身障のはじまり
1959年(昭和34年)、
巨人阪神の展覧試合である6月25日に、私は生まれた。
順調に育ち、立って歩き始め、
2度目の夏を過ぎた1960年10月、
突如高熱を出し、ある病気に罹った。
日本にも小児麻痺という病気が流行した時期であったが、 私の場合それではなく、
しかし症状がかなり似かよった、多発生神経恨炎というものだった。
高熱による全身の衰弱、そして麻痺・・・。
その麻痺は、両足からさかのぼり、下半身の動く力をどんどん奪いながら、さらに上半身・両腕へと登っていく。
やっと元気に歩き始めたその身体が、生まれたばかりの赤子以上に動きを閉ざしていく。
あとわずか数日、ほんの数日、
その進行が治まらなかったら、 呼吸の動きさえ奪われ、身体全身の動きのすべてを閉ざすものとなったという。
残されていたものは・・・生きる力だったのか、
その力により病の勢いはなんとか止まり、 回復への治療が始まった。。。
両腕
回復の治療、
といっても、まだ乳飲み子の自分自身に何が出来るわけでもない。
まず上肢の麻痺を回復させるマッサージが始められたという。
どのくらいの時間の経過なのか、右手の方は比較的早く麻痺がとれていったという。
しかし左手は、麻痺がなかなか治らず、
マッサージだけでなく、何をするにも自力で左手でという、自力での機能回復も開始され、
それが功を奏し、左手の麻痺もだんだんと、とれていったという。
物心をついた頃でも、 何をするのも左手でという記憶があり、私は左利きの様相となった。
そして下肢、それも両下肢、
これがどうにも麻痺が治らない。
低周波や高周波、当時の先端の電気治療も行われたが、
一年、二年、三年と、病院内での生活、病院に通う生活が続いた。
(右上の写真は当時の病院で撮られた私、これでも元気な方だったという)
補装具との出会い
両下肢の麻痺の状況が変わらず、
しかし成長していくにつれて、立ち上がり・歩行するという希望は、
補装具(ほそうぐ)によって・・・と移っていった。
まだ幼児のもの、身体が安定してきたとはいえ、何度も何度もの試行錯誤の連続で、
完成までにも、かなりの時間がかかったという。
それでもその補装具が完成し、
不器用ながらも立ち上がり、歩くとは言い難いが歩を進めることが出来た。
補装具によって、たとえ棒のような足でも一歩に歩と歩いた時には、
親は涙が止まらなかったという。
左の写真は、いくつ目かの補装具を履いているところであるが、足全体を編み上げて履くものである。
(最も始めに作ったものは、腰まで固定したものであった。)
補装具、それと共に生きてきた私にとって、今現在でも身近で大切なものであるが、
大人用でもどんなに小さな子供用でも、その人用に作るためにオーダーメイドであり、
石膏で型を取り、仮合わせ・本合わせで作っていく。
たとえオーダーメードであっても、その作成する段階で、柔な足に容赦のない固定、少しでも強く当たる部分は、すぐに痛み出し、仮合わせを何度も繰り返し、本合わせの完成したものでも、
実際の生活で、その補装具に慣れるまでは痛みとの対決で、それを乗り切ってやっと、
自分のものになるというものである。
小さな頃は成長も早く、足の大きさ・身体の大きさが変わり、
それに合わせて毎年補装具を作る事が、辛くも切ないイベントのようになっていた。。。
小学校の門
保育園にも幼稚園にも行けなかった私であるが、
6歳の誕生日を迎える頃、小学校に行きたいという思いが私にはあった。
私には3つ上の兄がいて、「お兄ちゃんと一緒の小学校に行きたい」という気持ちが・・・。
それまでどんな状況で育って来たかという事、まともに一人で歩けない現実を、
幼い私は、まるで分かっていなかった。
さて、公立の小学校には入学試験はない。
しかし、入学準備の段階で身体検査はあった。校長先生との面接もあった。
その入学準備の身体検査・面接のために親と一緒に小学校に訪れた時に、
「この小学校入学は無理でしょう、その身体ではみんなについていけないでしょう」
という言葉を受け取り、現実をも受け止めながら、小学校を後にすることになった。
特殊学級や施設も視野に入れながら、家族でもいろいろ考え、話し合った。
しかしどれも、幼かったとはいえ私自身、納得いくものではなく、
それならという事で、駄目で元々と思い、もう一度小学校に相談する事となった。
そして・・・
「どうしてもこの小学校に通いたいなら・・・、
一年後、もし皆と一緒に学校生活ができる身体になっていたら、
この小学校の入学を認めてあげる。」 という話になった。
これはたとえ一年後という、先の話であっても小学校側では大決断であった。
しかも幼子の話を真剣に聞いてくれてのである。
今なおその決断をしてくれた、機会を与えてくれた、故「今(こん)校長先生」には、大感謝である。
早速、私が生まれ、そしてそれまでの病気の治療をしてくれた東京厚生年金病院に、
相談に行く事になった。
まず小学校の様子を話した。
4階建ての校舎、エレベーターもなく階段には手すりはついているものの、1年生からもう、教室は2階にあった。
「とにかくまず、一人で階段を上り下りできる身体にしないと、その学校には入れないよ、
それができるかできないかは、君自身のこの一年にかかっている。」
そういわれ、それからは厳しい機能回復訓練(リハビリ)が始められた。。。機能回復訓練
訓練場は体育館のようような感じで、階段を模したものや、平行棒、
腕を鍛えるもの、足を鍛えるもの、 今もよく見るトレーニング機械が所狭しと置かれていた。
今でいうリハビリテーションルームである。
手のない人、足のない人、いろんな人がいたが、その時、小さい人間は私だけだった。
まず補装具を履いた状態で、
松葉杖での歩き方、ステッキでの歩き方、そして転び方(これが一番重要だった)、
そして補装具を脱いで、
ベットに横になっての足の筋力アップ、平行棒での足の筋力アップ
温水プールのようなところにぶら下げられての水中での全身の筋力アップ・・・。
毎日毎日、訓練が行われた。
その機能回復訓練中に、また補装具を作る時がやってきた。
次の補装具は、膝が曲げられるタイプのものにしようということになった。
膝が曲がると入っても、自分で膝を曲げる事も、曲げた状態で体重を支えられるわけでもない。
普段は膝の曲がる部分をロックしていて、足がまっすぐの棒のような状態になるもので、座る時だけロックをはずし、
膝を曲げて座れるという補装具だった。
しかし、これで学校生活、椅子と机の生活にも対応できる。
ただ、膝の関節部分や、それを支える支柱の強度の関係で、補装具の重量はかなり増えていった。
その補装具を付けて、さらなる機能訓練が始まった。
新しい補装具による痛みとのと戦い、重さとの戦い、なかなか歩けないもどかしさとの戦い、
もうイヤになる事もしばしばであった。
しかし、わずかに左足の膝に力出てきて・・・、 そんな喜びと共に、
さらにもっと力強くなるよう鍛え、もちろん両腕もさらに鍛える事となった。
当時担当してくれた療法士さん、看護婦さん達は、
機能回復訓練の時、みんな鬼となっていた。 暑い夏でも、寒い冬でも、私を徹底的に鍛え上げた。
おそらく、大の大人でも根を上げる、厳しいものだったと思う。
しかし今振り返ってみると、
その鬼は、僕の小学校入学を目指してくれた、優しい鬼達でもあった。
思い出すと、言い尽くせない”感謝”という熱いものが込み上げてくる。
そして、約束の一年の時が来た。。。
2005.6.24.記
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