クレタ文明(クノッソス宮殿)エーゲ文明は、まず、クレタ島を中心とするクレタ文明から始まった。 クレタ文明は、ギリシャ人が侵入する以前の先住民による文明である。 新石器時代に、南方のエジプト方面、東方のシリア・小アジア方面、北方の東ヨーロッパ方面などから、それぞれ独自の文化を持った人々がこの地域へやってきたらしい。 やがて、BC2600年ころ、青銅器時代に入ると、エーゲ海地域全体にほぼ共通する文化が普及した。その中心はエーゲ海の南に位置するクレタ島で、これをクレタ文明と呼ぶ。 クレタ島は、南方のエジプトや東方のシリアに比較的近かったことから、エジプト文明やメソポタミア文明の影響を受けて文明化が進んだ。BC2600年ころに青銅器時代が始まり、麦やオリーブなどの農業が行なわれ、羊ややぎなどの牧畜が行なわれた。また、海上貿易が発達し、小アジア南部やシリア方面との交易が行なわれた。現在のところ、世界最古の通商航海民とみなされている。 クレタ島では、BC2000年ころにクノッソス、BC1700年ころ以降にはファイストス、マリア、ザクロに大きな宮殿が建てられて、宮殿を中心に都市が発達した。宮殿には城壁がなく、明るく平和的な海洋文明であったらしい。 すでに文字を持っており、初期の絵文字から、やがて線文字(A種)へと進歩し、粘土板に宮殿の会計などを記録するようになっていた。 ギリシャの伝説では、クノッソスのミノス王は、強大な海軍を擁してエーゲ海の島々を支配したという。クレタ文明は、ミノス王の名前からミノア文明とも呼ばれる。 クレタ島の文明は、海上交易などを通じて、ギリシャ本土、小アジアなどのエーゲ海周辺やイオニア海に面する地域に広がった。 クレタ文明は、BC1450年ころ、突然に滅びてしまった。(注:BC1400年ころとする文献も多いが、「朝日=タイムズ 世界考古学地図 人類の起源から産業革命まで」に基づき、BC1450年ころとした。) ギリシャ本土へ侵入してミケーネ文明のにないてとなっていたギリシャ人によって滅ぼされたとする説と、クレタ島の北30キロにあるテラ島 Thira(サントリニ島 Santrini)の噴火による地震・津波・火山灰によるものとする説とがある。 【クノッソスなどの宮殿】 クノッソス Knossos クノッソスの宮殿は、クレタ島中央部の北側に位置する。イギリス人のアーサー・エヴァンズが1900年から発掘を開始し、発見した。 クノッソスの宮殿の下には、BC6000年ころのものとみられる初期の集落遺跡が発見されており、BC3000年ころには大きな集落に発展していた。BC2000年ころに最初の宮殿が建てられたが、これは地震で倒壊し、BC1700年ころには再建されていたようである。どちらも、城壁を持たない。 宮殿の中央と西側に中庭があり、中央の中庭は神聖な宗教儀式に用い、西側の庭は見物人の集まる競技(たとえば牛跳び(人が牛を跳び越える曲芸))などに使っていたと考えられる。 玉座の間は中央中庭の西側にあり、グリュプス(鷲の頭・翼とライオンの胴を持つ怪獣)のフレスコ画が描かれ、彫刻の施された石膏石でできた玉座が置かれていた。 王族の住居は宮殿の南東部で、夏には山からの涼しい風が入る場所にあった。3階から4階建てで、大階段でつながっており、採光用の吹き抜けや本格的な水道と排水設備があった。 穀物・オリーブ油・ワインなどの貯蔵に使用した大規模な貯蔵室があり、宮廷職人の仕事場もあった。宮廷職人は、青銅細工、宝石や象牙・金・銅などの細工、陶工、羊毛の織物、フレスコ画家、戦車や武具の製作者などがいたとみられる。宮殿が地域経済の繁栄に重要な役割を果たしていたことがわかる。 ファイストス Phaistos、マリア Mallia、ザクロ Zakro クノッソスから300年ほど遅れたBC1700年ころ以降になると、ファイストス、マリア、ザクロにも宮殿が建てられた。いずれの宮殿にも王族の部屋があり、諸国家が並立するようになったものと考えられる。いずれも、城壁を持たない。 ファイストスはクレタ島南側の中央に位置し、マリアはクノッソスの東方に、ザクロはクレタ島の東端に位置する。 【聖なる洞窟など】 彼らは、公共の神殿は建てなかったようである。 丘の上の聖域や聖なる洞窟で、大地母神・獣の神・狩猟の女神といった神々を礼拝していたとみられる。 一部の礼拝所では、疾病を表したものや治癒を願う手足や内臓をかたどったものが供えられており、疾病の治癒を祈とうしたものと考えられる。 一般の家の神棚には、両手に蛇を持った女神の像が、しばしば祭られていた。 【両刃の斧(ラブリュス)】 両刃の斧(ラブリュス)は、重要な宗教上の象徴であった。 黄金製で彫刻を施した高さ8.5cmの両刃の斧が、アルカロコリにある聖なる洞窟に奉納されていた。 また、クノッソス宮殿地下室の角柱に、両刃の斧がデザインされている。ギリシャ神話では、ミノス王の宮殿はラビュリントス(両刃の斧の館)と表現されている。なお、英語で迷宮や迷路を意味する labyrinth は、この語に由来している。クレタ文明時代の宮殿は、後のミケーネ文明時代の宮殿と比べると、規模は大きかったが構造が無秩序で安定感がないという。 【陶器など】 BC1900年ころに ろくろ がクレタ島へ伝えられ、卵殻陶器と呼ばれる薄手で美しく装飾された陶器が作られた。この陶器は地中海東部で交易されたらしく、キプロス島、レバント地方(シリア・パレスチナ地方)、エジプトから出土している。 また、クレタ島の人々は、青銅や銅などの金属細工、宝石細工、ファイアンス焼(エジプトの陶芸技法)、象牙細工、石製の碗の製造に熟達していたようである。 【文字】 絵文字 クレタ文明の人々は、当初、絵文字を使用していた。 この絵文字は、まだ解読されていない。 線文字A クレタ文明の絵文字は、やがて、線文字Aとよばれる音節文字とみられる文字に進化した。BC1550年ころからBC1450年ころに使用されたようである。 ギリシャ語とは異なる系統と考えられ、ヒッタイト語に近い方言を表しているとみられている。 「ヨーロッパの歴史 欧州共通教科書」によると、近年、ノルウェーのクウェル・アールトンがこの線文字Aを解読したと発表しているが、その成果を確認するためにはまだ時間がかかりそうであるとのことである。 線文字B ミケーネ文明のにないてとなったギリシャ人は、クレタ文明の人々が使用していた線文字Aを改良して線文字Bをつくり、古代ギリシャ語を表記するために使用した。クレタ島では、クレタ文明が崩壊したBC1450年ころ以降、BC1200年ころまで使用された。 1952年に、イギリスのマイケル・ヴェントリスが、ギリシャ語を手掛かりにして解読に成功している。 【参考ページ】 エーゲ文明 エーゲ海のサントリニ島で火山爆発 【LINK】 The Special Projects Server(英語) ≫ Classics ≫ Prehistoric Archaeology of the Aegean ≫ Lesson12 ≫ Lesson12 Images 「Exciteエキサイト:翻訳」による上記サイトの日本語訳 ≫ Prehistoric Archaeology of the Aegean(和訳) ≫ Lesson12(和訳) ≫ Lesson12 Images(和訳) ヨーロッパ三昧 ≫ エーゲ海の旅(ギリシア)サントリーニ島 - ロードス島 - クレタ島 参考文献 「新訂版チャート式シリーズ 新世界史」堀米庸三・前川貞次郎共著、数研出版、1973年 「新制チャート式シリーズ 新世界史B」前川貞次郎・堀越孝一・野田宣雄編著、数研出版、1994年 「朝日=タイムズ 世界考古学地図 人類の起源から産業革命まで」クリス・スカー編集、小川英夫・樺山紘一・鈴木公雄・青柳正規日本語版編集参与、朝日新聞社、1991年 「ヨーロッパの歴史 欧州共通教科書」フレデリック・ドルーシュ総合編集、木村尚三郎監修、花上克己訳、東京書籍、1994年 「カラー世界史百科 増補版」ヘルマン・キンダー、ヴェルナー・ヒルゲマン著、ハラルド・ブコール、ルース・ブコール図版、成瀬治監修、平凡社、1990年 「各国別世界史の整理 第5版」三省堂編集所遍、三省堂、1993年 「文字の歴史」ジョルジュ・ジャン著、高島啓訳、矢島文夫監訳、創元社(知の再発見双書01)、1990年 「新制版 世界史辞典」前川貞次郎・会田雄次・外山軍治編著、数研出版、1983年 「研究社現代英和辞典」岩崎民平監修、研究社、1973年 更新 2004/5/12 |