第2回 江戸滞在 安政3年9月下旬〜安政5年8月上旬

 

土佐藩中屋敷(中央区役所) 有楽町線新富町下車徒歩1分

 龍馬は、父八平没(安政2年)後、安政3年9月下旬頃、江戸中屋敷(新富町)に入った。そして京橋桶町の千葉道場で再び北辰一刀流を極めた。

 

左→千葉周作「玄武館」(神田東松下町)都営新宿線岩本町下車徒歩5分
       右→初期「千葉道場付近」(日本橋室橋一丁目) 半蔵門線三越前歩2分
          現在の日本橋 (徳川慶喜揮毫による「日本橋」の銘板がある)

 龍馬は、玄武館でも修行した。千葉周作は、陸奥国栗原郡荒谷村の出身で、北辰一刀流剣術の創始者。文政5年に日本橋品川町(三越本店)に道場「玄武館」を開設した。その後、神田お玉ケ池に移設した。

そして安政4年土佐藩邸にて桂小五郎・村上圭蔵らと武術大会が開催された時、「今武蔵」と言われていた島田駒之助に勝ったとしている記録がある。: 龍馬研究の第一人者平尾道雄氏は、その記録には大会の出席者など矛盾が多く偽作であるとしている。

 龍馬は、安政5年(1858)9月初旬高知に着いた。この年、日米修好通商条約が調印され、9月には安政の大獄が起こっている。

 万延元年(1860)年初から、咸臨丸にて勝海舟らはサンフランシスコに行き、5月には江戸に帰っている。この年、桜田門外の変が起こっている。

第3回 江戸滞在 文久2年夏頃〜文久2年12月

 龍馬は、文久2年(1862)年初から長州萩の久坂玄瑞を訪ねている。3月に沢村総之丞と共に脱藩し大坂経由で江戸に潜伏した。この年、坂下門外の変・4月に寺田屋騒動が起こっている。

 龍馬と重太郎と近藤長治郎は、松平春嶽の紹介状で赤坂氷川神社近く(氷川公園付近 赤坂6丁目10番地)の海舟を訪れている。海舟の日記によれば12月9日夜 (10月という説が一般的)有志三人が来訪、形勢の議論ありと記されているという。軍艦奉行並の海舟は、この時世界情勢を説き、攘夷論が無知であることを諭し、早急な海軍の必要性を説いた。その場で龍馬は弟子入りした。後の海舟の談話では、その時、龍馬と重太郎は自分を斬りに来たと言っている。

 ;龍馬と海舟との最初の出会いは、文久2年10月となっているのが一般的となっている。しかし、その証拠となるものは現在のところ無いという。

 龍馬・重太郎共に12月下旬兵庫にいた勝海舟の門下生となった。時に龍馬28歳

 

  左→千葉周作の墓 本妙寺 (豊島区巣鴨5丁目 JR巣鴨駅徒歩20分)
  右→千葉定吉・重太郎の墓 雑司ヶ谷霊園(南池袋4丁目 有楽町線 東池袋駅 徒歩10分)

 千葉周作は、「高明院勇譽知底敬寅居士」安政2年12月10日となっている。その他、本妙寺には、江戸の名奉行と言われた遠山金四郎の墓もある。

 また、雑司ヶ谷霊園には、漂流してアメリカで11年間過ごした 中浜ジョン万次郎や夏目漱石の墓もある。

 千葉佐那(千葉定吉の長女)は、龍馬が乙女あてに人物像として馬に乗り、剣・長刀も強く、琴を弾き、絵も描く、気立てよく、口数少ない女性であると紹介している。佐那は龍馬と婚約したと言っている。千葉周作の記録にもそのような記録があるという。そして、佐那は維新後も独身を貫き、学習院女子部の舎監となり「千葉灸治院」を開き享年59歳で病死している。台東区谷中霊園に埋葬されたが、友人が無縁仏になるとして、甲府市朝日5丁目「日蓮宗清運寺」に分骨し埋葬した。墓石の裏面には「坂本龍馬室」となっている。

日蓮宗清運寺 千葉さな子の墓