寺田屋での龍馬遭難

         

       坂本龍馬の和歌                  幕史の夜間警備

  

        寺田屋の正面                  龍馬が使用した「梅の間」            京都市伏見区南浜町(京阪本線 中書島駅より徒歩8分)

  寺田屋は、宇治川派流運河沿いの伏見の船宿で、前には蓬莱橋があり船泊まりがあった。女将お登勢は、龍馬をかわいがっていたこともあり龍馬の定宿であった。慶応2年(1866)1月21日薩長同盟の成立に立ち会った龍馬は、幕府の危険人物だったため夜間に移動し寺田屋についたのは、23日の深夜零時頃だった。その時、宿には長州藩がつけてくれた槍の名手三吉慎蔵お登勢お龍であった。

  この日、将軍補佐役一橋慶喜が二条城入りのため伏見に来ていた。この未明3時頃伏見奉公配下の捕史が、大挙して寺田屋を取り囲んだ。そして捕史はお登勢を呼び出し詰問を始めた。その時、お龍は一階の風呂に入っていて外の異変に気がつき、袷の前を手で押さえたままで、二階に駆け上がり龍馬に異変を告げた。龍馬は拳銃(高杉晋作から貰ったピストル)を三吉は槍を用意した。そこに捕史が上がってきて説得し逮捕しようとしたが、応じないため一旦引き下がった。そして今度は大勢で斬りかかった。お龍は裏口より500mほど先の伏見の薩摩屋敷に急を知らせた。

  室の行燈は、すでに消してあったので、真っ暗の中激闘が始まった。拳銃や槍で応戦したため、2階の外廻廊から落ちるものやらで大修羅場と化した。龍馬はピストルで5発発射したが、左右の手の親指を切られ、弾倉を落としたためピストルを捨て、二人は暗闇に乗じて裏口の物置を切り抜け逃げだし、隣の家の雨戸を突き破り家の中を逃げた。そして、近くの材木置き場に隠れた。三吉は怪我はなかったため薩摩屋敷に走って知らせた。留守役大山彦八は、川舟で材木置き場に行き、龍馬を舟底に隠して屋敷に運んだ。その時、龍馬は手の親指を斬られていて、出血多量でフラフラであった。その後、薩摩藩は、大砲や洋式歩兵の警備つきで京都御所近くの薩摩藩邸(現同志社大学)に龍馬を護送した。ここで1カ月位療養し、西郷隆盛らの薦めで、お龍と結婚し西郷らと鹿児島に行き、温泉や霧島などで静養した。

  

       寺田屋庭の龍馬の像              相国寺近くの薩摩藩邸跡

  寺田屋は、当時のまま残っている。梅の間の床柱には、龍馬が撃ったピストルの弾痕が、また、近くの柱には刀傷が当時のまま残されている。庭には4年前に起きた騒動「寺田屋殉職九烈士の碑」文久2年(1862)薩摩脱藩勤王の志士の碑もある。

  

          お登勢の墓          伏見の大倉記念館と酒蔵・宇治川派流の運河 

  お登勢は、侠気をもった女将で捕史に尋問されていても慌てず応対したという。また、薩摩脱藩の勤王の志士有馬新七の決闘の後、血の海を一人で黙々として掃除したという。幕府に抵抗する志士達を庇い自分にも危険がかかるなか、相当度胸のある女性であったようだ。墓は、伏見区役所近くの鷹匠町松林院にある。

  今日でも、当時の面影を残す伏見の酒蔵と運河。ここの酒が、宇治川派流の運河を舟で下り淀川を経て江戸に運ばれた。月桂冠大倉記念館には、昔ながらの作業工程が展示され、利き酒などもある。寺田屋より徒歩3分。