第1回江戸滞在 嘉永6年4月下旬〜安政元年5月中旬
嘉永6年、長年の剣術修行の結果「小栗流和兵法事目録」を日根野弁治から授与され、土佐藩から1年3ケ月間の江戸での修行が許された龍馬(18歳)は、3月17日江戸に向けて出発した。その時、父八平は「修行中心得」として次の三項目を書いて与えた。1.片時も忠孝を忘れずに修行第一のこと。2.諸道具に無駄金を使うな
3.色情に溺れ国家大事を忘れるな。以上胸中に修め無事帰国のこと。3月吉日
父
土佐上屋敷(丸の内3丁目東京国際フォーラム) 千葉定吉道場(八重洲2丁目付近) JR有楽町駅徒歩1分と7分
龍馬は、7歳年上の溝淵広之丞とともに、鍛冶橋にある土佐藩邸(上屋敷)?に4月下旬頃着いた。龍馬は、近くの京橋桶町にある「北辰一刀流」を指南する千葉定吉(千葉周作の弟)道場に入門した。そして稽古の指南役は長男の重太郎(20)と長女の佐那(さな)(16)であった。
このころ江戸では北辰一刀流千葉周作の「玄武館」・神道無念流斉藤弥九郎の「練兵館」・鏡新明智流桃井春蔵の「士学館」が三大道場と呼ばれていた。
土佐藩下屋敷跡付近(東大井4−15立会小学校) 山内容堂の墓(妻榮子の墓もある) 京浜急行鮫洲駅徒歩5分
この年の6月米国のペリー艦隊4雙が、江戸湾深く進入して来た。土佐藩は幕府から品川海岸の警備を命じられ、龍馬も大井村の土佐藩下屋敷に動員されて、浜に砲台等を築いた。この時、佐久間象山・吉田松陰らは浦賀まで偵察に急行している。
当時の品川海岸
龍馬は、この時のことを父八平宛の手紙に「異国船、処々に来り候由に候へば、軍(いくさ)も近き内と存じ奉り候。その節は、異国の首を打ち取り帰国仕るべく候」と書いている。この当時は、龍馬も血気盛んな攘夷の思想であった。
山内容堂
藩主容堂は、龍馬の2回の脱藩の罪を2回とも許すなど、また、進歩的な発言で幕閣をぴりぴりとさせた行動家であった。藩主山内豐信(とよしげ)(容堂)は、明治5年6月21日
45歳の若さで没している。 「贈従1位山内豐信公之墓」となっている。遺言によりここに埋葬した。
佐久間象山の塾付近(銀座5−15) 佐久間象山
龍馬は、黒船以来異国と戦うことを考え、西洋砲術を学ぶために当時第一人者であった佐久間象山の塾に入門したが、象山が逮捕されるまでの僅か4ケ月間位の期間であった。安政元年(1854)3月
日米和親条約調印。
ペリー来航の翌年(1854)3月吉田松陰らは、伊豆で密航に失敗し捕らえられ4月15日江戸伝馬町の獄に入っている。この時、佐久間象山も密航を勧めた罪で逮捕され国での謹慎となった。その後、解かれ京都に行き開国論者として攘夷派に襲われ殺害された。享年54歳。龍馬が高知に向け江戸を出発したのは5月中頃なので、象山が逮捕された時点のことは、知って帰っているものと予想する。
佐久間象山は、永代橋の信州松代藩下屋敷(永代1丁目10番地)に最初砲術塾を開いた。その後、嘉永4年5月に木挽町5丁目(銀座)に移った。勝海舟・橋本左内・吉田松陰らの門下生がいた。
坂本龍の墓(横須賀市大津町3丁目)信楽寺 坂本
龍(りょう?)
京浜急行線
京急大津駅
徒歩10分 平成11年9月3日撮影
坂本龍馬の妻「龍」は、京都の町医者楢崎将作の長女、安政の大獄で父が獄死した後、龍馬が龍を寺田屋に預けた。その寺田屋で伏見奉公配下捕史の乱入を受けたが、龍の機転で難を逃れた。その時、龍馬は負傷したが、薩摩藩邸に保護され静養した後、西郷隆盛らの勧めで「龍」と結婚し治癒のため鹿児島に行き温泉などで療養した。龍馬の死後は、長崎から上京し東山霊山の龍馬の墓に参り、土佐の坂本家で暮らしたり、京都・東京と旧知を訪ねて暮らし、明治8年7月2日現在の横須賀市「米が浜通1丁目」(横須賀共済病院)付近で、西村松兵衛と再婚し西村ツルと改名入籍した。墓石には「贈正四位坂本龍馬之妻龍子之墓」となっている。墓石裏には、明治39年1月15日夜没。享年66歳。中沢光枝建之とある。なお、龍の墓は、2年前までは下記の当時の写真の通り信楽寺の正門の左脇にあったが、現在の位置に改葬した。寺は、浄土宗
信楽寺(しんぎょうじ)。
改葬前の「龍」の墓 当時の「信楽寺」の正面 (共に平成9年12月6日撮影)
「龍」[りょう]・[とも]とも呼ばれていたが、確かなことは不明です。生年月日は天保11年説もあるが、横須賀市の除籍簿によれば、嘉永3年(1850)6月6日となつている。「龍」の葬儀は知人や隣人の助力で、明治39年10月20日ささやかに営まれましたとある。遺骨は、当時の信楽寺住職の好意によりこの地に葬られた。
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