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澀江抽齋 その三十六〜その四十二

鴎外選集8(東京堂 1949.9.25)

 1〜9  10〜24  25〜28  29〜35  36〜42  43〜      

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その三十六
森枳園は大磯で醫業が流行するやうになつて、生活に餘裕も出來たので、時々江戸へ出た。そして其度毎に一週間位は澀江の家に舍ることになつてゐた。枳園の形裝は决して曾て夜逃をした土地へ、忍びやかに立ち入る人とは見えなかつた。保さんの記憶してゐる五百の話によるに、枳園はお召縮緬の衣を着て、海老鞘の脇指を差し、歩くに褄を取つて、剥身絞の褌を見せてゐた。若し人がその七代目團十郎を贔屓にするのを知つてゐて、成田屋と聲を掛けると、枳園は立ち止まつて見えをしたさうである。そして當時の枳園はもう四十男であつた。尤もお召縮緬を着たのは、強ち奢侈と見るべきではあるまい。一反二分一朱か二分二朱であつたと云ふから、着ようと思へば着られたのであらうと、保さんが云ふ。
枳園の來て舍る頃に、抽齋の許にろくと云ふ女中がゐた。ろく五百が藤堂家にゐた時から使つたもので、抽齋に嫁するに及んで、それを連れて來たのである。枳園は來り舍る毎に、此女を追ひ廻してゐたが、とう\/或日逃げる女を捉へようとして大行燈を覆し、疊を油だらけにした。五百は戲に絶交の詩を作つて枳園に贈つた。當時ろくを揶揄ふものは枳園のみでなく、豐芥子も訪ねて來る毎にこれに戲れた。しかしろくは間もなく澀江氏の世話で人に嫁した。
枳園は又當時纔に二十歳を踰えた抽齋の長男恒善の、所謂おとなし過ぎるのを見て、度々吉原へ連れて往かうとした。しかし恒善は聽かなかつた。枳園は意を五百に明かし、の默許と云ふを以て恒善を動さうとした。しかし五百が吉原に往くことを罪惡としてゐるのを知つてゐて、恒善を放ち遣ることが出來ない。そこで五百は幾たびか枳園と論爭したさうである。
枳園が此の如くにして屡江戸に出たのは、遊びに出たのではなかつた。故主の許に歸參しようとも思ひ、又才學を負うた人であるから、首尾好くは幕府の直參にでもならうと思つて、機會を窺つてゐたのである。そして澀江の家は其策源地であつた。
卒に見れば、枳園が阿部家の古巣に歸るのは易く、新に幕府に登庸せられるのは難いやうである。しかし實况にはこれに反するものがあつた。枳園は既に學術を以て名を世間に馳せてゐた。就中本草に精しいと云ふことは人が皆認めてゐた。阿部伊勢守正弘はこれを知らぬではない。しかしその才學のある枳園の輕佻を忌む心が頗る牢かつた。多紀一家殊に■(艸冠+頤の偏:::大漢和)庭は稍これと趣を殊にしてゐて、略此人の短を護して、其長を用ゐようとする抽齋の意に賛同してゐた。
枳園を歸參させようとして、最も盡力したのは伊澤榛軒柏軒の兄弟であるが、抽齋も亦福山の公用人服部九十郎、勘定奉行小此木伴七大田宇川等に内談し、又小嶋成齋等をして説かしむること數度であつた。しかしいつも藩主の反感に阻げられて事が行はれなかつた。そこで伊澤兄弟抽齋とは先づ■(艸冠+頤の偏:::大漢和)庭の同情に愬へて幕府の用を勤めさせ、それを規模(*手柄)にして阿部家を説き動さうと决心した。そして終に此手段を以て成功した。
此期間の末の一年、嘉永元年に至つて枳園は躋壽館の一事業たる千金方校刻を手傳ふべき内命を贏ち得た。そして五月には阿部正弘枳園の歸藩を許した。
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その三十七
阿部家への歸參が■(立心偏+匚+夾:きょう:快い・適う:大漢和10949)つて、枳園が家族を纏めて江戸へ來ることになつたので、抽齋はお玉が池の住宅の近所に貸家のあつたのを借りて、敷金を出し家賃を拂ひ、應急の器什を買ひ集めてこれを迎へた。枳園だけは病家へ往かなくてはならぬ職業なので、衣類も一通持つてゐたが、家族は身に着けたものしか持つてゐなかつた。枳園の妻の事を、五百があれでは素裸と云つても好いと云つた位である。五百は髪飾から足袋下駄まで、一切揃へて贈つた。それでも當分のうちは、何か無いものがあると、藏から物を出すやうに、五百の所へ貰ひに來た。或日これで白縮緬の湯具を六本遣ることになると、五百が云つたことがある。五百がどの位親切に世話をしたか、がどの位恬然として世話をさせたかと云ふことが、これによつて想像することが出來る。又枳園に幾多の惡性癖があるに拘らず、抽齋がどの位、其才學を尊重してゐたかと云ふことも、これによつて想像することが出來る。
枳園が醫書彫刻取扱手傳と云ふ名義を以て、躋壽館に召し出されたのは、嘉永元年十月十六日である。
當時躋壽館で校刻に從事してゐたのは、備急千金要方三十卷三十二册の宋槧本であつた。是より先き多紀氏は同じ孫思■(之繞+貌:ばく・まく:遠い・遥か:大漢和39198)千金翼方三十卷十二册を校刻した。これは元の成宗大徳十一年(*1307年)梅溪書院の刊本を以て底本としたものである。尋いで手に入つたのが千金要方の宋版である。これは毎卷金澤文庫の印があつて、北條顯時の舊藏本である。米澤の城主上杉彈正大弼齊憲がこれを幕府に獻(*原文「献」)じた。細に■(手偏+僉:れん・けん:巡察する:大漢和12779)すれば南宋乾道(*1165-)淳熈(*1174-。原文「二水+熈」)中の補刻數葉が交つてゐるが、大體は北宋の舊面目を存してゐる。多紀氏はこれをも私費を以て刻せようとした。然るに幕府はこれを聞いて、官刻を命ずることになつた。そこで影寫校勘の任に當らしむるために、三人の手傳が出來た。阿部伊勢守正弘の家來伊澤磐安K田豐前守直靜の家來堀川舟庵、それから多紀樂眞院(*■(艸冠+頤の偏:::大漢和)庭門人森養竹である。磐安は即ち柏軒で、舟庵經籍訪古志の跋に見えてゐる堀川濟である。舟庵の主K田直靜は上總國久留利(*久留里)の城主で、上屋敷は下谷廣小路にあつた。
任命は若年寄大岡主膳正忠固の差圖を以て、館主多紀安良が申し渡し、世話役小嶋春庵、世話役手傳勝本理庵熊谷辨庵が列座した。安良は即ち曉湖である。
何故に枳園■(艸冠+頤の偏:::大漢和)庭の門人として召し出されたかは知らぬが、阿部家への歸參は當時内約のみであつて、まだ表向になつてゐなかつたのでもあらうか。枳園は四十二歳になつてゐた。
是年八月二十九日に、眞志屋五郎作が八十歳で歿した。抽齋は此時三世劇神仙になつたわけである。
嘉永二年三月七日に、抽齋は召されて登城した。躑躅の間に於て、老中牧野備前守忠雅の口達があつた。年來學業出精に付、序の節目見仰附けらると云ふのである。此月十五日に謁見は濟んだ。始て武鑑に載せられる身分になつたのである。
わたくしの藏してゐる嘉永二年の武鑑には、目見醫師の部に澀江道純の名が載せてあつて、屋敷の所が彫刻せずにある。三年の武鑑にはそこに紺屋町一丁目と刻してある。これはお玉が池の家が手狹なために、五百の里方山内の家を澀江邸として屆け出でたものである。
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その三十八
抽齋の將軍家慶に謁見したのは、世の異數となす所であつた。素より躋壽館に勤仕する醫者には、當時奧醫師になつてゐた建部内匠頭政醇家來辻本■(山/松:::大漢和8209)庵の如く目見の榮に浴する前例はあつたが、抽齋に先つて伊澤榛軒が目見をした時には、藩主阿部正弘が老中になつてゐるので、薦達の早きを致したのだとさへ言はれた。抽齋と同日に目見をした人には、五年前に共に講師に任ぜられた町醫坂上玄丈があつた。しかし抽齋玄丈よりも廣く世に知られてゐたので、人が其殊遇を美めて三年前に目見をした松浦壹岐守慮の臣朝川善庵と並稱した。善庵抽齋の謁見に先つこと一月、嘉永二年二月七日に、六十九歳で歿したが、抽齋とも親しく交つて、澀江の家の發會には必ず來る老人株の一人であつた。善庵、名は、字は五鼎、實は江戸の儒家片山兼山の子である。兼山の歿した後、妻原氏が江戸の町醫朝川默翁に再嫁した。善庵の姉壽美と兄道昌とは當時の連子で、善庵はまだ母の胎内にゐた。默翁は老いて病に至つて、福山氏に嫁した壽美を以て、善庵に實を告げさせ、本姓に復することを勸めた。しかし善庵默翁の撫育の恩に感じて肯はず、默翁も亦強ひて言はなかつた。善庵は次男をして片山氏を嗣がしめたが、は早世した。長男正準は出でゝ相田氏を冐したので、善庵の跡は次女の壻横山氏■(鹿/辰:::大漢和)が襲いだ。
弘前藩では必ずしも士人を幕府に出すことを喜ばなかつた。抽齋が目見をした時も、同僚にして來り賀するものは一人も無かつた。しかし當時世間一般には目見以上と云ふことが、頗る重きをなしてゐたのである。伊澤榛軒は少しく抽齋に先んじて目見をしたが、阿部家のこれに對する處置には榛軒自己をして喫驚せしむるものがあつた。榛軒は目見の日に本郷丸山の中屋敷から登城した。さて目見を畢つて歸つて、常の如く通用門を入らんとすると、門番が忽ち本門の側に下座した。榛軒は誰を迎へるのかと疑つて、四邊を顧たが、別に人影は見えなかつた。そこで始て自分に禮を行ふのだと知つた。次いで常の如く中の口から進まうとすると、玄關の左右に詰衆が平伏してゐるのに氣が附いた。榛軒は又驚いた。間もなく阿部家では、榛軒を大目附格に進ましめた。
目見は此の如く世の人に重視せられる習であつたから、此榮を荷ふものは多くの費用を辨ぜなくてはならなかつた。津輕家では一箇年間に返濟すべしと云ふ條件を附して、金三兩を貸したが、抽齋は主家の好意を喜びつゝも、殆どこれを何の費に充てようかと思ひ惑つた。
目見をしたものは、先づ盛宴を開くのが例になつてゐた。そしてこれに招くべき賓客の數も略定まつてゐた。然るに抽齋の居宅には多く客を延くべき廣間が無いので、新築しなくてはならなかつた。五百の兄忠兵衞が來て、三十兩の見積を以て建築に着手した。抽齋は錢穀(*原文「錢■(穀の偏の「禾」を「釆」に作る。:こく::大漢和27067)」)の事に疎いことを自知してゐたので、商人たる忠兵衞の言ふがまゝに、これに經營を一任した。しかし忠兵衞は大家の若檀那上りで、金を擲つことにこそ長じてゐたが、■(革偏+斤:::大漢和)んでこれを使ふことを解せなかつた。工事未だ半ならざるに、費す所は既に百數十兩に及んだ。
平生金錢に無頓着であつた抽齋も、これには頗る當惑して、鋸の音槌の響のする中で、顔色は次第に蒼くなるばかりであつた。五百は初からの指圖を危みつゝ見てゐたが、此時に向つて云つた。
「わたくしがかう申すと、ひどく出過ぎた口をきくやうではございますが、御一代に幾度と云ふおめでたい事のある中で、金錢の事位で御心配なさるのを、默つて見てゐることは出來ませぬ。どうぞ費用の事はわたくしにお任せなすつて下さいまし。」
抽齋は目を■(目偏+爭:::大漢和)つた。「お前そんな事を言ふが、何百兩と云ふ金は容易に調達せられるものでは無い。お前は何か當があつてさう云ふのか。」
五百はにつこり笑つた。「はい。幾らわたくしが癡でも、當なしには申しませぬ。」
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その三十九
五百は女中に書状を持たせて、程近い質屋へ遣つた。即ち市野迷庵の跡の家である。彼の今に至るまで石に彫られずにある松崎慊堂の文に云ふ如く、迷庵は柳原の店で亡くなつた。其跡を襲いだのは松太郎光壽で、それが三右衞門の稱をも繼承した。迷庵の弟光忠は別に外神田に店を出した。これより後内神田の市野屋と、外神田の市野屋とが對立してゐて、彼は世三右衞門を稱し、此は世市三郎を稱した。五百が書状を遣つた市野屋は當時辨慶橋にあつて、早くも光壽の子光徳の代になつてゐた。光壽迷庵の歿後僅に五年にして、天保三年光徳を家督させた。光徳は小字を徳治郎と云つたが、此時更めて三右衞門を名告つた。外神田の店は此頃まだ迷庵の姪光長の代であつた。
程なく光徳の店の手代が來た。五百は箪笥長持から二百數十枚の衣類寢具を出して見せて、金を借らんことを求めた。手代は一枚一兩の平均を以て貸さうと云つた。しかし五百は抗爭した末に、遂に三百兩を借ることが出來た。
三百兩は建築の費を辨ずるには餘ある金であつた。しかし目見に伴ふ飮■(酉+燕:::大漢和)贈遺一切の費は莫大であつたので、五百は終に豐芥子に託して、主なる首飾類を賣つてこれに充てた。其状當に行ふべき所を行ふ如くであつたので、抽齋は兎角の意見を其間に挾むことを得なかつた。しかし中心には深くこれを徳とした。
抽齋の目見をした年の閏四月十五日に、長男恒善は二十四歳で始て勤仕した。八月二十八日に五女癸巳が生れた。當時の家族は主人四十五歳、妻五百三十四歳、長男恒善二十四歳、次男優善十五歳、四女三歳、五女癸巳一歳の六人であつた。長女馬場氏に嫁し、三女山内氏を襲ぎ、次女よし(*好)、三男八三郎、四男幻香は亡くなつてゐたのである。
嘉永三年には、抽齋が三月十一日に幕府から十五人扶持を受くることゝなつた。藩祿等は凡て舊に依るのである。八月晦に、馬場氏に嫁してゐたが二十歳で歿した。此年抽齋は四十六歳になつた。
五百の假親比良野文藏の歿したのも、同じ年の四月二十二日である。次いで嗣子貞固が目附から留守居に進んだ。津輕家の當時の職制より見れば、所謂獨禮の班に加はつたのである。獨禮とは式日に藩主に謁するに當つて、單獨に進むものを謂ふ。これより下は二人立、三人立等となり、遂に馬廻以下の一統禮に至るのである。
當時江戸に集つてゐた列藩の留守居は、宛然たるコオル、ヂプロマチツクを形つてゐて、その生活は頗る特色のあるものであつた。そして貞固の如きは、其光明面を體現してゐた人物と謂つても好からう。
衣類をK紋附に限つてゐた絲鬢奴の貞固は、素より讀書の人ではなかつた。しかし書卷を尊崇して、提挈を其中に求めてゐたことを思へば、留守居中稀有の人物であつたのを知ることが出來る。貞固は留守居に任ぜられた日に、家に歸るとすぐに、折簡して抽齋を請じた。そして容を改めて云つた。
わたくしは今日の跡を襲いで、留守居役を仰付けられました。今までとは違つた心掛がなくてはならぬ役目と存ぜられます。實はそれに用立つお講釋が承はりたさに、御足勞を願ひました。あの四方に使して君命を辱めずと云ふことがございましたね。あれを一つお講じ下さいますまいか。」
「先づ何よりもおよろこびを言はんではなるまい。さて講釋の事だが、これは又至極のお思附だ。委細承知しました」と抽齋は快く諾した。
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その四十
抽齋は有合せの道春點の論語を取り出させて、卷三を開いた。そして「子貢問曰、何如斯可謂之士矣」と云ふ所から講じ始めた。固より註をば顧みない。都て古義に從つて縱説横説した。抽齋は師迷庵の校刻した六朝本の如きは、何時でも毎葉毎行の文字の配置に至るまで、空に憑つて思ひ浮べることが出來たのである。
貞固は謹んで聽いてゐた。そして抽齋が「子曰、噫斗■(竹冠+肖:そう・しょう:ふご・飯櫃・箸筒:大漢和26077)之人、何足算也」に説き到つたとき、貞固の目はかゞやいた。
講じ畢つた後、貞固は暫く瞑目沈思してゐたが、徐に起つて佛壇の前に往つて、祖先の位牌の前にぬかづいた。そしてはつきりした聲で云つた。「わたくしは今日から一命を賭して職務のために盡します。」貞固の目には涙が湛へられてゐた。
抽齋は此日に比良野の家から歸つて、五百に「比良野は實に立派な侍だ」と云つたさうである。其聲は震を帶びてゐたと、後に五百が話した。
留守居になつてからの貞固は、毎朝日の出ると共に起きた。そして先づ廏を見廻つた。そこには愛馬濱風が繋いであつた。友達がなぜそんなに右馬を氣に掛けるかと云ふと、馬は生死を共にするものだからと、貞固は答へた。廏から歸ると、盥嗽して佛壇の前に坐した。そして木魚を敲いて誦經した。此間は家人を戒めて何の用事をも取り次がしめなかつた。來客もそのまゝ待たせられることになつてゐた。誦經が畢つて、髪を結はせた。それから朝餉の饌に向つた。饌には必ず酒を設けさせた。朝と雖も省かない。■(肴+殳:::大漢和)には選嫌をしなかつたが、のだ平の蒲鉾を嗜んで、闕かさずに出させた。これは贅澤品で、鰻の丼が二百文、天麩羅蕎麥が三十二文、盛掛が十六文するとき、一板二分二朱であつた。
朝餉の畢る比には、藩邸で巳の刻の大鼓が鳴る。名高い津輕屋敷の櫓大鼓である。甞て江戸町奉行がこれを撃つことを禁ぜようとしたが、津輕家が聽ずに、とう\/上屋敷を隅田川の東に徙されたのだと、巷説に言ひ傳へられてゐる。津輕家の上屋敷が神田小川町から本所に徙されたのは、元祿元年で、信政の時代である。貞固は巳の刻の大鼓を聞くと、津輕家の留守居役所に出勤して事務を處理する。次いで登城して諸家の留守居に會ふ。從者は自ら豢つてゐる若黨草履取の外に、主家から附けられるのである。
留守居には集會日と云ふものがある。其日には城から會場へ往く。八百善、平清、川長、青柳等の料理屋である。又吉原に會することもある。集會には煩瑣な作法があつた。これを禮儀と謂はんは美に過ぎよう。譬へば筵席の觴政の如く、又西洋學生團のコンマンの如しとも云ふべきであらうか。しかし集會に列するものは、これがために命の取遣をもしなくてはならなかつた。就中嚴しく守られてゐたのは新參故參の序次で、故參は新參のために座より起つことなく、新參は必ず故參の前に進んで挨拶しなくてはならなかつた。
津輕家では留守居の年俸を三百石とし、別に一箇月の交際費十八兩を給した。比良野は百石取ゆゑ、これに二百石を補足せられたのである。五百の覺書に據るに、三百石十人扶持の澀江の月割が五兩一分、二百石八人扶持の矢嶋の月割が三兩三分であつた。矢嶋とは後に抽齋の二子優善が養子に往つた家の名である。これに由つて觀れば、貞固の月收は五兩一分に十八兩を加へた二十三兩一分と見て大いなる差違は無からう。然るに貞固は少くも月に交際費百兩を要した。しかもそれは平常の費である。吉原に火災があると、貞固は妓樓佐野槌へ、百兩に熨斗を附けて持たせて遣らなくてはならなかつた。又相方のむしんをも、折々は聽いて遣らなくてはならなかつた。或る年の暮に、貞固五百に私語したことがある。「姉えさん、察して下さい。正月が來るのに、わたしは實は褌一本買ふ錢も無い。」
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その四十一
均しく是れ津輕家の藩士で、柳嶋附の目附から、少しく貞固に遲れて留守居に轉じたものがある。平井氏、名は俊章、字は伯民、小字は清太郎、通稱は修理で、東堂と號した。文化十一年生で貞固よりは二つの年下である。平井の家は世祿二百石八人扶持なので、留守居になつてから百石の補足を受けた。
貞固は好丈夫で威貌があつた。東堂も亦風■(三に縦棒〈コン〉:ほう・ぼう・ふう:見目よいこと:大漢和76)人に優れて、而も温容親むべきものがあつた。そこで世の人は津輕家の留守居は雙璧だと稱したさうである。
當時の留守居役所には、此二人の下に留守居下役杉浦多吉、留守居物書藤田徳太郎などがゐた。杉浦は後喜左衞門と云つた人で、事務に諳錬した六十餘の老人であつた。藤田は維新後にと稱した人で、當時まだ青年であつた。
或日東堂が役所で公用の書状を發せようとして、藤田に稿を屬せしめた。藤田は案を具して呈した。
藤田。まづい文章だな。それにこの書樣はどうだ。もう一遍書き直して見い。」東堂の顔は頗る不機嫌に見えた。
原來平井氏は善書の家である。祖父峩齋は甞て筆札を高頤齋に受けて、其書が一時に行はれたこともある。峩齋、通稱は仙右衞門、其子を仙藏と云ふ。後の稱を襲ぐ。此仙藏の子が東堂である。東堂澤田東里の門人で書名があり、且詩文の才をさへ有してゐた。それに藤田は文に於ても書に於ても、專門の素養が無い。稿を更めて再び呈したが、それが東堂を滿足せしめる筈が無い。
「どうもまづいな。こんな物しか出來ないのかい。一體これでは御用が勤まらないと云つても好い。」かう云つて案を藤田に還した。
藤田は股栗した。一身の恥辱、家族の悲歎が、頭を低れてゐる青年の想像に浮かんで、目には涙が涌いて來た。
此時貞固が役所に來た。そして東堂に問うて事の顛末を知つた。
貞固藤田の手に持つてゐる案を取つて讀んだ。「うん。一通わからぬこともないが、これでは平井の氣には入るまい。足下は氣が利かないのだ。」
かう云つて置いて、貞固は殆ど同じやうな文句を卷紙に書いた。そしてそれを東堂の手にわたした。
「どうだ。これで好いかな。」
東堂は毫も敬服しなかつた。しかし故參の文案に批評を加へることは出來ないので、色を和げて云つた。
「いや、結構です。どうもお手を煩はして濟みません。」
貞固は案を東堂の手から取つて、藤田にわたして云つた。
「さあ。これを清書しなさい。文案はこれからこんな工合に遣るが好い。」
藤田は「はい」と云つて案を受けて退いたが、心中には貞固に對して再造の恩を感じたさうである。想ふに東堂は外柔にして内險、貞固は外猛にして内寛であつたと見える。
わたくしは前に貞固が要職の體面をいたはるがために窮乏して、古褌を着けて年を迎へたことを記した。此窮乏は東堂と雖もこれを免るゝことを得なかつたらしい。こゝに中井敬所大槻如電さんに語つたと云ふ一の事實があつて、これが證に充つるに足るのである。
此事は前の日わたくし池田京水の墓と年齡とを文彦さんに問ひに遣つた時、如電さんが曾て手記して置いたものを抄寫して、文彦さんに送り、文彦さんがそれをわたくしに示した。わたくしは池田氏の事を問うたのに、何故に如電さん平井氏の事を以て答へたか。それには理由がある。平井東堂の置いた質が流れて、それを買つたのが、池田京水の子瑞長であつたからである。
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その四十二
東堂が質に入れたのは、銅佛一躯と六方印一顆とであつた。銅佛は印度で鑄造した藥師如來で、戴曼公の遺品である。六方印は六面に彫刻した遊印である。
質流になつた時、此佛像を池田瑞長が買つた。然るに東堂は後金が出來たので、瑞長に交渉して、價を倍して購ひ戻さうとした。瑞長は應ぜなかつた。それは平井氏も、池田氏も、戴曼公の遺品を愛惜する縁故があるからである。
戴曼公は書法を高天■(三水+猗:い:漣・岸、ここは人名:大漢和18164)に授けた。天■(三水+猗:い:漣・岸、ここは人名:大漢和18164)、名は玄岱、初の名は立泰、字は子新、一の字は斗膽、通稱は深見新左衞門で、歸化明人の裔である。祖父高壽覺は長崎に來て終つた。父大誦は譯官になつて深見氏を稱した。深見は渤海である。高氏は渤海より出でたから此氏を稱したのである。天■(三水+猗:い:漣・岸、ここは人名:大漢和18164)は書を以て鳴つたもので、淺草寺の施無畏の■(匚+扁:へん:薄い・平たい・扁額:大漢和2689)額の如きは、人の皆知る所である。享保七年八月八日に、七十四歳で歿した。その曼公に書を學んだのは、十餘歳の時であつただらう。天■(三水+猗:い:漣・岸、ここは人名:大漢和18164)の子が頤齋である。頤齋の弟子が峩齋である。峩齋の孫が東堂である。これが平井氏の戴師持念佛に戀々たる所以である。
戴曼公は又痘科を池田嵩山に授けた。嵩山の曾孫が錦橋錦橋の姪が京水京水の子が瑞長である。これが池田氏の偶獲た曼公の遺品を愛重して措かなかつた所以である。
此藥師如來は明治の代となつてから守田寶丹が護持してゐたさうである。又六方印は中井敬所の有に歸してゐたさうである。
貞固東堂とは、共に留守居の物頭を兼ねてゐた。物頭は詳しくは初手足輕頭と云つて、藩の諸兵の首領である。留守居も物頭も獨禮の格式である。平時は中下屋敷附近に火災の起る毎に、火事裝束を着けて馬に騎り、足輕數十人を隨へて臨檢した。貞固は其歸途には、殆ど必ず澀江の家に立ち寄つた。實に威風堂々たるものであつたさうである。
貞固東堂も、當時諸藩の留守居中有數の人物であつたらしい。帆足萬里は甞て留守居を罵つて、國財を靡し私腹を肥やすものとした。此職に居るものは、或は多く私財を蓄へたかも知れない。しかし保さんは少時帆足の文を讀む毎に心平かなることを得なかつたと云ふ。それは貞固の人と爲りを愛してゐたからである。
嘉永四年には、二月四日に抽齋の三女で山内氏を冐してゐた棠子が、痘を病んで死んだ。尋いで十五日に、五女癸巳が感染して死んだ。は七歳、は三歳である。重症で曼公の遺法も功を奏せなかつたと見える。三月二十八日に、長子恒善が二十六歳で、柳嶋に隱居してゐた信順の近習にせられた。六月十二日に、二子優善が十七歳で、二百石八人扶持の矢嶋玄碩の末期養子になつた。是年澀江氏は本所臺所町に移つて、神田の家を別邸とした。抽齋が四十七歳、五百が三十六歳の時である。
優善は澀江一族の例を破つて、少うして烟草を喫み、好んで粉華奢靡の地に足を容れ、兎角市井のいきな事、しやれた事に傾き易く、當時早く既に前途のために憂ふべきものがあつた。
本所で澀江氏のゐた臺所町は今の小泉町で、屋敷は當時の切繪圖に載せてある。

〔その43〕〜

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