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石川丈山堀杏庵陳元贇朝山意林庵松永尺五那波活所朱舜水中江藤樹野中兼山


譯註先哲叢談 卷二

石川凹(あう)、初の名は重之、字は丈山、小字は嘉右衞門、六々山人と號す、四明山人、凹凸■(穴冠+果:くわ:穴:大漢和25556)、大拙、烏麟、山木、山村、薮里(さうり)、東溪、三足、皆其別號なり、三河の人

丈山家世々大府の遠祖に仕ふ、祖正信長久手に戰死す、父信定も亦武名あり、丈山少壯にして勇人を絶つ〔人に過ぐ〕、元和元年大阪の役、獨り竊かに營を出でゝ先登(せんとう)し、首を斬ること二級、然も其令を犯すを以て黜(しりぞ)けらる、母老ゐ(*ママ)家貧きを以ての故に、淺野侯に寄食す、居ること十歳、母病を以て卒(そつ)す、服■(門構+癸:き・おわる:終:大漢和41430)〔終〕りて辭し去り、叡山の麓一乘寺村に棲遲〔隱居〕し、翰墨〔文筆〕を以て自ら娯む、丈山初年瞿曇〔佛教〕(*釈尊)氏を喜ぶ、後羅山を介して惺窩の門に學び、一に斯文に從事し、才最も詩に長ず、朝鮮の權式稱して日東の李杜〔李白杜甫〕となす、物徂徠も亦曰く、東方の詩杰(しげつ)〔傑〕(*杰:けつ:傑の俗字)なりと
丈山事を謝するの後、世味(*せいみ・せみ:世の中の趣)淡如として塵埃の外に超在す、甞て漢魏より唐宋に至る能詩者三十六人を選び、画工狩野元信をして其像を寫さしめ、自ら其詩各一詩を録し、並べて以て■(木偏+眉:び:まぐさ・門の横木・軒:大漢和15155)(び)間に掲げ、號して詩僊堂と曰ふ、軒冕〔官位高き者〕の來訪(らいばう)する者、一切之を謝絶す、其友とし善き所は、獨り林羅山、堀杏庵、野士包、僧元政、及び明の陳元贇の如き是なり、後水尾天皇屡徴せ(*召す)られしかど、固辭すること數次、倭歌を賦して其志を陳(ちん)す、歌に曰く

渡らじなせみの小河(*瀬見の小川。下賀茂神社境内を流れる川)の淺くとも
  老の波そふ影ぞはづかし
天皇益其操を高しとして曰く、恬退〔無欲にして退守す〕此の如し、朕豈に奪ふべけんやと、是より復た徴(め)されず
丈山は羅山と友義殊に深し、羅山集中、其往復の書三十八篇を載す、契分〔交誼〕見るべし、而して意見の同じからざる、終に相容れざるものあり、其三十六詩僊は是れ本邦三十六歌僊に傚ふなり、蘇武を以て陶潜に對するは、猶柿本人麿を紀貫之に配するが如し、左右各十八人、皆配對(はいたい)〔對偶〕あり、初め其の之を定むるに、取捨議すべきもの、悉く之を羅山に問ふ、蘇武、陶潜、謝靈運、鮑昭、韓愈、柳宗元、劉禹錫、白居易、李賀、廬同、林逋、邵雍、梅尭臣、蘇舜欽の七對は羅山が改定せし所なり、羅山又曾鞏を以て、歐陽修に對し、王安石を以て蘇軾に對せんとす、而して丈山安石が人となりを惡み、之を取るを肯んぜず、則ち裁書〔手紙を作りて〕往來し、論辯置かず、丈山卒に從はず、羅山が書の略に云く、荊公〔安石〕の罪誠に足下の言の如し、而して其詩は千古に卓越〔抜出〕す、故に古今詩を評する者、胡元任、魏醇甫、蔡正孫の輩、荊公を謂つて一大家となさゞる者なし、夫れ君子は人を以て言を廢せず、故に孟子陽貨の語を取り、朱子の楚辭後語、乃ち荊公の詞を載す、荊公初め自ら謂ふ、假令ひ徳伊周〔伊尹周公〕に及ばざるも、才房杜〔房玄齢杜如誨〕に優るべく、庶幾(ちか)くは君を尭舜に致さんと、程子曰く、新法の行はるゝや、我輩之を激成すと、又曰く、介甫〔安石の字〕に益あらずして我に益ありと、陸象山其罪を諸公に分ち、羅大經其光風霽月〔公明正大〕(*原文頭注「光明正大」)に浴せざるを惜む、夫れ靈運、王維、宗元、禹錫の徒、國に叛き賊に陷る、猶是れ舍てず、而して獨り荊公を拒む、抑(そ)も六々詩僊の名、本邦の歌僊より出づ、歌僊は歌を取りて人を取らず、若し今人と詩とを論せ(*ママ)ば、啻に詩僊のみならず、人僊と謂ふも亦可なりと、丈山が答書の略に云く、古人曰へるあり、聖人以下小疵なき能はず、所謂謝王柳劉は併按すべし、垢を洗ひ瘢(きず)を索め〔疵を求むる〕ば、則ち誰か過なきを得んや、始あり終あるもの、其れ惟聖人か、介甫が如きに至りては、元惡大■(敦+心:たい:悪人:大漢和11226)(とん−ママ)〔大惡人〕(*「とん」の字は立心偏+敦。怨の意味。)、何ぞ小疵に比せん、蘇詢の介甫を見る、猶孔休が王莽を見るが如し、詐術讒慝、放辟邪侈〔經語にして邪惡なること〕、先知の察する所を■(官+しん繞:かん・のがれる:逃:大漢和38930)(のが)〔逃〕れ難し、彼れ一旦其暴戻(ばうるい−ママ)を■(手偏+合+廾:えん・あん:おおいつつむ。奄・掩。:大漢和12359)(かう−ママ)藏(*■蔵で覆い隠す意)すと雖も、政を執り志を得るに至り、果して凶邪を引用し、忠直を排擯し、終に文字を以て人を殺し國を亂し、禍後世に及べり、而して天下をして壞亡せしむ、罪焉より大なるはなし、周徳恭評して古今第一の小人となし、莽操懿(い)温〔王莽、曹操、司馬懿、桓温皆簒奪者〕を合せて一人となす者なりと、此一言最も公にして明なり、來書に云く、程子曰く、新法の行はるゝは、吾輩之を激成すと、昇庵曰く、此言亦非なり季氏は周公より富むに非ず、求や之が爲に聚斂〔苛税を徴収すること〕して之を附益すと、孔子曰く、吾徒に非ず、小子鼓を鳴して之を攻めて可なりと、此れ聖門の公案〔公正の裁斷〕なり、亦冉求の聚斂は孔子之を激成すと曰はざるか、來書に云く、君子人を以て言を廢せず〔言を棄てず〕と、某亦曰ふ、君子言を以て人を擧げずと、來書又云く、孟子陽貨の語を取ると、某何ぞ孟子の語を取るに異ならんや、唯其詞言を記し、其形象を陶せずんば、則ち荊公の詩を取り、宋詩の主張をなさん、乃ち其人を堂宇に圖し、以て朝夕厥状貌を看ることを欲せず、夫の子輿〔孟子〕氏の如きも、其家に陽貨の像ありて、朝觀夕覽を歴(へ)ば、■(譯の旁+攴繞:えき・やく・いとう:厭う:大漢和13406)(いと)〔厭〕はざるべけんや、惡まざるべけんや、足下以て如何となす
甞て姓名を變じて、■(土偏+巳:い・し・つちはし:土の橋:大漢和4889)(つちはし)左近と稱す、羅山爲に一絶を作りて、前途を祝す、乃ち■(土偏+巳:い・し・つちはし:土の橋:大漢和4889)左近の三字を以て、其句読に置く、詩に云く
■(土偏+巳:い・し・つちはし:土の橋:大漢和4889)邊一卷留侯ニ授ク、左右從容善ク運籌ス、近想フ只タ黄石ノ約ヲ成ス、重テ來リ赤松遊待ツ有(*■邊一卷授留侯、左右從容善運籌、近想只成黄石約、重來有待赤松遊)
漁村夕照の句に、「簑衣將テ返照ニ曝サント欲ス釣竿還是レ魯陽ノ戈(*欲將簑衣曝返照釣竿還是魯陽戈)」とあり、惺窩見て之を奇として曰く、斯人異時〔他日〕當に詩宗となるへ(*ママ)しと、富士山を詠ぜる詩に曰く
仙客來リ遊フ雲外ノ巓、神龍棲老ス洞中ノ淵、雪ハ■(糸偏+丸:かん・がん:練り絹・素絹:大漢和27247)素(*がんそ:白い練り絹)ノ如ク煙ハ柄ノ如シ、白扇倒ニ掛ル東海ノ天(*仙客來遊雲外巓、神龍棲老洞中淵、雪如■素煙如柄、白扇倒懸東海天)
此詩尤も人口に膾炙〔人の口に慣るること〕す
丈山兼ねて書を工にす、甞て後光明天皇の勅を奉じて隷書を作り、以て献ず、酒肴の賜あり、世以て榮となす、其■(弓偏+屮+又:とう:弓嚢・箙・韜〈つつ〉む:大漢和9748)(たう)窩に與ふる書に曰く、■(勹+人+、又は勹+亡:かつ:請い求める:大漢和2504)(こ)〔乞〕ふ所の大字、小价〔小使〕に附與し、左右に呈似す、余素と聆(き)〔聞〕く其人好んで道を學び、流俗の爲に移されずと、深く之を感じ、■(遥の旁+系:よう・ゆう:由る:大漢和27856)(よ)〔由〕りて茲に觚〔筆〕を操(と)り、其責を塞ぐのみ、累年其求むる所のもの、積逋〔頼まれて果さず借りとなりあるもの〕山の如し、老病を以ての故に、甚だ■(譯の旁+攴繞:えき・やく・いとう:厭う:大漢和13406)厭(えきえん)す、今より後矢(ちか)〔誓〕つて扁榜を書するを禁ず、吾丈他日人の爲に文字(もんじ)を乞ふこと勿れと、又武杏仙に答ふる書に曰く、前回告ぐる所の拙字、觚を操り紙(し)を汚し、力を驅りて呈す、老■(女偏+蘭:らん:嬾に同じ。怠る。:大漢和6892)羸繭(るいけん)、甚だ筆研に■(卷+力:けん・かん:倦む:大漢和2366)(う)〔倦〕む、吾丈今より後、人の爲に文字を■(勹+人+、又は勹+亡:かつ:請い求める:大漢和2504)(か−ママ)ふことを休めよ、腕(わん)將に脱せんとするに依る、方今少陵〔杜甫〕の一句、筆を絶つのみ、他日之を思へと、其の時の爲に競乞(きょうきつ)せらるゝもの此の如し
儒者の將帥を評する、率ね軍略に達せず、徒に紙上に於て空論を持す、識者をして之を見せしめば、其の竊に笑はざるもの幾ど希なり、丈山の如きは、則ち躬(み)既に甲(かう)を■(手偏+環の旁:かん・つらぬく:鎧・甲冑を身につける:大漢和12813)(つらぬ)き兵を執る〔軍装にて戰に臨む〕、其言決して空論にあらず、羅山に答ふる書に、信長秀吉を論ずるあり、今左に録す
凡そ秀吉の長ずる所のもの、克(よ)く機に臨み變に應ずるの勢に乘じ、間髪を容れず、敵をして惰氣〔心の怠れる所〕を窺ふことを獲せしめず、四海を併呑し、三軍を指揮し、敵國を掌握の中に置く、籌を運(めぐら)し〔謀を用ふ〕勝(かち)を決するもの諸將の能く及ぶ所にあらず、信長の長ずる所のもの、土地の險難に拘はらず、兵卒の多寡を辨ぜず、不意に出でゝ、備(そなひ)なきを撃つ、十戰十勝、能く其全きを獲たるものなり、敵を挫(くぢ)き國を拔くが如き、源平以還、以て信長に準擬すべき者靡(な)〔無〕し、只義經とは伯仲〔兄弟〕の間に在らんか、何となれば今川を桶狭に亡し、武田を長篠に討ち、佐々木を攻むるに、一朝にして數城を落す、其餘奇策秘計、勝げて言ふべけんや、是れ皆奇戰にして正戰にあらず、其軍を遣〔行〕り兵を用ふるに至りては、風の發するが如く、電の過ぐるが如し、進退動静、千態萬状、人得て圖るなし、是を以て信の麾下〔采配の下即ち幕下〕に屬する者は、老將軍監と雖も、未だ甞て出師に號令あるを聞かずと云ふ、此に由りて之を觀れば、秀は頗る正戰を用ひ、信は常に奇戰を用ふ、秀の軍には形あり、信の兵には形なし、豈に形あるを以て形なきを撃ち、正戰を以て奇戰に勝つことあらんや、惟理の未だ盡さゞる所、而して又予の暁〔通解〕らざる所なり、方今信と秀とをして同軍同運を以て、一時に戰はしめば、十の八九は信克く勝を得(え)べげ(*ママ)ん、未だ秀が戰ひ勝つべき所以を知らず云々
丈山の晩節〔老後〕、一に風詠を事とし、口に兵革〔戰事〕を絶つ、人或は之を叩けば、輙ち曰く、衰老して記憶なく、前事茫然〔ボンヤリ〕たりと、然りと雖も、其雄心は猶未だ灰せざる〔冷却せざる〕ものあり、林春齋が其九十を賀する序に曰く、夫れ利刀枕に傍ひ、弓銃側に在れば、則ち山林に在りと雖も、未だ士林の素を忘れずと、又桐江山人が山房岑寂(しんせき)〔寂寥〕所思を偶書せるものに云く、輓近の高尚石大拙翁は洛北四明山下に隱れ、出行毎に僮僕をして偃月刀〔薙刀〕を擔ひ、以て之に隨はしむ、又詩を作りて云く、「枕頭三尺ノ剣、瓶裏一枝ノ梅(*枕頭三尺劍、瓶裏一枝梅)」と(、)其養ふ所以て知るべし、翁平居竹節の大如意〔禪僧の携ふる所のもの〕を把玩す、腰間寸鐵なしと雖も、胸裏三軍を揮ふと曰ふが如し、亦其托する所あるを知るべし
丈山妻妾を置かず、嗣子なし、而して緇徒〔僧侶〕相承けて其舊居に住し、以て祭薦を致し、今に至るまで廢せず、居に遺物多し、明の陳眉公の古琴一張、其最も愛重する所なりと云ふ、享保中靈元上皇臨幸し、手から之を撫して、大に賞歎せられ、勅して其四亡絃〔失ひたる琴の絃糸〕を補ひ、命じて錦嚢を製して之を盛らしめらる


堀正意字は敏夫、杏庵と號す、近江の人、尾張侯に仕ふ

杏庵惺窩に師事し、篤行博學なり、當時林羅山、松永尺五、那波活所と、倶に四天王の稱あり、甞て安藝侯に遊事す、此時尾張の敬公學を好み士を求む、杏庵を得て之を臣とせんと欲す、乃ち使を遣して之を請ふ、是に於て徙りて尾張に仕へ、初は法橋となり、後晋(すす)んで〔晉は進〕(*頭注「晉」字を使う。)法眼(はふがん)〔法橋法眼は官名〕となる、寛永中江戸に來り、台徳大君〔二代將軍〕に謁し、衣服及び酒食の賜を拜す、且つ旨を奉じて弘文院に入り、諸家系圖傳の編修に與かる、別に自ら武家系圖若干卷を撰す 杏庵陶淵明の人となりを愛し、常に其像を壁間に掲げて曰く、之に對すれば人をして頓(とん)に塵慮〔俗念〕を消せしむと
杏庵詞藻〔華麗なる文采〕あり、韓人の來聘する者、稱して文苑の老將となす、鳩巣文集に、杏庵先生の詩文二集の序を載(さい)す、曰く、先生少くして惺窩の門に遊び、學博くして聞多く、凡そ禮樂刑政典章〔制度〕文物講究して其道を明(あきらか)にせざるなし、其文章の文章たる所以のものに於て、深く之を知る、故に其辭簡易平實〔ヤスラカに着實飾りなきの謂〕にして、自ら條理あり、豈に今世の文、務めて粉飾をなし、以て時好に投ずるが如きものならんや、先生作る所の詩文、之を家に藏すること久し、曾孫(そそん−ママ)習齋君始めて克く集録し、以て若干卷となす
又方技〔醫術〕に精(くは)し、惺窩、羅山、丈山集中皆稱するに醫正意を以てす、羅山の書に曰く、足下の稟賦〔資性に同じ〕、天に意あるか、技藝に溺るゝ〔オボレ沒了す〕こと勿れ、孫眞人醫を以て名を貶せず、逍松雪書を以て名を損せず、足下以て如何となす、孔子曰く、藝に遊ぶは溺るゝの謂にあらずと、足下の衞生に於ける、亦宜く然るべし云々、丈山尾陽より示さるゝ元旦の什〔詩篇〕に寄酬する詩に云く

新聲妙句韶光ヲ寫ス、西堂に興起スレバ夢一場、素問靈樞扁鵲ヲ兼子(*ね)、春秋左傳公羊ヲ説ク、昔ハ吟ズ洛陽ニ無邊ノ月ヲ、今ハ弄ス蓬丘ニ不老ノ方ヲ、仁術功成リ才藝ニ富ミ、春秋千載ノ呂純陽(*新聲妙句寫韶光、興起西堂夢一場、素問霊枢兼扁鵲、春秋左傳説公羊、昔吟洛陽無邊月、今弄蓬丘不老方、仁術功成富才藝、春秋千載呂純陽)
杏庵人となり、謙以て自ら處す、羅山の行状〔平生の行爲を記したるもの〕に曰く、幕下の士阿部正之、杏庵に語りて曰く、聞く今時の博物者は羅山子、而して之に次ぐ者は足下なりと、吁(あゝ)得難きの才なりと、正意答へて曰く、羅山は誠に然り、彼の文學を以て、方今の日域〔日本〕に生れ、而して展布〔十分に伸ぶること〕するを得ず、甚だ惜むべし、吾儕(ともがら)十餘輩之を累ぬと雖も、豈に一羅山を望まんや、以て■(人偏+牟:ぼう:等しい:大漢和597)(ひと)〔均〕しく稱すべき所にあらずと、正之曰く、予固より不學、辨知する所なし、今告ぐる所を聞くに、彌(いよいよ)羅山の跂及(ききふ)〔企及〕すべからざるを知る、足下の直説、夸(ほこ)らず耀(かゞやか)さざる、最も感讃すべし、又物徂徠が屈景山に與ふる書に曰く、余不佞髫(てう)年〔七八歳〕の時、之を先大夫〔父〕に聞けり、昔洛〔京都〕に惺窩先生と云ふ者あり、其高第弟子、羅山活所諸公の如き者五人、名海内に聞ゆ、皆務めて辨博を以て相高(たか)ふる、而して屈先生と云ふ者、獨り温厚の長者となす、四人の間に■(言偏+出:くつ・ちゅつ:屈する・斥ける:大漢和35387)(くつ)〔屈〕然(*■然は絶え止まる意とあり。この語義不明。)として退謙自ら將(ひき)ゐ、名の高きを求めず、其東都に來る、先大夫亦嘗て一二たび接見すと云ふ、夫れ儒者は斷々として古より然りと爲す、而して乃ち能く爾る者は千百人中一人のみ
杏庵の長子正英は立庵と號す、安藝に仕ふ、次は道隣尾張に仕ふ、立庵二子あり、曰く玄達、曰く正朴、玄達正超を生む、字は君燕、景山と號し、名儒たり、鳩巣其詩に和し、並に序して曰く、屈景山は京師の人なり、其先杏庵先生より、儒を以て當時に聞ゆ、翼子賢孫、家聲〔家の名譽〕を墜さず、君に至り大に前烈〔遺烈前功〕を振ひ、祖業を恢(ひろ)くす、旁ら師友の益を求めて已まず、其志を觀るに將に大に成すあらんとす、其徳古人と千載〔千年〕の上に頡頏〔對抗すること〕す、夫の世の小を得て自ら足れりとし、下問を恥づる者に視るに、其見る所の高下懸絶〔隔り〕如何となすや、正朴は木下順庵の女を娶り、正修を生む、字は身之、習齋(*原文「齊」)と號し、又南湖と號す、聲譽景山と抗衡〔相對して負けず劣らず〕す、門下下村某、唐書を刻す、習齋之を校し、且つ跋を作りて曰く、曾祖親く北肉夫子の學に接し、遺書數百卷あり、子々相承け、以て余に至ると


陳元贇字は義都、既白山人と號す、明國虎林の人なり、亂を避けて尾藩に客たり

元贇其履歴を詳(つまびらか)にせず、蓋し明の萬歴十五年に生れ、崇禎〔明の元號〕の進士第せず〔及第せず〕と云ふ、其國亂るゝに及び、逃れて此邦に來り、遂に徴(めし)に應じて尾藩に至る、後時々(じじ)京に入り、又江戸に來り、諸名人と文字の交(まじはり)をなす、初め萬治二年名古屋城中に於て、僧元政と相識る、契分尤も厚し、其平生唱酬〔詩の送答〕する所のもの、彙(あつ)めて元々唱和集となす、世に行はる、元政詩文袁中郎〔明の文人〕を慕ふ、此邦中郎を奉ずるは蓋し元政を以て首となす、而して元政本と元贇に因りて中郎あるを知る、元政が書に曰く、數日前市を探りて袁中郎集を得たり、樂府(がくふ−ママ)〔詩の一〕の妙絶は復た言ふべからず、廣莊諸篇も識地〔識見〕絶(はなは)〔甚〕だ高く、瓶史の風流は其人を想見すべし、又尺牘(せきどく−ママ)〔書翰〕の中(うち)、佛法を言ふ者、其見最も正し、余頗る之を愛す、足下の言に因つて、此書あるを知り、今之を得て之を讀む、實に足下の賜なり
元贇能く此邦の語に嫻(なら)〔習熟〕ひ、常に唐語を用ひず、元政が詩に「人世事無ク交常ニ淡シ、客方言ニ慣レテ譚毎ニ諧フ(*人無世事交常淡、客慣方言譚毎諧)」とあり、又「君能ク和語ヲ言フ(、)郷音舌尚在リ、久ク狎テ十(*ニを補う。)九ヲ知ル(、)傍人猶解セズ(*君能言和語郷音舌尚在、久狎知十九、傍人猶不解)」の句ありと云ふ
元贇拳法〔柔術〕を能くす、當時世に未だ此技あらず、元贇創(はじ)めて之を傳ふ、故に此邦の拳法は元贇を以て開祖となす、正保中江戸城南西久保國正寺に於て。(ママ)徒に教ゆ、其道を盡す者福野七郎左衞門、三浦與次右衞門、磯貝徒郎右衞門となす、而して此輩其孰れの産なるを知らず、或は云ふ、皆薩人なりと、國正寺は後麻布二本榎に徙る、此寺昔多く元贇の筆跡を藏せり、災(さい)に罹りて今は皆烏有となれりと云ふ


朝山素心、字は藤丸、意林庵と號す、平安の人

意林庵は幼(えう)より儒に志(こころざし−ママ)し、初め五山の長老に學ぶ、長ずる比(ころほ)ひ、朝鮮の使李文長と云ふ者至る、見て以て其説を受く、寛永中大納言忠長〔三代將軍の同胞〕に遊事し、駿河に之〔行〕く、居ること三年、致仕〔官を罷める〕して歸る、後又時々(じじ)西海に往來す、承徳癸己後光明帝辟(め)して易を講ぜしめらる、制三位に至らざる者は殿に昇るを許されず、而して優禮處士を以て、昇りて公卿に列することを得たり、常に烏紗巾〔黒紗の頭巾〕を戴き、素紗の深衣を着く、當世の儒者皆其頭を禿にす、帝常に呼んで北白河の三位入道と稱せられ、寵遇優渥〔厚くユタカ〕なり、多く書器の賜あり、甲午帝晏駕〔崩御〕せらる、乃ち塵外〔世間の外〕に静處し、自ら愉適す、後諸侯重幣〔多くの贈物〕を以て辟すれども、復た起たず、寛文甲辰九月巳酉疾(やまひ)を以て歿す、享年七十有八、京師の長講堂は其葬地なり、碣(かつ−ママ)あり、岡原仲文を撰す
意林庵の詩文は傳はらず、惟小瀬甫庵の太閤記の跋〔末尾に附する文〕見存(げんそん)するのみ、一説に曰く、意林庵本と豐臣秀頼に仕ふ、甫庵が太閤記を簒(*ママ。「纂」の誤りか。)修する、其實多く意林庵に出づ、且つ跋を作る、此れ皆私に報ずる所ありと云ふ、然るや否やを知らず、但太閤記及び所載の八物語共に豐臣氏に阿〔諛。おもねる〕らざる、固より論なきのみ、跋は八物語を主として論を立つ、亦意ありて之を書するにあらず、今録して以て考(かんがへ)に備ふ、曰く、

大學は致知を以て教となす、中庸は知仁を以て達徳となす、魯論〔論語〕は知人を以て始終となす、此記の八柱(ちう)は賢を知るを以て第一となす、古今の符節を合(がふ)するもの乎、夫れ人を知るの地位は至高なり、世俗の所謂人を知るもの、皆肩(けん)に及ぶの牆〔低き垣即ち見る所高からざるの謂〕を窺ふのみ、未だ數仭(すじゅん−ママ)の壁内を見ず、豈に百官の富、宗廟の美を察する者ならんや、若し賢才を知りて其士を用ふる能はずんば、妖狐を蓄(やしな)へて韓驢〔駿犬〕に代へんと欲するが如し、唯其家を守らざるのみにな(*ママ−「あ」の誤り)らず、還りて怪異を生ず、若し器量を知りて大事を任ずる能はずんば、則ち兒■(覃+鳥:いん・よう:ハシタカ・ハイタカ:大漢和47306)(じいん)〔ハイタカの子〕を飼ひて鴻鶴を捕へんと欲するが如し、唯に其鳥を得ざるのみにあらず、還りて林薮を去る、千章萬句、賢を知るの一言に在るのみ


松永遐年、字は昌三、小字は昌三郎、尺五と號し、又講習堂と號す(、)平安の人

尺五の父貞徳は逍遥(しゃうえい−ママ)軒と號し、父は長頭丸と號す、倭歌を細川幽齋に學び、名四方に播(し)く〔弘く傳はる〕、尺五は惺窩を師とし、博覧(*原文「覺」、読みは「らん」とあり。誤字か。)強識なり、年十八豐臣秀頼に見(まみ)えて大學を講ず、既にして加賀に至る、加賀侯禮を異にして之を待つ、晩に又京に還りて教授す、是時に當り、板倉侯京師の所司代たり、學を好み尺五を重んじ、數ば延き〔招寄す〕て其説を聽く、遂に爲に地を堀川に請ひて一堂を創む、講習堂是なり、是に於て從游〔入門の弟子〕甚だ多し、木下順庵頌壽の詩五言古一首、七律二首を作る

先生何爲者ゾ、諄々トシテ典常ヲ説ク、薫惟春晝静ニ、韓檠秋夜長シ、白鹿仙洞ニ近ク、三■(魚偏+擅の旁:てん・せん・たん:鯉・大魚・「■堂」〈せんどう〉は講堂の意:大漢和46533)講堂ニ落ツ(*『後漢書』楊震伝の故事に基づく。)、遊戲或ハ詩賦、餘波文章ニ溢ル、豈ニ只タ諸生ノ福ナラン、眞ニ是大明祥、大ナルカナ哉賢哲ノ志、百世芳ヲ流ス可シ(*先生何爲者、諄々説典常、薫惟春晝静、韓檠秋夜長、白鹿近仙洞、三■落講堂、遊戲或詩賦、餘波溢文章、豈只諸生福、眞是大明祥、大哉賢哲志、百世可流芳)
講習堂經營始めて成る、石川丈山燕賀の詩あり、其小序に曰く、慶安戊子の夏、昌三教授、板廷尉(はんていい)〔板倉所司代〕の慫慂〔勸誘〕に依り、迺(すなは)ち恩賜あり、象魏の外に於て、環堵(かんと)の室〔壁ばかりの質朴なる家〕を剏〔創〕め、結構既に成る、適ま招邀(せうきゃう−ママ)に應じ、宴語談笑、歡を盡す、幸に此地を得、天を去ること尺五、榮路の階、吉祥の宅と謂ふべし、此に由りて之を觀れば、尺五の號は、蓋し賜地の禁省〔禁裡〕の近きに因るなり
尺五能く人材を成就す、木下順庵、宇都宮遯庵皆其門に出づ、尺五の歿するや、順庵哭詩五十韻及び苦懷を慰むる近體〔律詩〕二首を作る、而して順庵の門、亦多士を育す、元寶の際、濟々出でゝ熙昌〔太平の運〕に膺(あた)る者、指數すべからず、此れ實に尺五に淵源〔原由〕すと云ふ、其三十三年忌辰に丁(あた)〔當〕り、遯庵詩あり云く
先生ノ學術元勳ヲ建ツ、往昔門人聚ルコト雲ノ如シ、三十年來追遠ノ日、獨リ荒草ヲ披キテ孤墳ヲ問フ、(*先生學術建元勳、往昔門人聚如雲、三十年來追遠日、獨披荒草問孤墳、)
又講習堂を過ぐる七律に「講堂先師ノ面ヲ見ルガ如ク、幾カ遺書ニ對シテ舊恩ヲ感ズ(*講堂如見先師面、幾對遺書感舊恩)」の句あり、安東省庵も亦尺五に學ぶ、賦するあり云く、(「)師ヲ擇ヒ(*ママ)テ尺五門ニ遊ビ、勉學シテ雜賓ヲ謝ス(」)(*擇師遊于尺五門、勉學謝雜賓)
日本詩史、常山樓筆餘等に載す、尺五布衣(ふい)〔無位無官〕(*無位無冠)を以て正保天子の勅を奉じ、召されて春秋を講ずと、余未だ以て然りとなさず、果して然らば門人遯庵が撰せる本傳、順庵の哭詩五十韻、頗る其平生を盡して、而して此一大美事を洩さん〔脱漏〕や、恐くは傳聞に出でん、信ずべからず、古今人物史昌三の傳に曰く、六十六歳洛の家塾に卒す、時に明暦乙未なりと、人物史は作者の姓名を逸す〔脱す〕、然も相傳へて遯庵の撰となす、而して遯庵の詩集に曰く、己巳(*原文「巳己」)六月二日、先師松永先生三十三年の諱日なりと、己巳は元禄二年なり、前三十三年は明暦丁酉となす、知らず孰れか其實なるかを


那波觚、字は道圓、初の名は方、小字は平八、活所と號す、晩に祐氏と稱す、王父(*故人である祖父の尊称)の字に因めるなり、播磨の人にして紀伊侯に仕ふ

活所の祖は賈(こ)に服し〔商業に従ふ〕、貲富(しふ)(*資産に富むこと)を以て素封〔富豪〕と稱す、活所幼より澹然として〔淡泊〕利を事とせず、唯喜んで書を讀み字を寫す、父之を異とし、乃ち賈を捨て以て儒と醫とを學ばしむ、而して醫は其好にあらず、年十七にして京に入り、次年弟子の禮を執つて惺窩に謁す、杜鵑〔不如歸(、)ホトゝギス〕の詩を作りて之を示し、惺窩大に賞稱す、此れに由りて早く重名(ちょうめい)あり、其詩に云く

杜鵑春破ルノ後、相喚ヒテ群ヲ成サズ、子美詩中ノ涙、尭夫橋上ニ聞ク、一聲眞ニ氣ヲ識(リ)、再拜亦君ヲ憂フ、空ク駭ク暁■(窗+心:そう:窗の俗字:大漢和25635)ノ夢、月ハ昏シ數片ノ雲(*杜鵑春破後、相喚不成群、子美詩中涙、尭夫橋上聞、一聲眞識氣、再拜亦憂君、空駭暁■夢、月昏數片雲)
年二十九、辟(めし)に肥後侯に應(おほ−ママ)ず、未だ幾くならず、遇はず〔用ひられざるなり〕して去る、四十一にして紀府に臣たり、活所人となり剛直にして、苟も合はず、其仕に就くや、謇諤(けんがく)〔直言〕の節を盡す、而して君之に信任す、明良〔明君と良臣〕の遇と謂ふべし、寛永中林學士諸家系譜の撰あり、活所召されて其事に與かる、適ま眼(がん)を患へ辭して歸る、此後全く■(病垂+謬の旁:ちゅう・りょう:病が癒える:大漢和22453)(い)〔愈〕えず、自處の詩二十五韻を作り、其志を陳ず
暮景已ニ五十、眼疾膏肓ニ入ル、衰髪雪色ヲ爭ヒ、何ヲ以テ多方ニ問ハン、悠々化盡ヲ待ツ、肯テ世事ノ妨ニ遭ンヤ(*暮景已五十、眼疾入膏肓、衰髪爭雪色、何以問多方、悠々待化盡、肯遭世事妨)
の句あり
一貴戚勇武絶倫〔無類〕、其佩刀の利鈍、必ず自ら之を人に試む、甞て一刀を得たり、備前長光の鍛ふ所なり、乃ち罪者を執へて立(たちどころ)に之を斬る、左右辭を盡して以て讃す、活所獨り額を蹙(ちゞ)めて〔チゞムル〕言なし、貴戚問ひて曰く、中夏〔支那〕にも亦刀の利と刀を執るの妙と、此の如きものあるかと、活所曰く、龍泉、大阿(たいあ)、干將、莫邪(ばくや)の類、是れ皆彼邦の名器なり、水に蛟犀(かうさい)を截〔斬〕り、陸に虎咒(こじ)を斷つ、其利之に讓らず、又人君手(てつ−ママ)から人を斬りて心に快となすは、古の人之を行ふ者あり、夏桀殷紂〔桀紂は古代の暴君にして幾と(*ママ)其代表者たる者〕是なり、我邦にも亦職罪人を斬りて、能く之に堪ふる者あり、穢多と稱し、最も至卑なる者なり、貴戚黙思すること良久しくして曰く、卿が言極めて善し、往事〔過去の事〕吾何の心ぞやと、厚く褒賜(ほし−ママ)す、貴戚又甞て謂つて曰く、吾不幸にして良臣を得ずと、活所曰く、惡(あゝ)是れ何の言ぞや、惟ふに今君の部下、智勇の士其人に乏しからず、而して以て足らずとなすもの、但君知らざるのみと、貴戚大に感悟す 惺窩の門人に、武田某と云ふ者あり、父沒して諸を惺窩の墓側に埋む、猶合葬するが如く然り、人皆其禮を知らざるを笑ふ、而して肯(あい−ママ)〔敢〕て爲に之を告ぐる者なし、活所以て徒に已むべからずとなし、遂に面諭して之を改葬せしむ
活所は正保五年正月三日を以て、平安に沒す、年五十四、男守、字は元成、木庵と號す、篤學〔講學の志堅き者〕家聲を隕さず


朱之瑜字は魯■(玉偏+與:よ:「與」に通用。:大漢和21297)、舜水と號し、文恭と諡す、明國浙江餘姚の人、亂を避けて歸化し、水府に客たり

舜水家世々明に官す、父正、字は存之、定寰と號し、總督漕運軍門となり、卒するの後光禄大夫上柱國を贈らる、舜水明の萬暦二十八年に生る、早く父を喪ひ、漸く長ずるに及び、朱永祐、張肯堂、呉鍾巒に學ぶ、遂に恩貢生〔科第の試驗に由らず推擧せられて官吏たるもの〕に擢(ぬきんで)らる、尋(つ)いで累(しきり)に徴(め)〔召〕さるれども就かず、故を以て劾〔彈劾と云ひ其罪を論陳せらる〕せらる、乃ち避けて舟山(しうざん)〔上海に近き處〕に之き、而して始めて此邦に來り、後交趾(かうち)に移り、復た舟山に還る、此時國祚(こくさ−ママ)既に蹙(ちゞ)まり〔明朝の滅亡をいふ〕、舜水事の爲すべからざるを知り、將に安南に之かんとす、而して風便(べん)ならず、再(なんた−ママ)び此邦に來り、久しからず又舟山に還る、其意素と海外の援兵を得て義旗を擧ぐるに在り、乃ち三たび此邦に來りて援兵得べからず、去りて復た安南に至り、尋いで故國に歸り、以て事情を察せんと欲す、時に清既に四方を混一す、義其粟を食(くら)はず〔君の讐たる清國の米を喫せずとなり〕、四たび此邦に來り、終に復た還らず、時に萬治二年なり
安南に至るの日、舘人の供張〔饗應の設備〕甚だ盛(さかん)なり、舜水從容撓(たゆ)まず、安南王召見し拜せしめんと欲す、而して長揖〔拱手の禮にて高ぶる〕屈せず、其人或は以爲(おもひ−ママ)らく事を解せず、此に至ると、砂を畫(くゎく)して一の拜字を作り、以て之を見(しめ)〔示〕す、舜水即ち不字を其上に加ふ、是に於て怒りて之を囚へ、遂に將に殺さんとす、而して死を守りて自ら誓ふ、王終に感動し、死を赦して以て其義烈を嘉(よみ)す、此事舜水自ら之を録し、安南供役紀事と名く(、)舜水難を冐して輾轉落魄〔零落〕すること十數年、其來りて此邦に居るや、初め窮困して支ふること能はず、柳河の安東省庵之に師事し、禄の一半を贈る、久くして水戸義公聘して賓師となす、寵待甚だ厚く、歳々饒裕〔餘財を生ず〕を致す、然るに儉節自ら奉じ、費す所なし、人或は其吝嗇を詬笑(かうせふ)〔譏笑〕するに至る、遂に三千餘金を儲(たくは)ふ、終(おはり)に臨み盡く之を水戸の庫内に入る、甞て謂つて曰く、中國黄金に乏し、若し之を彼に用へ(*ママ)ば、一以て百に當らんと、新井白石謂ふ、舜水の縮節〔儉約〕餘財を積むは苟もして(*ママ)然るにあらず、其意蓋し義兵を揚げて以て恢復〔明朝の再興〕を圖るの用に充つるに在り、然るに時至らずして終る(、)憫むべきかな
彼に在りて經略直浙兵部侍郎王■(立+羽:よく・いき:飛ぶさま・翌日・助ける、ここは人名:大漢和28655)と志を同くし、而して王■清兵と戰ひ敗れて死す、實に八月十五日なり、數年の後、舜水之を聞き於邑(おゆう)し〔悲み憂ふ〕、文を作りて之を祭る、是より毎歳中秋には必ず門を杜(ふさ)ぎて客を謝し、抑欝無聊(むれう−ママ)なり〔憂に沈み苦悶す〕、田犀に答ふる書に曰く、中秋は知友王侍郎の完節〔節に死す〕の日となす、惨柴市に逾え、烈文山〔文天祥〕に倍す、僕其時に至り、備(つぶさ)に傷感を懷き、終身遂に此令節を廢す
舜水の郷國居宅及び先塋(えい)、皆王文成〔王陽明〕と相近し、野節に與ふる書に曰ふ、但念ふ先父母の墳墓城市に近し、恐くは虜人〔清人を指す〕の殘毀に遭はん、先祖及び高祖の墳、城を去ること一里なる能はず、蔭木(いんぼく)の修拔〔長く高きをいふ〕、通邑の無き所なり、高祖の墳は陽明先生の塋〔墓地〕と比隣す、其樹木の美概して荒瓏に及ぶ能はず、虜人大木を求めて船を造る、是れ必ず殘壞に遭ふものならん、又佐野回翁に答ふる書に云く、王文成は僕が里人なり、而して燈火相■(火偏+召:しょう:照る・照らす・光る・明らか:大漢和18939)(てら)〔照〕し鷄鳴相聞ゆと
舜水二男一女あり、長は大成字は集之、次は大成字は咸一、共に節に殉して〔忠義に仆る〕清に事へず、舜水に先ちて卒す、大成亦二男を擧ぐ、曰く毓仁(いくじん)、曰く、毓徳、延寶六年、毓仁舜水を慕うて長崎に來る、義公今井弘濟をして往きて消息を通ぜしむ、然ども終に舜水と相見るを得ずして歸る
舜水詩を作るを好まず、奥村庸禮に與ふるの書に云く、詩を吟じ賦を作るは學にあらず、而して日を棄て〔空く日を費す〕時を廢す、必ず不可なるものなり、空梁燕泥落(*空梁落燕泥)(*原文返り点のみで、送り仮名を付けない。)、工(たくみ)は則ち工なり、曾(かつ)て何ぞ治理に益あらんや、僧ハ推ス月下ノ門(*僧推月下門)、覈(かく)は則ち覈なり、曾て何ぞ民治に補(おぎなひ)あらんや、鷄聲茅店ノ月、人跡板橋ノ霜(*鷄聲茅店月、人跡板橋霜)、新は則ち新なり、曾て何ぞ事機に當らん、而して且つ髭を撚(ひね)り〔ひねり〕心を吐く〔口+區は吐く〕、儻(も)〔若〕し或は巧緻〔緻は巧緻〕(*原文は緻のみ?)なる能はざれば、徒に人の指摘に供するに足る、又何ぞ詩名に益あらんやと、是を以て其集中に一首も録せず、然も猶李杜を評して曰く、李は杜に若かず、李は秀でて杜は老いたり、李は奇險にして杜は平淡なり、李は成仙等の語を用ひ、更に煉丹〔■(火偏+假の旁:か・け:熱い・乾く・焼く・輝く:大漢和19173)煉〕を經ず、殊に雅ならず、杜が家常茶飯の味(あじはひ)あるに若かず、然も奇奥の極ならずんば、平淡に造り得ず、平淡を學ぶに意あらば、便ち水平煎、豆腐湯(たう)〔豆腐汁〕たりと
或人舜水の詩を誦す(、)云く

九州瓦ノ如ク解ケ、忠信苟モ生ヲ偸ム、詔ヲ受ク蒙塵ノ際、跡ヲ晦シテ東瀛ニ到ル、回天謀未ダ就ラズシテ、長星夜々明ナリ、單身孤島ニ寄ス、節ヲ抱キテ田横ニ比ス、已ニ聞ク鼎ノ命變スルヲ、西望シテ獨聲ヲ呑ム(*九州如瓦解、忠信苟偸生、受詔蒙塵際、晦跡到東瀛、回天謀未就、長星夜々明、單身寄孤島、抱節比田横、已聞鼎命變、西望獨呑聲)
又安澹伯が湖亭渉筆に、朱文恭の遺事、安南の旅寓に在りて、賦する所の詩一首を擧げ、以て滄海の遺珠〔落ちてある珠〕となす、其詩に云く賦する所の詩一首を擧げ、以て滄海の遺珠〔落ちてある珠〕となす、其詩に云く
劇ヲ治メテ從容策銜ヲ緩ス、鈴軒事無ク日ニ清談ス、隼旗畫戟千里ニ明ニ、紙帳繩牀自一菴、金奏屬陳シテ客ノ和ヲ容レ、玉山動カズ賓ノ酣ヲ看ル、我來リテ邂逅新政ニ逢フ、忘却ス漂流シテ身ノ南ニ在ルヲ(*治劇從容緩策銜、鈴軒無事日清談、隼旗畫戟明千里、紙帳繩牀自一菴、金奏屬陳容客和、玉山不動看賓酣、我來邂逅逢新政、忘却漂流身在南)
舜水文集二十八卷、義公世子と與に編輯する所なり、毎卷名を署し、冠するに門人の二字を以てす、安東省庵稱して公侯の尊、師を尊ぶこと此の如きは、百世の美事となす、誠に然り
湖亭渉筆に曰く、文恭酷〔甚〕だ櫻花を愛す、庭に數十株を植え、花の開く毎に之を賞し、覺等に謂つて曰く、中國をして之あらしめば、當に百花に冠たるべし、迺〔乃〕ち知る或者の認めて海棠となすを、櫻花の厄と謂ふべし、義公の櫻樹を詞堂の旁側に環植したるは、遺愛を存するなり
舜水は歸化してより年を歴たれば、倭語を能くす、然も其病革(あらた)まるに及びてや、遂に郷語〔明の言語〕に復し、侍人了解する能はず
大高(*大高阪)芝山の鵜眞昌に與ふるの書、舜水と陳元贇とを並駁(へいはく−ママ)す〔兩ながら攻撃す〕、且つ獨立(どくりつ−ママ)(*戴独立〈曼公〉か。)の言を擧て曰く、元贇之瑜は面知にあらず、然も其實を傳聞することを得たり、贇は是れ市井の販夫(はいふ−ママ)〔行商〕、瑜は是れ南京の漆工、彼儕(ともがら)何ぞ學をなすに暇あらんや、又奚ぞ詞章を作らんやと、安澹泊(*澹伯か。)が村篁溪、泉竹軒に與ふる書、之を辯じて曰く、舜水と元贇と並稱するは不倫〔相類せざること〕の甚しきものと謂ふべし、況や又口を極めて譏詆するをや、何物の幺麼(ようま−ママ)〔怪物〕ぞ、敢て此の如き奇怪をなす、此輩の唇吻を簸弄す〔ミの如く動し弄ぶ〕、原(も)と計較するに足らず、然も先君をして之を見せしめば、必ず一元の處置すべきものあらん、惜(おしい)かな其及ばざることや、今試に一事を以て之を辯ぜん、引く所の獨立の言、誣にあらざれば則ち妄(ばう−ママ)なり、獨立は先生と相識る久し、何ぞ面知にあらずと言ふことを得ん、其安南供益記事(*紀事の誤りか。)に跋せる、眞蹟〔手筆〕見在(げんざい)し、先生の特操を稱すること一にして足ず、言奮ひ氣爭ふ錚々たる〔卓出すること〕鐵石、古今上下、其事なく其人なし、凛々たる〔リゝシキ貌〕大節、今古第一の義幟と稱すべしと云ふに至る、此語何ぞ前言と相戻(もと)れるや、獨立は披剃易行(ひていえきかう)の徒〔僧侶なるを指す〕と雖も、其反覆〔意見の變換すること(、)前後背反〕未だ必ずしも此くの如く甚しからざるべし、故に曰く誣にあらざれば則ち妄なりと
室師禮曰く、朱之瑜云く、東坡の少時、父老泉常に枕中より書を出して之を讀む、而して深く秘して人に之を見せしめず、甞て老泉が出で在らざる時、東坡竊に之を覘(うかゞ)〔窺〕へば、則ち孟子なりと、此事は諸書に載する所なし、蓋し彼の邦相傳の言ならん


中江原、字は惟命、小字は與右衞門、藤樹と號し、又頤軒と號し、又■(口偏+黒:もく・ぼく:静か・黙る・欺く・しわぶき:大漢和4283)(もく)軒と號す、近江の人なり

藤樹の祖は加藤侯の臣なり、父は農に隱れ、祖に先ちて歿す、祖乃ち藤樹を拉して伊豫大洲(おほず−ママ)に之く、藤樹は童艸(だうてつ−ママ)にして老成の如し、年甫め十一、一日大學の天子より以て庶人に至るまで、一に是れ皆身を修むるを以て本となすといふを讀み、大に歎悟して曰く、幸に此經の今に存するあり、聖人豈に學んで至るべからざらんやと、十七の時、京師の僧來りて論語を講ず、是時に當り、大洲の俗、惟武辯〔武事〕是れ競ひ、敢て從學する者なし、獨り藤樹日夕往いて聽く、僧居ること僅に月餘にして去る、因りて四書大全を得たり、之を讀んで往々僚友〔同役仲間〕の爲に毀謗〔ワルクチいふ〕せらる、是に於て晝は深く之を藏め、夜(や)に至り始めて卷を開く
藤樹大洲に在り、母の獨り郷に居るを慕ひ、夢寢已む時なし、甞て歸省し、伴ひ來らんと欲す、然も母波濤を踰えて他郷に如〔往〕くを欲せず、復た如何ともするなく、乃ち大洲に返り、遂に情を陳し、歸りて養を終らんと乞ふも免されず、是に於て家什を鬻ぎて數十金を得、以て債を償ひ、又其餘を以て穀に易へ、之を家に積む、其意是歳の俸給を還すに在り、而して天を仰ぎ心に二姓〔二家即ち他藩〕に事へざるを誓ひ、而後出亡〔脱走〕す、藤井懶齋が本朝孝子傳に此事を録し、賛を作りて曰く、淡海吹起す陸王〔陸象山と王陽明〕の儒風、豈に翅(た)〔啻〕だ身を善くし、人に誨(おし)い(*ママ)て忠あるのみならんや、母の爲に禄を棄て、郷に旋(かへ)〔歸〕りて色怡ぶ〔悦喜〕、吁嗟篤孝、性なるか學なるかと
藤樹は篤學修行(しうかう)を以て、聲(せい)海内に施〔布〕く、大洲を去るの後、公侯より辟召せらるれども、前後皆峻拒〔堅く謝絶す〕して應ぜず、服南郭が穀軒加世君の墓誌に載す、備前の前少將〔芳烈公〕儒術を尊尚(そんしゃう)し、熊澤先生をして國中に矜式〔標準〕たらしむ、熊澤先生江州の處士藤樹中江先生を薦む〔推擧〕、是に於て備前侯玉帛の禮を具して之を聘す、而して藤樹老い且つ病むを以て辭して至らず、其子及び諸弟子をして至らしむ云々
藤樹篤く王文成が致知〔格智格物〕の學を信じ、躬行を先にし文詞を後(のち)にす、毎に四書〔論語、孟子、中庸、大學〕を引きて之を訓諭す、人賢愚なく、皆其徳に服し、善に興起せざるなし、今世の諸儒絶えて近似する者なし、甞て夜郊外より歸る、賊數人あり、突として林中より出で、路を遮りて曰く、客■(士+冖+石+木:たく:小袋:大漢和15347)(*本字は嚢の冠+石+木)〔財嚢〕を解きて以て我飮酒に供せよと、藤樹熟視し、錢二百を擧げて之を授く、賊刀を拔きて叱して曰く、客に求むる所以のもの、豈に止(た)〔只〕だ是のみならんや、速(すみやか)に衣裳及び佩刀を卸〔脱〕せよ、然らざれば多言を須ひずと、藤樹神色變せず、曰く姑く之を緩くせよ、吾其授くると不ざると孰れが是なるを慮(はか)らんと、乃ち瞑目叉手す、少頃(しばらく)〔暫時〕にして曰く、吾之を慮るに、鬪ひて利あらざるも、輕(かる/〃\〈がる〉し)く卸して汝に與ふるの理なし、刀を撫して〔刀柄をサスリ〕起(た)ち、曰く鬪ふ者は必ず先づ姓名を以て告ぐ、吾は近江の人、中江與右衞門なりと、是に於て賊大に驚き刀を投じ、羅拜して〔並び拜す〕曰く、弊郷五尺の童子(だうし−ママ)と雖も、藤樹先生の聖人なるを知らざる者なし、吾黨攘攫〔盜〕活をなすと雖も、豈に之を聖人に施すことを得んや、願くは先生其不知を憫んで之を宥せよと、藤樹曰く、人誰か過なからん、過ちて能く改むる、孰(いづ)れか焉より大ならん、乃ち之に説くに知行合一の理を以てす、賊皆感泣し、遂に其黨を率ゐて良民となる
嘗て江戸に來り、一日街市を過ぐ、適ま大小神祇組〔豪侠を好み黨を結びて跋扈せるもの〕酒樓に飮む、藤樹を望見し、相謂つて曰く、彼聖人を以て稱を得たる者なり、聖人其れ吾黨(たう)を如何せん、試に其面に唾して之を辱めんと、直ちに來り逼り、聲色並に■(厂+萬:れい・はげし:激しい〈=礪〉・研ぐ:大漢和3041)(はげ)し、曰く鈍賊〔間拔野郎〕、世の所謂今の聖人にあらざるなきを得んや、而して胡〔何〕ぞ虚名を沽(う)〔賣〕りて以て人を誣網(ふまう)〔欺〕(*誣罔・誣妄とあるべきところ)するやと、手を戟にして之に向ふ、藤樹徐(しづか)に姓名を陳して曰く、近江の農家に少長し、其少しく字を知るを以て、推されて里中童蒙〔兒童〕の師となるのみ、安ぞ君の言の如くなるを得んやと、其容貌言吐人を感動す、神祇覺えず節を折りて曰く、吾黨過てり、願くは先生無禮の罪を宥せよ、今より敬(つゝし)んで教を門下に受けんと
藤樹の郷黨皆其徳に薫じ〔陶冶〕、商賈に在りと雖も、得を見て義を思ふ、旅舍茗肆〔茶店〕の如きも、客が遺(わす)るゝ所の物あれば、必ず之を閣上に置き、以て遺者の復た來るを俟つ、年を歴(ふ)るの後塵土■(分+土:ふん・ほん:塵・塵集する〈別体=土偏+分〉:大漢和4926)(ふん)滿す、而して煙管煙包〔キセル(、)煙草入〕の類と雖も、竟に収用(しゃうよう−ママ)せず
某州の一士人、藤樹の故里を經過し、其墳墓を弔はんと欲す、路を農夫に問ふ、農夫即ち耒耜(らいし)〔耕具〕を舍て、徑(たゞち)〔直にてタゞチニ〕に趨(わし)りて屋に入り、更に潔服を着して出づ、士之に跟(こん)して〔後に附く〕行く、既にして墓所に至れば、農夫拜掃甚だ恭し、士心に之を訝り〔不審とす〕、因りて問ふて曰く、爾の藤樹に於ける何の親故ありて、而して敬禮乃ち爾るやと、農夫曰く、藤樹先生を欽仰(きんかう)する〔シタヒアフグ〕は、豈に唯だ余のみならんや、闔邑(かうゆう)〔全邑即ち村中〕皆然り、父老毎に其子弟に語りて曰く吾里、父子禮あり、兄弟恩あり、室に忿疾(ふんじつ)(*怒り憎む)の聲〔怒罵の聲〕なく、面に和煦〔ヤハラグ貌〕の色あるもの、職として(*もとより、もっぱら)藤樹先生の遺教に由る、此れ一人も其恩を戴かざるはなき所以(ゆゑ−ママ)なり、是に於て士容(かたち)を變じて曰く、世に稱して近江聖人となす、吾乃ち今にして其虚語〔ウソ〕にあらざるを知ると、即ち其墓を敬拜し、厚く農夫に謝して去る
享保辛丑伊藤東涯藤樹書院を過ぐ、詩あり、云く

江西書院名ヲ聞ク久シ、五十年前義方ヲ訓ユ、今日始テ來ル絃誦ノ地、古藤影ハ掩フ舊茅堂(*江西書院聞名久、五十年前訓義方、今日始來絃誦地、古藤影掩舊茅堂)
藤樹が同里の人、江戸に來り某家を嗣ぐ、一日客あり、言次〔談の序〕(*語次、話のついで)儒に及ぶ、客問うて曰く、中江藤樹は子の里人なり、聞く其學世に仰がると、子必ず其行状を審(つまびらか)にせん、請ふ吾が爲に語れと、其人容を改めて曰く、藤樹先生は吾先子〔父〕の師事せる所なり、因りて其平生を悉(つ)くせり、實に近江聖人の名に乖(そむ)〔背〈く〉〕かず、我が出でゝ此家の後となるに及び、先子其什襲する〔太(*ママ)切に包む〕所の先生の墨蹟一張を將つて〔以て〕、我に付し、且つ戒めて曰く、此れは是れ聖人の手澤なり、兒善く之を藏し、知らざる者をして汚がさしむること勿れと、今吾子先生を慕へば、之を觀ることを得せしめん、乃ち起ちて禮服を更め着し、一軸(ぢゅく−ママ)を櫃より出し、捧げて案頭に置き、頂禮跪拜する〔頭を下げ膝まつ(*ママ)きて拜す〕こと、猶緇徒の佛像を崇むるが如し、客始めて敬を起し、以為く藤樹は■(田+犬:けん:田の用水溝・田畑:大漢和21777)畝(けんほ)〔田間〕(*けんぽ:田舎)の一匹夫のみ、而して士大夫の間に重んぜらるゝこと此の如くば、其道徳は世の所謂儒者と迥(はるか)に〔ハルカニ〕同じからず、我豈に禮せざるを得んやと、盥嗽(かんそう)〔顔洗ひ(、)口ソヽギ〕再拜して而後之を觀る
藤樹書を藤樹の下に講ず、因りて以て號となす、或は云ふ、藤樹の下に生まる、或は云ふ、書窓の外一株(ちゅ−ママ)の藤あり、或は云ふ、其學は古人に倚附〔依頼(、)ヨリカヽル〕して、自己の見を立てず、猶藤の物に縁〔寄〕るが如し、故に取りて以て自ら號すと、未だ孰れが眞なるを詳にせず


野中止、字は良繼、小字は傳右衞門、兼山と號す、土佐の人にして世々國侯に仕ふ

兼山少時江戸に來り、中庸集註を得て之を讀み、未だ盡く其義を了〔領得〕せずと雖も、佛説の虚誕〔妄説〕多きの比にあらざるを喜ぶ、乃ち齎し歸りて、谷時中に請ひ、之を講ぜしむ、是より始めて聖人の道あるを知り、以為く朱晦庵(*頭注には「菴」字を用いる。)〔朱熹即ち朱子學の開祖〕能く其旨を得たりと、因りて朱書を四方に求む、遂に歳々(とし/\)人を長崎に遣り、舶來の書を購得し、或は之を飜刻〔更に印行して出版す〕して以て後學に利す、山崎闇齋の如き、亦其門下より出づ、然り而して著述の後に傳ふるものあるなし、世之を惜む
兼山は天資剛毅英特〔英邁絶特にて人に勝れ群を拔く〕、博(ひら−ママ)く載籍を閲し、古昔を考ふ、其志を得るに及び、學ぶ所を以て之を一國に施し、其佛宇を毀ち、庠序〔學校〕を興し、磽■(石偏+角:かく:硬い石・痩せ地:大漢和24232)(げうかく)(*こうかく)〔小石交りにて地味の惡きこと〕を變じて膏腴(*地味が肥えていること)となし、或は農兵を置き、或は藥草を栽(う)え、或は蜜蜂を育する等、種々の新政にして、上下を利せしもの少なからずと云ふ、其功業の最も觀るべきもの、津呂崎と云へるあり、海(かい)の沸くこと■(金偏+獲の旁:かく:鼎・釜:大漢和40981)(くゎく)〔釜〕の湯の如し、騰々として滾起し、洶々として盤旋す〔ウヅマク〕、危險言ふべからず、古より往來の舟船覆沒するもの甚だ多し、昔者僧空海爲に佛像を巖竅〔岩の穴〕に■(金偏+雋:せん:のみ・刻む・穿つ・彫る:大漢和40924)(しゅん)して〔彫刻す〕、以て其冥助〔佛の擁護〕を祈る、而して兼山大策を擧げ、水中の巉巖(ざんがん)(*険しい岩)を破碎し、終に永世風濤の難なからしむ、時人詩あり、云く

波濤曉ニ起リテ銀片ヲ翻ヘス、滄海夕晴レテ玉盆ヲ吐ク、洞港觀ント擬ス神禹ノ績ヲ(、)巖窩徒ニ釋兒ノ痕ヲ誌ス(*波濤曉起翻銀片、滄海夕晴吐玉盆、洞港擬觀神禹績〈、〉巖窩徒誌釋兒痕)
又水の魚(ぎょ)を生せ(ママ)ざるものあり、甞て舟行之を見、乃ち此(こゝ)を經る〔通過〕者をして必ず石を投じて濟(わた)〔渡〕らしむ、越えて數年果して魚を生ず、海中至清なれば則ち魚なし、故に此術ありと云ふ
甞て江戸に來り、歸期に及び、書を郷に致して曰く、土佐には物としてあらざるなし、江戸より齎し歸るは、惟蛤蜊(はまぐり)一艘あるのみ、海路幸に恙〔故障〕なくば、歸るの日を以て之を饋(おく)らん〔物を送る〕と、衆以て異味〔珍しき味〕を甞むとなし、日を計りて歸るを待つ、既に至れば命じて其漕する所を城下の海中に投じ、一箇を餘さず、衆怪み問へば、兼山笑つて曰く、此れ獨り諸を卿に饋るのみならず、卿の子孫をして亦之に飫(あ)か〔飽にてアク〕しめむと、此より後果して多く蛤蜊を生ず、衆始めて其遠慮に服す
土佐の民俗葬るに荼(*原文「茶」は誤字)毘〔火葬〕を以てす、數々禁ずれども止まず、兼山令して曰く、今より後凡そ罪ある者死すれば、其屍(し)を焚(や)きて遺骨を葬るべしと、是に於て火化自ら止む
兼山早く父を喪ひ、母に事へて至孝なり、喪を執ること三年、一に文公〔朱子の諡〕の家禮に遵ひ〔從ふて奉ずること〕、浮屠の法を用ひず、朱舜水が安東守約に答ふる書に曰く、前に聞く久留米の磯部勘平、目下三年の喪を行ふと、今日書の至るあり、土佐の大夫野中傳右衞門、父を葬るに聖法に依り、甚だ佛氏を惡み、喪に居る三年にして弛ま〔怠懈〕ず、往々國中をして喪禮を行はしむと、此の如くなれば貴國盡く邪教を以て其親(しん)を陷(おとしい)るにあらず、特(こと)に人自ら沒溺して〔オボレルこと〕振ふ能はざるのみ、此後之を行ふ者あるも、警世駭俗となさず、今に居りて古に反る(、)慮(はか)るに足らずと」
兼山の世禄は六千石、兼山の身に及び、増して萬石を食む、土佐の長岡郡本山は其食邑〔領地〕なり、母秋田氏を此に葬る、因つて本山を改めて歸全山と名く、山崎闇齋之が記を作る
兼山は性嚴毅〔方正嚴格〕、其政を行ふや、峻法〔ハゲシキ法律〕假すことなし、其の友小倉三省毎に諫めて曰く、古の功臣終を善くして福禄の子孫に及ぶもの、皆徳量寛大、仁を垂れ惠を布く〔弘く施す〕、若し夫れ嚴刑重罰は、一時効をなすと雖も、其積怨蓄(ちゅく)禍、亦未だ測るべからざるものあり、吾子之を熟慮せよと、兼山以て善言となす、然も終に改むること能はず、三省沒する後、彈劾〔上に向ひ其非行を訐く〕益多く、驕奢日に長ず、
是に由りて怨議紛起し、遂に諸大夫と隙(ひま)を生じ〔不和となる〕、何くもなく貶黜(へんちつ−ママ)せられ〔官を罷めらる〕、尋いて(ママ)病歿す、或は云ふ死を賜ふと、盡く其家を沒入〔官沒収公〕し、將に祠堂を毀たんとす、威靈忽ち見(あら)はれ、敢て近く者なしと云ふ、新井白石甞て其經濟を稱して、智慮自ら人に絶すとなす、森不染居士が栗山伯栗に與ふる書に云く、近來土州に野中某なる者あり、經學を開き宋儒を崇〔尊〕び、邦を爲(をさ)〔治〕め治(ぢ)を輔(たす)く、而して性質嚴酷、非を撃つこと鷹の如く、其終を全くすること能はず(、)惜むべきのみ


石川丈山堀杏庵陳元贇朝山意林庵松永尺五那波活所朱舜水中江藤樹野中兼山

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凡例
( ) 原文の読み 〔 〕 原文の注釈
(* ) 私の補注 ■(解字:読み:意味:大漢和検字番号) 外字
(*ママ)/−ママ 原文の儘 〈 〉 その他の括弧書き
[ ] 参照書()との異同
 bP 源了圓・前田勉訳注『先哲叢談』(東洋文庫574 平凡社 1994.2.10)
・・・原念斎の著述部分、本書の「前編」に当たる。
 bQ 訳注者未詳『先哲叢談』(漢文叢書〈有朋堂文庫〉 有朋堂書店 1920.5.25)
・・・「前編」部分。辻善之助の識語あり。