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助字詳解 

皆川愿 伯恭(皆川淇園)
(『助字詳解』一 藤井孫兵衛 1814〔文化11年〕.1.日付ナシ、
1876〔明治9年〕.5.18 版権免許

※ 原文は漢字カタカナ交り文。(*入力者注記)
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  巻之二目次   本文
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助字詳解卷之二目次

耳 初丁  已 二丁  而已 同上  爾 三丁  以   用 八丁  式 九丁  庸 同上  於 十丁  于 十一丁  乎 十四丁  則 十五丁  乃 十七丁  迺 十八丁  載 十九丁  即 同上  輙 廿一丁  便 廿二丁  又 廿三丁  復 同上  亦 廿五丁  覆 同上  也 廿六丁  還 同上  此 廿七丁  斯 廿八丁  維 廿九丁  侯 三十丁  弗 三十丁  不 卅二丁 未 卅三丁  非 同上是附  匪 卅六丁  無 卅七丁  毋 四十一丁  莫 四十三丁  微 四十四丁  靡 四十五丁 亡 四十六丁  罔 同上  蔑 四十七丁  勿 四十八丁 


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助字詳解 卷之二

平安 皆川 愿 伯恭 著
允 君猷  仝
門人  中川恪 慎卿  挍
[目次]
  此字は人の其物に付けて評し徃くに、先のつまりを、此すぢにゆくこととして言ふこゝろにて、俚語にが是ぢやと言ふ氣味に用ゆる字なり。
古今集名にめでゝ折れるばかりぞ女郎花我おちにきと人にかたるな。此ばかりぞといへるが、耳の字を用たる意もちに叶ふなり。
論語に、子游武城の宰たりしに、孔子子游に謂てタレバ焉耳トイフナルカ矣乎とは、其方の武城の治めかた、其方にしては、格別によき手ぎわなり。よき相談人を得たるが、左様になりたるすぢぢやと云様なるがことなるかと言給へるなり。孟子に、セバ之父、人亦殺。殺セバ之兄、人亦殺其兄。然則非自殺スニ一レ也、一間耳、といへるも、殺す人を一つへだてたれども、我が人之父兄を殺せるによりて、我父兄を人の殺すにしたることなれば、但一つへだてたりと云がすぢにて、自ら殺すのこととなることなりと云るなり。荘子大宗師に、人が死しても、造化の為す所に打まかせずして、人耳人耳と云はゞ、造化が以て不肖之人とせんといへるも、人に生れてゆくが、おれがすぢぢゃ〳〵と云ことなり。世説に、周仲智酒に醉て、其兄伯仁に才不シテ而横重名と謂て、蠟燭の火あるを擧て、伯仁に擲しに、伯仁笑曰、阿奴火攻、固ヨリ下策、といへるは、火攻にせんとせるは、策の中にても、其下策の方へ手を出したと云ことになるすぢぢやと云氣味なり。言語(*「世説新語」言語篇)に、陸大尉王丞相に詣で、事を咨り、すぎて後には輙ち飜異うちかはりにせるを、王公其を恠みて、後以。陸曰、公。臨時不ハン。既ニシテ後覺不可、といへるは、公は背高く、我は短きによりて、咨りし時は何事を言たるか知らず。後に左様にては不可なりと氣がつくことが、其最前と相違を致したるすぢぢやといふことなり。
[目次]
  此字は、事の叚々になりゆきたるが、もはやそれにてすみたるを語る字にて、やはり既已の已の字のこゝろなれども、それを語末におく故に、其の使ひ方のふり、少しかはるやふになりたるなり。老子に、天下皆知之為一レ美、斯惡已。皆知善之為一レ善、斯不善已、と云る、天下の人、皆美の美たるを知るやふなるにゆくは、醜惡を醜惡とすることがあると云ことが、はやそれにてすみありと云こゝろなり。とかく此已字は、此上に言たる趣にて、其事のせんぎにかかる筋は、もはや跡へのこらず埒の明きたることにせんとて、置く字なり。史記游俠傳に、布衣之俠、靡得而聞已、と云るも、貨殖傳に、神農以前、吾不知已、といへる、並に此語の通りとして、それぎりにのけてしまふことにするこゝろにて、用ひたるなり。劇孟傳に、周亞夫得劇孟曰、呉楚擧大事而不。吾知能為コト已矣、といへるは、已矣は、其無能為に属して、呉楚が能くなすこと無くして、もふそれぎりなることになつてあると云ことなり。さて其已矣を知に属して、吾心にはそれを知れりと云ことなり。左僖八年に、楚の子玉を殺せしことを、晋侯聞て之を、而後喜可知也。曰莫ん余を毒すること也已、といへるは、余に毒することは出て來るまじきことぢや、もふこれにてと云るきみなり。
[目次]
而已  此は而と已とを併せたるを以て、義をなせるなり。二字共に觧前に出せり。而已は、それにしてもつて、もふそれにてすむと云こゝろなり。論語に、子の曰、辭逹而已矣、と云たまへるは、凡辭を言ひ出すには、此方の心に思ふ様子が、向ふの人に逹すれば、それにてすむと云ことにて、たとへば、酒を好むと云ことを、其通に言ふ辭は勿論のことなり。事によりては、わざと酒は好まずと云辞にて、却て酒を好むことの聞ゆることあり。いづれにも、意が向ふへ逹すれば、それにてすむと云ことなり。曾子曰、夫子之道、忠恕而已矣、と云るも、而已矣のこゝろは、同じことなり。されども、序でながらヶ様の処の文義をさばくに、尤心を付けて、其意を取る様にする心得あり。此は孔子の曾子に吾道一以貫、と云たまひたるを以て、右に付きて諸門人が曾子に問て、夫子の一にし以てそれを仕ぐせをつけならふやと問たまへるに、其方が唯と對へられたるは、何といふわけのことぞと問へるの答へなれば、夫子之道は、忠恕ばかりなりとのみの答にては、事の分れも立たず、其上に曾子の唯の答も聞へぬこととなることなるに、後儒の觧にも、此處心付かざりしと思わるゝことなり。此は孔子の道は、詩禮に存して、それを取まはして、其義をさばくに、とかく人我の差別を立ることなく、彼が心内に思あるをも、ヶ様のことに遇ては、我にて斯思へば、彼も斯る思ひにてあるべしとて、其處を合點すれば、夫子の道は、即ち凡そ血氣あるものゝ尊親する道なれば、それにもてば、それにてすむと云るなりと心得べし。孟子の亦曰ハン仁義而已、といへるは、我が仁義を言ふべきのみならず、王にても曰仁義とあるにて、それにてすむことなりと云ことなり。左傳宣十二年に、矢一而已、といへるは、矢を殘り無く射盡して、聞者一本としもつことにして、それにてもふなかつたと云こゝろなり。世説黜免に、殷中軍被信安、終日恒シテ。楊州吏民尋義逐之竊、唯作咄々恠事四字而已、といへるも、其書空の字が咄々恠事四字と云ふにもつて、それでもふなかつたと云ふことなり。
[目次]
  此ものみと云ことに用ゆ。本は爾汝の爾なるが、爾汝の爾にて、やはり爾字は、其身ぶんと云こゝろもちなる故に、古書には、此爾を其の字のこゝろに用たることあり。齊語・孟子にもあり。詳なることは、虚字詳觧に出して、此に贅せず。さて此爾をのみと讀む時も、やはり其身分と云ふ心持ある字なり。されば論語、曾點がスルコト鏗爾ナルガ、舎而對、といへる鏗爾も、他門人の孔子との問答の内も、やはり瑟を鼓することをやめず、時々一聲づゝ鳴らして鏗爾としてきこえたることにて、其音のやふすの其中にこもり持たるところを言んとして、爾といへるなり。其聲の出て來るやふすにて言へば、鏗然なり。司馬相如が難蜀老夫に、豈特委瑣握齪(*原文{足扁+齒})、拘、循習傳、當世ナラン、といへる云爾は、かふいふたとおりのことぎりなることならんやなり。論語に、女奚不ルヤ也發、樂以忘、不老之将一レ至云爾、とあるも、かふ云ふたとおりにいはざりしぞと云ことなり。
古今集獨のみながむるよりは女郎花我すむ宿に植て見ましを、此獨のみののみ、即爾の字の意にまわるべし。身ひとりにてながむることを、いつまでもそのとおりと云ふこゝろもちなる故なり。
後拾遺ほとゝぎす我はまたでぞ心見る思ふ事のみたがふ身なれば。此思ふ事のみののみも、思ふことさへ言へば、いつまでもそのとおりにて違ふといふこゝろもちなる故に、爾の字の意もちなり。
又文によりて、或は爾云と書て止めたることもあり。此は此とおりのことぢやともふすことぢやと云こゝろなり。世説假譎に、愍度道人江より南へ越んとせし時に、一の江北の道人とはかりて、舊義を用ては、はやるまじければとて、無義と云ことを立てんと相談して、愍度のみ渡りて、右の無義を講じて年を積みしに、後に江北より一人來て、江北の道人の語を傳へしに云へるは、無義は那んとして立べきぞ。爾。無コトヲ如來、と云しは、無義を治せるは、當分をはかりて、飢を救ふことにて、講たるふりのことぢやといへるこゝろもちなり。
[目次]
  此字もつてとよむ故に、持の字のこゝろにまぎれて聞ゆれども、手のわざにかゝることとは格別にて、聞人の心の、其物事を思ひて、其象を想ひ居れる、其象の其外の物にむかひ徃く先の、のきたる様子なる処につけて、出してすゑたることにしもたすことにして云ふこゝろもちなり。譬へば鼠をつかむに、手のごひを以てすといふは、手の象を立てゝ、其手のゆく先ののきたる処に、手拭を付かせすゑて、さてそれにてつかむと云ことなり。字を書くに、朱を以てすといへば、字を書く其事のかゝる先に、朱と云ものを付かせすゑて、さてそれにて書くことと云ことなり。されば虚字に似たる使ひかたの時も、やはり同じこゝろもちなり。
詩召南に、子歸、不テセ、といへるは、之子の他へとつぐに、其が適きたき方へゆくことにして、此方のことを其心に引かけて思ふてくれぬと云ことなり。論語に、一レ、と云たまへるは、人の心だてにより、嗜好のある處によりて、其心の動くところに、とかく先づ其事を引かけて出すものなり。酒を好む人は、何事に付けても、これにて酒を飲むべしと思ひ、喜にも哀にも、とかく酒を云出すなり。餅を好む人も、同じきみなり。口論を好める人は、何事をも、口論することにおとさんとし、訴訟を好む人は、何事をも、訴訟にすることにそれを引出さんとする類、並に其所以と云ふところのことなり。さて助字に用ゆるに、以字を以て上を承るあり、以字を以て下を引あげすぶるあり。いづれにても、以字の上は、物のそれにして用てゆく処にして指すことになり、下は、物にても事にても、並に皆名稱を付けて言ふもの、若は事となると心得べし。たとへば詩の召南に、セバ、南澗之Mニセン。于、公侯之宮、といへる以は、下より飜る以にて、以テシ蘋・以テスルなり。于字于南澗之M・于公侯之宮を、于字ばかりを切はなし。引あげたるこゝろもちにて、こゝにて蘋を采ることを以てせりと聞かば、南澗之Mにてのこととせん。こゝにてそれを用ゆることを以てせりと聞かば、公侯之宮にてのこととせよと云ふことなり。論語に、は、政をするにして以てゆく処に、名稱にいふところのコと云ものを先につけてもつてゆけばと云ことなり。又子對曰、言不是其幾の以字も、下より飜る以にて、言のことにしてもつてゆく処に、ヶ様なるかゝりならば、其にこれが幾からふと云ことをもつてゆくことにせられぬと云たまへるなり。莊子逍遥遊に、テシテ九萬里而南スルコトヲルゾ、といへるは、其之九萬里而南の七字を、其事を人より斯いふ語にして言ふことにすることを、其飛ぶわざの処に引かけてすることにしてなせるぞと云ふこゝろなり。故に右の如くに、以字を上に置きて、其下を其以字に引かけて飜すときは、以字の下、物なれば、かたまりたる物なり。事なれば、斯云ふ語にして言ふことと云ふ意となりて、名稱とする所の事となる故、やはりかたまりたる物と同じ意持なり。以字を下に置きて、上を轉接して承るときは、以の上、並に活動となる。易説卦傳に、ニシ以動、風ニシ以散、といへば、雷にし・風にしと讀むべし。雷をならすことにして以てそれを動かし、風を吹かすことにして以てそれをちらすと云ふこゝろなり。詩鄭風に、ラバ子之來コトヲ一レ、雜佩以、といへるも、雜佩をどれをなりとも取出すことにして以てそれを贈らんとせよと云こゝろなり。とかく以字の上は、わざのかゝるこゝろありと思ふべし。論語に、ニシ以貫も、詩を學ぶにも、禮を學ぶにも、其何なる文義に出合ても、其を忠恕の心に本づけて、それを推し知ることにして、以てそれを慣ふことにせるやと云給へるなり。一の字以の上に在らざれば、此も右の如くわざのかゝるこゝろにさばくべきを、後儒文理に昧き故に、一以を以一の如くに心得て、忠恕の一物を以てと思ひたる故に、其旨自から夫子之道と云ことをはなれて、曾子の其身に行ふこととなり、貫の字も、自から貫穿の義と心得ることになれり。道は物に非ずして、活動する所にあるものなれば、貫ぬくべき質は無きものなり。况や前に云へる如く、一以とあれば、これも人のわざを以て、衆物の別異なるを一つすぢにして徃くことにすることとなるなれば、下の貫の字、自から習貫の貫とならざることを得ざることなるに、前儒は誤觧を自から覺へずして、後には此章をば、一貫の傳習などと言ならふす(*ママ)ことになれるは、歎ずべきことなり。史記蘓秦傳に、ニシ韓魏齊楚燕趙、以従親シテ以畔クニ上レ、といへる文あり。一以の一は、即此蘓秦傳の一の字の意と同じと心得べし。又此以字、上下の異なるには、是以・以是・何以・以何の別あり。此も是以といへば、是の字活動して、此やふにゆくこととして、それを引かけてと云こゝろなり。李斯傳に、乃上書シテ曰、古者天下散乱、莫能相一ナルコト。是以諸矦並、皆道以害、といへる如きの是以は、莫能相一と云ふやふすにゆきたるにし取つけ、それを引かけて、諸矦が道ことにし、それに引かけて今を害することをせりと云ことなり。以是といへば、是の字は、其やふすを含める物を指したるにて、是の下に物の字を略せるなり。何以といへるも、刺客傳に、徃古烈士、何以ヘン、といへるも、何の事のあると云出すことあるにし、それを引かけて、此よりはうわ手になると云はれうぞいと云ことなり。以何といへば、これも何字の下に、物の字を略せるこゝろなりと心得べし。又以字ををもへらくと讀むところあり。齊悼王世家に、齊王自以ラク児子年少、不兵革之事。願クハセン大王、といへる是なり。然どもやはり下の之事と云より飜したる以の字なり。後世の文に用ゆる以字、大抵上に言へるに同じことなり。されども、今のCの康煕年間、文華殿經筵の學士王士禎が著せる香祖筆記に、古人贈答、或、以。今詩以、詩以寄一レ之矣。此類未僕。但取古人レバ、雅俗自辨。當三隅、と云へり。王が此文に、但其書法の古人と相違せることのみを擧げ言たるまでにて、其相違せるは、其文理の辨別に暗きが致せる故なりと言ふことなければ、讀者の意には、此は畢竟文法の古雅なるに法とり書たると、唯有体に書たるの相違のみにて、全体の処、さのみかはること無きことなりと思ふことなり。かやふの心得にて、不吟味なる故に、右等の相違をば、たゞ文字の上下の外面のこと而已なりと思ひ、古書をさばくにも、古人の真面目を獲ることを得がたきことになりゆくなり。今此を辨ぜんに、總別かやふの語勢の以字を中間に夾みたるは、詩の鄭風に子之來一レ之、雜佩以贈は、雜佩でも其処に用ゆることにして以てなり。陳風に、墓門有棘。斧以斯は、斧でも其処に用ゆることにして以てなり。夫也不良、歌以訊(*陳風)も、歌でも其処に用ゆることにして以てなり。論語の一以貫之は、一の字虚なる故、今此類の實物を、其処へはめ用ゆる意とは、少々異なることなりと知べし。又以など書くことは、此上の文に、そんぜふヶ様〳〵のことを言のべしに、詩を以てしてそれを寄すると言ふ意味なる故に、以詩と書くことなれば、それをば詩以と書きても、同じ意味にまはることと心得たるは、沙汰のかぎりの謬妄なることなりと知るべし。
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  此字漢より已前の文には、助辞にも書たること間々あり。全体の字義、其物若は事を我処にすることをば、此形の内の物に深くとめることにして、さてそれを向ふに着ることにしてすゑゆくと云こゝろにて、譬へば、筆の本を手の指の内にとくと持て、さて其筆の先を向ふへ着けることになしすゑゆくことを云て、用と云ふ。人を用ゆると云も、先其をば我につきてはなれぬ物にして、さてそれを使ふことにすることなり。助辞にては、それを持こみゆきてと云ふこゝろに心得べし。詩大雅に、王欲セント、是用大諫、又ルコト之未遠、是用大諫、といへる、並に此上文が下文に言ならべたる辞を持こみゆきて、大に諫むることにせよと云こゝろなり。又爾車馬弓矢戎兵、用、用逷(*原文「逿」)ケヨ蠻方(*「詩経」大雅)と云るも、修することにそれを持こみゆきて、戎の作るを戒しめ、それを持こみゆきて、蠻方を逷(*とお)ざけよと云ことなり。又人民、謹侯度、用戒不虞(*同前)といへる用の字も、これに同じ。史記司馬相如傳に、何為無ルコト、といへるも、何として楚王の辞に、楚國の内には、これを持こみて返報にして應ゑんとするものなかりし故なりとせるぞいと云こゝろなり。李廣傳に、、其タル數〴〵困辱といへるも、此しかたをもそこへ持こむことにしたるにて、其兵に将たるに、數〴〵困辱せりと云ことなり。游俠傳に、魯人皆以、而朱家用、といへるも、それを持こみてと云ふことなり。
  此字詩書に助辞に用ひたれども、西漢の人の行文には、用たることなし。此字本は法式の式にて、それをば此方より以てゆくあてに取ることにすることなり。詳なること虚字詳觧に出す。助字に用ゆるも、やはりあてに取ることなり。詩小雅に、セラレ昊天、乱靡コト。式(*もつて)月斯生、俾民不一レ、といへるは、大抵一月あてに取りて一乱の生ずることを云るなり。又家父作誦を、以究め王の訩、式て訛し爾の心を、以て畜せん萬邦を、といへるは、此誦をあてに取りて、其方の心をいれかゑて、それにて萬邦を畜はせんと思へりと云ふことなり。又飢匪渇、コ音來括、雖好友、式燕且喜、といへるは、好友無くとも、其コ音の來括をあてに取りて燕し、且つ喜んと心がけよと云ことなり。旨酒、式シコトヲ庶幾、といへるも、同じこゝろもちなり。大雅に、、俾晝作一レ、といへるは、酒にひたり醉て、大聲にて號することをあてに取り、呼ぶことをあてにとりて、何事をも打忘れ、晝をも夜にならすべしと云ふことなり。
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  此字元來其物を我内に持つに此に所としもつことにし徃くことが、定まりたるすわりにすると云ふことにて、畧していへば、常にある取あつかひと云ことなり。凡庸と云も、常に取りあつかふ常人のことなり。其詳なること虚字詳觧に出す。助字に用ゆるときは、以字・用の字とは相違にて、下より反して飜するになりて、其とりあつかひにならふやと云こゝろもちなり。史記晋世家に、従者皆國器、此天置。庸(*もつて)、といへるも、殺せば殺さるゝと云やふなることのとりあつかひに徃かふかと云ことなり。莊子齊物論に、然、嘗試言之、庸吾所謂知之非コトヲ一レ知邪、といへる庸詎知は、めつたに知れると云ことの云はるゝ取あつかひに徃くことにならふかと云ことなり。
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