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 石島筑波  孔生駒  多湖栢山  多湖松江  富永滄浪

先哲叢談續編卷之八

                          信濃 東條耕 子藏著
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石筑波
(*石島筑波)
名は、正猗、字は仲緑、筑波山人と號す、通稱は左仲、石島氏にして、自ら修めて石と爲す、遠江の人なり、

筑波、初の名は藝、字は子遊、穎川と號し、與右衞門と稱す、江北海(*江村北海)の詩史(*日本詩史)、誤りて前後の名字を仭し[しるす|]、又尾張の人となす、是れ未だ其事歴を知らずして言ふ、余嘗て筑波の自書する所の譜牒及び年譜を見るを得たり、此に撮要す、當時門人と稱し、其業を繼述する者無し、故に言行を傳ふる者、頗る異同あり、後世之を傳ふる者、余が記す所を採り、以て實録と爲すべし、
筑波、本姓は尾見氏、系敏達帝より出づ、帝嬪夫人藥君を幸し、春日王を生む、王の子を妹子と曰ふ、始めて小野の姓を賜ふ、推古帝の十五年・十六年、累に使を隋に奉ず、隋書に蘇因高と曰ふは是なり、妹子十一世の孫篁、文學を以て顯る、其次子好古、朱雀帝の天慶三年、反賊藤原純友を討つに遣され、功を以て從三位參議將軍に拜し、備中守に兼任す、好古の十八世親家、四條帝の暦仁中、左衞門大尉に補し、始めて尾見を氏とす、其世〃下總の尾見川に居るを以てなり、親家十五世の孫正忠、天正中常陸下館の城主水谷政村に屬し、勇武を以て聞ゆ、田野の役、十六歳にして先登し、下野武玄の首級を獲、時に稱して功最も第一と爲す、戰ふ毎に數十人を斬獲す、青史傳記以て美談と爲す、小田原の役、結城の城主結城晴朝、政村と謀り正忠をして斥候となさしむ、還り報じて曰く、城保つべからずと、言果して驗あり、晴朝・政村大に之に賞賜す、又稱を豐前と賜ふ、故事に陪臣私に國名を稱するを得ざるなり、後、安中の役、重創を被りて沒す、歳三十二、男なく二女あり、長女は先に同僚石島正義に嫁す、是に於て、正義をして之が爲めに尾見氏を冒し、祀嗣を奉ぜしむ、慶長五年海内を統一してより、政村舊領を安堵し、下館侯と爲る、正義正吉を生み、正吉正敞を生む、皆下館に仕ふ、食祿五百石、老いて後、土休と稱し、筑波山陰の村田邑に退去す、歳九十六にして沒す、男正盛下館を辭し去り、沼田侯眞田信吉に仕へ、後濱松侯本庄宗俊に仕ふ、食祿三百石、膂力人に絶し、能く強弓を彎く、其人と爲りや、魁梧美髯、甚だ威容あり、享保己亥、韓使來聘し、道濱松を經、侯爲に饗を設く、正盛侯の命を奉じて、舍館に周旋し、供享の禮を掌る、其製述官書記等と筆語し、席を專らにして坐す、書記等相進みて拜視す、嚴毅を畏怖し、覺えず巡逡して遁れ去る、時人王商を以て之を目す、正盛正數を生む、字は有孚、與兵衞と稱す、父の在りし時より、別に祿三百石を受け、左右に承事す、頗る膽略あり、侯之を器遇す、内外の機務、倚頼して之を行ふ、正數群書を博覽し、最も禮儀に精し、年六十三にして歿す、横山氏を娶り、寶永五年戊子八月八日を以て、筑波を小河街の侯邸に生む、
筑波岐嶷絶倫、六歳にして叔父正侯に就きて、四書・五經を受く、會〃痘を病み、晤■(口偏+伊:::大漢和)を廢す、數日病少しく愈ゆ、其遺忘を慮り、私かに字書を考索し、課程を卒業す、筑波十歳にして、質成人のごとし、正數嘗て族人と宴す、筑波能く典謁を掌る應對周旋、過誤する所なし、來賓皆之を奇とす、
正數物徂徠と善し、筑波をして書を徂徠に寄せしめ、將に以て業を請はしめんとす、未だ江戸に到るに及ばず、是時濱松に在り、幾ばくも無くして徂徠歿す、故に服南郭の門に入る、
筑波族人の招宴に會し、父正數に從ひ、之に赴く、其童■(齒+礼の旁:::大漢和)なるを以て、坐席末に在り、膳椀の赤塗漆を用ふる者は、之を士人に供せず、蓋し赤塗は麁惡の物にして、素と廝僕の徒の用ふる所なり、筑波色を正して言つて曰く、吾れ幼にして不似と雖も、苟も姻屬を辱うす、何ぞ廝僕の器を以て之を遇待すと、主人慚ぢ謝して器を代ふ、時に歳十二なり、
筑波は天資卓犖、豪邁才を負ふ、故に心を柔げて世に應じ、仕進の間に俯仰すること能はず、早に通籍に上り、心常に怏々として樂まず、嘗て諸〃當路の人と事を議して容れられず、遂に臣たることを致して去り、京攝に浪遊す、侯怒りて將に之を禁錮せんとし、捕索して獲ず、竊に姓名を變じ、又通稱を更ふ、時に享保十五年庚戌六月、歳廿三なり、
筑波磊落にして酒を好み、家を爲さず、然れども詩才を以て一時に雄視す、京に遊ぶ詩に云く、

弊裘劒ニ仗リテ入西京ニ入リ、自ラ比ス能文ノ陸士衡、誰カ篇章ヲ見テ筆硯ヲ焚ク、豈ニ詩賦を將テ簪纓ヲ讓ラン、一時ノ羊酪人ノ問フ無ク、千里ノ蓴羮客情ヲ動ス、洛下ノ書生博物ニ誇ル、寥々トシテ未ダ聽カズ茂先ノ名(*弊裘仗劒入西京、自比能文陸士衡、誰見篇章焚筆硯、豈將詩賦讓簪纓、一時羊酪無人問、千里蓴羮動客情、洛下書生誇博物、寥々未聽茂先名)
蓋し是時學の博きを以て、京師に著聞する者は、伊藤東涯岡龍洲宇明霞(*宇野明霞)等なり、而も其意に滿たず、狂誕放恣、大率此の如し、
筑波西遊の歸途、尾府に留滯すること四年、從遊極めて多し、後筑波山に隱居す、蓋し舊田宅此に在るを以てなり、先世の家僕鈴木生なる者、兄弟三人、力耕して、衣食を給す、居ること二年にして、江戸に到り、津藩の藤堂巴陵〔名は良鼎、字は君■(乃/鼎:::大漢和)、平藏と稱す〕の家に寓す、巴陵は姉の夫なり、業を江南溟〔名は忠囿、字は子園、幸八と稱す、徂徠の門人なり、〕に受け、時に名あり、別に一室を營みて之に居らしむ、筑波大に喜び、戸を閉ぢて書を讀み、志を學に專らにし、顧慮する所無し、衣弊るゝに至るも知らず、姉側より新しきを製して之を換へしむ、其篤志以て想ひ見るべし、
寛保壬戌の春、初て巴陵を辭し、駒籠吉祥寺前に僑居し、講説して徒に授け、業一時に振ふ、南郭の門人、未だ嘗て帷を城北に下す者あらず、是に由りて從學する者極めて多し、
筑波家極めて窘貧、敢て意を措かず、酒を嗜み客を好む、雄飮斗を盡す、交遊到る毎に、窮甚しき時と雖も、醇を沽ひ鮮を撃ち、快意劇談、狂を發し氣を吐き、旁ら人無きがごとし、一坐の人歡を■(謦の頭/缶:::大漢和)す、資若し足らざれば、衣服を典して以て之に繼ぐ、更に惜吝の態なし、
筑波毎に自ら■(缶+尊:::大漢和)を携へ壺を持し、酒を市店に沽ふ[かふ|]、沽る[うる|]者其虚襟と風■(手偏+邑:ゆう:組む〈=揖〉・取る・抑える・推重する〈すすめる〉:大漢和12105)とを愛し、資なき時と雖も、其時値に任せ、少しも索値[かけね|]せず、筑波積逋を厭はず、居恒に之が爲めに、其償債する所、賠還する能はず、
筑波山の舊田廬は、江戸を距ること、僅に二日程なり、筑波健走強脚、大率ね旦に發して夕に到る、嘗て小金ヶ原を過ぐ、一瞬數十里、素と人家無し、會〃一小屋あり、入りて憩ひ、烟を吃し茶を飮む、自ら錢十文を出して、謝し去るに及び、一壯夫曰く、客は何する者ぞ、人命至重ならば、其錢以て贖ふべしと謂ふか、唯金吾が意を■(厭/食:::大漢和)かしむべし、若し無ければ、衣服資裝ならんのみ、來り憩ふ者、是を常と爲す、特に客に於てのみにあらずと、筑波勃然として罵つて曰く、老賊漢、奪ひ易しと謂ふか、我れ後に此に道する者の爲めに、能く之を杖たんと、其徒五六人、刀を把りて之に逆ふ、筑波未だ刀を拔くに及ばず、杖を以て二人の眉間を撃つ、皆卒倒して氣絶す、一人■(肉月+當:::大漢和)胸を蹴られ、二人走り逃ぐ、壯夫愕視し、抗拒して之に敵すること能はず、叩頭して罪を謝す、乃ち置いて校せず去る、
筑波、弟正叔を携へて、京師より歸る、道に大雨に遇ひ、大堰河溢る、旅客■(門構+眞:::大漢和)委し、手を空しうして渉を候ふ、驛舍物貴く、費言ふべからず、因つて弟を顧みて告げて曰く、■(士+冖+石+木:たく:小袋:大漢和15347)(*本字は嚢の冠+石+木)中の裝資幾何ぞ、坐して懸■(謦の頭/缶:::大漢和)を待つことを爲すなかれと、乃ち起つて雇夫四人を劫し、渡錢を優給して曰く、吾れ試に亂流に先だつて渡らんと、時に水聲猛■(三水+迅の旁:::大漢和)、得て言ふべからず、中流にして反顧すれば、弟及び僕一人・四人の雇夫、挾扶極めて苦しく、或は浮び或は沈み、既に皆色を失ひ、將に怒■(三水+旋:::大漢和)跳波の中に溺漂せんとす、筑波聲を■(厂+萬:れい・はげし:激しい〈=礪〉・研ぐ:大漢和3041)まし、號呼して曰く、大丈夫何ぞ怯の甚しきと、遂に濟ひ免るゝことを得たり、後毎に人に語つて曰く、昔大堰河の難、一たび之を追思すれば、人をして今に至るも毛起ち骨寒からしむと、
筑波仕を辭してより、侯國の辟命、謝絶して應ぜず、講業殊に盛にして、朝より夕に及ぶまで、戸外■(尸/彳+婁:::大漢和)常に滿つ、自ら後進を誘ひ、人才を育するを以て娯と爲す、是故に蟻附麕至する者甚だ衆く、市井の人と雖も、亦聲名を知り、其學徳の優を稱す、
筑波詩を賦し文を作る、其著意の時は、筆に信せ[まかす|]て成る、必ずしも典詁を考索せず、時に臨みて稿を立て、■(糸偏+眞:::大漢和)密精緻を欲せず、然れども鍛練細思なる者と甚だ異なること無し、又貯蓄少く、多く之を人に借り、考援する所を辨給す、一たび聞見すれば、年を經て忘れず、強記人に絶す、又諸友の文詩を彈正して、其誤錯を駁し、復た之を遺忘する無し、數十日を經て之を談ずるに、一字を差はず、
筑波尤も詩に長ず、陶鎔雕鏤、高華調麗の篇章、抵掌笑■(口偏+據の旁:きゃく・がく:大いに笑う声・顎・舌:大漢和4403)の間に洩發し、思を經ざるがごとし、板帆邱(*板倉帆邱)は才氣を自負し、時流を睥睨し、敢て人を稱譽せざるも、筑波を稱して曰く、絶倫の才、博達の學、我土未だ曾て有らざるの人なり、吾れ其詩を誦すれば、目駭き魂褫はれ、通衢大街の中に、方軌抗衡する能はず、大家・巨匠宜しく三舍を避くべしと、
江北海(*江村北海)の詩史に云く、余筑波の詩を録する殊に多し、神氣軒■(者/羽:::大漢和)し、筆端活動す、若し能く精細の工夫を以てすれば、以て詞壇の旌門と爲すべし、惜しいかな、其輕躁にして筆を下す、亦復た疎卒のみと、今按ずるに、此言得たりと謂ふべし、蓋し褊急速脱、遲重を欲せざるなり、
筑波業を南郭に受け、嘉萬七子の詩風を祖述すと雖も、李王の緒論を專主せず、博く衆家の長ずる所を采る、其子弟に示して曰く、詩を學ぶ者は、猶割烹を學ぶが如し、割烹の法は鹽梅に在り、鹽梅の設は調和にあり、調和の理は濃淡に在り、濃すべきに濃し、淡すべきに淡し、濃淡其序を失はざるは、是れ庖人の伎倆なり、詩を學ぶ者、此に着眼すれば、思半ばに過ぎむ、今人法を李王に誦し、其他に及ばず、奚ぞ能く濃淡の口に適するを識らん、此を識りて後、衆味を咀嚼せば、處として詩量ならざるは無しと、
山本北山奚疑漫筆に云く、先師桃溪翁の友、石筑波なる者は、南郭の弟子なり、享保の末、封事を閣老某侯に上り、時務五條を言ふ、其中に■(匚+軌:::大漢和)を城外の通衢に置き、以て四方の書を受くるの事あり、其言に、一に延恩と曰ふ、以て農を觀、工を勸め、親を養ひ姻を撫し、財を殖し生を營み、贖を索め罪を緩うし、諸〃請求する者あれば、之に投ぜよ、二に招諫と曰ふ、法令の擧措、時政の得失、百司を彈劾し、諸〃規箴する者は之に投ぜよ、三に伸寃と曰ふ、抑を披き屈を伸べ、隱匿を摘撥して、上下蔽蒙、諸〃實を吐き發呈する者は、之に投ぜよ、四に互警を曰ふ、天變地妖、禎祥■(生/目:::大漢和)災、人事利害、鬱抑見はれず、諸〃之を明白にし、後に宜しくせんと欲する者は、之に投ぜよ、皆憲府の四員を以て此職に充て、■(匚+軌:::大漢和)事を知らしめば、何ぞ下情の相達せざるを憂へんと、嗚呼■(立心偏+黨:::大漢和)■(立心偏+充の「儿」に中一本を加えた形:::大漢和)(*慌か。)の中に、此の如きの卓見あり、眞に敬服すべしと、
寶暦八年戊寅八月十七日、病を以て歿す、歳五十一、駒籠の養昌寺に葬る、配原氏良■(糸偏+冏:けい:「絅」の譌字:大漢和27532)を生む、早逝して嗣無し、門人懸川の醫員舟橋元亮、遺託を奉じて、著述を梓行す、■(艸冠/支:::大漢和)荷園初稿四卷是なり、又二稿四卷・遺文六卷あり、皆未定稿と爲す、余嘗て白石孝女傳一卷を見る、既に之を刊す、
鵜子寧(*鵜殿士寧)墓誌銘を作りて云く、參議の文、將軍の武、■(火偏+華:::大漢和)々■(火偏+韋:::大漢和)々、千古に光る、後世衰ふと雖も、乃祖を辱めず、文は乃ち華の如く、武は或は虎の如し、偉なるかな先生、其身に兼ね具ふ、馮河難を渉り、暴虎亨屯す、計豈に已むを得んや、膽氣略〃申ぶ、赳々たる武技、宜なるかな超倫、生れて泰平に遇ひ、勇震ふ所なし、蔚たる其文、獨り席珍と稱す、東帛交互すれども、侯臣とする能はず、退きて業を修め、人を誨ふる諄々、篇章富有、孰れか身の貧を憂へんや、旨酒是れ耽り、良朋是れ親む、一時の風流、亦かくのごとき人ありと、
古人は一善を見て、百非を忘る、善とするの心長じて、惡を惡とするの心短なり、今人は一非を見て、百善を棄つ、惡を惡とする心長じて、善を善とする心短なり、筑波少壯より、豪邁簡直にして、世に俯仰するを欲せず、當世の逢掖、其文藝を知ると雖も、陽に之を稱譽して、陰に之を■(女偏+戸:::大漢和)忌す、概ね謂く、其人浮薄にして、言ふに足らずと、又其疎忽にして藩を去るの事を以て、莠言を作爲し、仕途を裁抑し、之をして斗升の祿に就くを得ざらしめ、偃蹇して半白に至る、侯國聘徴ありと雖も、之を■(女偏+戸:::大漢和)忌する者、言を一時の處置、其當を得ざるに託して、之を排斥す、然りと雖も其才學の聲は、都鄙に傳喧して、之を屈抑すること能はずと云ふ、嗚呼此弊は古今の時勢にして、免るゝことを得ざる所なり、筑波の才學を以て、排擯を時に獲、衡門に栖遅し、遺經を窮巷散屋の中に抱く、豈に命にあらずや、之を要するに、一非を見て百善を棄つる今猶然り、余深く此に感ずる所あり、


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孔生駒
(*日下生駒)
名は文雄、字は世傑、生駒山人と號す、日下氏にして、通稱は眞藏、河内の人なり、

河内の日下の里は、生駒山の麓に在り、國風の稱する所、日下一に草加に作り、又孔坂に作る、方音皆久作嘉を訓ず、故に自ら修めて孔と爲し、文詞に於て之を用ふ、八世の祖盛貞、里の平陵祠の官長と爲る、慶長中浪華事ある時に當り、木村長州に從ひ、屡〃勳功あり、後、此に屏居し、農夫と爲り、素封の名あり、邑里に土豪たり、父益胤、字は公祿に至り、始めて學を好む、足立氏を娶り、正徳二年壬辰二月九日を以て、生駒を産む、
生駒初め鳴鶴陳人と號す、蓋し姓に依りて以て之を稱す、後、誇大に就似するを以て、改めて生駒山人と號す、又愚拙農夫と號す、
生駒の人と爲りや、俶■(人偏+黨:::大漢和)にして膽略あり、任侠自ら喜ぶ、氣節を尚び、豪放を慕ふ、蚤に四方の志を抱き、文學を以て侯國に遊事せんと欲す、之を父母に請へども聽されず、乃ち意を六經に潛め、研究すること數年、遂に博覽宏識を以て、世に著稱せらる、
生駒少壯にして群書に渉獵し、強記人に過絶す、始め家庭に學び、專ら性理を修む、後物徂徠の學に私淑し、好んで時習の謂はゆる古文辭なる者を爲し、李王の説を唱ふ、然れども詞藻を以て稱譽せらるゝことを欲せず、志を水利運漕・貨殖交通・産物開墾等の諸事に留め、唯時務經濟を以て己が任と爲す、其言ふ所、皆悉く當世の緊要なり、而して有爲の君に遇はず、其抱負する所、遂に展ぶる能はず、洵に惜むべきのみ、
生駒嘗て曰く、國用を制するに出四・儲三・用三なれば、水旱疾疫、凶荒事故ありと雖も、國常に足りて、以て患無かるべし、肉食の者、誰か苛刻急斂の民心を壞り、薄賦輕税の家國を興すことを知らざらむやと、或人對へて曰く、城郭邸舍・俸祿餽廩・朝勤享聘・兵賦諸司・婚嫁慶弔の諸費、廢置すべからざるは、用足らざる所以なりと、生駒曰く、已に成るの形は、以て損すべからず、已に許すの分は、以て奪ふべからず、日に弊れて檢するを知らず、月に竭きて耗するを知らず、歳窮りて變を知らず、政を膏梁の子弟に寄せ、給を富有の商估に仰ぎ、僅に目前の急迫を救ひて、其贍らざるを恐る、謂はゆる我躬すら閲られず、我後を恤ふるに遑ある者なりと、其人赧然として曰く、あゝ今の侯伯たる者、之を聞かば、誰か之に感服せざらんやと、
彦根の執政奥山右膳、己を虚しうし、士を禮す、嘗て生駒を延き、優待尤も厚く、經濟の要を問ふ、蓋し奥山氏は藩の當路たり、是時法を立て舊習を改革し、令を發して新政を設施するに在り、生駒曰く、法を立つるは、まさに魏・晉以上を考ふべし、令を廢するはまさに唐・宋以下に效ふべし、能く時勢を辨識し、治道を練達する者にあらざれば、相共に言ひ難し、魏・晉以上は簡にして要、唐・宋以下は捷にして便と、奥山氏大に喜び、將に之を侯に薦めんとす、或は之を阻む者あり、竟に果さず、
生駒の家は、素と富有なりしが、生駒の時に至り、儲蓄するを欲せず、稱貸假借を請ふ者あれば、必ず能く然諾す、是より先き、父祖皆人の田宅を典當するを以て散債收息す、生駒性財利に淡く貨殖を好まず、耗羨を論ぜず、然れども家計益〃豐に、還つて舊に倍すと、
生駒は器宇弘濶、粉飾を喜ばず、誠を推し物に接す、世の僞飾儀觀の樣態を以て、風采を爲す者を疾み惡むこと、將に己を■(三水+免:::大漢和)さ[けがす|]んとするが如し、嘗て京師に遊び、吉益東洞と交驩す、東洞方技を以て一時に著稱せらるゝと雖も、其人性好みて容止を修め、語默進退盡く得色あり、藝園に優遊するの輩に似ず、殆んど官吏の若く然り、生駒之に謂つて曰く、古へ禮の容貌を言ふ、外に在らずして、内に在り、聖賢は心を師として、跡を師とせず、百世と雖も道同じ、郷愿は跡を師として、心を師とせず、時同じと雖も術異なりと、東洞深く其言を然りとせしが、競に之を罷むる能はず、邊幅を修飾する故の如し、其事藝園に傳聞す、或人詩を作りて曰く、

東洞先生老テ醫ヲ學ブ、經方祖述ス漢ノ張機、星霜五十術何ゾ陋ナル、弟子三千信ジ且ツ疑フ、萬病源有リ惟ダ一毒ノミト、私ニ言フ善ト雖モ公議ヲ奈ン、文雄武傑修飾ヲ憐ム、目睫依然タリ鸞鳳ノ姿(*東洞先生老學醫、經方祖述漢張機、星霜五十術何陋、弟子三千信且疑、萬病有源惟一毒、私言雖善奈公議、文雄武傑憐修辭、目睫依然鸞鳳姿)
生駒常に謂ふ、虚譽を世に沽らんよりは、之を識者に聽くに若かず、儲貲を後に遺すよりは、之を窮者に賑はすに若かずと、
生駒は自ら經濟を以て己が任と爲す、其論辨する所、往々驗あり、多く時忌に觸るゝを以て、故らに記さず、野東皋に復する書中に云く、善く治術を爲す者は、務めて祖宗の遺法を守るに在り、謹みて弊冗を除き、闕漏を補修するに在り、近世の人動もすれば、輙ち新規畫を生ずるものは、皆形勢を識らざるに因る、一世は自ら一世の形勢あり、一時は自ら一時の形勢あり、一たび謀謨を致し、政事を贊成せんと欲して、手を其間に下す、善治ありと雖も、形勢を計らざれば、必ず行はれざる所あり、谷時中上書して、都を遷さんと請ふ、是れ變革時を救ふの機を知つて、未だ國體の因循を貴ぶを知らざるの故なり、新井君美建議して、勳階を設け、服色を定め、一代の制度を興さんと請ふ、是れ制作の時を知りて、未だ上下貴賤の舊習を固執するを知らざるの故なり、物茂卿の獻策は土著を論じ、兵賦を言ひ、肥磽を檢し、利害を詳にし、以て條令を審定せんと欲す、是れ人情趨向する所の要を知りて、未だ遠邇動移を欲せず、朝野故態に安んずるを知らざるの故なり、三子皆經濟の學を以て自負するも、形勢に迂濶なる此の如し、況や他人に於てをやと、今按ずるに、此言以て其抱負する所の一斑を窺ふに足れり、
延享乙丑冬、父の喪に遭ひ、自ら能く制を守り、哀毀禮に過ぎ、神色旺ならず、繼いで諸弟を亡ひ、又母を喪ふ、頻年憂に丁り[あたる|]、病に臥すこと二年、是に於てか、醫療に京及び浪華に就き、或は郷里に往來す、藥餌効無し、寶暦二年壬申十二月晦日を以て家に歿す、時に歳四十一、里の來照山に葬る、平生南朝の史を修せんと欲し、建武以降の記傳・譜牒・諸家の雜説を收覽して、以て異同を考訂す、編著既に成り、題して延慶史斷と曰ふ、卷を爲す三十六、又望楠舍文稿四卷・生駒山人詩集七卷あり、


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多湖栢山
名は安、字は玄泰、栢山と號す、初の通稱は新正郎、後字を以て稱と爲す、美濃の人にして、松本侯に仕す、

栢山の祖父春庵、初て業を林羅山に受け、父赤水も鵞峰(*林鵞峰)に從學す、皆加納侯に仕ふ、加納は今の松本侯の先封なり、食祿三百石、赤水は侯家三世〔松平丹波守光重・其子光長・孫光慈なり〕に歴仕す、栢山は父祖の蔭を以て早に仕籍に登り、祿を襲ぎて三十石を加賜す、前に通じて三百三十石なり、
栢山壯にして江戸に遊び、贄を林鳳岡の門に執り、理學を研究す、又桂彩巖(*桂山彩巖)と風騷を商■(手偏+寉:::大漢和)し、意を詞藻に專らにし、其雌黄を受く、蚤に作者の聲あり、鳳岡の男榴岡〔名は信充、字は士信、大學頭に襲在す、〕嘗て詩を贈りて云く、

祖先皆是悉く營ニ登ル、儒宗ヲ郷慕シテ意頗ル傾ク、筆ヲ把レバ鳳鸞勢有ルガ如ク、詩ヲ吟ズレバ金石聲ヲ聞クニ似タリ、官階列ニ從フ大夫ノ位、甲科空ク題ス學士ノ名、公事紛々猶夙ニ起キ、晴天ニ斗轉シ又辰ニ横ル(*祖先皆是悉登營、郷慕儒宗意頗傾、把筆鳳鸞如有勢、吟詩金石似聞聲、官階從列大夫位、甲科空題學士名、公事紛々猶夙起、晴天斗轉又辰横)
蓋し其の實を記すなり、
栢山は京攝・江戸に往來すること、前後數回、中年以後、辟されて松本に在りと雖も、其交通する所は、源白石(*新井白石)・室鳩巣梁蛻巖(*梁田蛻巖)・木菊潭(*木下菊潭。順庵の子。)・安澹泊(*安積澹泊)・三宅觀瀾岡龍洲土肥新川秋玉山(*秋山玉山)・釋萬庵向井滄洲清■(人偏+贍の旁:たん・せん:荷う・扶ける〈=擔〉:大漢和1195)叟(*清田■叟)・江北海(*江村北海)・龍草廬等のごとき、應接一ならず、今各家の詩文集を閲するに、贈答頗る多し、故に今に至るも、其家能く諸家の遺墨數十紙を傳ふ、蓋し松本の地は都下と異なりて、火災有る無し、現然として永く存する所以なり、是れ亦世の希なる所なり、
慶長庚子、宇内を統一してより、初て力田の科を設け、屡〃勸農の誥あり、其後昇平日久しく、牧民の職に在る者、田賦を均しうし、穀價を平にし、以て曩時の政に復する能はず、則ち上下姑息、各〃懦弱を事とし、威惠行はれず、豪民兼并を務め、侵漁を利し、姦民遊侠を事として、力役を逃れ、呰■(穴冠/瓜二つ:::大漢和)偸薄、人の骨髄を淪胥し、苟安の政、實に以て療治すべからず、本を捨てゝ末を逐ひ、奇技淫巧、郡國に半ばし、人心をして日に偸く、民俗をして月に澆からしむ、貨食耗損し、給費支へ難し、其弊は享保中に至り、窮困殊に甚しく、列國諸司、公私の衆務統辨する能はざるに至る、之に加ふるに、松本に封土、新移の後、會計當らず、財用贍らず、蓋し侯家もと封を參の田原二連木に受く、元和二年松本に移り、寛永九年明石に移り、十六年加納に移る、寶永八年淀に移り、享保十年再び松本に移る、轉移する毎に、財巨萬を費す、之が爲めに、支銷空窘す、栢山藩の執政總度支戸田十五郎と相議し、上疏して便宜を言ふ、侯其言を納れ、躬先づ自ら儉し、衣食を節縮し不急務を減省す、驕奢を禁遏し、士民を勸勵する此に五年、財用粗〃足り、以て匱しからざるを得たり、
栢山は資性淳實、情を踐履に留む、其子弟を教督するや、常に躬行を先にし、文學を後にす、故に藩中の士、身を高位清職に致し、有用の偉器を成就する者、前後數人なり、其薫陶の資する所、誘導の逮ぶ所、至れりと謂ふべし、
栢山は學術程朱を主とすと雖も、甚だ之に拘泥せず、伊藤東涯の兄弟と交驩す、又其父仁齋が著す所の論孟古義を悦び、躬親ら之を謄寫し、以て考援に資く、今時の人の一家を墨守して、其好む所に偏黨し、各家の長ずる所あるを知る能はざるがごとくならず、其器宇の虚襟、以て欽賞すべし、
栢山性書畫を好み、元明以降、名人の眞蹟、高價を論ぜずして之を購求す、其收藏する所頗る多し、就中朱文公四時讀書の行書・文信公の楷書、皆絶世の奇品なり、蓋し之を好むの厚き、之を嗜むの篤き、遠邇と古今とを論ぜず、此に輻湊す、亦是れ自然の務なり、
江北海(*江村北海)、栢山を以て桂彩巖(*桂山彩巖)の門人と爲し、其著す所の詩史に載す、世皆之を信ず、其實然らず、彩巖、栢山先生が女を喪ふを聞き、以て■(艸冠/殲:::大漢和)露に代ふ、其詩に云く、
白首披キ難シ蘿薜ノ衣、憐ム君ガ世事ノ心ト違フヲ、天高ウシテ鴈字雲邊ニ至リ、秋盡テ鸞笙月裏ニ歸ル、遠浦曾テ傳テ帝子ヲ悲ム、塵寰何ゾ得ン仙妃ヲ駐ルヲ、江南ノ孤館殘燈ノ夕、一タビ哀音ヲ聽テ萬事非ナリ(*白首難披蘿薜衣、憐君世事與心違、天高鴈字雲邊至、秋盡鸞笙月裏歸、遠浦曾傳悲帝子、塵寰何得駐仙妃、江南孤館殘燈夕、一聽哀音萬事非)
桂義樹拜具すと、書するに正隷を以てし、稱するに先生を以てす、其門人にあらざること、以て知るべし、
栢山晩年老を告げ、一舍を卜築し、賜間亭と名づけ、自ら記を作る、其文に云く、余老いたり、懶にして職に堪へず、再三老を乞へども聽されず、衰白相仍る、恐らくは五嶽の遊、或は遂ぐるを得ざらむ、初め我侯移封の日、竊に喜びて謂へらく、松本は城を環りて皆山なり、起居飮食、山と相接するがごとくなるべし、既に第を城中に賜ふ、睥睨前に在り、梁■(木偏+麗:::大漢和)後に在り、山皆之が爲めに遮蔽し、甚だ明暢ならず、纔に寸碧を城樹蓊蔚の間に露すのみ、坡翁の謂はゆる、墻外半髻を見るもの虚ならず、故に別に間曠の地を卜せんと欲して果さず、近ごろ一園莊を城東林寺の後に得、城を距ること僅に數百武、心遠く地偏に、幽人・逸土の宜しく考槃すべき所なり、舊主人あり、嘗て勝を擇みて面勢、室丈に盈たず、屋上樓を架す、樓少にして觀大なり、白雲を藩と爲し、碧山を屏と爲す、此に栖遲する殆ど年所あり、一旦幡然として遊洛の志あり、去つて顧みず、遂に我有と爲す、室太だ陋ならず、乃ち舊實に仍つて、復た拮据の勞無し、今山水の勝と兼ねて、之を收むることを得たり、何ぞ其幸なるや、其初め至るや、彼幽なる者は忽ち明に、鬱なる者は忽ち開け、廖廓眇恍として、四顧極まり無し、目駭き神散ず、以爲らく、山水亦跳躍奔走して、我と倶に來る、■(立心偏+兄:::大漢和)然として別に世界を製するが如しと、是に於て樓に上り、彌望すれば、層巒重嶺、四野に林立し、百千の螺髻、前に羅列するが如し、秀冶明眉、紫翠畫くが如く、應接に遑あらず、山容亦間雅、甚だ奇峭ならず、■(山/卒:::大漢和)然として群山の後に起つ、壁立千仭、虚を凌ぎ空を嵌み、四時雪を戴く者は、信越の諸名嶽なり、嵐を聯ね暉を含み、青を■(榮の頭/糸:::大漢和)らし白を繚ひ、高低掩暎、變幻逸宕、以て名状すべからず、下瞰すれば、石川一帶近きに在り、水石相激し、■(三水+將の旁+虎:::大漢和)々として聲樓上に聞ゆ、其彌滿するに及びては、奔軼浩蕩、岸を裂き陵に襄る、殆ど禦ぐべからず、倏爾として水落ち石堆く、人皆掲跣す、凡そ信の川原、多く皆山に在り、高堂の上建餅の如き、近く視れば瀑の如し、以て舟すべからず、土著の民白首にして舟を知らざる者多し、蓋し之を以ての故なり、樓より麓に至れば、稻田萬頃、碁罫を畫くが如し、春雨秧を分ち、秋晴稼を收む、田婦の食を饋し、老農の腹を鼓す、宛々たる一幅■(幽の幺を豕にする。:::大漢和)風の圖、坐して玩ぶべく、臥して遊ぶべし、若し夫れ温風和暢し、烟花織るが如し、爽陽清妍、霜葉曝すに似たり、而して月而して雪、以て禽魚の飛泳、人物の往來に至るまで、凡そ遊具を助くる者は、盡く來りて樓内に効る[いたる|]、樓下の隙地、蔬を種ゑ、以て甕を抱くに堪へたり、屋後泉あり、日夜潺湲として已まず、竹樹駢立し、花卉雑生す、松菊亦栽ゑずして自ら存す、暇あれば施々として行き、漫々として遊ぶ、毎に一奚を從へ、書を携へ、■(木偏+盍:::大漢和)を挈ぐ、家に孫兒あり、躍然として尾す、樓に上りて嘯き、欄に凭りて吟じ、時ありて書し、時ありて飮む、或は坐し或は歩し、倦めば則ち臥し、臥せば則ち睡る、睡れば則ち夢み夢みれば則ち醒む、醒むれば則ち起き、起くれば則ち歸る、烟嵐の氣、猶襟袖に在るがごとし、一日の間、我をして人間を蝉脱し、物外に羽遊せしむ、隱ならずして隱、仙ならずして仙と謂ふべし、樂しいかな斯間以て日を永うすべく、以て年を引くべし、吾願是に於てか足れり、亦何をか求めん、然も蜀を得て隴を望み、自ら禁ずる能はず、獨り惜む所の者は、信の山水、信に美ならざるにあらず、其僻地なるを以て、謝公(*謝靈運か。)の屐到らず、許子の遊及ばず、世の好事の者、亦探訪すること罕なり、作す所を遺さず、たヾ雉兎は蒭蕘に狃れて、以て常と爲し、易じ[やすんず|]て顧みず、間〃淺嶽の烟・姨山[|姨捨山]の月あり、國雅に入ると雖も、其餘の靈區は、蒼莽の中に湮滅し、人之を知る者なし、亦少しと爲さず、其勝地は人に因りて顯る、安んぞ文心錦の如く、詞腸花の如きを得て、我山水を黼黻し、吾土壤を追琢せんや、東都に桂彩巖(*桂山彩巖)なる者あり、今の詞豪なり、余師友の交を辱うするや舊し、書を以て故を告ぐ、許すに寄題を以てす、特に山水をして舊觀を改めしむるのみならず、吾樓も亦飾を待たずして奐たり、樓未だ名あらず、人或は來りて之を目する所以を謀る、余應ぜず、竊に意ふに、吾れ素と負郭の田無く、又買山の資に乏し、■(言偏+巨:きょ・ご:豈に・何ぞ・苟も・止まる・至る:大漢和35370)ぞ庸て[もつて|]清福を今日に享け、以て邱壑中の人と爲ることを得んや、嗚呼此土の一邱一壑、我視聽を娯ましむる者は、皆君侯の賜にあらずや、矧や又君侯吾老を憫み、貸すに多暇を以てし、優遊以て間を養ふを得しむ、何ぞ羈絆の未だ全く脱せざるを憂へんや、頼つて葛烏石が書する所の、賜間の二字あり、乃ち裝■(三水+黄:::大漢和)して、以て之を樓頭に■(匚+扁:::大漢和)し、遂に以て名と爲す、本を忘れざるを示すなり、吾れ間に遊ぶこと是より始まる、惡んぞ能く記なからんや、亦たヾ殘喘幾ばくも無く、其の太だ晩きを奈ともすること無きのみ、戊辰十一月、〔按ずるに、戊辰は寛延元年なり、時に栢山六十九歳なり、〕
栢山は寶暦三年癸酉四月十六日歿す、歳七十四、松本城北の眞觀寺に葬る、著す所、本藩系譜・韓使贈答集戊午紀行戚南塘兵説小解武經教令小解多湖氏遺訓秋の山道栢山集・同和歌集あり、


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多湖松江
名は宜、字は玄室、一の字は昌藏、又以て通稱と爲す、松江と號し、一に文鳳陳人と號す、美濃の人にして、松本侯に仕ふ、

松江は、栢山の長子にして、稟資清朗、早に家庭に學ぶ、十歳にして誦讀流るゝが如し、十二三歳にして四書を講究する、殆ど老成のごとし、又詩を賦し文を屬す、盡く機軸あり、其成立するに及び、經明に行修り、學術の精、乃父に減ぜず、
松江僅に冠童を踰え、父祖の蔭を以て、儒員に補せらる、後職を襲ひ、服事すること四十餘年なり、栢山に男玄室が初仕を喜ぶの詩あり、云く、

子有リ官ニ從ヒ家ニ華有リ、龍門浪暖ニ桃花ニ暎ズ、君恩此ノ日鮮ヲ撃テ宴ス、使我ガ春樽ヲシテ九霞ニ醉ハシム(*有子從官家有華、龍門浪暖暎桃花、君恩此日撃鮮宴、使我春樽醉九霞)
松江壯年にして江戸に遊學し、林■(木偏+留:::大漢和)岡の門に入り、經史を講習す、業成り術精しく、專ら以て教授す、松本の提封、闔州風に嚮ひ、文行の士、踵を繼ぎて起る、是時に當りて、物■(艸冠+言+爰:けん:萱:大漢和32474)園修辭の説、盛に海内に行はる、松江深く之を厭惡し、以て浮薄喧噪の習と爲し、其徒に交らず、確實自ら喜ぶ、才鋒を育礪し、英器を養就するを以て、己が任と爲す、
寛延戊辰、韓使來聘す、松江時に歳四十、江戸に在り、賓館に酬應す、蓋し父栢山、文詩を以て韓客と贈答すること一ならず、松江頗る詩名あり、或は其才を■(女偏+戸:::大漢和)忌する者あり、之を排斥して曰く、韓客と交驩する者は、皆名を求むるが爲なりと、松江聞きて敢て校せず、自若として曰く、甚だ我に益ありと、更に抱慊の色無し、最後に竟に其人と交る、之を遇するに、尤も謙遜なり、其人赧服し、稱して長者の風ありと爲す、
松本の庠黌を崇教館と曰ふ、師長を立て、生員を置き、絃誦の聲、今に至りて甚だ盛なり、松江業を開き、始めて學規を制す、世〃誨督を掌り、今の文學、名は謹、字は公信、貫齋と號す、松江の玄孫なり、蓋し春庵學術を以て身を起し、此に師表してより、箕裘相承け、家聲を墜さず、世〃其美を濟す、實に世の希なる所なり、
寛齋向に亡友鈴木舜弼〔名□□(*原文欠字)、號□□、松本の儒官なり〕に因つて、慇勤を余に通ず、其編輯する所、七千卷の書目を以て示され、余の一言を懇索す、蓋し其家今に至りて八世、庠黌の收集する所のものを除き、其儲藏する所、古今の典籍七千有餘卷、一の重複する無し、庠黌と有無互に易へ、以て誦讀に資し、考援に便にす、一藩の子弟以て之に倚頼す、其擧松江の時に始まり、惠を後世に遺す、洵に是れ鮮からず、■(疑の偏+欠:かん:「款」の俗字:大漢和16085)誠の意以て嗟賞すべし、余其索に應じて序を作り、詳に其始末を言ふ、文頗る長し、故に此に贅せず、
江北海(*江村北海)の詩史(*日本詩史)に云く、松江は家世〃醫を以て松本侯に仕へ、專ら文藝を以て著稱せらる、松江性資徴實にして、殊に氣節を尚び、竊に方技に食■(米偏+胥:::大漢和)するを慚づ、侯其意を知り、嗣子玄室をして松江に代りて侍醫と爲し、更に松江に命じて、儒學の教授を爲さしむ、蓋し特恩と云ふ、今按ずるに、多湖氏は、世の謂はゆる儒醫なる者なり、栢山先業を恢弘し、松江能く之を紹述す、父子文藝の名、一時に傳流す、北海之と友とし善し、其記す所は當時の實録なり、今時の人、儒より醫に入る者、至つて衆く、醫より儒に入る者、極めて寡し、蓋し儒より醫に入る者は、利祿の意、髄腦に沈淪して時態に從ひ、其間に俯仰せざること能はず、嘗て此を以て人に語るに、或人之を難じて曰く、然らば則ち醫に入る者は盡く利祿の爲めにし、儒に入る者は盡く道義の爲めにす、豈に其れ然らんやと、余對へて曰く、儒醫の稱は、固と其人に存す、方技治療に精しきこと能はず、僅に四書五經疏釋を讀み、自ら稱するに格物窮理の儒を以てす、其頑愚笑ふべし、文獻制度に通ずる能はずして、纔に傷寒・金匱註解を誦し、自ら許すに回春濟世の醫を以てす、癡愍れむべし、然れども醫と稱するは愍れむべしと雖も、其爲す所は藥を賣り、重貲を貪るに過ぎず、其罪少し、儒と稱するは、大に此に異なり、高く周孔の懿訓を談じ、深く程朱の遺説を辨ず、攀附萬端、容を世に取る、其姦黠惡むべし、此を以て重■(米偏+胥:::大漢和)厚祿を食み、敖然として教授侍讀の任に居る者は、世恬として怪まず、其罪大なりと、松江見る所あるか、氣節を尚ぶの言、眞に虚しからず、
松江は肥後の儒員秋玉山(*秋山玉山)と情交最も厚し、玉山其侯駕に從ひて、江戸に祇役し、龍口の邸舍に寓す、松本侯の邸は、呉服門内に在り、松江祇役すれば必ず此に在り、其寓居至つて近し、文詩往來、殆ど虚日無し、玉山善く飮し、松江甚だ酒を好まず、玉山嘗て將進酒一篇を賦して、松江に贈る、其詞に云く、
將ニ酒ヲ進ントス 圖書ヲ賣リ、流霞萬斛ノ餘ヲ沽得タリ、將ニ酒ヲ進ントス 蟹螯ヲ炙ル、且歌ヒ且酌テ意氣豪ナリ、將ニ酒ヲ進ントス 君辭スル勿レ、百年復タ少年ノ時無シ、終古ノ功名皆灰土、何如ゾ手中ノ金屈巵、君見ズヤ孔子子路、百千ヲ飮ム清ハ聖人ト爲リ、濁ハ賢ト爲ルヲ 又見ズヤ、經ニ無量ヲ稱ス詩既ニ醉フ、醉來テ肝膽天地ヲ涵ス、秦皇漢武朱顔ヲ惜ム、神仙ヲ修セント欲シ鬢徒ニ斑、滄海浪惡ゾ魚龍■(鬥構+亞の上辺両端をコの字形に曲げた形+斤:とう:〈=鬪〉:大漢和)フ、渺茫トシテ蓬莱山ヲ見ズ、蓬莱山ハ 何レノ處ニ在ル、只咫尺杯酒ノ間ニ在リ、秦皇漢武求ルヲ知ラズ、枉テ才子ヲシテ滄洲ニ入ラシム、君辭スル勿レ 將ニ酒ヲ進ン、醉中ノ日月■(虫偏+比:::大漢和)蜉ノ如シ、大澤蛇分テ大業ヲ興ス、古嶽蟲死シテ積憂ヲ散ズ、一錢手ニ入ラバ須ラク醉ヲ取ルベシ、何ゾ必シモ百錢沈浮ヲ問ン(*將進酒 賣圖書、沽得流霞萬斛餘、將進酒 炙蟹螯、且歌且酌意氣豪、將進酒 君勿辭、百年無復少年時、終古功名皆灰土、何如手中金屈巵、君不見孔子子路、飮百千清爲聖人、濁爲賢 又不見、經稱無量詩既醉、醉來肝膽涵天地、秦皇漢武惜朱顔、欲修神仙鬢徒斑、滄海浪惡魚龍■、渺茫不見蓬莱山、蓬莱山 在何處、只在咫尺杯酒間、秦皇漢武不知求、枉使才子入滄洲、君勿辭 將進酒、醉中日月如■蜉、大澤蛇分興大業、古嶽蟲死散積憂、一錢入手須取醉、何必百錢問沈浮)
此詩は松江が編する所の有和詩英の中に載す、今刊行の玉山集に之を載せず、故に之に附す、
安永三年甲午十一月二十日歿す、歳六十六、先塋の側に葬る、著す所、雜劇字解夏間隨筆視聽隨筆今獻詩英有和詩英遺簪集同續集松江集同和歌集等あり、其他學庸近思録纂釋、未だ全く(*は?)成らずと云ふ、男名は蘭、字は玄室、明山を號し、泰藏を稱す、祿を襲ふ、


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富永滄浪
名は瀾、字は子源、滄浪居士と號す、通稱は佐仲、近江の人なり、

滄浪は家世〃近江淺井郡國友村に居る、父祖皆銃工の業を爲し、俸を官に受く、謂はゆる鐵炮鍛冶國友なる者なり、幼より學を好み、家世の業を爲すを欲せず、常に戸を閉ぢて書を讀み、弟房恭をして世を繼ぎ、鍛冶に從事せしむ、別に郷邑に居り、徒に授く、
滄浪は僻邑に生れ、明師の資なしと雖も、天稟俊爽、能く經義に通ず、其漢唐の傳疏・宋明の集釋に於ける、其淵源する所を極めて、孔孟の遺經を闡發す、今論著する所を讀むに、往々今時の清人の言ふ所と符合するもの一ならず、天若し之に年を假さば、其期する所、必ずしも此に止まらざりしならむ、
滄浪は野東皋〔名は公臺、字は子賤、〕種箕山〔名は濟、字は元民、皆彦根の人なり、〕と交誼宥密にして、屡〃相往來し、經史を講論す、數歳にして輟まず、其見る所は、遠く二人の上に出づ、二人深く其人と爲りを奇とし、企及すべからずと爲す、太田錦城嘗て其遺文を讀み、其識見の卓絶せるを嗟賞す、惜しいかな、世未だ之を知るに及ばずと、余が爲めに言ふ、
滄浪は衆説を折衷し、經解を編著す、易・書・詩・論語・孝經、皆彙注あれども、未だ全く(*は)書を成さず、亦其見る所を疏し、古學辨疑(*辯か。)の一書を著し、專ら伊・物二氏の爲めに、其得失を論ず、辨駁(*辯か。)の至當、考證の精核、諸家の未だ言ひ及ばざる所、識者皆之を偉とす、
安永中、彦根の儒員龍草廬、滄浪の書未だ梓行せざるを以て、名題を換改して、竊に己が著と爲し、誣ひて以て、滄浪草廬の説を剽襲すと爲す、其詐欺惡むべし、幾ばくも無く、攻めずして自ら破る、草廬其身を安ずること能はず、病に託し、老を告げて去る、野東皋古學辨疑の序を作り、其中に言あり、云く、嗚呼子源僻邑に生れ、研精罩思して、此書を作爲す、壯年にして夭折し、其名未だ世に顯れず、身後不幸にして搶奪の禍に遭ふ、又從ひて誣を蒙る、誰か嘆を爲さヾらんや、然れども識者欺くべからず、實跡■(手偏+合+廾:えん・あん:おおいつつむ。奄・掩。:大漢和12359)ふべからず、天下の公論、泯ぶべからず、今や往々人此書を傳へ、能く子源を識る、其寃始めて明かなりと、〔向に平安の猪飼敬所翁、余が擧を傳聞して、刻本古學辨疑二卷を寄示し、又滄浪の事跡を致さる、因つて亦其詳を得たり、翁の言に曰く、寛政丙辰仲冬、余始めて龍君玉名典二詮を讀む、主として古學を論ず、平實明暢、間〃差失ありと雖も、伊物二氏の得失を辨じて、最も其實を得たり、其平生の議論と大に徑庭あり、其長子龍世華の序に云く、家君壯歳此編を草し、命じて説名と曰ふ、之を失すること多年、百方之を求む、近ごろ江北に得たり、他人竊に己が著と爲し、書名を變改す、字句篇章、亦出入あり、姦謀の巧、郭象の莊子も啻ならず[ただならず|それどころではない・遠く及ばない]と、余謂ふ、君玉壯歳能く此編を草し、耆芥に及ぶに至り、復た作る能はず、百方之を求むるは何ぞや、意ふに、常時江北に於て、此書を見るを得、其人の物故を幸として、之を掠めて己が著と爲す、其名を更改して少しく其言に竄入すと云ふ、謂はゆる姦謀の巧郭象の莊子も啻ならずと、君玉自ら道ふ、又其少子龍世文の跋に云く、家大人伯兄及び世文に命じて、國讀を旁附せしむ、錯誤あるが如し、讀む者之を訂正せよと、余謂ふ、二子親しく膝下に在り、まさに乃父に就きて之を訂すべし、而して反つて正を他人に乞ふは何ぞや、意ふに、其寫本を得、頗る闕謬多く、補正する能はず、漫に句讀を爲し、往々文義を失ふのみ、亦危疑無き能はず、故に之を二兒に委して云ふのみ、眞に是れ鈴を竊むに耳を掩ふ者なり、又焉んぞ人を欺くを得んや、且つ其刊する所の草廬集は、多く原龍鱗孔文雄二家の遺詩を竊鈔す、則ち世人の共に知る所なり、宜べなるかな、其門人と雖も、亦敢て此書を信ぜず、斯書論ずる所、實に我心を得たり、是を以て深く其人の篤學卓識、心志を極竭して、此書を著し、人の爲めに奪はれ、其名を埋沒するを惜む、然れども其跡姦人を以て發す、其人今を去ること遠からず、余原本を捜索し、以て其人を表顯す、文政乙酉、江北に遊び、辻村子安の家を主とす、經を講ずる二旬、其弟敬甫此書を示して曰く、吾郷の先輩、富永子源の著す所なり、子源沒する後十年、彦根の龍公美、此編を剽竊し、分けて二書と爲し、名詮典詮と曰ひ、世に梓行す、子源の友人之を憤り、寫本して以て人に示す、野東皋、子源と舊あり、之が序を作り、其寃を明白にす、是に於て公美逡巡して遁れ去る、然れども原書世に顯れざるを以て、實跡未だ明かならず、吾輩久しく上梓して、以て四方に傳布せんと欲すと、余■(艸冠/遽:::大漢和)然として曰く、果して是あるかな、余此書を求むる、已に舊し、意はざりき、今之を見るを得むとは、若し其擧あらば、余之が爲めに序して、以て其實を明白にすべしと、後、子源の姪、其男教持、子源の手筆源本を致し、余に校正を請ふ、乃ち子安の弟子と謀り、之を剞■(厥+立刀:けつ:小刀:大漢和2190)に附す、安永二末、君玉此書を竊刻し、今年甲午に至るまで、正に一紀、世の伊物を論ずる者一にして足らず、今此書を刻し、遼東の豕と爲る、然りと雖も、宗族郷黨の宿憤已まず、遂に此擧に及ぶ、以て快と爲すべし、嗚呼子源早歳已上此學識あり、不幸にして早世す、若し之に假すに年を以てせば、其至る所、豈に測量すべけんや、〕
明和二年乙酉八月十九日、■(病垂+祭:::大漢和)を病みて歿す、歳三十三、村の因乘寺に葬る、著す所、經説稿〔謂はゆる彙注、〕十卷・古學辨疑二卷・鷄肋集四卷あり、


先哲叢談續編卷之八


 石島筑波  孔生駒  多湖栢山  多湖松江  富永滄浪

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