坂本龍馬略歴

 龍馬は、天保6年(1835)土佐藩の郷士(下級役人) 坂本長兵衛(八平)の次男として高知城下に生まれる。11歳の時母 幸(49)死亡。この年、塾で学び始めるが友との喧嘩で退塾。翌年父は 伊与 を後妻として迎える。                      13歳の時近くの小栗流道場に入門して剣術の修行を始める。

 嘉永6年(1853)18歳の時、江戸に出て北辰一刀流千葉定吉(周作の弟)に入門、剣術を学ぶ。この年、ペリー来航のため藩命により品川海岸警備に就く。また同年佐久間象山に入門、砲術を学ぶ。

 安政元年(1854)高知に帰る。この頃河田小龍(ジョン万次郎にメリケンでの情勢等を学ぶ)に会い世界情勢を聞く。翌安政2年父八平死亡(59)。安政3年再び剣術修行のため江戸に出る。安政5年(1858)高知に帰る。この年、日米修好通商条約調印。安政の大獄起こる。

 文久2年(1862)長州萩で久坂玄瑞と会う。沢村総之丞と脱藩。大坂を経て江戸千葉道場に着く。千葉重太郎(定吉の長男)と勝海舟を訪ね、世界情勢とその対策を説かれその場で入門。松平春嶽と会い海防について語り、兵庫滞在中の勝海舟の指示を仰ぐ。

 文久3年伊豆下田で勝海舟が、山内容堂に龍馬の脱藩の罪赦免を請い許される。幕府が海舟の建言により、神戸に海軍操練所設立を決定。勝塾の塾頭になる。土佐藩の帰国命令を拒否し再び脱藩。この年、米軍艦下関を砲撃。薩英戦争起こる。

 元治元年(1864)お龍を伏見の船宿寺田屋に預ける。京都で西郷吉之助と面談。 11月海舟海軍奉公職免職となる。以後薩摩藩の庇護を受け藩邸に潜伏。     この年、禁門の変(蛤御門の変)、英米仏艦隊下関砲撃。佐久間象山京都で暗殺される。

 慶応元年(1865)薩摩藩邸で三条実美と会う。西郷と共に鹿児島に行き、薩長和解を依頼され横井小楠、三条実美、土方楠左衛門に会い和解を約す。桂小五郎に薩長和解を説く。長崎に亀山社中設立し商社活動を始める。長州藩に行き西郷から依頼の兵糧米を周旋。英人クラバーから小銃を買い下関に送る。この年、幕府は長州出兵を諸藩に命じる。継母伊与(62)死亡。

 慶応2年(1866)伏見薩摩藩邸で桂小五郎、西郷隆盛、小松帯刀、大久保一蔵と会談 薩長連合の密約成る。寺田屋で襲われて負傷。この頃お龍と結婚。西郷と共に鹿児島に同行し塩浸温泉にて療養、霧島にも遊び、その時の事柄を乙女姉に便りする。(この便りが国の重要文化財に指定される。)この年、幕府軍各地で敗退。徳川家茂没。一橋慶喜15代将軍に就く。孝明天皇崩御。

 慶応3年(1867)土佐藩は龍馬、中岡慎太郎の脱藩罪を赦免。王政復古について薩摩・土佐・安芸盟約成る。6年ぶりに坂本家に帰る。新政府要綱「船中八策」を起草する。11月15日近江屋にて中岡・藤吉と共に刺客に襲われ、龍馬と藤吉は翌16日死亡、中岡は17日死亡。時に龍馬33歳。この年、徳川慶喜大政奉還。薩長2藩に倒幕の密勅下る。王政復古令。

 : 一般には龍馬は誕生日の11月15日に即死とされていたが、木村幸比古氏の「龍馬暗殺の真犯人は誰か」の記述にある通り、木村氏が当時の死亡時の明細帳から「慶応三丁卯十一月十六日死 旧高知藩」となっていることを確認した。