきことは廢りて、新様々にかはり行くものなり。新様に従ふ物ずきありて、文の全體に心なき人は、いづれにも、小文のことなれば、心任せに書もよからんか。
唐の韓退之が友の、樊宗師が文は、奇僻なるものなり。韓が樊の墓誌中に言へるに據れば、平生の著作夥しきことなり。今は皆亡びて、元の陶宗儀が輟耕録の中に、其絳守園記の一篇を載せたるが遺りたるまでなり。其文の體、尚書を學びて、兎角簡なる樣に、奇なる樣にと書たるものなり。此は復古の物ずきの過ぎたるなるべし。文も其物によりては、書誥の體に倣ひ法りて書くべきことあり。韓退之が平淮西碑の如きは、書誥の體に書けること、至極尤なることなり。其故は、近き喩を取りて言へば、俗諺に人形も衣裳と言ふことあり。飾るに書誥の辭體を以てすれば、其義の正大なることが、自から古三代の風に彷彿たることに聞こへて、民心の敬服することになるべし。さなければ、義の正大なることも、平常の事に混じて、重きを取ること無き故なり。かやうなる文の外をも、尚書の體に倣はんとせしことは、如何なる故ぞや。古文の貴ぶべきは其法言を傳ふる故なりと云ふことを樊も心付きなかりしにや。韓・蛯ェ古文を復せんとて、漢人の文を宗とせるも、其書たる所の、事も言をも、古漢人の事・言の如くに、観聽せしめ、粗畧に思はしめじとて、其文體に倣しことは古立言の意よりは稍卑き見觧にて、畢竟辭華のみに流れたることなれども、文體の今古を見料りて、中を取りたることは、誠に易べからざる論なるべきを、其をも考へずして、唯古き程をよしと思ひたりしは、恠しむべきことなり。明の李攀龍が古文の奇僻なる處を剪り合せて、讀がたきを賞玩として書たるも、畢竟は、やはり樊宗師が流亞なるものなり。王世貞も初は同心なりけるが、晩年には悔たること明人の書中に見へたり。王氏すら悔たる文の體をば、後世に尚倣はんとするは、可咲ことなり。近世の李・王に倣たりと云文は、李・王が物ずきに愜たる様にもなき者多し。多くは、人の集中より竊み出して、切り合せたる語を以て篇を成すことなり。是は又李・王が古文辭といへる名さへ、辱しむべしと、思はるゝことなり。
淇園文訣 卷上 終
(序)(皆川允)
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