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一茶と良寛と芭蕉

相馬御風
南北書園 1947.5.18
※ 初版: 1925.11.20 春秋社。底本に初版の「緒言」は載っていない。 (*入力者注記)

緒言

一茶良寛芭蕉といつたやうな古人の藝術や生涯は、時勢がいかに變らうとも日本人にとつておそらく永久に魅力を失はないであらう。單に日本人にとつてのみでなく、本當によい紹介者さへあれば、おそらく世界ぢうどこにでも知己を見出すことができるであらう。これらの詩人の作品が、又その生活が、民族のこころに根ざし、人類の生命の本源に流通してゐるからである。いひかへれば、さまよへる人々にとつて、そこには或意味での「こころのふるさと」が、いつでも保たれてゐるからである。
本書は嘗て私が一個のさまよへる旅人として「こころのふるさと」を求め、これらの古人に幼い思慕を寄せた折の斷片を書きしるした文章を集めたものである。
はじめ本書を刊行してから、いつしか二十餘年の歳月が過ぎ去つた。このやうな古びた本を今日のやうな時世に複刻することになつたのも、主として出版者の方から特に今日の如き時世に捨て置きがたいものがあるからとの理由で切なる勸告を受けたからである。
この爐邊一夕の閑談めいたものを寄せ集めたやうな舊著でも、何かにつけてすさまじい世相の今日に於て、いささかなりと潤ほひたり得れば幸せである。
最後に一言おことわりして置きたい。それは、本書中あちこちに「昨年」とか「一昨年」といつたやうな言葉があるが、それはいづれも本書の初版の出た大正十四年以前、大正五六年頃までの間のどの年かであることを豫めお含み置き願ひたいことである。
昭和二十二年二月   積雪深き越後にて
相馬御風

目次

(*ページ番号は省略。)
  • 野人一茶の悟
  • 一茶の故郷を訪ふ記
  • 一茶雜感

  • 良寛と大村光枝
  • 良寛和尚と大森求古
  • 良寛と由之
  • 良寛の妹妙現尼
  • 土佐で良寛と遇つた人
  • 良寛堂の建立
  • 良寛和尚の書の味
  • 良寛の肖像
  • 良寛雜考

  • 芭蕉と良寛
  • 芭蕉と壽貞尼、良寛と貞心尼
  • 市振に於ける芭蕉の遺跡
  • 孤獨な旅人
  • 芭蕉と良寛についての雜感
  • 生の寂味

一茶と良寛と芭蕉

野人一茶の悟


焚くほどは風がもて來る落葉かな

これは良寛和尚の作であるとして、越後地方でひろく人口に膾炙してゐる句で、良寛の詩や歌を全く知らない人でも此句だけを知つてゐる人さへ少くない。良寛和尚が最もながく住んでゐた國上山の五合庵跡に先年此句を石に彫つて建てた人もあつた。一人の法師が落葉を焚いてゐる圖に此句を讃した富岡鐵齋筆の扇面が越後の某家に藏されてゐるのを私は見たこともある。
此の句については私は嘗てこんな風に述べたことがある。
「焚くほどは風がもてくる落葉かな——いかにも此の句には明るい、安らかな自足の心が現はされてゐる。しかし、それは好い加減な心の持ちやうで、味ふことの出來るやうな安價な自足ではない。それは世間にざらにあるやうな自棄的な樂天ではない。それは大自然に對する此上ない謙虚な心を持つたものでなければ到底眞に味ふことの出來ない尊い安らかさである。そこには聊か たりとも貪る心の曇があつてはならない。露ほどの自負も、はからひも、思はくもあつてはならない。一切を打ちまかせた心である。あらゆるものに感謝する心である。ひねくれずに天地の惠にあづかり得る心である。それは要するに、良寛和尚ほどの人にして始めて安んじて吐き得る句である。私達のやうな心の到らない者が、好い加減な氣持で同じたりすると、それは却つて怖ろしい邪見に陷らずにゐられないのである。」
なほ私はそれについてこんなやうなことをも書いたことがあつた。それは或人からそれに甚だよく似た句が加賀の千代にあるといふことを教へられたからである。
「落葉とて風のものとや持ち歩く——これは「焚くほどは風がもて來る落葉かな」の句が良寛の自作ではなくて、加賀の千代の句だといふがどうかと人にたづねられたについて調べて貰つた結果見出された千代尼の句である。落葉とて風のものとや持ち歩く——これは又何といふ女らしい思はくの現はされた句であらう。これには棄てても棄て切れない悲しみが訴へられてゐる。何ものかを得んとして、つひに何物をも得る能はざる果敢なさが訴へられてゐる。奪はれはせぬか取られはせぬかといふやうな絶間なき不安が訴へられてゐる。之れを良寛の「焚くほどは」の句と比べて見ると、兩者の相異のあまりに甚しいのに寧ろ驚かれずに居られぬのである。
朝顔に釣瓶とられて貰ひ水——これも千代の有名な句である。自分の庭の釣瓶に朝顔の蔓がからんでゐる。それを見て、その風情のあまりのしをらしさに動かされた彼女は、それをその儘にして置いて、自分は隣家の井戸へ水を貰ひに行くことにした。いかにも此の句にはさういつたやうなかよわいものを憐むと共に、自然の生命を尊び、自然の美しさを愛するつゝましやかな、温かな、そして美しい心が現はされてゐる。此の句が弘く人口に膾炙したのは尤もな事であると思はれる。しかも、一歩退いて此の句を見直す時、私はその「釣瓶とられて」といふ表現に少からぬ物足らなさを感じないでは居られぬのである。「とられて」といふ感じ方にはあまりに思はくがあり過ぎる。「とられて」とまで感じたからには、與へることそのことが既に自然でない。此の句がどこかに自然さ純眞さを缺いてゐるのは、さうしたところから來てゐるのかも知れない。此の句は實際の經驗を歌つたものであるかも知れぬが、幾度もよみ返してゐると、何となくそれは拵へられた句であるやうに感じられてならぬのは、やはり、さうしたところから來るのであらう。どこかにわざとらしさがある。見せびらかしのやうなところさへある。純眞味が溢れてゐない。實感にとぼしい。本當に樂んでゐるところがない。
このやうなわけで、私は「焚くほどは風がもて來る落葉かな」の句が加賀の千代のではないか といふ疑を打消すことが出來た。「木の葉まで風のものとや持ち歩く」とか、「朝顔に釣瓶とられて貰ひ水」とかいつたやうな心境から、どうして「焚くほどは…」といふやうな句が生れて來よう。そんな風に私は「焚くほどは…」の句が千代のではないかといふ人からの注意によつて、それがたゞ千代の作でないといふことを知り得たばかりでなく、その兩者の間に認められた心の辿りの階段の高低といつたやうなものによつて、豫期しなかつた貴い暗示を與へられたことを、寧ろ有りがたいことに思つたのであつた。
それにしても、私の心にはいつからとはつきりわからなかつたが、かの「焚くほどは…」の句についての一つの漠然とした疑問が存してゐた。それはこの句に現はされた心持はいかにも良寛でなくてはと思はれるにも拘らず、しかもなほどこか知ら(*ママ)良寛らしくない感じのすることであつた。といふのは、おそらく其句が良寛の自作でないといふ説が世間の一部にあることに暗示を與へられたからでもあらうが、そればかりでなく私にはその句をどこ\/までも良寛和尚の自作であると主張しかねる二三の理由があつたからである。その一つは此の句が良寛の代表作であるかの如く世間で言ひはやしてゐるにも拘らず、私自身今日までの調査を以てしてなほ且眞にこれが良寛の眞筆であると信ずるに足る此の句を書いたものを見ないことであり、二つには良寛に最 も近く接してゐた彼の愛弟子貞心尼の集めた良寛遺詠の中にも、かくまで名高い此の句の收められてゐないことであつた。しかし、さうしたことよりも何よりも、此の句の表現に、とりわけ此の句の調子に、良寛のそれとしてはあまり氣輕すぎるやうなところのあることが、私には物足らなかつたのである。
けれども、以上のやうな漠然たる感じだけを根據として世間に弘く信じられてゐる口碑の虚妄を説破することは、私にはなほ出來ないことであつた。況んや、前にも述べたやうに此の句に現はされた心持には私はひどく動かされるところがあつたに於てをやである。


ところが、今年(*大正14年の一月埼玉縣本庄町の田島福重氏といふ未知の人から受取つた一通の手紙は、さうした私の心の曖昧さに思ひがけない一道の光明を與へてくれたのであつた。
田島氏の手紙によると、同氏は最近一茶の「七番日記」を讀んでゐるうちに、圖らずも文化十二年十月の條で


焚くほどは風がくれたる落葉かな

といふ句に出遇つて驚いたが、一體これは一茶自身の作であるのか、それとも一茶が當時人口 に膾炙してゐた良寛の句を記憶に浮ぶまゝに何氣なく他の自作の落葉の句と並べて書き込んだものであるか、それについての私の考をも聞きたいとのことであつた。
しかも、なほそれに書き添へて、田島氏は更に次のやうな句の一茶にあることをも教へてくれたのであつた。


木の葉かくすべをもしらで年とりぬ

入程は手でかいて來る木の葉かな

前者は「七番日記文化十三年十月、後者は同文化十五年十月の條にあるのであつた。
これは私にとりては、大きな驚きであつたと同時に、一つの大きな安心でもあつた。「やつとわかつた!」といふやうな安心と、「たうとうわかつた!」といふやうな滿足とに、私は奧齒にはさまつてゐた物がとれたやうなすが\/しさを感じた。更にそれにつづいて私の心には、
「なるほど、一茶の句であつたのか。」
といふ肯づき(*ママ)と、
一茶にもかうした句があつたとは!」
といふ驚異に近い一種の感じとが動かずにはゐなかつたのである。
ところで、いよ\/かの「焚くほどは…」の句を俳諧寺一茶の作だとして考へ直して見ると私には又別趣の感想がつぎ\/に湧き起つて來るのであつた。一茶の「七番日記」は嘗て私も二三回繰り返し讀んだことがあるにも拘らず、つひに私はその句に心を留めずに過ぎてしまつた。いや、「七番日記」を讀んだ人は世間にはかなり多數あることであらう。また私達が良寛についてやつてゐるやうに、寧ろそれ以上に深くこまかく廣く一茶の生活なり藝術なりについての研究に努めてゐる人も世上には少からずある。しかも私はつい今日までかの「焚くほどは…」の句の一茶にあつたことを何人からも教へられずに過ぎて來た。私はまづ此の事の何を意味するかを考へずにゐられなかつた。
だが、さうした事は兎に角として、一體この「焚くほどは…」の句は、もと\/一茶の作であつて、しかもあの當時ひろく人口に膾炙してゐたのを良寛が心にとめてゐて、方々でそれを話の種にでもしたのであらうか、それとももとはそれが良寛の口ずさんだものであつたらうか——そのことを私は先づ考へて見なければならないのであるが、しかしそれは、一茶自身の日記に此の句の書かれてゐる事實の立派にわかつた以上、そして良寛の方にそれと匹敵するほどの文獻すらも發見されてゐない以上、もはや何とも考へ直して見る餘地のない問題である。(*良寛〔1758-1831〕は一茶〔1763-1827〕より5歳年長。小林一茶は良寛の父で俳人の橘以南について句文集『株番〔かぶばん〕』〔文化9〕で言及しているという。以南入水〔寛政7年(1795)〕の数年前、一茶と俳句の応酬〔やれ打つな蠅が手をすり足をする−そこ踏むな夕べ螢がゐたあたり〕があったというが未詳。「蠅」の句は文政4年〔1821〕の作というから、年代は齟齬する。)たゞ私にとり てはなほ一つ殘つてゐる問題は、

良寛(?)
焚くほどは風がもて來る落葉かな
一茶
焚くほどは風がくれたる落葉かな

の二句に於ける「もて來る」と「くれたる」の相異についてである。今後者が當時ひろく人口に膾炙した結果良寛の耳にも入り、それが又良寛の口から多くの人々の耳に傳はつたのが事實であつたとして見ても、「焚くほどは風がくれたる落葉かな」と「焚くほどは風がもて來る落葉かな」と全然同一句として見ることは出來ない。「くれたる」が良寛によつて幾度となく口ずさまれてゐるうちに、いつしか「もて來る」と變つてしまつたのだとして考へると、その轉化にはかなり深い意味がある。ちよつと考へると大した相異はないやうであるが、深く味つて見ると僅にその一つの言葉の相異によつて二つの句全體がそれぞれ全く獨立して存在し得るほどの結果を示してゐるとさへ考へ得る。「くれたる」にはなほ自己を主にした自然へのはからひがある。彼の眼に映じた自然はなほ相對的である。しかし「もて來る」には自然が擴充してゐる。主我的なはからひがない。自然は自然である。その恩惠にあづかるのはこちらからである。それに感謝するのもこちらの心からである。そんな風に見て來ると、やはり、一茶は一茶、良寛は良寛だとうな づかれる。
それにしても兎に角「焚くほどは風がくれたる落葉かな」の心境にまで一茶も五十三歳にして達し得て居たことは恭敬に値する。


木の葉かくすべをも知らで年とりぬ     (五十四歳)

入るほどは手でかいて來る木の葉かな   (五十六歳)

此の二句に現はされた一茶の心境も亦貴ぶべきである。これについて私に「焚くほどは…」の句が一茶のであることを知らせてくれた田島氏も、後からこんなことを云つて來た。
私の考によれば後の句を作る際には前の句を意識して居たのです。しかも前の句に於て表現したもの以上のものを表現しようとしてゐたのです。何故なら一茶は「焚くほどは風がくれたる落葉かな」と詠んだ後、「木の葉かくすべをも知らで年とりぬ」といふ自責に似た氣持で詠んでゐます。「入るほどは手でかいて來る木の葉かな」になると一層その自責が深くなつてゐるのではないでせうか。つまり「焚くほどは風がくれたる落葉かな」と詠んだ前年の自分の氣持を、あまり安易な氣持として咎めるやうなところがこの句に出てゐないでせうか。一茶の心境は「焚くほどは風がくれたる…」から「木の葉かくすべをもしらで…」 に至つて深まり、更に「入程は手でかいて來る…」に至つて一層深まつたのではないでせうか。「入程は手でかいて來る…」は自己に執着し過ぎて居るのではなく、寧ろ他に頼り過ぎるのを、餘り安易な氣持で他に頼り過ぎるのを自ら責めたのではないでせうか。
成程これも一面の見方である。しかし、「木の葉かくすべをも知らで…」も、「入程は手でかいて來る…」も私にはさうした自責とは受け取れない。又「焚くほどは風がくれたる落葉かな」をも、私はそれほど安易な氣持の表現であるとも思はない。むしろ、「木の葉かくすべをも知らぬ」自分にまでも自然は風によつて焚くほどの落葉をくれる、さうした自然の恩惠の勿體なさを感ずればこそ、彼はせめて「入程は手でかいて來る」境地に自己を安んじさせようとするのである。自然の慈悲の廣大さを感じつゝ、しかもそれに甘えまいとするつゝましやかな心——それが以上の三句を通じて現はされたる一茶の心境ではなからうか。「咎める」とか、「責める」とか、さういつたやうな消極的な心持でなくして、感謝の底から自然に湧き起つた謙虚な心の閃きではなかつたらうか。
自責の念——それこそ一茶に於て最も多く缺けてゐたところの物であらう。六十歳に達した時彼はかう自ら書きしるした。
御佛は、曉の光りに四十九年の非を悟り給ふとかや。あら凡夫のおのれの如き、五十九年が間闇きよりくらきに迷ひて(*「暗きより暗き道にぞ入りぬべき遥かに照らせ山の端の月」〔和泉式部〕)、遙かに照す月影さへ頼む程の力なく、たま\/非を改めんとすれば、暗々然として、盲の書を讀み、蹇の踊らんとするに等しく、迷ひにまよひを重ねぬ。げに\/、諺にいふ通り、愚につける藥もあらざれば、なほ行末も愚にして、愚のかはらぬ世を經べきことを、願ふのみ。
齡六十にして自らの愚を自覺しつゝも、なほ且その愚を守るより外に道なきを覺悟するといふのが、一茶の一茶たる眞面目であつた。煩惱の人、執着の人、それが一茶その人の本來の姿であつた。
一茶は、幼少の時から家庭や世間の嶮しい冷たい空氣に虐げられて、死ぬまで、人間らしく苦しみ續けた人である。その苦みから救はれる爲に、自然の愛に縋つたのである。而して六字の名號を稱へるやうな心持で、彼は日々十七字を口誦んだのである。芭蕉が作つた句の數は、實に少いが、一茶が一生の句數は夥しいものである。夥しいにつけて、平凡な嫌もあるが、それが平凡人一茶の聲として、實に親しみ深く感じられるのである。芭蕉は自力宗の行き方である。自ら惡業煩惱を絶つて無上の聖道に住み得た居士である。一茶は他力宗の行き 方である。惡業も煩惱も人間らしく其儘に救はれたといふ一門徒である。
といふ井泉水氏の見解には、私も充分同意し得る。
まことに、一茶を救つたものは、自然の愛の外何ものでもなかつた。それは決して神でもなければ、佛でもなかつた。


焚くほどは風がくれたる落葉かな

他人に對し、世間に對して、幼い頃から執拗なひがみを持ちつづけて來た一茶も、自然そのものゝ前には、まだ多分に主我的なところがありながらも、なほ且それまでにその愛と恩惠とを感ぜずにはゐられなかつた。そしてそこから、


木の葉かくすべをも知らで年とりぬ

といふやうな歎息も洩れゝば、又、


入程は手でかいて來る木の葉かな

といふやうな謙虚な心持にもなり得たのであつた。そして一茶晩年の心のおちつきはさうしたところから徐々に築かれて行つたのであらう。


それにしても一茶ほど執拗に自己の運命を呪ひつゞけた人は甚だ少い。

親のない子は何處でも知れる、爪を咥へて門に立つと、小供等に謳はるゝも心細く、大方の人交りもせずして、裏の木萓など積みたる片陰に跼りて、長の日を暮しぬ、我身ながらも哀れなりけり。
(*萓〔音:ギ〕は「すげ」〔黄萓〕「かや」〔苅萓〕等の読みがある。「萓草」は「かんぞう・わすれぐさ」。また、萱〔音:ケン〕に通じて使われるか、不明。「萱堂」〔=母〕の意味に通わせたところがあるか。「木萓」の花が咲くという民謡があり、草本のようである〔カンゾウ・カヤスゲ・カサスゲ〕。手許の漢和辞典でも「萓」は確認できない。)

三歳で生母を失つてから後の幼年時代の彼には、なほ温い愛を彼にそゝいでくれた父もあり祖母もあつたに拘らず、彼自らはその當時に於ける自分の生活を追懷してそんな風にまで記さずには措かなかつた。

春さりくれば畑農作の介(*たすけ)となりて、晝は日もすがら菜摘み草刈、馬の口とりて夜すがら窓の月明りに沓打ち(*馬の蹄鉄を打つこと)、草鞋作りて、文學ぶ暇もなかりけり。

彼は又こんな風にも自分の少年時代の生活を敍して居る。更に八歳の時に繼母を迎へ、十歳の時に異母弟仙六を得てから後の彼の生活を敍するに當つては、彼は殆んど極度の誇張を以てしてゐると思はれるほどの書き方をしてゐる。

明和九年五月十日、後の母、弟仙六を生めり。此時、信之(一茶の名)は九歳になむなりけり。此日より、信之、弟仙六の抱守りに、春の暮おそきもなやに涎の衣を絞り、秋の暮はや きも尿に肌の乾く時なかりき。仙六むづかる時は、態となんあやしめる如く父母に疑はれ、杖の憂目を受くること日に百度、月に千度、一年三百五十九日、目の腫れざることもなかりけり。

かくの如くして、彼はつひに十四歳の時、父の思ひやりによつて江戸へ奉公にと出されることとなつたのであるが、彼はさうした自己の運命を老年に至つてもなほ且あらゆる機會に呪ひつゞけずには措かなかつた。彼は時には此世に於ける自分の運命を、何か物の下に蔽ひかぶされつゝも頭をもたげ伸びんとしてもがく草の芽のそれに喩へた。

つら\/己れの身を思ふに、物の下の草性にやあらむ。(*、)桔梗、刈萱、女カ花の類ひ、茅又は薪の下に生えて、永の月日を束の間も伸びることならで、偶〃上の物の盡の期あれば、盲龜の浮木にあへるが如く、日影珍らしく嬉しげに見ゆれど、ほとほと其色としもなく、更に燈心のそよぐやうに、やをら勇み、やをら娑婆の風に吹かれつゝ、おのがさま\〃/の姿にならんとすれば、又あらげなき(*荒々しい)荒箒にかけられつゝ、生涯花咲く事もなく、五十年の夢けろりとさめて、只々立枯るゝを待つのみ、皆是れ、前世のむくいのなすところなるべし。

時には又彼は日陰の狹い庭隅に生え出た栗の木が、冬毎に雪の下に壓し挫がれて七年の星霜を 重ねながら、つひに花も咲かず實も結ばず僅か一尺ばかりの高さで辛うじて生きてゐるに過ぎない——そのみじめな姿に、彼みづからを見た。そしてそのみじめな一本の木に深いあはれみを寄せながらも、なほ且それ以上彼みづからを果敢なんでゐる。

我又さの通り梅の魁に生れながら茨の遲生に地をせばめられつゝ、鬼ばゝ山のやまおろしに吹折られ、吹折られリ々しき世界に芽を出す日は一日もなく、ことし五十七年露の玉の緒の今まで切れざるも不思議なり。しかるに、おのれが不運を科なき草木に及ぼすことの不便なりけり。

なでしこやまゝはゝ木々の日蔭花

だが、果して一茶自身が考へたり感じたりしてゐたほど、又一茶自身が書いたり歌つたりしてゐたほど、それほど彼の運命は呪はしい運命であつたらうか、それほど彼の境遇は悲慘なものであつたらうか。
いかにも彼は三歳にして生母の愛から見捨てられた。いかにも彼は繼母の冷かな取扱ひを最も樂しかるべき少年時代に於て受けねばならなかつた。いかにも彼は家庭の不和の犧牲となつて十四歳にして夙く家を追はれて浮世の荒波へ身を投じさせられた。そして最も幸福であるべき少年 時代を彼はたゞ生きんが爲めの辛酸のうちに暗くたよりなく過さねばならなかつた。しかし、かうした苦難に徹したればこそ、彼はつひに選ばれた少數の人のみがゆるされる尊い藝術の殿堂に參入することが出來たのではなかつたか。これを世俗的に考へると、かの信濃の山奧の土百姓の子として生れ、しかも大した教育とても受けなかつた田舍出の無學男の彼が、兎にも角にも俳人一茶として堂々と天下に名乘をあげることも出來たのではなかつたか。
若し一茶にして彼が最後に辿り入ることを得た藝術の世界に眞の法悦を感ずることが出來たならば、若し一茶にして眞に藝術家としての彼の生活に安住することが出來たとしたならば、彼は恐らく過去半生に於ける彼自身の辛酸をすらも、時に樂しい微笑を以て追懷することが出來たであらう。
しかし、西行芭蕉やさては良寛等が住したやうなさうした靈的な法悦境を見出すべく、一茶はあまりに強い執着を持つてゐた、あまりに熾烈な煩惱を持つてゐた。彼はあくまでも主我的であつた。彼は自己を外にして何等の中心をも認めることは出來なかつた。如何なる場合に於ても彼は自己に對して否定の刄は向け得なかつた。彼はどこ\/までも執着を押し通して行つた。どこどこまでも自己を肯定せずには措かなかつた。「彼ほど自己を中心として「我」とか「己」と かの言葉を憚らず使用した人は俳諧の世界にめづらしい。およそ詩歌の集で詩人の心の歴史でないものはない筈であるが、一茶の書き殘したものではそれが目立つて見える(*。)」と島崎藤村氏は云つて居るが、しかし一茶の書いたものに現はれた心の歴史は、彼以前の又は彼と同時代の此の國の詩人達のそれとは全く趣を異にした心の歩みの歴史である。おそらく彼ほど幼な兒のそれの如き赤裸々さを以て我執を表白し續けた詩人は、我が國の過去には殆んど無かつたであらう。
詩人としての一茶のすぐれたところも、またそれと同時に弱點も、係つてその一點にあるとも云へる。


繼母と一茶の不和葛藤はかなりはげしいものであつたらしい。しかし、一茶自身が書いてゐるやうにそれを單に繼母の罪にのみ歸するわけにはゆかないであらう。一茶の記すところによれば彼の繼母は世にも珍らしい惡人である。彼女を呪ふ爲に彼は「鬼ばゝ」といふ稱呼まで持ち出さずにはゐなかつた。同樣に彼は異母弟仙六(後に彌兵衞と改名す)をも憎み且呪つた。
彌兵衞」と題した次の如き斷章がある。

牛盜人と見らるゝとも浮世者の行迹すべからずとは尊き教へなるを、いかなれば盜人にもあ らざるにあらずといふ、賊心の上を肩衣もて粧ひつゝ專ら逆道のみ行ふを浮世者といふにがにがしき處からなりけり。

春風の底意地寒し信濃山

かうした露骨な言葉を以て自らの骨肉をさへも平氣で罵つてゐるところに、一茶その人の我執の強さと心の幼さとがよく現はれてゐる。
享和元年に書かれた「父終焉の記」に左の如き一節がある。

變起りて最も苦しび玉ふに、母は例のつかはしけるに、折しも夜の五月雨はれて水は艸の上越す有樣なるに、仙六いづ地やらんと訊ね玉ふに今はかくすべきよすがもなくしか\〃/と答へ侍りける。父はこよなくいきまき玉ひ、我に聞かずしてなじかは熊の膽乞に走らせしよ、汝迄我を蔑になすとて怒りたまふ。閨の方よりは母のよき折柄とて、聲をはげまし仙六に朝もたうべずいなせし一茶の骨盜人よ、弟の腹の空しき思ひ知らずやなど、あたりに人なき如く罵りけるに、我身ひとつの苦しさ、今更すべき術もなく、首を疊にすりつけ、手を摺りつゝ、重ねては愼むべしと、涙を流して前非を悔みけるに、父の怒りもやゝ靜になりき。いきみ殺しみ父の戒は皆あらかひに見もし見向きもせず、弟は分地このかた父の中よろしから ずいかに腹がはりなりとも、かく淺ましく挑みあふとは、いはゆる過去敵としも思はれ侍る。父は一茶の夜の目も寢ざるをいとをしみ玉ひ、ひる寢して疲れを補へ、出て氣リしせよ抔、和らかき言葉をかけ玉ふにつけても、母は父へのあたりつれなく父の一寸のゆがみをとがめて、三從の戒をわする。これも母にうとまるゝおのれが枕元に附き添ふゆゑに、母は父にまで憂き目を見することの本意なさやと思へども、かゝる有さまを見捨てゝいづ地へかそぶき果つべき。

何といふ幼いひがみ、何といふ幼い心づかひであらう。一茶は三十九歳の男ざかりにしてなほ且この幼い我執を持ち續けた。しかもなほ彼はよく何かにつけて「三從の戒」だとか、「仁義の道」だとかいふやうな、鹿爪らしい言葉を持ち出して來る。それにも一種の幼さが見られるのである。

月日は百代の過客にして行きかふ年も亦旅人也。船の上に生涯を浮べ、馬の口捕へて老を迎ふる者は日々旅にして旅を棲處とす。古人も(*多く)旅に死せるあり。予も何れの年よりか、片雲の風に誘はれて、漂泊の思ひ止まず。

と嘆じた芭蕉は、眞に「旅にして旅を棲處とす」る漂泊の人であつた。彼こそまことに「永遠 の旅人」の名に値する。一茶も十四歳で家を追はれてから、五十二歳で始めて郷里柏原に一家を成すに至つたまでの凡そ四十年が間貧しい放浪の旅をつゞけてゐた。しかし、芭蕉の漂泊と一茶のそれとは全く其の心を異にしてゐた。芭蕉の漂泊は、彼の中心からの要求の現はれであつた。しかし一茶のそれはどちらかといへば他から強ひられたやむを得ざる運命であつた。

初七日なれば父のいまそかりけるとき、我に妻迎へしてとゞめよと、人にもいひおのれにも戒められしが、ある人の中に聞かぬ振りに空耳したる人ありけり。ことに六欲兼備の輩遺言を守らせなば、顔赤めあふことの本意なければ、又もとの雲水となりて如何なる岩木のはざまなりとも身をひそめ風をいとひ雨を凌がむにも、するすみの身ひとつの何のばちかあたるべき。しかあれど、石ながら打たねば火を生ぜず、破れたる鐘もたゝけば響くは天地自然のことわりなり。否や返事なきに無下に家出せむも亡父のこゝろにそぶくかと、しめ野分るを談じあひけるに、父の遺言守るとありければ母家の人のさしづに任せて其日はやみぬ。

彼はこんな風に「父終焉の記」の終りに書いてゐるが、さうした亡父の遺言を俟つまでもなく彼には最初から郷里に對する深い執著があつたのだ。


雪の日や故郷人のぶあしらひ

故郷やよるもさはるの茨の花

故郷や西も東も茨の花

春風の底意地寒し信の山

漂泊中にもしば\/歸郷せずにゐられなかつた彼、またその折々に故郷人に對してさうした詛の叫びを禁じ得なかつた彼——それは同時に郷里を棄て得ない彼、むしろ深い執着をすらも感じてゐた彼のいたましい姿に外ならなかつた。
十餘年がかりで異母弟と父の遺産の分配についてしふねく爭ひ續けた如きも、彼が如何に郷里の生活に執着してゐたかを明かに物語つてゐる。彼自身ではさうした爭ひの理由を、さまざまな點に見出さうとした。しかし、結局それは、彼みづからの棄て得ない執着心があればこそであつた。一茶にして眞に芭蕉の如き白雲流水(*行雲流水か。)の志があつたとしたなら、彼はおそらく故郷の家や田畑などには目もくれなかつたであらう。如何なる理由があつたにしても、彼はさうした物質的な富の爲の醜い爭ひなどは努めても避けたであらう。


家なしも江戸の元日したりけり

夕乙鳥(*ゆふつばめ)われには翌のあてもなき

五十にして冬籠りさへならぬなり

手をすりて蚊帳の小隅を借りにけり

烏さへ年とる松は持ちにけり

出代の市にさらすや五十年

福豆も福茶もたゞの一人かな
(*福茶は節分・大晦日・新年に飲む招福の縁起物の茶。黒豆・昆布・梅干などを入れた。)

獨身や上野歩いて年忘

豆打の手應もなきふせ家かな

寢て買うや元日焚きの柴一把

妻やなきしわかれ聲のきり\〃/す

また、


蒲團きるや翌の草鞋を枕元

一人と帳面に書く夜寒かな

これらは決して白雲の如くさまよひ、流水の如く往くにまかせ得たまことの旅人の心から湧くべき吟詠ではなかつた。また決して孤獨に安住し、閑寂に靜居する人の詩でもなかつた。
要するに、前にも述べた如く一茶は我執の人であつた。彼は自己に執着したばかりでなく、凡てのものに執着した。處定まらぬ漂泊の生活の代りに、彼は一處に定着して生きんことを欲した。彼が故郷の家を得んとし、僅ばかりの田畑にまで執念を持つたのは、決して土そのものに對する彼の愛慕からでさへもなかつた。耕やさん爲に彼は田畑を得ようと望んだのではなかつた。むしろそれは單に物としてであつた。しかも、聊かの躊躇なしに彼はさうした自己の現世的執着を肯定した。聊かの羞恥なしに彼は自己のさうした物的執着を表白さへもした。が、その幼さ、その無邪氣、その愚直、そこに一茶の面目があつた。
一茶以前の、また彼と同時代の我國のすぐれた詩人達は、いづれもさうした我執や煩惱から解脱して靈的な靜寂境に生きることを第一義とした。殊に芭蕉の開いた俳諧に於ける正風の目ざすところは、寂の一味境(*原文「一昧」。昧は蒙昧の意。三昧は梵語の音訳。一味で「ひたすら」「一心」の意。)であつた。そして眞にその境に徹した人は云ふまでもなく、さうでない人までもそこを目あてとすることが俳人の俳人たる所以であると心得てゐた。さうした俳諧の世界へ一茶は思ひ切つて全く違つた道から飛び込んで來た。そこに一茶の獨特な面目があつた。「あの芭蕉に見るやうな純粹な心は、あるひは一茶に見出されないかも知れない。けれども、私達の煩惱を代表してゐるやうな一茶(*原文「一苶」)の強い執着は、自己の欲するところを藝術にも實現せずには措か なかつた。その心は晩年に到るまですこしも衰へなかつた。芭蕉蕪村に比べたら、一茶はずつと私達の時代に近い人だ」といふ島崎藤村氏の見方には、私達も躊躇なしに同ずることが出來る。
一茶はまたC貧を樂むといふやうな人でなかつたばかりでなく、諦めてそこに住するといふほどの心をさへ持ち得ない人であつた。彼は生涯貧に住した。しかも、生涯彼は貧の爲に苦しみつづけた。時には彼はそれを呪ひもした。それが彼みづからの物欲煩惱の然らしむるところであるとの自省などの爲に彼は自己を否定しようとはしなかつた。しかし、彼は又(ひとり彼ばかりでなく彼の時代の民衆の殆んど凡てがさうであつたやうに)さうした苦しみの理由を社會そのものに歸せようなどとは夢にも思はなかつた。苦しさのあまり、彼は他人を呪ひもした。また他人の惡を憎みもした。が、いつでも最後に彼が自己の苦しみの片付けどころとしたのは、如何ともし難い「運命」そのものであつた。或は「この世の縁」といひ、或は「過世の業因」といひ、或は「宿世の因縁」といひ、或は「前世のむくい」といひ、さては「過ぎし世のえにし」といふ、要するに彼は自己の苦しみの源を「天與の運命」に歸することによつて、結局心の落ちつきを得るより外に知らなかつたのであつた。
彼は時に自己の愚かさを痛感せずにゐられぬこともあつた。しかし、それすらも彼には如何ともし難い運命と觀じられた。

御佛は曉の星の光りに四十九年の非を悟り給ふとかや。あら凡夫のおのれの如き(*、)五十九年が間闇きよりくらきに迷ひて、遙かに照らす月影さへ頼む程の力なく、たま\/非を改めんとすれば、暗々然として盲の書を讀み、蹇の踊らんとするに等しく、迷ひにまよひを重ねぬ。げにげに、諺にいふ通り、愚につける藥もあらざれば、なほ行末も愚にして、愚のかはらぬ世を經べきことを願ふのみ。

こんな風に自己の愚かさを切實に感ずれば感ずるほど、彼はます\/固くそれの如何ともなし難いことを覺悟するより外に道がなかつた。そして「人間は災難に逢ふべき時節には災難に逢ふがよい、死ぬべき時節には死ぬがよい、それこそ眞に災難をのがるゝ妙法である」といつた良寛和尚のやうに、一茶はおのれの愚かさをのがるゝの道は、ただ\/其の愚かさを守り、その愚かさに徹するより外なきを悟つたのであつた。


春立つや愚の上に又愚にかへる

六十歳の春を迎へた時こんな風に自ら喜んだ一茶は、もはや自らの愚かさゆゑにたましひを苦 める人ではなかつた。芭蕉は艶i苦行の人であつた。自己の愚かさから解脱すべく生涯艶i一路を辿りつづけた人であつた。芭蕉にとりては自らの煩惱と惡業とを解脱するの道は、無上正覺への艶iの外になかつた。本當の賢さ、無上の靈智、それを芭蕉は求めた。しかし一茶はそれを求めなかつた。むしろ彼は愚を守り、愚に徹し、愚に安んじようとする方へと進んだ。進んだといふよりは、それ以外なすべきところを知らなかつたのだ。

他力信心々々と、一向に他力に力を入れて頼み込み候輩は、遂に他力繩に縛られて自力地獄の焰の中へほたんと陷り候。其の次に、かゝるきたなき土凡夫を、うつくしき黄金の膚になし下されと、阿彌陀佛に押し誂へばなしにして置いて、はや五體は佛染みなりたるやうに、わる濟ましなるも、自力の張本人たるべく候。問ひて曰く、如何やうに心得たらんには御流儀に叶ひ侍りなん。答へて曰く、唯だ自力他力なんのかのいふあくたもくたを、さらりと、ちくらが沖(*対馬の沖、日本と中国の間にあると言われる海。海の果て。)へ流して、さて後生の一大事は此の身を如來の御前に投げ出して、地獄なりとも極樂なりとも、あなた樣の御はからひ次第、遊ばされ下さりませと御頼み申すばかりなり。斯くの如く決定(*けつじゃう)しての上には、南無阿彌陀佛といふ口の下より欲の網をはるの野に、手長鰕の行ひして人の目をかすめ、世渡る雁のかりそめにも、わが田へ水を引く盜み心を、ゆめゆ め持つべからず。然る時は、あながち作り聲して念佛申すに及ばず、願はずとも佛は守りたまふべし。是れ即ち當流に安心(*あんじん)とは申すなり。穴かしこ

五十七齡 一茶
ともかくもあなたまかせの年の暮

要するに彼は運命の前に、自然の前に、大地の上に愚かな自らの一切を投げ出したのだ。「あなたまかせ」の安心ではあつたが、それは「ともかくも」のそれであつた。「あなた」に對する何等の期待も、何等の註文も、何等のはからひもない、「兎も角も」の「まかせ」であつた。同じく「あなたまかせ」でも、此の「兎も角も」が一茶の一茶たる獨自の面目の存するところであつた。此の「兎も角も」は一茶でなければ出て來さうにも思はれない言葉である。


「兎角もあなたにおまかせいたします」(*原文「「」)といふやうな心境に到つて、一茶は初めて五十年の苦界から救はれた。が、おもへばそれに到るまでの彼の苦しみはあまりにも大きく、且、久しかつた。加之、そんな風にして永い間の窮迫と痛苦との果に漸くにして到り得た彼の晩年の安心境に於ても、運命は一層の意地惡さを以て彼に迫つて來たのであつた。
おもふに、一茶の晩年期ほど不自然な、そして悲劇的な晩年期を經驗した人は古來極めて稀で あらう。(*ママ)私はいつも涙なしに一茶の晩年期をおもふことは出來ない。また一種の驚異を感ずることなしに、それを想像することは出來ない。


見限りし故郷の櫻咲きにけり

そんなやうな心持で、一茶が四十年の放浪生活を棄てゝ故山の家に歸臥するに至つたのは彼の五十二歳の年であつた。


これがまあつひの棲處か雪五尺

こんな風に驚き且嘆じながらも、そこは彼には地上に於ける最も懷しいところであつた。彼は初めて眞の郷土の自然に愛兒として抱かれたやうに感じたであらう。その上彼には生れてはじめて自分のものとして住居が惠まれた。また自分の財産としての田畑が得られた。彼は初めて一人前の人間となつたやうに感じたであらう。そして普通人の生活、世俗並の生活——それを正直に無邪氣に、しかも執拗に欲し求めてゐた彼にとりては、それはおそらく生れてはじめて感じた最も大なる歡びであつたであらう。
けれども、普通人が成年期に於て與へられる境遇を、一茶は老年期にして初めて辛うじて與へられたのであつた。しかも、その最も得意なるべき時に於ける一茶の風貌はまさに老翁のそれで あつたといふ。三十代で既に頭が半ば白かつたといはれる彼は、その頃はもう眞の白頭翁であり齒すらも殆んど全く脱け落ちてゐたといはれてゐる。初めて堂々と生れた家の後を繼いで(*ママ)一家の主となつた彼、名聲全國の俳壇に普き堂々たる天下の俳人として濶歩することの出來た彼——さうした所謂錦を着て故郷に歸るの慨(*概)あるべき彼が故山歸臥の風姿は何といふいたましいものであつたらう。髪白く齒無く、白齒無(*3字衍字か。)服裝も亦おそらくみすぼらしかつたであらうと想像されるところの、老いさらばうた一人の旅人の姿で、飄々乎としてあの柏原の驛(*宿駅)に足を踏み入れた一茶最後の歸郷の姿は果してどんなであつたらう。

千辛萬苦シテ一日無心樂。不己而成白頭翁(*原文「」)

と自ら嘆じたのも、


すりこ木のやうな齒莖で花の春

といふ風に自ら嘲つたのも、その前後の事である。おそらく彼みづからも、所謂錦を着て故郷に歸るに相當した自らの歸郷姿のあまりに名實相伴はないのを、憐れみもし、また笑ひもしたことであらう。
しかし、兎も角も彼は一家の主となつた。兎も角も自分のものと名のつくいくらかの財産を得 た。永年の漂泊生活の間にあつても、一茶は宿屋の宿帳には必ず「信濃國水内郡柏原の百姓彌太カ行年−−歳」と記したといふことである。今や兎も角もそれと名實相伴ふ身の上となつたのである。


ふしぎ\/生れた家で今朝の春

さうした彼の單純な表現のうちに、何といふ複雜な心が藏されてゐることであらう。そこには驚きと歡びとの、涙と微笑との不思議な諧調がある。


郷里に定住することに決した年の四月十一日、一茶は初めて妻を迎へた。髪白く、齒なき五十歳の花婿、それだけでも私達には直に一種の悲哀味と可笑味とが感じられる。一茶自身も心の一角に於て、おそらく傍觀者の感じたやうな矛盾感を感じずにはゐられなかつたであらう。しかも、その花嫁は二十八歳といふ女盛りであつた。何といふ不思議な結婚であつたらう。
けれども一茶は眞劍であつた。若者の如く眞劍であつた。


足枕手まくら鹿のむつましや

寢むしろや煙草吹かける女カ花

我菊やなりにもふりにも構はずに

彼は又妻と庭の花見をしたことや、夫婦揃つて月を見たことなどを日記に書き入れた。彼にとりてはこの老境に入つて初めて經驗することを得た新婚生活が、如何程樂しいものであつたかわからない。姿は白髪の老翁であつたにしても、心はまさに血の燃え立つ春さながらのそれであつた。「七番日記」の原本にも、亦未刊行の「九番日記」とも稱すべき日記にも、到處に次のやうなことが記入してあるといふ。
例へば文化十三年八月の條に、
  •  六日 リ、巳刻雨、キク月水、辨天參。
  •  七日 リ、三好屋番頭來、允兆より金百疋來。菊女赤川に行。
  •  八日 リ、夕方雨、菊女歸、夜五□。
  • 十一日 リ、寒、夜雷雨、夜三□。
  • 十五日 リ、夫婦月見、夜三□。
  • 十六日 リ、白飛に十六夜せんと行に留守、三□。
  • 十七日 リ、墓參、夜三□。
  • 十八日 リ、夜三□。
とある類である。文化十三年一茶五十五歳に當る。なほ文政五年正月の條の一節を拔いて見ると、

文政五年 正月。
  • 一 リ、晝より雪又リ。
  • 二 終日雪、權左衞門訊始、與宗次傳吉、喧嘩始。
  • 三 寅刻菊始。
  • 四 リ、夜五西村藤八出火。
  • 五 リ、隣夕蕎麥切。
  • 六 リ。
  • 七 リ。
  • 八 リ。
  • 九 リ、夜□、旦茶靜に一通出、太笻夢南入。
  • 十 リ、巳刻より吹雪、寺に禮。
  • 一 リ、夜□。
  • 二 リ、旦□、茶日、老母旦。
  • 四 リ、墓。
  • 五 リ、菊古間始。
  • 六 リ、牟禮三人來。
  • 七 リ、旦□、茶日、墓。
これは一茶六十歳の正月で、中風症にかゝり癒えて蘇生坊と號し「ことしからまるもうけぞよ今朝の春(*終五「娑婆遊び」か。)と詠じた翌年のことである。
これらの點にも一茶の結婚生活の不可思議な一面が窺はれると同時に一茶その人の性格の一面も鮮やかに示されてゐるやうな氣がする。
かくの如くして、一茶は妻菊女との間に僅か七年の歳月を以てして、引き續き四男一女を擧げたのであつた。老年に出來た子供は普通以上に愛著を感ぜられるのが常である。しかも、一茶は類の少い子煩惱であつたと云はれてゐる。それであるにも拘らず、その四男一女いづれも永きは一年、短きは一箇月の壽命しか與へられずに夭死したのであつた。此の相次いで起つた愛兒の出 生と死といふ人生最大の悲痛事が、どんなに一茶の心に響いたかは、想像だも及ばないほどである。信濃湯田中の湯本氏の所藏に、左の一軸の一茶遺墨がある。

女子と小人はやしなひがたく、遠ざくれば妬み、近づくれば不遜と、溜息つきて聖人すらあぐみ給ふと見えたり。まして末世に於てをや。老妻菊女といふものは、片葉の蘆の片意地強く、身の覺期となるべき事を人の教ふれば、うはの空吹風に聞きなして露程も聞かざる物から小兒二人ともに非業の命うしなひぬ。この度は三度目に當れば又前の通りならんと、いとゞ不便さに磐石の立るに等しく、雨風さへことともせずして、母に押しつぶさるゝ事なく、うか\/長壽せよとて、石太カとなん呼りける。母にしめしていふ、此さざれ石、百日あまりも過ぎていはほとなるまでは、必よ背負ふ事なかれと、深くいましめけるを、いかゞしたりけん。生れて九十六日といふけふ、朝とく背におひて負ひ殺しぬ、あはれ今迄うれしげに笑ひたるも、手のひら返さぬうち、にが\/しき死顔を見るとは、思へば石と祝したるは、あだし野の墓印にぞありける。かく災ひにわざわひ累ぬるは、いかなるすくせの業因にや。

あら玉の春の始の惡く日かな
鏡開きの餅祝して居たるがいまだけぶりの立けるを、

もう一度せめて目を明け雜煮膳
一七日墓詣

陽炎や目につきまとふわらひ顔
正月十七日         五十九齡  一茶

むごらしやかはひやとのみ思ひ寢の眠る隙さへ夢に見るかな

これは彼の三男石太カの死を悲んだものである。石太カは文政四年十月生れて僅に九十六日目で死んだのであつた。彼は愛兒に對する愛着の爲には結婚後僅七年の愛妻をも、かくまではげしく罵り、かくまではげしく憎み、かくまではげしく呪はずにはゐられなかつたのである。四十餘年の苦しみの後に初めて惠まれた妻と子との關係に於てすら、彼はつひに世の常ならぬ暗K悲痛な運命の虐げの下に置かれたのであつた。
彼の不幸はそれだけで終らなかつた。彼が石太カの非業の死に泣き、その爲に愛妻の無智に對して極度の憤りと呪詛とに苦んだ——その苦しみのまだ癒え切らないのに、其翌々年今度は生れて纔に一年三箇月にしかならない嬰兒金三カを殘されて、彼は最愛の妻菊女に先立たれてしまつたのである。

やかましかりし老妻ことしなく

小言いふ相手もあらばけふの月
亡妻新盆

かたみ子や母が來るとて手をたゝく

こゝに至つてはまさに人生の悲痛極まれりともいひたいほどである。しかも、悲痛は更に悲痛を重ねた。妻の死後隣村赤澁の富右衞門といふ者に里子として預けられてゐた最愛の遺子金三カまでが、その年の暮近く、これも無慘の夭死をとげたのであつた。

十ウは十ウながら、更に此世のものにはあらじ、今にも知れぬと人皆いへり。この女、乳房を見するを嫌ひて、小兒の頭を懷にふかく入れて、乳を呑まする眞似して、やがて口に水をあてがふ業なれば、不思議にも男の乳のやうに平たく、乳房らしき氣はひひたすらあらず。さてこそ知れ、始より乳の代りに水をのまするをひしとつゝみ、只腹下るとのみいひて、今はたゞ白く赤らみたる肉と血とのみ下すなんめり。いかに、人面獸心の富右衞門なればとて此樣にむごくなさけなく振舞しと、皆々涙おろ\/とさすりぬ。きやつ、金をむさぼるばかりにてなせるにや、何ぞ怨める筋ありて致せりや。風上に置くもおそろしやなん。

ものいはぬをさなの口を赤澁のみつのせめとは鬼もしらじな

乳戀しちゝこひしとや蓑蟲のなきあかしけんなきくらしけん

富右衞門夫妻の行爲は果して一茶が信じてゐた世間の噂そのまゝであつたか、又金三カの死因が果してそこにあつたかどうかといふ事は、到底明らかにしがたい事であるが、一茶が斯くまでに物狂ほしい憤激に驅られずにゐられなかつた心情には、全くいさゝかの無理もない。
こんな風にして一茶の家庭生活の最初の經驗は悲痛に悲痛を重ねることに終つた。そして彼は再び孤獨不如意の境界に置かれた。けれども、一度結婚の味を知つた者にとりては、孤獨は最も堪へがたき境界であつた。かくて菊女の歿した翌年彼はつひに第二の妻を迎へた。彼女は名を雪女といひ、山藩士の女で年は三十八であつた。しかし、その結婚生活はうまく行かなかつた。原因は雪女の方から一茶を嫌つたのにあるらしい。兎に角結婚後僅に三箇月で一茶は斷然彼女を離縁したのであつた。


絲瓜蔓切つてしまへばもとの水

一茶はそんな風に淡々乎とした叫びを揚げてゐるけれども、内心云ふべからざる哀感の存したことは察するに難くない。彼はおそらくさうした孤獨と寂寞と悲哀のうちにあつて、生を共に してゐた當時は憎みもし呪ひもしたかの最初の妻を、今更の如く懷しさを以て追慕せずにゐられなかつたであらう。それと同時に五人の亡兒の追憶をも、どんなに悲痛なおもひを以てしたことであらう。
しかも、彼はなほさうした孤獨の生活に堪へ得なかつた。六十三といふ老齡を以てして、彼は更に第三の妻やを女を迎へた。やを女はその時四十六歳であつた。しかし、これも同棲僅に三年で、今度一茶自ら此世を去つてしまつた。おまけにその當時やを女は妊娠中であつた。一茶はつひに彼の血を後世に傳ふべき愛兒の顔を見るべき因縁をすら惠まれなかつたのであつた。


生涯意地惡い運命の虐げに苦しみつゞけた一茶は、死に臨んですらも惡運の弄するところとなつた。これより先彼は文政八年東北地方及び越後地方への長途の行脚を試みた。これが彼の最後の旅であつた。


笠の蠅(*原文「繩」)我より先へかけ入りぬ

蚤どももまめ息災ぞ草の庵

大の字にふんぞりかへる涼みかな

せんべいのやうな蒲團も氣樂かな

彼の此の旅行は一つにはやもめ暮しのさびしさをまぎらす爲でもあつたらう。しかし、旅はやはり老い過ぎた彼にとりては一層わびしかつた。歸つて見れば、貧しくとも、さびしくとも、我家にはやはり我家の氣樂さがあつた。彼が第三の妻を迎へたのはその年であつた。
しかし、さうした我家の氣樂さも、つひに文政十年六月朔日に自家から失した火の爲に、辛うじて一棟の土藏を殘しただけで、すつかり燒失してしまつた。


螢火もあませばいやはやこれははや

と驚きと悲しみのあまりかう笑ひつゝも、彼は結局燒け殘つた小さな土藏の中に、しばらく不自由な貧しい生活を忍ばねばならなかつた。しかも、その不自由のうちにあつて、彼は中風症の再發に遭つて、起つ能はざるに至つた。彼はその時六十五歳であつた。

未辭世

入らばけふ草葉の蔭ぞ花に花

「いまだ辭世にあらず」とことわりながらも、彼は内心既に死を覺悟してゐたであらう。彼はうろたへなかつた。苦しまなかつた。引きつゞいての災難に遭ひつゝ、彼はつひに災難から解脱し てゐた。苦しまされるまゝに苦しみつゝ、彼はつひに苦しみから救はれてゐた。我執の愚かさのまゝに惱みつゝ、彼はつひに愚かさからぬけ出てゐた。彼の心は騷がなかつた。彼の心は平らかであつた。彼の胸は靜けさに充たされてゐた。


盥から盥にうつるちんぷんかん

彼の一生は、今の彼にとりてはたゞその始めと終りとのみであつた。彼は一切から放たれた。彼は苦に徹して苦をのがれ、愚に徹して愚をのがれた。彼は一切を夢幻視しながら、一切が彼のものとなつた。彼は此世に於ける最後の數年間に於て、嘗てはあれほどまでに憎み且呪ひつゞけてゐた繼母や異母弟とすらも、温顔を以て相交ることの出來る彼となつてゐた。
それにしても一茶終焉の模樣を知るべき文獻の無いのは遺憾である。一茶の終焉記の傳はらないのは、當時門人間に激しい軋轢があつてその爲に師の病状を見舞つた者すら甚だ稀で、甚しきは門人で葬式に列つた者さへ殆んど無かつたといふやうな事が束松露香(*信濃毎日新聞記者)の「俳諧寺一茶」に書いてある。或はそんな事もあつたのかも知れない。だが、飜つて考へて見ると、終焉記などといふやうなものゝ無かつた方が、却つて一茶らしくていゝところかとも思はれる。弟子達の間の軋轢などに口出しをしないで知らん顔で居たところなども、やはり一茶らしくて面白いと云ふやうな 氣もする。あれほど自己を語るに忠實であつた一茶その人も、自分の死についてだけは如何ともし難かつた。流石の彼も默つて病み、默つて死んで行つた。


美しや障子の穴の天の川

これは最後の病床中の吟詠だといふ。(*辞世は「盥から…」の句という。)燒け殘りの狹い土藏の中に默つて寢てゐて、障子の穴から暗い夜の空に幻のやうに流れてゐる銀河を、ぢつと眺め入つてゐた一茶——それだけを面影に描いて見るだけでも、私達には死に臨んでの一茶その人の姿全體が想像される。
私は先年一茶の墓に詣で、且は彼の遺跡を見る爲めに柏原を訪ねたことがある。その時彼が最後の息を引きとつたといふ、其の土藏をも見た。それは住居の裏手の畑中にあつた。壁落ち柱ゆがみ、今にも倒れさうに思はれるほど、それはもう荒れ果てゝゐた。内部をのぞくと、そこにはごみ\/した雜多な物が亂雜にはふり込まれてゐた。今はどうなつたか知らぬが、その時はそれはもう藏ではなくて汚い物置小屋に過ぎなかつた。しかし、さうした荒れ方が、却て一茶といふ人を偲ぶにふさはしいやうにも思はれた。


燒跡やほかり\/と蚤騷ぐ

一茶は嘆じた。おそらくその當時に於ても、さう大して立派な土藏ではなかつたにちがひな い。むしろそれはやはり狹苦しくきたない物置小屋に近いものであつたであらう。しかし、一茶はさうしたむさくるしい中の病床に横はりながら、假に建てた障子の破れ穴から天の川の美しさに見とれて居た。


美しや障子の穴の天の川

障子の穴から見たといふところに、いかにも一茶の見た自然美全體が暗示されてゐるやうな氣がする。


最後の病床に横はりながら、障子の破れ穴から見える銀河の美しさに見とれてゐる。何だか、その事が不思議に一茶その人の自然觀の一面を暗示してゐるやうな氣がしてならない。彼はみづからの心の障子の破れ穴から自然を見てゐた場合の多かつた人のやうである。兎に角彼の觀た自然は徹頭徹尾彼自らを通しての自然であつた。むしろそれは彼みづからの主觀の反映であつたとさへも言ひ得る。我を離れて自然に沒入する、自然と同化して、そこにはじめてまことの我を生かす——それを芭蕉は求めた。彼は造化に從つて四時を友とせよ、然らば見るところ花にあらずといふ事なく、思ふところ月にあらず(*芭蕉の文では「花にあらず」)といふ事なしと教へた。造化に從つて造化に歸る——それ が俳諧の極致であると芭蕉は教へた。しかし、一茶はさうはしなかつた。彼はありのまゝの「我」を通して自然を見た、そしてそれをさながらに流るゝ水の如くに歌つた。


やせ蛙まけるな一茶こゝにあり(*これにあり)

やれうつな蠅が手をする(*すり)足をする

門かすぞ啼かずに遊べ雀の子

きり\〃/す案山子の腹で鳴きにけり

時雨るゝや親椀たゝく啞乞食

秋風におまかせ申す浮藻かな

つい其處の二文渡しや春の月

陽炎や草の上ゆく濡鼠

水鷄啼く拍子にいそぐ小雲かな

大螢ゆらり\/と通りけり

はやさびし朝顔蒔くといふ畑  (*原文初五「はやさひし」)

大寺の片戸さしけり夕紅葉

初雪や俵の上の小行燈

初雪の今行く家の見えて降る

近づきの樂書見えて秋の暮

これらの句を讀むと、それが一茶の觀た自然であると同時に、一茶その人の生活の姿であるといふことが直ちに肯ける。
一茶は現實生活の上に於ても、ぐん\/自我を押し立てゝ行つたが、藝術の上でも彼は何のこだはりもなく主觀を表現した。彼は現身のもつあらゆるものを肯定し、その爲に苦しみもし、またその爲に獨自の悟入に達することも出來た。彼は眞に「人間」の稱呼に値する。いや、むしろ「野人」こそ彼に最もふさはしい稱呼ではなかつたか。
藝術の上に何のこだはりもなく現身としての自己の姿を印して行つたところに、彼が我國の俳句史上に與へた一大革新があつた。彼によつてこそ民衆藝術たるべく生れた俳句が、初めて民衆藝術としての道を拓いて貰つた。この點で私はコ川時代の俳句史上に於ける一茶の位置と、明治大正の短歌史上に於ける石川啄木の位置との一味相通ずるところあるを思はずにゐられない。ただ、啄木には一茶ほどの天眞が乏しかつた。彼にはやゝ才氣が勝ち過ぎた。
一茶の藝術的表現が、自由であり、無造作でありながら、浮薄の氣のないのには、彼の天眞、——野人そのまゝの彼の天眞が與つて力あつた。その野人そのまゝの天眞こそ、彼をして芭蕉の傳統をうけついだ俳句といふものに、一大革新を與へ、新らしくしてまことなる活路を拓いた所以である。


一茶はすね者であつたといはれる。しかし、彼には決して獨りみづからを高くして、白眼世を睨むといふやうなところは聊かも無かつた。彼はどこ\/までも眞劍であつた。どこ\/までも赤裸であつた。どこ\/までも正直であつた。ひがんでも、彼は陰險にはならなかつた。どこどこまでも我執を押し出して行つた。退いて恨む代りに、彼は出でて罵つた。冷然と無視せんとつとむる代りに彼はあからさまに呪つた。時に彼は苦しさのあまりに笑ふことがあつた。しかしその笑は涙を伴うてゐた。時に彼は憎しみのあまり嘲つた。しかしその嘲りには毒はなかつた。
彼はあれほどの苦勞をしながら、つひに謂ふところの苦勞人にもならず、最後まで幼な兒の如き純眞をもちつゞけた。彼は悟らんが爲めの惱みはしなかつた。むしろ迷ひに徹しておのづから救はれたのであつた。彼の所謂「あなたまかせ」には何の目あてもなかつた。迷ひのあまり、苦 しみのあまりに於ける「兎も角も」の「あなたまかせ」——それが彼の「救はれ」であつた。
「救はれ」——さうだ、彼には「救ひたい」とか「救はう」とかいふ思ひあがつた心持ちなどは微塵もなかつた。彼は「救はれたい」とすらも求めなかつた。彼の「救はれ」は「救はれない」と投げ出した時に、おのづから來たところのそれであつた。(大正十四年九月四日)


一茶の故郷を訪ふ記



六月二日。長野からの歸途、柏原驛で下車して久しく思ひを寄せてゐた一茶の遺跡をたづねることにした。此の山奧の小驛は二十年ほど前から東京と郷里との往復に幾十度となく通過したところで、しかもその度毎にいつか一度はゆつくり立ち寄つて見たいものだと思はぬことのなかつたところであるが、いつも行く先へ急がせられた事情と心もちとはたうとう今日まで其の望みを果さなかつた。ところがその前日思ひがけなかつた用事の爲めに長野市へ來たのを幸ひ、かなり急がなければならぬ旅であつたに拘らず、いよ\/そこへ立ち寄ることを得たのは、一つは私自身の心もちから、一つは長野で出遇つた人々の一茶その人に對する熱情の籠つた話の力に動かされてであつた。或る人は初めて遇つた私に殆んど名刺代りのやうな工合に俳諧寺可秋(*丸山可秋。二世俳諧寺を名乗る。)の編んだ「一茶一代全集」をくれた。或人は又宴會の席上で遠來の客にすゝめる馳走の第一は其の土地の 第一の名物でなければならぬといふ理由の下に酒をすゝめる代りに滔々と一茶論を辯じて聞かせた。そしてそれらを皮切りに、居合せた人々の殆んど凡てが何かしら一茶について語つた。私はつひに今度こそどうしてもあの山間の小驛を素通りして歸ることが出來ない氣持になつたのであつた。其の日の朝、私は長野を出かける前に、二三の人と一緒に善光寺に參詣した。そして不思議に今朝は參詣人の少い森閑とした御堂の中に立つて、私達は又しても一茶のことを語り合はないでは居られなかつた。私達は何よりも先に此の堂の柱に殘されたさま\〃/の落書の中から偶然にも三十年餘も遇はなかつた遠地の友の名を見出して、しみ\〃/と物思ひに沈みながら秋風の中に立つてゐたと云ふ場合の一茶の心持や姿について語り合つた。

○善光寺本堂の柱に長崎の舊友の名のしるしありけるを見し時、
今は、三十年餘りの昔ならん、おのれ彼地にとゞまりて、一つ鍋のもの喰ひて、笑ひのゝしりし、むつまじき人達なり。あはれ、きのふ參りたらんには面會して、越し方(*ママ)語りて、心なぐさめんものを、互に四百餘里の道程隔りぬれば、ふたゝび此の世には逢ひがたき齡にしあれば、しきりにしたしくなつかしくなむ。

近づきの樂書見えて秋の暮

一茶の此の文章のことから、昔の旅と今の旅と云ふやうなことについても私達は話し合つたりした。
午前十一時の汽車で、私は長野を去つた。早川氏、北村氏、C水氏、白鳥氏、それから私——柏原までの同勢は五人であつた。空はよくリれてゐた。汽車の窓からは緑の香のする初夏の風が快く流れ入つた。汽車は廣い麥田の中を走つた。穗の出揃つた麥田の上にはスイ\/と燕が翔つてゐた。此の邊の田は到るところ二毛作が實行されてゐた。此のあたりの農家はこゝ暫くはまるで目の廻るやうな忙しさだと早川氏は窓外の麥田を眺めながら語つた。麥を刈る、その跡を打ちかへす稻を植ゑつける、麥を乾したり打つたりする。一時に二つの大仕事をするのだから、それはまつたく帶を解いて寢る隙もない忙しさにちがひない——そんな事をおもひやりながら、さうした農家の勤勞生活と自分などのどつちつかずの生活とを較べて考へて、これではならぬと云つたやうな一種の緊張を感じないでは居られなかつた。
吉田を過ぎ、豐野を過ぎ、更に牟禮を過ぎると、山が急に深くなつたことが感じられた。日にかゞやく葉の崖が、汽車の兩側から壓するやうに迫つてゐるところが多かつた。川に沿うた高い崖の上の道を歩いてゐる人の姿も、汽車の窓からほんのチラツと見て過ぎる眼には、さま\〃/ のことをおもはせる材料となつた。崖のところ\〃/には燃え立つやうな色をした山躑躅の花が咲いてゐた。汽車の中ではいろ\/な事柄が、私達の話題となつた。しかし、その多くは車窓から眺められた自然の風物であつた。時には木と云ふ木が悉く伐りつくされて、地肌まで見えさうになつてゐる山を眺めながら、此の近年に於ける山林濫伐の善後策をどうするかと云ふやうな、此の小旅行の目的とは全くかけ離れた、極めて實際的な、重大問題が持ち出されて論じられたりした。
やがて「俳諧寺一茶」の著者(*束松露香が敍してゐる通り、トンネルを二つぬけて汽車は豁然として開けた一廓の高原地に出た。
「このトンネルを境にして氣候もまるで違ふし、空氣のCさもまるでちがひますよ」
此の地方の地理に明るい早川氏は早速かう説明した。そして、

二個の小隧道を出れば、地勢豁然として開け、右の方北東の勾配高く、左の方斜に南北にだら\/下りの處に、一小停車場あるを認むべし。是即ち、柏原停車場にして、驛は停車場を距る八町の東南に位し、南北に長し。

我里はどう霞んでもいびつなり
一茶の句は能く其地勢を吟じ盡したるを覺ゆ。

束松露香の「俳諧寺一茶」にかう書いてある如く、私達は程なく柏原停車場に着いた。時刻はもう午後一時近くであつた。
宿屋は小料理屋などの竝んだ停車場前の街道を半町ほども行くと、屋竝が盡きて道の右側は見渡すかぎり遠く山際までひらけた野で左側は松や杉の生ひ茂つた形のいゝ小丘であつた。
「それが小丸山と云つて、一茶翁の御墓のあるところです。」早川氏は誰よりも先にその小丘を指しながら云つた。その丘の手前の丘つづきに學校があり、村役場があつた。私達はその村役場で足を休めて中食をしたゝめる筈になつてゐたのであるが、それよりも前に空腹を忍んでも一通り一茶の遺跡を訪ねようと云ふことにした。小丸山には特に植ゑられたらしい鬼躑躅の黄味を帶びた赤い花が一面に咲いてゐた。そしてよく伸び茂つた松や杉の樹立の蔭、鬼躑躅の花の咲き盛つた藪を縫うてうね\/した徑がつけられてゐた。私達がその徑を辿つて上らうとした時に、ふと私の眼に、本道からあまり遠くない田の隅の一ところ芝生の生えた未開墾地に、五十格好の夫婦者らしい二人の百姓と、十二三を頭にした三人の子供とが、ゴチヤ\/と寄り合つて握を食つてゐるのが映つた。
「あの樣子はどうです」かう私はだしぬけに誰となく叫んだ。四人の人達は一度に私の指した方を見た。そして四人とも其の情味に富んだ光景を認めた。
「まるで繪か詩のやうですなあ」
「うらやましい生活ですね」
「どうせろくなおかずもないのでせうが、たまらなくうまさうですね」私達は、口々にこんな言葉を交へた。
しかし、「一茶の少年時代にもあのやうな光景中の一人となつたことがあるでせうか」と云ふ疑問を誰やらが發するに及んで、私達の間の話は又も一茶を中心として新らしい獅見出した。そして私達はしんみりした調子で話し合ひながら林間の小徑を辿つた。一茶の生れたのは仲睦じい兩親と祖母と三人ぎりの平和な家庭であつた事、しかし一茶の三歳の時に母が死んだ事、それでも八歳までやさしい祖母の手でさしたる不自由もなく温かに育てられた事、それが八歳の時にやつて來た無智な、そして無智ゆゑに殘酷であつた繼母の爲めに一茶の生活が全然一變して世にも哀れな繼子の境涯に陷り、わけても彼れが十歳の時に異母弟が生れてからと云ふものは殆んど人間の世界にあるまじきほどの悲慘な取扱ひを繼母から受けるやうになつた事、少年時代のは年中田畑の仕事や、草鞋つくりや馬の口取りなどの荒仕事にこき使はれ通してゐたらしいと云ふ事——さう云つたやうな彼の幼少年時代に於ける生活についてのさま\〃/な事が、つぎ\/(*ママ)に私達の間に話されたり、想ひ出されたりした。わけても彼れが僅に六歳にして口ずさんだと傳へられる「われと來て遊べや親のない雀」と云ふ哀切な句が、幾度も幾度も私達の間に口ずさまれた。
丘を上り切ると、そこに建てられてからまださう多くの年數を經たとも見えない藁葺きの小さい庵めいた建物があつた。「俳諧寺」と風雅な字の刻まれた天然木の扁額が掲げられてあつた。しかし惜しいことには凡て板戸が締められ、錠がおろされてあつたので、私達はそこに足を停めずにすぐにその建物の裏手にあると云ふ一茶の墓をたづねることにした。堂の裏手の林の中はかなり廣い間一帶に明專寺といふ寺に屬した墓地であつた。大小新古のさま\〃/の形をした墓標が薄暗い樹蔭に點在してゐた。と見ると、思ひがけなく其の中のとある小さな一基の古びた石碑の前に、小學校の教師達と見える七八人の若い男女の跪座して拜んでゐるのが見出された。
「あれです、あれです」それが目につくとすぐに、春畦氏は指しながら叫んだ。そして先頭に立つて、私達をその方へと誘つた。
私達は私達の近づいたことを知つて慌てゝ立ち去つた若い教師達に代つて、其の見すぼらしい古びた墓石の前に立つた。墓は僅に高さ一尺五六寸、幅七八寸位の細長い四角な石で、その墓は方二尺餘の石棺めいた形に造られてゐた。石の表にはところ\〃/苔が生えて居り、石の色がK味を帶びて古び、刻んである文字も餘程磨滅してゐた。墓の周圍や、近くの藪かげには、ヒメシヤガと呼ばれるアヤメに似た小さな紫の花がさびしく咲いてゐた。私は先づその二三莖を手折つてそれを墓石の土にさし立てゝ置いてから、跪座し合掌した。他の人達も同じく拜んだ。私達は暫らく沈默の底に沈んだ。何とも云ひ表はしやうもない感激が、私の胸に迫つた。そしていつとなしに私の眼は、涙ぐまずにはゐなかつた。
墓の正面には「南無阿彌陀佛」と大きく刻まれ、その傍に「法名道澄、先祖俗名善右衞門、延寶九酉年八月」と小さく刻まれ、左の側面には「願主小林彌五右衞門」右の側面には「明和八卯辛(*辛卯か。)十月十七日建之」と誌されてあつた。此の小さな墓石の下に無論一茶の家の先祖代々の遺骨が納められてゐるのであつた。一茶の實父母のそれも、彼れを愛育した祖母のそれも、彼れの妻のそれも、みじめな死にやうをした彼の愛兒のそれも、而して生涯彼れと爭ひつづけ、彼を苦しめつづけた彼の繼母と義弟とのそれも、凡て此の一基の墓標の下に、共々に土と化しつゝあるの であつた。そしてそれを思ふと、その墓が一層深い生死の意味を私達に語つてゐるやうに思はれた。「入らばけふ草葉の蔭ぞ花に花」「盥から盥にうつるちんぷんかん」——かうした一茶が辭世の句もおのづと口ずさまれずには居なかつた。


かうして私達が墓前に立つて去りがたい思ひに惹かされつゝ深い默想をつゞけてゐた間に、そこへ先刻一寸遇つた此の村の小學校長が見えて、これから俳諧寺へ案内をするからと促した。私達はやはり無言のまゝその後に隨つて、すぐそばの「俳諧寺」と名づけられた小さな建物の前に出た。やがて校長の手で板戸が開かれ、私達はその部屋へ這入つた。正面の壁には白木の壇が造られ、壁上に善光寺上人筆の南無阿彌陀佛の掛物が懸けられ、壇の上には一茶の木像と石膏像が竝べて据ゑられ、脇床には甘雨と云ふ人の「われいまだふじの山をまぢかく(*原文「まちかく」)見ねど——不盡の山誰に聞ても大きなり」と賛をした富士山の繪の煤けた掛物が懸けてあつた。繪はひどくまづいとおもつたが、賛句は懸け場所が懸け場所だけに意味ありげに思はれた。しかし壇の前にぬかづいた私達の眼に留つた一つの大きな硯こそは最も多く私達の興味を惹いた。それは壇の前に無造作 に置かれてあつた。そしてちび筆が一本添へてあつた。それは幅五六寸長さ八九寸の大きな平たい眞Kな天然石に、墨を磨る場所と筆を置く場所とが、極めて不細工に彫られてある、一見甚だ粗末な硯であつた。しかし、手に取り上げてよく見ると、平面の上部に「一人草木用」といふ謎のやうな文字が刻まれてあるのが可成り明らかに讀まれた。
「一人草木用、一人草木用。」
私達は口々にそれを繰り返して讀んでゐると、眞先に早川氏が、
「つまり一茶用と云ふことになるのでせう」と註を入れた。
「なるほどさうですな」私達は殆んど口を揃へて叫んだ。
「さうしますと、これは一茶の遺品なんですね」かう先づ私が訊ねた。
「さう云ふのです」と此の村の小學校長が答へた。
「さい云へば此の字が一茶の字らしく見えますね」と重ねて私は云つた。
こんな風にして私達はやゝ暫くの間、いろ\/なことを話しながら其の埃にまみれた古硯を見合つた。堂内は疊十枚敷いた正面の間と、その右手に四疊半の水屋風の爐を切つた小室とに仕切られてあつた。そして正面の楣間(*びかん)に矢張り「俳諧寺」と書かれた額が掲げられてあり、左手 の壁上に可成り大きな獻句の額が掲げられてあつた。しかも、その獻句の選者四人のうちに私達一行中の一人であつた春畦氏の名の見出されたのは、うれしかつた。
「あなたも選者の一人なんですね」かう私が春畦氏に話しかけると、脱俗的な風采の春畦氏にしてなほ且一寸得意さうな、且きまりわるさうな樣子を見せた。
葉の香、小鳥の啼く音、蝉の聲、うらゝかな日の光……私達はやゝしばらく堂内に腰を下して外景に見入りながら煙草を吸つた。


やがて私達は小丸山を下りて、再びもとの本道へ出たが、その時特に私の眼に此の高原の果てに立ち竝んでゐる莊嚴な山の姿が鮮やかに映じた。就中一番北に突立つた妙高山のまだ皺と云ふ皺が悉く白雪に埋れた姿が、最も嚴肅な感じを與へた。それと竝んだK姫、綱の二山も雪はもう消え盡してゐたが、しかし其の雄大な姿は、そこに傳へられた神秘的な傳説の氛圍氣に包まれて、望む者の心を肅然とさせるに充分であつた。そしてこの二山の間からは遠くかすかに戸隱の靈峯が其の奇怪な輪廓をのぞかしてゐた。更に南の方を望むと、四阿山がいかにも初夏らしい色 をした空高く聳えて居り、それを越えて雲の峯のやうに遠い淺間山の吐く眞白な煙がむく\/と立ちのぼるのが日にかゞやいて見られた。「さすが海拔二千六百尺の高原だけあつて、まるで空の色も空氣のCさも違ふぢやありませんか」と早川氏はリやかに云つた。
灰のやうな土埃の立つ本道を東南へ向つて歩いて行くと、左側に立ち竝んだ小さな家の前に七八人の子供が一群れになつて遊んでゐた。そしてその群から五六間離れたところに、一人だけ別になつて一人の男の子が仔犬を抱いてさびしさうに坐つてゐた。私達五人の一行のうち三人まで小學校の先生なので、到るところ不思議に子供に目をつけた。その時もたゞ一人群を離れた其の少年に心を留めたのは、矢張り先生達であつた(*原文「あつだ」)。わけて歌人として知られたC水氏が、眞先に口を切つて、
「どうですあの小一茶は!」
と云つた。その言葉に私達の間には、又しても少年時代の一茶の哀れな生活が想はれたり、話されたりした。道の右側の畑中には、さびしい白い色の林檎の花が、まだところ\〃/に咲き殘つてゐた。
小丸山から下りて一丁ほど來たと思ふあたりの右側に、一ところ年老いた杉の竝樹のつづいて ゐるところがあつた。そして左側には藁葺屋根の大きな寺があつた。
「これが一茶の家の菩提寺の妙專寺です」と春畦氏が云つた。
「妙專寺、妙專寺……」私はしばらく口の中でその寺の名を繰り返してゐた後で、
「妙專寺つて、その事の外に何か一茶と縁故のあつた寺ではないでせうか。何だか此の寺について重要な事があつたやうに思ひますが——」かう私は訊ねた。
「さうです。此の寺のお稚兒さんが河へ落ちて死んだのを悲しんだ一茶の文章があります。それぢやありませんか」と矢張り春畦氏が答へた。
「それです、それです」私の腦裡にも直にその事が想ひ浮べられた。

妙專寺のあこ法師、たか丸とて、ことし十一になりけるが、七月七日の天、うら\/とかすめるにめでて、六んりうといふ、太くたくましき荒法師を供して、荒井坂といふ所にまかりて芹薺など摘みて遊ぶ折から、綱おろしの雪解の水、Kけぶりたてゝ動々となりわたりて押し來りしに、いかがしたりけん、橋をふみはづしてたぶりと落ちたり。たのむ\/と呼はりて、こゝに頭出づると見れば、かしこに手を出して、たちまち其聲も蚊のなくやうに、遠ざかると見るを、この世の名殘として、いたましいかな、逆卷く波にまき込まれて影も容も 見えざりけり。あはれやと、村の人々打群りて炬をかゝげてさま\〃/介抱しけるに、空しき袂より蕗の薹三つ四つ、こぼれいでたるを見るにつけても、いつものごとくいそ\/かへりて家内へみやげのれうにととりしものならんとおもひやられて、鬼をひしぐ山人も、皆々袖をぞ絞りける。…(中略)…長々の月日雪の下にしのびたる蕗、蒲公英のたぐひ、やをら春吹風の時を得て、雪間々々をうれしげに首さしのべて(*原文「さしのべで」)、この世の明り見るや否や、ほつきりとつみきらるゝ草の身になりなば、鷹丸法師の親のごとく悲しまざらんや。草木國土悉皆成佛とかや、かれらも佛生(*ママ)得たるものになむ。

此の哀切な文章の輪廓を思ひ出すにつけても、私には其の寺が妙になつかしく眺められた。此の文章についての話から、私達の間には一茶その人の同情、愛と云ふやうな事がしみ\〃/した心持で語合された。
丁度その時、どこからともなく、カン、カン、カン、と云ふ鉦を打つやうな澄んださびしい何かしら金屬を打つ音が斷續して微に響いた。
「や、鳴つた。鳴つた」その音を聞くと等しく、C水氏はたまらなさうに叫んだ。
「何です、あの音は、實に佳い音ですね」かう私は應じた。
「あれが即ち此の土地の名物の鎌を打つ音です。佳い音ぢやありませんか。」とC水氏は重ねて云つた。
「秋の夕暮なんかに聞くとたまらなくなる音ですよ」
「まつたくいゝ音です」早川氏もかう調子を合せて置いて、「あれは信州鎌と云ひまして此邊特産の鎌を打つてゐるのです。信州鎌と云ひますと、全國に名高いものです」
鉦を打つよりももつと間のびのした、ゆるやかに鳴るその音、十ばかりつづいてははたと止め止んでは又つづく其の澄んだ金屬の音は、まつたく他處では聞かれぬ一種の哀調を帶びた獨特のものであつた。
「鎌を打つ音! 鎌を打つ音!」
私は幾度となく口の中で繰り返しながらそのさびしい槌の音に聞き入つた。


鎌を打つ音のこもらふ此の里の一茶の墓にまうでけるかも

これはその折のC水氏の詠懷であつた。


柏原は見るからさびれた古驛と云ふ感じのするところであつた。道幅も山間の村にしては不思議なほど廣く、家竝も町めいてとゝのひ家造りも大きくしつかりとして居り、わけても街道の片側に馬つなぎの爲めかと思はれる松竝木のつづいてゐるなど、いかにも堂々とした體裁を備へてゐた。しかも、すべてがさびれてゐた。すべてがさびしかつた。竝んでゐる大半は古びた板戸閉した家であつた。此のさびれた人影の稀な徒に廣い街道に立つて、その昔北國街道中山八宿の一として榮えてゐた此の驛の有樣や、又は加州侯參覲交代の折の本陣の光景や、宿驛傳馬繼立(*諸候の往来や交通・運搬用に人馬を用意すること。駅伝の制度による。)の問屋場であつたその當時の賑やかさを想像すると、何とも知れぬ一種の哀感をさへ覺えるのであつた。
私達は此の廣いさびしい街道の左側の松竝木に沿うて南の方へと歩いた。折から向うから可なり多勢の葬式の列が街道の眞中を練り歩いて來た。戸を閉した家々から二人三人と人が出てそれを拜んだ。やがて葬式の列が通り過ぎたあとから何處からともなく三人連れの皷女が、とある家の門口に現はれて、音の惡い三味線をひき流行おくれの磯節を唄つた。そこへ又七八人の大人や子供が集つて來て面白さうに耳を傾けた。すぐそこが村端らしく見えるあたりまで來ると、私達の眼に道の左側に立てられた細い標柱に「一茶遺跡—柏原年會」と書かれたのが認められた。 「こゝです、こゝです」と眞先に立つた春畦氏が、その標柱のあるそばの家を指した。それは矢張り入口だけを殘して全部表の板戸の閉された、(*原文句点)小さな、古い家であつた。柱も、板戸も、すべてが眞Kに古びてゐた。そして入口の柱には「豆腐油げ販賣」と書いた看板が懸けられてあつた。春畦氏はその入口に立つて、聲をかけた。軒下に遊んでゐた鼻をたらした三人の子供は、怪訝さうに私達を眺めてゐた。やがて、家の内部から齒をKく染め、頭に手拭を被つた四十格好の女の人が顔を出した。春畦氏が「こちらが一茶先生のお家でしたね」と訊ねると、婦人は唯「ハイ」と答へた。更に春畦氏が「それでは、御厄介でも裏の土藏を拜見させていただきたいのですが」と頼むと、婦人は矢張り「ハイ」とだけ答へた。そしてさつさと奧へ這入つてしまつた。
私達は春畦氏の後について、其の家の横の空地へ出た。家の裏は廣い畑で、一面に馬鈴薯が植ゑてあつた。その廣い畑の中に、住居から十間ほども離れて、名高い一茶終焉の土藏が立つてゐた。土藏と云つても、二間に三間ほどの荒壁のまゝの物置小屋と云つた方が適當であるやうな粗末な建物に過ぎなかつた。しかも、壁はところ\〃/剥げ落ちたり穴があいたりしてゐた。土藏の周圍には柴や萓などがうづ高く積んであつた。私達が近づくと其の蔭から背の曲つた一人の老婆が姿を現はした。それは矢張り此の家の老母らしかつた。
「この土藏が一茶さんのなくなられた土藏ですかね」と早速春畦氏が訊ねた。
「はい」と婆さんが答へて、「ひどい破れ土藏で」かう言ひ殘しながら、婆さんは住居の裏口から這入つて行つた。
一茶を可愛がつて育てたと云ふ祖母さんもあんな風だつたでせうね」婆さんの後姿を見送りながらC水氏は云つた。
土藏はひどく見すぼらしかつたが、あたりの景色は甚だよかつた。細道がだら\/下りに東の方へひろがつてゐる先には南北に連つた葉の丘が日光にかがやいて居り、それを越えて斑尾山が泰然と聳えてゐた。
「あの小山と斑尾山との間が野尻湖です」と白鳥氏が指した。
左手の方には重り合つた山々の上に、雪の消え殘つてゐる妙高山が空高く突立つてゐた。鶯の聲が遠くから聞えた。近くでは雀が囀つてゐた。時々どこかで鷄が啼いた。蛙の聲がそれらさまざまの聲を包んで漂うてゐる如く絶え間なしに聞えた。
一通り土藏の周圍を廻つてから私達はその入口の板戸を開けて見た。小さい窓が一つしか明いてゐない此の建物の内部は、殆んど眞暗であつた。藁やまぐさの積んであるだけが辛うじて見え た。
「よくこんな中に住んでゐられたものですね」かうC水氏が云つた、「此の入口から默々として出たり入つたりしてゐた一茶の樣子はどんなでしたらう」
「つまり此の戸は、幾度一茶の手で開けたりたてたりされたか解らぬ意味の深い戸であるといふわけですね」かう私は應じた。
一茶が此の土藏に住むやうになつたのは、文政十年六月一日の火事に遇つて住居を燒かれたからで、彼が家屋再建の企圖も空しく、つひに此の土藏の中の假住居のまゝ其の年の十一月十九日中風症の爲めに此の世を去つたのださうである。少年時代に於ける繼母の虐待、十四歳の時に江戸へ奉公に出されてから五十二歳に歸郷して初めて妻を迎へ家を成すまでの永い年月の間の放浪生活、父の死によつて釀された繼母及び義弟との間の忌はしい鬪爭、不幸な結婚生活、而もその慘ましい最後——一茶が六十五歳の生涯は、まことに此の世に稀な不幸な、悲痛な生涯であつた。而して彼の鋭雋なる心は、生涯を通じて此の世のあらゆる不正なるもの、不義なるもの、暴惡なるものに對する烈しい憎惡と反對に此の世のあらゆる正しきもの、Cきもの、弱きもの、憐れなるものに對する深く強き愛と、此の二面の激しい矛盾と鬪爭とを感じつづけた。此の人生に 對する憎と愛との鬪ひに彼くらゐ激しく動かされた人は、蓋し少いであらう。しかも、その慘ましい矛盾、激しい鬪ひの苦しみを深く感ずれば感ずるほど、そして更にそれがつひに彼みづから如何ともなし得ざる自己の無力を痛切に知れば知るほど、彼は結局一切を投げ出してしまふより外に仕方がなかつた。さう云ふ時彼は笑つた。眼の底に涙を滲ませながら笑つた。そしてその笑ひの聲が大きければ大きいほど、彼はそれによつて、いよ\/大らかに一種の解脱を感ずることを得たのであつた。
「何でも此の家が類燒にかゝつたとき、折あしく後妻が妊娠中だつたのでひどく氣を取り亂したさうですが、一茶は悠々と一人難を畑中に遁れて——螢火もあませばいやはやこれははや——とか云ふ句を吟じて火事を眺めてゐたと云ふことです」一行のうちで一番の一茶通と云はれた春畦氏が話した。
私達は聲を合せて笑つた。しかし、その時の私達の笑ひも、決してさう單純な笑ひではなかつた。私達は更にこのやうな建物の中で、燒け出されの不自由な生活のうちに死んで行つた一茶の臨終の、どんなものであつたらうかについてしみ\〃/話し合つたりした。

親のない子はどこでも知れる(*。)爪を咥へて門に立つと子供らに唄はるゝも心細く、大かたの人 交りもせずして裏の畠に木萓など積たる片陰に跼りて長の日をくらしぬ(*。)(*原文読点)我身ながら哀れなりけり。

我と來て遊べや親のない雀     六歳 彌太カ

かう自ら書いた一茶の幼少時代のことなども、あたりの風物に結びつけて私達の間に話し合された。
「それでも一茶の代には、住居はこれよりは少しはよかつたらしいぢやありませんか」
「さうだつたやうです。何でも初めは相當に生活も樂な方で、家なども可なり大きかつたと云ふ事です」
こんな事までも話された。
やがて私達はそこを去つて、再び街道へ出で、更に南の方一町足らずの右側にある老杉鬱蒼と茂つた諏訪神社の境内を訪れた。社は小さかつたが境内は隨分廣く、且平かであつた。昔は此の境内に常設舞臺があつて、時には板東三津五カ岩井半四カなどの名高い役者が來たことさへあると云ふことであるが、今は全く反對に、その靜寂訪るゝものを肅然たらしむるほどであつた。而してこゝも群を離れた孤獨の少年彌太カのさびしい遊び場所の一つであつたと傳へられる。此 の境内の入口に大きな一つの碑が建てられてあつた。正面には

一茶
松かげに寢てくふ六十餘州かな

と云ふ一茶の句が刻まれてあつた。それにも一茶の悲しみの極まつた大きな笑ひ聲が聞かれるやうな氣がした。
私達はしばらくその木蔭の石に腰かけて、煙草をくゆらしながら話した。


諏訪神社を出て、もと來た道を引きかへす途中で、又私達は先刻別れた此の地の小學校長の風間氏に出遇つた。
「あの家にまだ一茶の書いたものが少し殘つてゐますから、それを御目にかけたいと思つて來まして」かう風間氏は云つた。そして先刻私達の訪ねた一茶の家へ這入つたかと思ふと、やがて眞Kに煤けた手行李のやうなものを一つ持つて來て、
「こちらへどうぞ」と先に立つた。
そのあとから私達もつづいた。と家數の八九軒も過ぎたかと思はれた、とある一軒の前で風間 氏は立留つて、私達を顧み、
「どうぞこゝへ一寸お寄りくだすつて御覽ください」と云つた。
その家の店先の柱には「信濃鎌信用組合」と云ふ看板が掲げられてあつて、硝子戸を透して見ると、店が一寸した事務所風な體裁にしつらはれ、二十歳ぐらゐの男の人がただ獨り机に向つて算盤をはじいてゐた。風間氏の話によると、此の店に一茶の家の現主人小林彌太郎氏が出て居るのだが、今葬式に行つて不在であるとの事であつた。私達はその店へ上つて風間氏から渡された手行李の中のものを見せて貰ふ事にした。そしてそこに居た若い人の話によると、その手行李は一茶自身が絶えず所持してゐたもので、紙も自分で貼り澁も自分で塗つて造つたものだとの事であつた。第一に私達の手にとられたものは一幅の小さな掛物で、それは半紙に次のやうな句を書いた一茶の筆蹟であつた。


門口や上手に辷る節き候
(*節季候〔せ(っ)きぞろ〕: 師走にやって来る門付け芸人。)

せき候の尻の先なり角田川

せき候や七尺去つて小せき候
(*「七尺〔三尺〕去って師の影を踏まず」という諺を踏まえる。)
年六十もはやちくら流とてききらかしたれば(*ママ)

せめてもの足六十やとしの坂
あわ餅\/とて竝べけり

我門へ來さうにしたり配り餅

次に一茶の位牌を見た。杉板の表は、

法名文政十丁亥年
釋一茶不退位
霜月十九日

裏には「俗名彌太郎六十五歳」と書かれてあつた。その他に一茶の書いた「花嬌家集(*織本花嬌が前篇と後篇と二冊、假名書本の「正信念佛偈」に漢文で一茶の書き入れを施したもの一冊、文政十二年版の「一茶發句集」上下二冊、それだけが納めてあつた。
しみ\〃/した氣持でそれらの遺品を幾度となく手に取つて見廻した私達は、やがてそこを去つてもと來た道を、小丸山の端に建てられた村役場へと戻つた。そしてそこの二階で「信濃では月 と佛とおらが蕎麥」と一茶その人も、自慢したことのある其の名物の蕎麥の馳走に預つたのは、既に午後三時を過ぎた頃であつた。役場の二階から見たこのあたりの風景は、たまらなくよかつた。四方山で圍まれた高原のあちこちに葉がくれに散在する村々、妙高、K姫、綱、戸隱等の山々の雄大な風姿——初夏の天地は到るところ輝いて見えた。
「かう云ふ時候に來て見ますと、此處ほど佳いところはたんとあるまいと思はれますが、さて秋の末から春先までの四五箇月間の此の土地と來ては、それはどうも……」
と、早川氏が云つた。
どんな戸の隙間からでも吹き込むと云ふ吹雪の話、髭が氷ると云ふ話、寢て居ると夜具の襟にかゝつた息が朝起きて見ると堅く氷つて居ると云ふ話、深く積つた雪の中の隔絶したさびしい朝夕の話……さうした此の土地の冬の話がつぎ\/にめい\/の口から話された。「大の字にふんぞりかへる涼みかな」と云ふ一茶の句と、「これがまあつひの住家か雪五尺」「(*おくみ)なりに吹き込む雪や枕もと」などの彼の句の對照などについての話も出た。
「まつたくですよ」かう早川氏はその話を引きとつて、「私の身うちの子供たちなどが、夏こゝへ遊びに來ますと、こんな涼しい佳いところがあるだらうかなどと云つて喜びます。ですが、そ れだけの知識で柏原は住みいゝところだ、柏原に住んで居る人達はさぞよからうなどと斷定を下したりしては困ると思ひまして、必ずさう云ふ場合にこゝの冬の話をして聞かせます。出來ることなら一度冬の眞中に連れて來てやりたいとさへ思つて居ます」と云ふやうな暗示に富んだ話をされた。
こゝへ來た序でに野尻湖まで行つて來ようかと云ふ話も出たが、時間がありさうもないのでやめにして食後私達はこゝから十町ほど離れた赤澁村雲靈寺に一茶の少年時代の師であつた長月庵若翁(*堀若翁)の墓に詣でることにした。そこへの道は畑中をうねつて、西北の方向へと通じてゐた。到るところの畑の縁には、此の土地特産の甘茶の切株が若芽を吹いてゐた。道ばたにはヒメシヤガ、アヅマ菊、ルリ草などと云ふ見慣れない花が咲きつづいて居り、ところ\〃/にある畑中の未墾地にはクヌギや白樺の若葉が風にそよいでゐた。遠くからは閑古鳥のさびしい啼き聲さへ聞えた。時々鶯も啼いた。ただこんな所にさへ歐洲戰爭の影響をうけてカーバイト(*炭化カルシウム)の製造工場などが停車場に接近して出來て居て、それが絶え間なく眞白な粉塵やうのものを窓々から吐き出してゐるのが、時々私達の感興の上に影を投げた。
雲靈寺は暗い森中の幽靜な禪寺であつた。林間を通じてつけられた道の兩側に、ところどころ 稚拙な彫り方をした石佛が、いかにも人の善ささうな顔をして坐つてゐるのも不思議になつかしかつた。若翁の墓はさうした林間の道のわきの藪の中に建てられてゐた。


夕暮や蟲とかたれば散る木の葉

かう云つた一茶の句もその表に刻まれてあつた。それは一茶が恩師の訃を聞いて江戸から歸つて來て、こゝの墓に詣でた時の哀傷を吟じた句であつた。私達は墓前を離れてから、頻りに此の句の味ひについて語り合つた。夕ぐれがだん\/近づいて來るにつれて、山氣頓に肌に冷やかなるを覺えた。このやうな深い山の奧の、しかもあのやうな悲慘な家庭に育つた一茶が、斯く後代までも多數の人から、尊崇せられるやうになつた運命についても、今更のやうに私達は各自の感想を述べ合つた。そして彼が此の世にあつてしかく苦しみ、しかく悲しみ、時にはしかく嘲りさへもした彼自身の不幸な生活の遺跡が、むしろ今日では彼みづからの偉大を思はせる種とまでなつてゐる人生の矛盾についても、私達は語り合はないでは居られなかつた。

園原や、そのはらならぬはゝき木に住馴れし伏家(*「園原や伏屋に生ふる帚木のありとは見えてあはぬ君かな」〔『新古今集』坂上是則〕)を掃き出されしは、十四の年にこそありしが巣なし鳥のかなしみは、ただちに塒に迷ひ、そこの軒に露を凌ぎ、かしこの家陰に霜をふせぎあるは覺束なき山に迷ひ、聲をかぎりに呼子鳥答ふる松風さへもの淋しく、木の葉を敷 寢に夢を結び、又あやしの濱邊にくれ鋳ケ(*「呉織〔くれはとり〕」は「あや〔綾〕」を導く枕詞)、人もなぎさ(*原文「なきさ」)の汐風にからき命をひろひつゝ、苦しき月日を送るうちに、ふと諧〃しき夷振の俳諧を囀り覺ゆ。折から敷島の道の盛なる時に大木の蔭頼母しく立寄りて、十日、二十日の勞を休むるに至れど、これもおのが家にあらねばよきに惡しきに心をつかふものから、今迄に兎も角もなるべき身(*死んでもおかしくないわが身)を、不思議に今年六十二の春を迎へぬるとは、げに\/盲龜の浮木にあひたる喜びにまさりなむ。されば無能無才もなかなか齡を延る導になむありける(*このあたり「笈の小文」を踏まえるか)


春たつや愚の上に又愚にかへる

良寛和尚も一茶翁も、自ら呼ぶに愚を以てした點は同じであつたと云ふ事も、その時私は話した。しかしどちらかと云へば一茶の方が愚直を稱せられるに一層適してゐたやうに思はれた。良寛は愚直に極まつて最も聰明な心を得た。しかし、一茶は生涯愚直を以て人間の世に即しつづけた。愛と憎との激しい鬪ひを心の内に經驗しつづけた。彼の藝術は此の苦しみから生れた。此の鬪ひ、此の苦しみを藝術として表現することによつてのみ、一茶はその鬪ひと、苦しみとから離脱し、救はれることが出來た。一茶の藝術は苦しみの藝術であり、實感の藝術であつた。而もその苦しみを藝術化し、實感を藝術化する——その事それみづからが、その事のみが彼自身の救ひ であり、解脱であつた。而して彼に此の道を教へたものは、一は彼みづからの藝術家的の天分によつたとは云へ、矢張りそれは俳諧の道のお蔭であつた。要するに彼は愚直なる苦しみの人であり、つひに悟り得ざる人であつた。しかし、同時に苦しみの人であり悟り得ざる人であつたが故に、彼の藝術があり得たのであつた。
愛憎の人一茶、愚直の人一茶、而して苦しみの人一茶——さう云ふ呼び方を以て、私は幾度か一茶を呼んで見た。更に良寛和尚の聯想は、私の心に嘗て讀んだことのある沼波瓊音氏の一茶論(*『俳諧寺一茶』所収の「一茶翁の特色」を指すか。)中の一茶の動植物に對する愛と、良寛のそれとの比較を想ひ出させた。


痩蛙まけるな一茶こゝ(*ママ)にあり

やれ打つな蠅が手をする(*ママ)足をする
(*『俳諧寺一茶』中の沼波瓊音の文章でも「手をする」になっている。)

蚤どもが嘸夜長だろ淋しかろ

寢返りをするぞそこのけきり\〃/す

蝸牛壁をこわして遊ばせん

かうした一茶の句の味はひと、縁の下から出た筍(*「縁の下の筍」は「うだつがあがらない人」の比喩もあるらしい。)の爲めに床を破り天井を破つてくれたり、蚤やしらみを大事に飼つてやつたり、わざ\/蚊帳から足を出して蚊に與へたりしてゐたと云ふの逸話の味はひとを比べて考へることは、私にはたまらなくうれしい事であつた。
こんな風に夕ぐれの冷やかさの刻一刻肌に沁みて來る高原の畑中の細道を、私達はいろ\/な事を話したり、考へたりしながら辿りつゝいつの間にか停車場に來た。そしてそれから一時間も經たぬうちに、私一人は北へ、その他の人々は南へと別れた。車窓から眺めた柏原の里は、又格別に懷しさを感じさせた。妙高、K姫、綱の山々は、もう夜の沈默の色を帶びつゝあつた。


鎌を打つ音のこもらふ此の里の一茶の墓にまうでけるかも

先刻のC水氏の歌が、しみ\〃/と胸に浮んで來た。
「よう伸びたのう、せい\〃/良い作をとつておくれよう」
雲靈寺からの道すがら、道ばたの苗代田に働いてゐた女の人に向つて、かう呼びかけて通り過ぎた先刻の早川氏の言葉の調子までが、不思議になつかしく耳に殘つてゐるやうな氣がした。


一茶雜感



私の數少い藏幅の中に俳諧寺一茶の手紙が一通ある。それは或る山の中の村の禪寺の隱居和尚が愛藏してゐたのを讓り受けたのである。そして文面は左の如くである。

ことしは暖かき冬至に候へば御安C奉察候(*。)此邊は草履のから\/道に候(*。)貴方は氷のかん\/道なるや(*。)何にもせよあたたかにてくらしよく奉存候(*。)されば私の雪沓を直藏さま御仕まひ置被下候(*。)其節御頼み申上候へども又候(*またぞろ)申上候(*。)其沓竝よりは大ぶりにて出來合には不有候(*。)四五日前よりあつらへ不申候ては出來不仕候(*。)餘りに急にてこまり候間何とぞ人のはかざる所へ御隱しおき被下候樣奉願上候(*。)右申入度(*。)かしこ
    閏十一月十日
かしは原の古巣をおもふ

我庵は夢に見てさへ寒かな
雲居さま
きにげ(*ママ)  一茶

なほそれを卷いて外へ出る端のところに、「古間驛、小林庄吉カ樣、善光寺 一茶」と書いてある。
一茶の傳記に關する資料として此の手紙についてのいろ\/な考證は別として、私には此の短い一通の手紙の中に一茶その人の面目の躍如としてゐるのが甚だ面白く感じられるのである。就中人の許に預けて置いた自分の雪沓の別あつらへであることをげふ\/しく(*ぎゃうぎゃうしく)述べ立て、更にそれを人のはかないやうな場所に隱して置いてくれとまで頼んであるあたりは、一見ひねくれて居るかの如くして、實は極めて子供らしい彼の性格が鮮やかに投げ出されてゐて、微笑なしには讀むことの出來ない所がある。
一茶の世間觀にはたしかに一種のひがみがあり拗ねたところがあつた。しかし、それには聊かも冷やかな理性の陰影がなかつた。それはむしろ常に彼れの性格の單純と子供らしい正直から來たものであつた。隨つてそれには常に明るい愛らしさが附きまとうて居た。いかほどひがんでもいかほど拗ねても、彼れは常に人生の肯定者であつた。彼れの藝術が私達の心を惹きつける第一の理由は、その基調が存するにあるのだとおもふ。
此の手紙を讀んで、誰かそのうちに憎むべき意地惡さなどを感ずるものがあらうぞ、(*。)そこには憎むべき利己心の寸影だに認めることが出來ないばかりでなく、むしろ反對にその甚だ愛すべき子供らしさによつて快い微笑にさへ誘はれるのである。
更に「此邊は草履のから\/道に候貴方は氷のかん\/道なるや」の數文字に至つては、自然に對する感じを捉へるに敏活な彼れの藝術的表現力がいみじくも閃いてゐる。
「其節御禮申上候へ共又候申上候」の「又候」の二字の使ひ方なども、ひどく面白い。
私は毎年雪が降り積つて自分も雪沓を穿かなくてはならぬ頃になると、きまつて此の一茶の一軸を壁にかけては、わびしい冬籠りの慰めの一つとしてゐる。


一茶の文章の中にこんなのがある。

布施東海寺に詣でけるに、鷄どもの跡したひぬることの不便さに、門前の家によりて米一合ばかり買ひて、菫たんぽゝのほとりにちらしけるを、やがて仲間喧嘩をいくところにもはじめたり、(*。)其うち梢より鳩すずめばら\/飛び來りて、こゝろしづかにくらひつゝ、鷄の來る時小ばやくもとの梢へ逃去りぬ。鳩雀は蹴合の長かれかしとや思ふらん。士農工商その外さ ま\〃/のなりはひ皆かくの通り。

米蒔も罪ぞよ鷄は蹴合ふぞよ

微笑を禁じ得ない好文章である。書かれてゐる事柄には無論面白味があるけれども、私はそれよりもさうした光景を眺めてゐた一茶その人の態度により多くの興味をおぼえる。初めは自分のあとを慕うて寄つて來た鷄をふびんに思ふあまり米を買つて蒔き與へて置きながら、その米がもとで鷄が仲間喧嘩を始めたのを面白がつて傍觀したり、鳩や雀が隙をねらつて心しづかに鷄に與へられた米を喰つてゐるのを追ひもせずに眺め樂んだりしてゐた——その一茶の心持が、寧ろ面白く感じられるのである。「喧嘩はよせ、なぜ仲よく食はないのだ」といつた調子でその場合鷄に喧嘩をやめさせようと騷ぎ廻つたり、「おいそれは鷄にやつた米だぞ、きさまたちはあつちへ行つて居れ」と云つた風に其の場合鳩や雀を追ひまくつたりせずに、ただもう何といふことなしにその場の光景を眺め入つてゐたところいかにも一茶の一茶らしいところがある。そして何もかも見終つてから「士農工商その外さま\〃/のなりはひ皆その通り」などと毒のない捨てぜりふを殘してもぞ\/其の場を立ち去つて行く一茶その人の姿までが、私には面白く想像される。繼母や異母弟と彼との關係などに最もよく現はれてゐる馬鹿々々しいほどに我執の強い一茶と、かう した場合の一茶とを比べて考へて見ると、更に一層興味が深い。


「美しい花と雜草とは一つ畑では育たない」といふやうな事が吉田絃二郎氏の文章の中に書いてあつた。いかにもさうであらう。しかし、雜草すらも育たないやうなところには、美しい花も亦育たない——それも爭へない事實である。肥えた土にはよい草もよく育つと同時に、雜草も亦よく育つ。「美しい一本の花を完全に育て上げるためには、數十本、數百本の雜草を刈り取らなければならぬ」といふやうな事も前の句と同じ文章の中に書いてあつた。それも成程とうなづけないこともない。しかし、その所謂「美しい花」とは、何だか勸賞用に栽培する或特殊の花でもさして居るやうに思はれてならない。心して眺むればどんな花にも美しさがある。美しい花は雜草にも咲く。「ソロモンの榮華の極みだに此の花の一つ(*に)だに如かざりき。」とその昔聖者によつて讃へられたのは、數十本數百本の雜草を刈り取つて、培はれた花園のそれではなくして、雜草の繁みの中につゝましく咲いてゐる野の百合のそれではなかつたか。「美しい花と雜草とは一つ畑で育たない」どころか、最も美しい花が雜草の繁みの中に咲いてゐる。それがむしろ自然の妙趣の存するところではないか。


一茶勸農詞と題する誠に以て殊勝な心懸けを説いた文章がある。「風流を樂む花園ならで後の畑前の田の物作りに志し、自ら鍬を採つて耕し、先祖の賜と親の命に懇を盡し、吉野の櫻、更級の月よりもおのが業こそ樂しけれ。朝夕、心をとどめて打むかふ菜種の花は井出の山吹よりも好もしく、麥の穗の色は牡丹芍藥より腹ごたへありと覺ゆ。」とか、「田地は萬物の根元にて國家の主寶なれば、父母の如く敬ひ、主君の如く尊み、妻子の如くいつくしみ、寸地をも捨てず、何處にても鍬先の天下泰平五穀成就願ふより外更になし。」とかいふやうな有りがたい御談義めいた言葉が澤山ならべられてゐる。農家の教訓としてはまことに絶好の名文である。田舍廻りの書家の中によく一茶の此の文章を書いて農村の人々に賣りつける者のあるのも無理はない。
ところで、一茶自身はどうかといふと、少年時代の五六年間を手に鍬や鎌を持つて働かされたことがあるだけで、自ら進んでさうした殊勝な心がけで農業生活を營んだやうなことは、生涯に一度もなかつたらしい。しかし、それだからといつて一茶が此のやうな文章を書いたことを矛盾よばはりすることも出來ない。一茶自身もさうした矛盾などはさほど苦にしてゐなかつたであらう。一茶はやはりあのやうな一茶であつた方が彼自身のためにも、亦彼以外の人々のためにもよ かつたのである。


一茶全集を取り出して讀む度に、いつも一種の驚きを感じさせられるのは「父終焉の記」の一篇である。あの人にして此の文章がと思はれるほどに、その一篇はしみ\〃/としたものである。その日記は享和元年四月廿三日に始つて、同年五月二十八日に終つてゐる。五月七日の條にこんな事が書いてある。

七日。リ。
仙六(一茶の異母弟)は藥を請ひに善光寺に行く。
夏の日のつれ\〃/におはしければ、何ぞ喰うべたきと問ひまゐらせたれども、穀のたぐひしか\〃/と好みたまはねば、梨一つまゐらせたく思へども、みすずかる信濃の不自由なる我里は、葉がくれ雪の白じろ殘るばかり、野もせ山もせ夏尚寒き風の吹くのみなりき。梅賣る人の聲の門に聞ゆれば、梅たうべたきとむつかり玉へど毒なりと參らせず。あはれいつの日か毒斷のなき人にして見まほしく、掌の物とるごとく心は矢竹に騷げども、うつらうつらと首おもたげに見え給ふぞあぢきなき有樣なり。

更にそれから二日隔てた五月十日の條に、

十日。リ。
頻りにありのみをたうべたきとむつかりたまへばこの邊のゆかりあるもなきも親しき限り富たる家心あたりある門、聞きつくし尋捜し盡すといへども、ありのみ一つたくはへたる人としなく、夏さへ淋しき山里なりき。けふはわけてのたまふなれば善光寺へ行かまほしく、曉に支度して門を出けるに、皐月の空もほの\〃/リれて白雪ははた山にあるからに、葉がくれの花は春を殘して、種蒔の山人などなつかしく、時鳥の三聲一聲もこよなく時めく空なるに、なじかは心リれぬ曙なりけり。卯の下刻牟禮てふ驛に至るに、這はそのかみ一茶江戸へおもむける日、父の翁見送り玉ひし里なりけるが、今は廿四年のむかしことなりき。川の音坂の影もほのかにこゝろ覺えありて何となく嬉しけれど、人は知らぬ顔のみとなりけり。

こんな風にしてはる\〃/七里の坂道を辿り、病父の求める梨の實一つが欲しさにやるせない思を抱いて善光寺の町まで出かけたのであるが、彼はつひにそこにも片割れ一つ得ることが出來ないのであつた。

昔雪中に筍を堀り(*ママ)氷上に魚を求めしためしもあるに、我梨一つ得るあたはざるは、皇天我を 捨て玉ふかや佛神我を見限り玉ふかや、一世ばかりの不孝にはあらじ、父はさぞ梨を待ち居玉はんや、このままに歸りて父を何と慰めんやと思へば、胸遄きふさがりて、忍び落る泪は大道を潤ほし、往き來の人の狂者と笑はんも耻かしく、暫く手を組み首をうなだれて心を沈めける。この地にもなき物いづ地にかあらん。只一足も早く戻りて藥ばし進め奉らんと手を空しうして吉田てふ里に來たれるに、木立の山鴉三ツ四ツ我を見ては聲を立つるに、何となく父の身の上の心にかゝり息つきあへず足をはやめしほどに、日影は八ツ時といふ頃宿に戻る。

その時一茶は既に三十九歳であつた。三十九歳の一茶がこのやうにして病父のほしがる梨一つの爲めに七里の坂道を泣くやうな思ひで一日のうちに往復したりしたことを思ふと、全く涙ぐましくなる。
私は汽車に乘つてあのあたりを通る時に、そここゝの山路を眺めながら、よく此の一茶の梨買ひの話をおもひ出す。
洒脱は決して一茶の全面目ではなかつた。「兎も角もあなたまかせの年の暮」と投げ出すまでの一茶の惱みは、かうした愚にして純なる情の人のみの經驗する尊い惱みに外ならなかつたであ らう。いづれにしても一茶といふ人を知る上には、此の「父終焉の記」の一篇は最も貴重な文獻の一つだと私は思つてゐる。


一茶良寛より七年おそく生れて、六年さきに死んだ。此の二人は六十五年間を一つ此の世に住んでゐた。國を隣りにして生れ、六十五年間も同じ世に生きて居た此の二人の詩人が、生前つひに一度も逢ふ機會を得なかつたことは、むしろ不思議である。
一茶良寛——此の二人が若し知り合つたとしたら、その交りはどうであつたらう。私はよくそんなことまで空想して見る。いつか此の二人者を比較して見たいものだとも思つてゐる。


一茶の「おらが春」の中にこんな事が書いてある。私の好きな文章の一つである。

正月元日の夜の丑刻よりはじまりて、打ちつづき八日目々々々に天に音樂あるといふ事、誰言ふともなく言ひ觸らして、いつ\/の夜、そんじよそこらにて、しかと聞きしといふ人もあり。また吹く風のあとなし事とけなす者もあり。其の噂東西南北にぱつと弘がりぬ。つらつら思ふに、全く有りと信じ難く、又ひたすら無しとかたづけ難し。天地不思議のなせるわ ざにていにしへ甘露を降らせ、乙女の天下りて舞ひしためしなきにあらず、今此の天下泰平に感じて、天上の人も腹鼓うち、俳優(*わざをぎ)して樂しむならめ、それを聞き得ざるは、其の身の罪のほどに因るべし。何にまれ惡しからぬ取沙汰なりと、三月十九日夕過ぎより、誰れ彼れ我庵につどひて、おのおの息をこらして、今や今やと待つうち、夜はしら\/開けて、窓の梅の木に一聲あり。

今の世も鳥は法華經啼きにけり

いかにもそれは興味深い經驗であつたらうと微笑せずにはゐられぬ。
これとは少し趣は異つてゐるが、私にもそれに一寸似た經驗がある。それは私たちの幼い頃、たしかな日は忘れたが何でも毎年八月の幾日かの夜、龍宮から御燈明がK姫山の神樣へ捧げられると云ふ事が、このあたりの一般の人の迷信となつてゐた。その晩には龍宮からの使が海の果から現はれて、空の上を通つてK姫の頂まで行く。その赤い燈明があり\/と見える。かう云ふので、私達は毎年その晩に濱へ出てそれを拜む爲めに夜を更かしたものであつた。
けれども、どうしたものか、私たちは一度もそれらしいものを見たことがなかつた。見たことはなかつたが、私たちは決してその眞實を疑はなかつた。單にその眞實を疑はなかつたばかりで なく、その夜は何となくいつもと氣持が違つてゐた。日頃そんなに氣をとめて見なかつた星の美しさが、不思議とその晩には感じられた。流星の神秘にも私たちはその事のおかげで心を寄せた。少年時代の夢の世界が、その爲めにどんなに豐富にされたかわからない。
そんな迷信も今日では全くなくなつてしまつた。但しそれがいゝ事であるか、惡い事であるか私たちには俄に判斷する事が出來ない。


俳諧寺一茶の「おらが春」の最後の一章にこんな事が書いてある。

他力信心々々と、一向に他力に力を入れて頼み候輩は、遂に他力繩に縛られて、自力地獄の焰の中へほたんと陷り候。其の次に、かかるきたなき土凡夫を、うつくしき黄金の膚になし下されと、阿彌陀佛に押し誂へばなしにして置て、はや五體は佛染みなりたるやうにわる濟ましなるも、自力の張本人たるべく候。問ひて曰く、如何やうに心得たらんには御流儀に叶ひ侍りなん。答へて曰く、唯だ自力他力なんのかのといふ、あくたもくたを、さらりとちくらが沖へ流して、さて後生の一大事は其身を如來の御前に投げ出して、地獄なりとも極樂なりとも、あなた樣の御はからひ次第、遊ばさり下されませ(*ママ。後出「遊ばされ下さりませ」)と御頼み申すばかりなり。斯くの 如く決定しての上には、南無阿彌陀佛といふ口の下より欲の網をはるの野に、手長鰕の行ひして人の目をかすめ、世渡る雁のかりそめにも、わが田へ水を引く盜み心をゆめ\/持つべからず、然る時はあながち作り聲して念佛申すに及ばず。願はずとも佛は守りたまふべし。是れ即ち當流に安心とは申すなり。穴かしこ。

ともかくもあなたまかせの年の暮

一茶はまたこんな事をも書いてゐる。

御佛は曉の星の光に四十九年の非をさとり給ふとかや。荒凡夫のおのれごとき、五十九年が間、闇きよりくらきに迷ひて、はるかに照す月影さへ頼むほどのちからなく、たま\/非をあらためんとすれば、暗々然として盲の書をよみ蹇の踊らんとするに等しく、ます\/迷ひにまよひを重ねぬ。げにげに諺にいふ通り、愚につける藥もあらざれば、なほ行末も愚にして愚のかはらぬ世を經べき(*原文「經べぎ」)ことをねがふのみ。

一茶の此の日記の中での告白について荻原井泉水氏は嘗てこんな風に云つた。

一茶と云へば其の作に滑稽洒脱な味ひの多い事から、其の性格も普通には物に執着のない樂天的な風流人のやうに想像せられてゐるが、事實は之れに反しては非常に執着心の強い物 事に綿密な性情であつた。此事は七番日記や其他の遺稿を研究する者には明らかで、一茶の詳傳(*『俳諧寺一茶』)を書いた故束松露香氏も其事を指摘してゐる。一茶は其執着心の爲めに、繼母及び義弟とは數年に亙る大きな爭をしたり、郷黨ともそりが合はぬ所があつた。「五十九年が間暗きより暗きに迷ひて」とか「たま\/非を改めんとすれば」とか云ふ言葉の内容は推察する事は出來ぬけれども、一茶は自分の性癖ともいふべき我執から、その我執を張つた後には暗い氣分に襲はれてゐたのであるまいか、と思はれる。年六十にして自分が過去の生き方を總覽する時、の胸には深い感慨があつたに相違ない。然かもなほ「行末も愚にして愚かのかはらぬ世を經べき事をねがふのみ」と云つてゐる。之はあきらめのやうな言葉だけれども、あきらめるといふ心持よりも、寧ろ、やつぱり有るが儘の自分として生きようといふ心持であるらしく思はれる。

これは深い理解をもつた觀方である。いかにも一茶は執着の深い性情の人であつたらしい。そしてその強い執着心ゆゑに絶えず苦しみつづけた人であつたらしい。その執着心ゆゑに彼は繼母とも相容れず、義弟とも爭つた。その執着心ゆゑに彼は故郷の人々とも和することが出來ず、當時の俳壇とも和することが出來なかつた。その執着心ゆゑに彼は或時に別れた妻を呪ひ、或時は 愛兒の死を悲しむあまりその乳親を人面獸心と罵り惡鬼の如く憎んだりした。
けれども一茶のその執着心には憎むべき意地惡さがなかつた。それには思はくとか策略とか云ふものが伴はなかつた。彼の執着心はいつまでも幼さを失はなかつた。隨つて彼の憎みも、訴へも、悲しみも、凡ては幼兒のそれの如くであつた。しかも亦彼はその執着ゆゑに進んで自ら戰ふといふほどに強い意志の人でもなかつた。寧ろ彼は憎めば憎むほど、悲しめば悲しむほど、ますます深く自己の内に苦しむ人であつた。更に又理智の人でなかつた彼は、退きながらも世を白眼視したり、茶化したり、冷嘲したりして、自ら快しとするやうな事の出來ない人でもあつた。さうかと云つて彼は一切の現實を忘れて自らの空想の世界を唯一の樂土として遊んでゐることの出來るやうな所謂風流人でもなかつた。
一茶といふ人は要するに、弱く且愚な情の人であつた。しかも、極めて幼い、そして極めて純眞な情の人であつた。

こぞの夏竹植る日のころ、うき節しげき世に生れたる娘おろかにして、ものにさとかれとて名をさととよぶ。ことし誕生祝ふころほひより、てうち\/あはゝ、天窓てん\/、かぶりかぶりふりながら、おなじき子供の風車といふものをもてるを、しきりにほしがりてむづか りければ、とみにとらせける。やがて、むしや\/しやぶつて捨て、露ほどの執念なく、直に外のものにこゝろ移りて、そこらにある茶碗を折破りつゝ、それも直に倦て、障子の薄紙をめり\/とむしるに、よくした\/と譽れば誠と思ひ、きやら\/笑ひてひたむしりにむしりぬ。心のうち一點の塵もなく、名月のきら\/しくCく見ゆれば、跡なき俳優を見るやうに、なか\/心の皺を伸しぬ。又人の來りてわん\/はどこにと云へば、犬に指さし、かあ\/はどこにといへば鴉に指さすさま、口もとより爪先までも愛敬こぼれてあいらしくいはば春のはつ草に胡蝶のたはむるよりやさしくなん覺え侍る。……(中略)……かく日すがらを、しかの角のつかのまも手足をうごかさずといふことなくて、遊び疲れるものから、朝は日のたけるまでねぶる。その中ばかり母は正月と思ひ、焚そこらかたづけて、團扇ひら\/汗をさまして、閨に泣聲のするを目のさめる相圖とさだめ、手かしこく抱き起して、うらの畠に尿やりて、乳房あてがへば、すはすは吸ひながら胸板のあたりを打たゝきて、にこ\/笑顔をつくるに、母は長く胎内の苦も、日々襁褓の穢らしきも、ほと\/わすれて、衣のうら玉を得たるやうになでさすりて、ひとしほ喜ぶ有樣なりけらし。

蚤の跡かぞへながらに添乳かな

何と云ふ純眞な愛情の表白であらう。しかも一面に於てかくまでに温かな愛の歡びに浸ることの出來た彼は、却てその純眞ゆゑに他方に於てそれとは反對に驚くべき憎しみや悲しみの擒ともなるのであつた。

女子と小人は養ひがたく、遠ざくれば妬み、近づくれば不遜と、さすがの聖人、溜息してあぐみ玉ふと見えたり。況して末世に於てをや。老妻菊女といふもの片葉の芦の片意地強く、己が身のたしなみになるべきことを、人の教ふれば、うはの空吹風のやかましとのみ、露々守らざるものから、小兒二人共に非業の命失ひぬ。此度は三度目に當れば、又前の通りならんと、いとど不便さに磐石の立るに等しく、雨風さへ事ともせずして、母に押しつぶさるゝ事なく、したゝか長壽せよと赤子を石太カとなん呼はりける。母に示していふ、此さざれ石百日餘りも經て百貫目の堅石となるまで、必ずよ、背に負ふ事なかれと、日に千度誡めけるを、如何したりけん生れて九十六日といふ今日、朝とく背おひて負ひ殺しぬ。あはれ今迄嬉しげに笑ひたるも、手の裏返さぬうち、苦々しき死顔を見るとは、思へば石と祝したるは仇し野の墓印にぞありける。かく災ひにわざはひ累ぬるは、如何なる過去の業因にや。

何と云ふ愚かな悲しみ、何といふ愚かな憎しみであらう。

此女、乳房を見するを嫌ひて、小兒の頭を懷に深く入れて、乳を呑まする眞似して、やがて口に水をあてがふ業なれば、不思議にも男の乳のやうに平たく、乳房らしき氣はひ、ひたすらあらず、さてこそ知れ、始より乳の代りに水をのまするをひしとつゝみ、只腹下るとのみいひて、今はたゞ白く赤らみたる肉と血とのみ下すなんめり。如何に人面獸心の富右衞門なればとて、此樣にむごくなさけなく振舞ひしと、みな\/涙おろ\/とさすりぬ。きやつ、金を貪るばかりにてなせるにや、何ぞ怨める筋ありて致せりや。風上に置くも怖ろしやなん。

これまでになると、彼の愚かさはもう其の極點を示してゐるとさへ思はれる。
彼の喜びも悲しみも愛も憎もこのやうにあまりに幼く、あまりに純眞で、時にはそれはあまりに愚かであつた。そして彼自らもそれを知つてゐた。しかも、彼にはそれをどうすることも出來なかつた。「五十九年が間、闇きよりくらきに迷ひて」と云ひ、「たま\/非を改めんとすれば暗々然として盲の書を讀み蹇の踊らんとするに等しく迷ひにまよひを重ね」と云ふ、それは彼自ら知り、彼自ら鞭うつ言葉に外ならなかつた。しかし、自らそのやうに知りつゝも、彼にはそれがどうにもならなかつた。
かくして、歡び、悲しみ、愛し、憎み、そして絶えず迷ひ苦しみつづけた彼は、結局その愚かな自分をそのまゝ大自然の前へ投げ出すより外に仕樣がなかつた。

自力他力なんのかのといふ、あくたもくたを、さらりと、ちくらが沖へ流して、さて後生の一大事は其の身を如來の御前に投げ出して、地獄なりとも極樂なりとも、あなた樣の御はからひ次第、遊ばされ下さりませと御頼み申すばかりなり。

しかし、これは決して謂ふところの(*いわゆる)自棄ではなかつた。捨て鉢ではなかつた。又決して謂ふとっころの諦めでもなかつた。それは實に自らの眞實を極め、自らの弱きに徹した刹那に於て彼に與へられた、不可思議な絶對歸依の心境であつた。それは一切を捧げて大地にひれ伏したやうな心境であつた。「一茶は幼少の頃から家庭の嶮しい冷たい空氣に虐げられて、死ぬまで、人間らしく苦しみ續けた人である。其の苦しみから救はれる爲に、自然の愛に縋つたのである」とは井泉水氏の評語であるが、そのやうに「苦しみから救はれる」といふやうな念慮すらも無かつたのが一茶の心境の貴いところではないかと私は思ふ。「救はれる」とか、「救はれない」とか云ふ事を問題としてゐる人々を一茶は寧ろ斥けてゐた。彼にとりては何よりも彼自らの煩惱、彼自らの愚かさが問題であつた。しかも彼はつひにその煩惱、その愚かさを如何ともすることの出來ない 自分を拔いたのであつた。そして其の煩惱の痛感に徹したのであつた。「地獄なりとも極樂なりともあなた樣の御はからひ次第遊ばされ下さりませ」と云ふ彼の言葉は、その時始めておのづから彼の心の底より叫ばれたのであつた。
なるほど結果から見れば一茶はそのやうにして救はれたのである。しかし、一茶の方からすれば、「救はれる」と云ふ事が問題ではなかつた。むしろ救はれない自分、どうにもならない煩惱——それの痛感が彼にとりて凡てであつた。しかもその痛感に徹した時、期せずして彼のたましひの上に不思議な安らかさが得られたのであつた。そしてつひに彼は、

然る時は、あながち作り聲して念佛申すに及ばず、願はずとも佛は守りたまふべし。これ即ち當流に安心とは申すなり。

と云ふ積極的な信念をさへ持ち得るやうになつたのである。
けれども一茶のかうした心持が、謂ふところの「どうともなれ」の心持でなかつた事は、また云ふまでもないことである。それは決して謂ふところの捨て鉢の氣持などではなかつた。捨て鉢の氣持はまだ對他的である。晩年の一茶はもうさうした對他的な境界を、遙かに脱してゐた。他人のことや、世間のことよりも、寧ろ彼自らの愚かさの痛感が彼の心に一ぱいになつてゐた。彼 は此の自らの愚かさの痛感に徹してつひに一切を擧げて大地にひれ伏したのであつた。そしてそこに始めて不思議な心の安らかさを得たのであつた。晩年の一茶は永い年月の間呪ひつづけてゐた故郷に歸臥し、惡鬼の如く憎んで來た繼母や義弟とすらもいつとはなしに親しむことの出來る好々爺になつてゐたのであつた。
かくの如くして一茶のたましひは最後の靜けさと安らかさを得た。ながい年月に亙つて誌された一茶の日記は、かの有名な「七番日記」だけを見ても知らるゝ如く、それは殆んど類例のないほどの綿密なものである。しかもこのやうに驚くべき綿密な日記を永年の間書きつづけたほどの彼でありながら、最後の彼は一言の遺言も、一句の辭世すらも殘さない彼であつた。それについて彼の歿後二年にして成つた一茶句集(*俳諧寺社中編『一茶発句集』〔文政12〕)の序文に左の如く書かれてゐる。

文政丁亥の冬、身まかれて(*ママ)後、教を請けし人々、遠き境までも、最寄\/に(*手近の者に)云ひ傳へ、早くも驅け集まりて、殘れる人に物問ふに、云ひ置ける一言もなく、又殘し置ける一物もなし。

一茶の最後は實にこの通りさつぱりしたものであつた。彼はこのやうにしてつひに文字通り裸のまゝで大自然の前に一身を投げ出したのであつた。

(一茶に関する章 <了>)