近世畸人傳解題
此の書、題言に、跋に、其の成立を明かにして居るから別に詞を加ふべき必要もない。其著者伴蒿蹊の傳をいさゝか云はんに、古學小傳(*幕末佐原の人清宮秀堅の著書。〈類〉伊能穎則『古学論』)に云はく、
伴資芳は号を蒿蹊と云、家の名を閑田廬と呼べり。近江國八幡の人なり。後に京に出で、大佛の邊に住けり。(池田町と云所なりとぞ。)人となり淡泊にして、物と競はず、その著せる畸人傳にても、人となりを見るべし。又親に孝行を盡され、年八歳母を喪し、後勸孝ノ辭を作りて、其志をのぶ。はやう家庭にて歌をよみならひ、人となりては、有賀長伯に學ばれ、長伯身まかりし後は、武者ノ小路實岳卿に從れしが、彼卿もうせ給ひて、翁のよはひ三十あまりよりは、誰によるともなく、たゞ古へを慕ひ、おのが心のゆくまに\/讀み出られぬ。そのさまを云はゞ、つぼのうちに、山を作り、瀧おとし、いはほをたてゝ、さま\〃/の草木を、所せくうゑおほしたるが如くなるを嫌ひて、自らなる山のたゝずまひ、ゆほびかなる河の流れの、あめつちのまゝなる姿をしもたてゝ好みける。明和五年三月十日と云ふ日に頭をおろされ、林泉院六如師と、方外の交をなせり。卜居のはじめ、師蒿蹊に詩を贈りて曰、老來幾部著書成、祇道屏居遂懶情、寔是紙田閑不得、長遭筆耒四時耕。蒿蹊喜て實録とし、詩語をとり閑田子と號す。其學和漢を兼ね、又和文をもよくせられける。妙法院ノ宮殊にめでさせられ、しば\〃/召されき。蘆庵・澄月(*酔夢庵)・湧蓮(*他書に僧慈延とあり。)を魂あへる友なりとす。當時此四人を歌口(*和歌の名手)とて並べ稱へける(*平安四天王)。文化三年丙寅七月廿五日身まかりぬ。年七十四。花頂山上に葬る。」
庭の訓抄一卷、近世畸人傳五卷、同續編五卷、勝地吐懷編鼇頭二卷、閑田耕筆四卷、閑田次筆四卷、國文世々の跡三卷、譯文童諭二卷、門田早苗一卷、かくつちのあらび一卷、大和物語抄補翼、閑田遺稿三卷、閑田文章五卷
と、之れで其大略は知られるであらう。生れたのは享保十八年十月一日とのことである。資規は其の養子で家學を嗣いだ。蒿蹊は今の世の所謂雜文家のやうな人かと思はれる。此畸人傳は世にもてはやされた。三熊花顛の傳は續篇に出て居るから略するが、此人が古き代の公事民間の有樣を寫すことなどをこのめる由其傳中に見えて居る。げに、かの建保職人歌合(一名東北院職人歌合)を繪を加へて出版したのもさる方に大切な書と思うたからで有らう。
(日本古典文学全集『近世畸人傳』 pp.1-2)