1764年 ドイツでロスチャイルド家が創業1764年、ロスチャイルド家初代のマイヤー・アムシェル・ロスチャイルド(当時20歳)が、ドイツのフランクフルトで商売を始めた。看板には、「赤い楯」(注)の絵が描かれ、ドイツ語で「zum rothen Schilde」(赤い楯にて)と書かれていた。この「赤い楯」を家名としたのが、ロスチャイルド Rothschild 家である。ドイツ語ではロートシルト、フランス語ではロチルド、英語ではロスチャイルドと発音される。(出典:広瀬隆著「赤い楯 ロスチャイルドの謎T」(集英社文庫、1996年)p49-50 および p60 ) |
(注: ロスチャイルド家 - Wikipedia の「マイアー登場以前」の項では、「ロートシルト(赤い表札)」としたうえで、「注釈1」に次のような記述がある。 『 「赤い盾」と訳す書もあるが、ドイツ語の「シルト」には男性名詞と中性名詞があり、男性名詞は「盾」だが、中性名詞は「表札」の意味である。ロートシルトのシルトは中性名詞の「表札」の意である[6]。 』 |
マイヤー・アムシェル・ロスチャイルドはユダヤ人で、当時、フランクフルトの「ゲットー」(ユダヤ人居住地区)に住んでいた。初めは両替商としてスタートし、やがて、ドイツ諸侯最大の資産家だったヘッセン=カッセル方伯ヴィルヘルム9世(後にヘッセン選帝侯ヴィルヘルム1世)の宮廷御用商人となり、戦乱のヨーロッパを舞台に、その資金を運用して巨万の富を得た。(出典: フランクフルト・ゲットー - Wikipedia の「ロスチャイルド家発祥の地」の項 および 広瀬隆著「赤い楯 ロスチャイルドの謎T」(集英社文庫、1996年)p58-59 ) マイヤー・アムシェル・ロスチャイルドには、5人の息子と5人(一説には7人)の娘があり、1812年に初代のマイヤーは死去したが、5人の息子たちは、固い結束とヨーロッパに築いたネットワークとによって、巨額の資産を蓄えていった。 ・1804年、三男のネイサン(当時27歳)が、イギリスのロンドンで開業。 ・1817年、五男のジェイムズ(当時25歳)が、フランスのパリで開業。 ・1820年、次男のサロモン(当時46歳)が、オーストリアのウィーンで開業。 ・1821年、四男のカール(当時33歳)が、イタリアのナポリで開業。 ・ドイツのフランクフルトは、長男のアムシェルが引き継ぐ。 特に、三男のネイサンは、ワーテルローの戦い(1815年6月18日)を利用して、イギリス公債の売買で巨額の利益を上げるなど、イギリスで大きな成功を収めた。 (出典:広瀬隆著「赤い楯 ロスチャイルドの謎T」(集英社文庫、1996年)p51-52 および p60-63 ) 参考文献 「赤い楯 ロスチャイルドの謎T」広瀬隆著、集英社文庫、1996年 ロスチャイルド家 - Wikipedia ゲットー - Wikipedia フランクフルト・ゲットー - Wikipedia の「ロスチャイルド家発祥の地」の項 更新 2014/5/7 |