1853年 日本へアメリカのペリーが来航隣国の中国清朝は、1840〜1842年のアヘン戦争でイギリスに敗れ、日本へもヨーロッパ列強の進出が迫っていた。 日本の鎖国中も国交のあったオランダは、日本が鎖国を続けることは困難だと考え、1844年7月にオランダ政府から徳川幕府へ開国を勧告する国書を送った。幕府では活発な論議が行われたが、老中阿部正弘のもとで祖法順守派が大勢を占め、鎖国政策をやめるつもりはないとの回答を送った。老中首座であった水野忠邦などの受け入れ派はのちに処分されている。 オランダは、ペリー来航についても、事前の情報を得ていた。その情報は、1852年6月に、オランダ商館長が毎年重要事項を記載して幕府に提出している「別段風説書」によって、幕府へ伝えられた。しかし、幕府の老中首座であった阿部正弘は、幕閣の合議制であった会議を動かすことができず、結局、財政難であった幕府は、情報の信頼性が疑がわしいとして、全くの無策であった。 アメリカ東インド艦隊司令官ペリーは、遣日特使として軍艦4隻を率い、1853年6月3日(旧暦)に三浦半島の浦賀(現在の神奈川県)に入港した。 なお、この時のペリーは、太平洋の横断ではなく、アメリカ東海岸から大西洋とインド洋を経て日本へやって来た。(出典: ペリーは戦闘準備を行って、武力で威嚇しながら、徳川幕府に開国を迫り、国書を渡して、来年の春に返書を受け取りに来ると告げて帰った。 ペリーは、1854年1月16日(旧暦)に7隻で再度来航した。ペリーは礼砲・祝砲の名目で55発の大砲を発射するなど軍事的な威圧を加えて交渉を行い、同年3月3日(旧暦)に幕府と日米和親条約を締結した。条約の内容は、 箱館(現在の北海道函館)と下田(現在の静岡県伊豆半島)の開港、 漂流民の救恤(きゅうじゅつ)、 薪水・食料・石炭などの供給、 両港における遊歩区域の設定、 アメリカ船の必要品購入許可、 アメリカへの最恵国待遇の承認 などである。 さらに、イギリス、フランス、ロシア、オランダともほぼ同様の和親条約を結んだ。このうち日露和親条約には、千島列島の択捉(エトロフ)島と得撫(ウルップ)島の間を両国の国境とし、樺太は両国雑居の地とする国境問題が含まれていた。 ここに、日本は二百数十年にわたる鎖国に終止符を打ち、開国することとなった。 その後、日本国内は動揺を続け、1867年に徳川幕府は大政奉還、1868年に明治維新を迎える。 【ペリー以前の来航】 1739年、ロシアのベーリング探検隊の分遣隊として、シュパンベルクの率いる4隻が時々別行動をとりながら、東北・関東の太平洋側付近を調査した。上陸して住民と物々交換も行っている。 1792年、ロシアのアダム・ラクスマンがエカテリーナ号で根室に来航した。難破してアリューシャン列島のアムチトカ島に漂着した伊勢の船頭である大黒屋光太夫ほか2人を送るとともに、日本との通商を求めた。 1796年、イギリス海軍中佐ブロートンが指揮するプロビデンス号が、日本沿岸測量の途中に絵鞆(えとも、現在の北海道室蘭)に来航し、薪水を補給した。 1804年、ロシアのレザノフが軍艦ナデジュダ号で長崎に来航。ロシアに漂着した石巻きの漁民津太夫ほか3人を送るとともに、日本との通商などを求めた。 1808年、イギリス船フェートン号が長崎に侵入。オランダ商館員2人を一時拉致し、長崎港内でイギリスのボートがオランダ船の捜索を行った。オランダはナポレオン戦争でフランスの支配下にあったため、フランスに敵対するイギリスはオランダを敵国とみなし、アジアにおけるオランダの地位を脅かしたものであった。日本は希望どおり食料と薪水の供給を行い、オランダ商館員2人は解放された。この事件の責任をとって、長崎奉行が切腹している。 1811年、ロシアの測量船ディアナ号が、択捉島に上陸して薪水と食料を求めた。二度目に国後島へ上陸した際、艦長ゴローニンが松前奉行所と会見中に誤解されて捕らえられた。松前奉行はロシア政府の関与を疑っていた。艦長ゴローニンは箱館(現在の北海道函館)へ送られたが、1813年に釈放された。 1824年、イギリスの捕鯨船の乗組員12人が常陸の大津浜に上陸し、水戸藩に全員逮捕された。密貿易の疑いをもたれたが、食料と薪水を求めたもので、2か月足らずで釈放された。 1825年、幕府が外国船打払令を出す。 1828年、シーボルト事件。 1837年、モリソン号事件。浦賀にあらわれたアメリカの貿易商社の所属船モリソン号に対して、浦賀奉行所が外国船打払令に従って砲撃を加えた。モリソン号は漂流してマカオで保護された日本人漁民7人の送還と通商・布教の意図を持っていたが、かなわなかった。 1840〜1842年、隣国の中国清朝がアヘン戦争でイギリスに敗れる。 1842年、幕府が外国船打払令を緩和し、状況に応じて薪水の給与を認めた。 1843年、ロシア船が択捉島に漂流民を護送してくる。 〃 イギリス艦サマラン号が、八重山諸島(現在の沖縄県)に上陸し、測量を行う。 1844年、フランス艦アルクメーヌ号が那覇に来航して通商を求める。 〃 オランダからの国書が届く。 1845年ころ〜、外国船が頻繁に日本の沿岸に現れるようになる。 1846年、アメリカ東インド艦隊司令長官のビッドル提督が率いる軍艦2隻が浦賀に入港。日本に開国の意志があるか打診して帰った。 〃 幕府が、琉球と諸外国の貿易を容認する意向を、薩摩藩に内々に伝える。 1849年、イギリス軍艦マリナー号が、浦賀沖に入り江戸湾の測量を開始した。食料の提供を受けただけで、調査を行って立ち去った。 1852年、オランダ商館長がペリーの来航を予告。 1853年、ペリー来航。軍艦4隻(蒸気船2隻、帆船2隻)。 【アメリカの事情】 イギリスから始まった産業革命は欧米諸国に波及していったが、アメリカの綿工業は中国市場で優位にあったイギリスを追いあげつつあった。 アメリカは1848年にメキシコとの戦争に勝利してカリフォルニアを手に入れた。そこで、カリフォルニアから太平洋を横断して上海・広東を結ぶ汽船航路の開設を目指した。当時の汽船は石炭を大量に消費したため、途中での寄港地を必要とした。石炭の積載量を減らすことができれば、その分の商品貨物を積めるからである。こうして、アメリカは日本に寄港地を求めようとしていた。 日本に開国を求めたもうひとつの理由は、捕鯨業であった。アメリカは北太平洋での捕鯨業が盛んになっていたが、遭難して日本にたどりついた者は帰還させるまで拘束状態におかれ、病死者や自殺者もでていた。アメリカでは人道的な問題として世論を刺激していた。 なお、ペリーは1853年の航海で日本に開国を要求したほかに、小笠原諸島の父島に貯炭所の土地を確保し(注)、琉球政府に貯炭所の設置に同意させている。 |
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(注: 下の動画(35分13秒付近から)によると、仲小路彰著『太平洋侵略史』には、アメリカが小笠原群島を占領して植民地とし国旗を立てた、と記述しているそうです。西尾幹二氏の説明によると、その後、アメリカとイギリスが小笠原諸島をめぐって対立したため、最終的に日本の帰属となった。 |
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鯨油は、灯火用燃料としてだけでなく、蒸気機関の潤滑油としても重宝されていた。(出典:佐藤知恵著「ハーバード 日本史教室」(中公新書ラクレ、2017年)p107のイアン・ジャレッド・ミラー教授の発言。) 【黒船来航の情報】 薩摩藩では、藩士がオランダ商館の通訳から情報を聞き出して、藩主の島津斉彬(なりあきら)へ報告した。 幕府の老中首座であった阿部正弘は、防衛体制を整える必要があることから薩摩藩・佐賀藩・福岡藩の藩主にペリー来航の情報を流した。薩摩藩の島津斉彬は、宇和島藩・尾張の徳川慶勝・水戸の徳川斉昭へこの情報を伝えた。さらに、宇和島藩から福井藩へ、福井藩から水戸の徳川斉昭へも情報が流れている。 実際にペリーが来航すると、各藩へは飛脚によって速報されたようである。現地を視察した吉田松陰も、萩へ手紙を送っている。また、かわら版が発行されて庶民のあいだに伝わったほか、古本屋の藤田屋などは幕府の役人などから得た情報をまとめて売っていたという。 【吉田松陰の密航計画】 佐久間象山の門下であった長州藩出身の吉田松陰と弟子の金子重之輔は、3月28日(旧暦)午前2時ころ小舟でアメリカ艦に漕ぎ寄せて密航を切望した。ペリーは日本側が自分たちを試す策略かも知れないとの疑心もあり、2人を強引に人目のない海岸へ送り返させた。 2人は、この日のうちに下田で自主して下田の獄に入れられたのち、長州藩に引き渡されて萩城下の野山獄につながれた。金子は翌年に獄死している。佐久間象山は、2人の密航に同意したとして逮捕され、国もとの松代への蟄居を命じられた。 のちに、野山獄を出た吉田松陰は、実家の杉家に幽閉されていたが、藩から外叔が継いでいた松下村塾を主宰することを許された。松下村塾からは、久坂玄瑞・高杉晋作・伊藤博文・山県有朋・前原一誠・品川弥二郎などが輩出されている。 【諸大名の答申など】 幕府の老中首座であった阿部正弘は、アメリカの国書を大名・庶民に広く公開して意見を求めた。このとき、幕臣の勝海舟(当時は小普請(無役))は、開国して貿易で利益をあげて大砲などの武備をととのえること、人材登用、兵制改革、和漢洋の実学の発展を主張した。ちなみに、諸大名の多くは「べつに考えはない」というもので、長州藩主毛利慶親(よしちか)と越前藩主松平慶永(よしなが)らはアメリカの要求の断固拒否を主張した。 また、水戸藩主徳川斉昭(なりあきら)を海防参与に任命したほか、商人からの献金によって、品川沖に7つの海上砲台(御台場)を建設した。 【1853年以降の状況】 和親条約の締結 ・1854年3月31日(嘉永7年3月3日)、日米和親条約の調印。 ・1854年10月14日(嘉永7年8月23日)、日英和親条約の調印。 ・1855年2月7日(安政元年12月21日)、日露和親条約の調印。 ・1856年1月30日(安政2年12月29日)、日蘭和親条約の調印。(出典: フランスとは初めから修好通商条約を結んだようです。(出典: 修好通商条約の締結 ・安政五カ国条約 幕府は1858年(安政5年)に、アメリカ、イギリス、フランス、ロシア、オランダの5か国と修好通商条約を結んだ。 1858年7月29日(安政5年6月19日) 日米修好通商条約の調印 1858年8月18日(安政5年7月10日) 日蘭修好通商条約の調印 1858年8月19日(安政5年7月11日) 日露修好通商条約の調印 1858年8月26日(安政5年7月18日) 日英修好通商条約の調印 1858年10月9日(安政5年9月3日) 日仏修好通商条約の調印 幕府が条約を締結したものの、攘夷主義の孝明天皇は勅許を与えず、尊皇攘夷派の活動と幕府の弾圧などによって国内は大混乱となる(安政の大獄・桜田門外の変・下関戦争など)。朝廷は、1864年の英仏蘭米による兵庫開港要求事件に至って、ようやく条約に勅許を与えた。 安政五カ国条約の主な内容は、次のとおり。 @公使・領事の交換について。また、外国の公使・総領事は日本国内を旅行できる。 A神奈川(現在の横浜)・長崎・箱館の3港を開港する。 B将来において、新潟の開港(1860年1月1日)、江戸の開市(1962年1月1日)、兵庫の開港と大坂の開市(1963年1月1日)を約束する。 C開港地に外国人居留地を設け、外国人が外出できる範囲を定める。江戸・大坂には、逗留できるが居留はできない。 D両国の商人は自由に取引できる。ただし、軍需品・米・麦・銅など規制あり。 E外国人は日本人を雇用できる。 F輸出入品は、全て日本の税関(運上所)を通す。 G関税率を定める。(したがって関税自主権はない。税率は天津条約に比べると妥当との指摘がある(出典: H阿片の輸入を禁止する。 I日本通貨・外国通貨とも使用可。 J日本人に対し犯罪を犯した外国人は、領事裁判所にて裁かれる。外国人に対して犯罪を犯した日本人は、日本の法律によって裁かれる。(外国が領事裁判権を求めたのは、日本にはまだ近代的な法体系が整っていないためと考えられる。) K宗教の自由について。 L日本政府は外国人を雇用できる。 M日米修好通商条約の場合、条約の発効は1859年7月4日で、13年後の1872年7月4日に条約内容の変更が必要な場合は通知のうえ見直すこととなっていた。 後に明治政府によって条約改正交渉が断続的に行われたが、条約の不平等な部分が解消されるのは、日露戦争後の1911年(明治44年)である。 ・その他の国との修好通商条約締結 ポルトガル(1860年)、プロシア(1861年)。 スイス(1864年)、ベルギー(1866年)、イタリア(1866年)、デンマーク(1866年)。 明治以降は、スペイン(1868年)、スウェーデン(1868年)、ノルウェー(1868年)、オーストリア(1869年)、ハンガリー(1869年)など。 遣米・遣欧使節 ・万延元年遣米使節 1860年2月9日(安政7年1月18日)〜同1860年11月9日( 訪れた国は、アメリカ。 目的は、日米修好通商条約批准書の交換、通貨交換比率の交渉。 往路でハワイ王国に立ち寄り、サンフランシスコに入港。パナマを視察(パナマ運河はまだ未完成)。ワシントンでブキャナン大統領に謁見、批准書交換、スミソニアン博物館・国会議事堂・ワシントン海軍工廠・アメリカ海軍天文台を見学。ボルチモア、フィラデルフィア(造幣局を見学)、ニューヨークを訪れた。帰路は大西洋から喜望峰をまわってバタヴィア(現ジャカルタ)、香港を経由して帰国。 正使は新見正興、副使は村垣範正、目付は小栗忠順、総勢77名。 これとは別に、正使一行の護衛を名目に咸臨丸を派遣した。司令官は木村喜毅、勝海舟と(長崎)海軍伝習所出身者たち、通訳に中浜万次郎(ジョン万次郎)、木村の従者として福澤諭吉、技術アドバイザーとしてアメリカ海軍大尉ブルックと米国軍人たちが乗船した。往路の嵐で日本人乗員は使いものにならず、米国人乗組員が操船した。ブルックは死後50年間日記の公開を禁じたため、航海の実態が明らかになったのは1960年だという。咸臨丸はアメリカに到着した後、使節と別れ日本に帰国している。 ・文久遣欧使節(第1回遣欧使節) 1862年1月21日(文久元年12月22日)〜翌1863年1月30日(文久2年12月11日) 訪れた国は、フランス・イギリス・オランダ・プロシア・ポルトガル、および、ロシア。 目的は、修好通商条約で約束した新潟・兵庫の開港と江戸・大坂の開市を延期する交渉(5年延期で合意できた)、および、ロシアとの樺太国境画定交渉(不調)。 往路は英領香港、英領シンガポール、英領セイロン、英領イエメンを経由、エジプト・スエズに上陸、鉄道でカイロからアレクサンドリア、英領マルタを経て、マルセイユに入港。パリ(交渉不調)、ロンドン(5年延期で合意、ロンドン万国博覧会・鉄道・国会議事堂・バッキンガム宮殿・大英博物館を見学)、オランダ(合意)、プロイセンのベルリン(合意)で交渉を行った。ロシアのサンクトペテルブルクでの国境交渉は不調。復路はカウナス(現在はリトアニアの都市)、プロイセン、フランス(合意)、ポルトガル(合意)。帰路は英領ジブラルタルを経由し、往路とほぼ同じ行路で帰国。 正使は竹内保徳、副使は松平康英、目付は京極高郎。この他、柴田貞太郎、福地源一郎、福沢諭吉、松木弘安(寺島宗則)など、総勢36名。後日、通訳の森山栄之助と渕辺徳蔵が加わった。 ・横浜鎖港談判使節(第2回遣欧使節) 1864年2月6日(文久3年12月29日)〜同1864年8月23日(元治元年7月22日) 訪れた国は、フランス。 幕府が国内の攘夷派懐柔のために横浜の再度閉鎖交渉を目的に派遣したが、交渉は当然不調。 正使は池田長発、副使は河津祐邦、目付は河田熙。 往路は上海、インド、スエズを経由、カイロ(ピラミッドとスフィンクスを視察)、マルセイユに入港。パリで皇帝ナポレオン3世に謁見、交渉に入るが正使の池田長発自身も西欧文明の強大さを認識し開国の重要性を感じて交渉を途中で打ち切った。他国に寄らず帰国。 ・岩倉使節団 1871年12月23日(明治4年11月12日)〜1873年(明治6年9月13日) 訪れた国は、アメリカ、ヨーロッパ諸国。 目的は、友好親善と西洋文明の視察、および、条約改正の予備交渉。 正使は岩倉具視、副使は木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳。政府首脳陣に、書記官、理事官、視察官、随行員、若い女子5名を含む43名の留学生(含む中江兆民・津田梅子)など、総勢107名。 横浜港を出てサンフランシスコに上陸しワシントンD.C.へ(アメリカに約8か月間滞在)、大西洋を渡ってヨーロッパへ。イギリス(4か月)、フランス(2か月)、ベルギー、オランダ、ドイツ(3週間)、ロシア(2週間)、デンマーク、スウェーデン、イタリア、オーストリア(ウィーン万国博覧会を視察)、スイスを訪問。帰路は、マルセイユからスエズ運河を通過し紅海を経て、セイロン、シンガポール、サイゴン、香港、上海などを訪問して帰国。 復命書(欧米各国の制度・文物の調査報告書を含む。)が1877年(明治10年)にまとめられ、現在は国立公文書館に『大使書類』(278冊)として所蔵されている。(出典: また、翌年末には、対外的に正式の報告書とされる『米欧回覧実記』が太政官から刊行された。(出典: ペリー後の主な外国船来航 次のサイトを参考にさせていただきました。一部、順不同につき注意(入り組んでいます)。 ・1854年、ペリーの二度目の来航。最終的には9隻(帆船・輸送艦を含む)が江戸湾に集結した。同1854年に横浜村(現在の横浜市)で日米和親条約を締結。 ・1853年(ペリーの一度目の来航に遅れること1ヵ月半)、ロシアのプチャーチンが4隻の艦隊で長崎に来航し、平和的に交渉を求めたが、クリミア戦争(1853-1855年 英仏土vs露)でロシアと戦っていたイギリスが艦隊を差し向けたとの情報を得たため長崎を離れて上海に向かた。その後、長崎に再訪、函館・下田も訪れた。安政東海地震などもあって、やっと1855年に日露和親条約を締結。 ・1854年、イギリスのスターリングがロシアを追って4隻の艦隊で長崎に入港したが、プチャーチンはすでに長崎にいなかった。スターリングは英露が戦争中であり、ロシアは樺太・千島に領土的野心があるとして、幕府に中立を求めた。日米和親条約が締結されたのち、イギリスとも日英和親条約を締結した(同1854年)。 ・1859年、ロシアのムラビヨフが7隻の艦隊で江戸に来航。樺太全土をロシア領とし、宗谷海峡を日露国境とすることを主張したが、江戸幕府はこれを拒否した。この交渉の間に、ロシア士官1人・水夫1人が横浜で日本人に殺害されたが、ムラビヨフは賠償金の請求はしなかった。これが幕末期の最初の外国人殺害事件となった。 ・ロシア軍艦対馬占領事件。 1861年、不凍港を求めていたロシアの軍艦ポサドニック号が対馬島に来航し、その後上陸して兵舎・工場・練兵場などを建設した。対馬藩は対応に苦慮、幕府は外国奉行・小栗忠順を咸臨丸で対馬に急派したが解決せず。幕府はイギリスの協力を得て、英軍艦2隻が対馬に回航し、形勢不利とみたロシアは対馬から退去した。ロシアの建てた建造営物は破壊された。 ・1863年8月15〜17日(文久3年7月2〜4日)、薩英戦争。 前年の1862年9月14日(文久2年8月21日)に起きた生麦事件(薩摩藩の行列を乱したとしてイギリス人が殺傷された。)の賠償を求めるイギリスと薩摩藩との交渉が決裂して戦闘となり、鹿児島城下(焼失1/10)などが攻撃された。薩摩藩は幕府から借用して賠償金を支払ったが、幕府に返金されることはなかった。薩英は互いに認め合う部分があり、その後親密になっていった。 ・下関戦争=1863年の下関事件と1864年の四国艦隊下関砲撃事件(馬関戦争)。 幕府が約束させられた攘夷決行の日である1863年6月25日(文久3年5月10日)、長州藩が下関海峡を通過するアメリカ船を砲撃した。長州藩は続いて7月8日(5月23日)にフランス船、7月11日(5月26日)にオランダ船を砲撃した。朝廷からも攘夷決行を称賛する沙汰が下されている。しかし、7月16日(6月1日)にアメリカのワイオミング号が長州藩の軍艦である壬戊丸・庚申丸を撃沈し、癸亥丸を大破させた。7月20日(6月5日)にはフランスのセミラミス号とタンクレード号が、前田・壇ノ浦の砲台を猛砲撃し陸戦隊を降ろして占拠、民家を焼き払い砲を破壊した。 それでも長州藩は下関海峡の封鎖を続けていた。イギリス・フランス・オランダ・アメリカの4か国は攘夷が不可能であることを思い知らせるために懲罰攻撃を決定し、1864年7月22日(元治元年6月19日)に幕府に通告した。長州藩は9月4日(8月4日)に停戦の方針を決めたがすでに遅く、翌9月5日(8月5日)から4か国の攻撃が始まった(イギリス9隻・フランス3隻・オランダ4隻・アメリカ1隻)。このとき長州藩は、禁門の変のために主力部隊を京都へ派遣していて手薄であった。四国艦隊は下関にある長州藩の砲台をことごとく破壊、一部は下関市街を目指して内陸部へ進軍して交戦した。長州藩は惨敗して講和を結んだ。この戦いに山縣有朋が奇兵隊軍監として参加しているほか、高杉晋作が講和使節の使者に選ばれ、伊藤博文が交渉の通訳をしている。講和内容は次の5か条、@海峡通航の自由、A必要品の売り渡し、B悪天候時の上陸許可、C下関砲台の撤去、D賠償金の支払(ただし、攘夷を指示したとの名目で幕府へ請求)。これ以後、長州藩は攘夷をあきらめ、近代文明を積極的に取り入れていく。 ・1865年11月4日(慶応元年9月16日)、兵庫開港要求事件 安政五カ国条約(米英仏露蘭と結んだ通商修好条約)によって、新潟・兵庫の開港と江戸・大阪の開市を約束していたが、朝廷は京都に近い大坂の開市と兵庫の開港に猛反発していた。これらの事情によって延期せざるをえなくなった日本は、文久遣欧使節(1862-1863年)を欧米に送って交渉し、合意を得て兵庫の開港予定日は1863年から5年間延期して1868年1月1日とすることとなっていた。 英仏蘭米の4か国は兵庫の早期開港要求(賠償金を1/3にする代わりに兵庫開港を2年間前倒しする案)と天皇から修好通商条約の勅許を得る目的で、連合艦隊を兵庫に派遣した(将軍徳川家茂は長州征伐のため大坂に滞在中であった)。1865年11月4日(慶応元年9月16日)に8隻(イギリス4隻・フランス3隻・オランダ1隻・アメリカなし)が兵庫港へ到着。交渉が行われ、紆余曲折を経て、11月24日(10月7日)に幕府は孝明天皇が条約の批准に同意したと回答した。兵庫の開港日(1868年1月1日)は変更せず、下関戦争の賠償金も当初の300万ドルで合意、同時に関税率の改定も行われた。 ・1868年1月1日(慶応3年12月7日)、兵庫開港 兵庫の開港は5年延期されて1868年1月1日(慶応3年12月7日)の予定となったが、幕府の要請に対して朝廷はなかなか勅許を出さず、慶喜自身が参内してようやく勅許を得ることができたのは開港予定日の半年前であった。開港予定日直前の1867年12月に、英米仏は18隻の大艦隊を兵庫に派遣、兵庫は予定どおり開港された。 主な攘夷の動き ・1858年(安政5年)、安政五カ国条約(米英仏蘭露との修好通商条約)の締結。 ・1858年8月14日(安政5年7月6日)、第13代将軍の徳川家定が死去。 ・1858年9月14日(安政5年8月8日)、孝明天皇が水戸藩に直接勅書を下賜する(戊午の密勅)。 ・1858年(安政5年)〜1859年(安政6年)、安政の大獄。 ・1859年、ロシアのムラビヨフの艦隊が来航した際に、ロシア人2人が殺害される事件が起きた。 ・1860年3月24日(安政7年3月3日)、桜田門外の変。水戸・薩摩の脱藩浪士が、大老の井伊直弼を暗殺。 ・1861年1月14日(万延元年12月4日)、アメリカ総領事ハリスに雇われていた通訳のヘンリー・ヒュースケンが、浪士組(新選組・新徴組の前身)所属の薩摩藩士に襲われて翌日死去した。 ・1861年(文久元年5月28日)、第一次東禅寺事件。 英公使オールコックが条約で定める国内旅行権を強硬に主張して陸路で長崎から江戸へ向かった。これに反発した水戸脱藩浪士14人が高輪の東禅寺に置かれていた英公使館を襲撃し、死傷者を出したがオールコックは危うく難を逃れた。 ・1861年(文久元年8月)、武市半平太が江戸で密かに土佐勤王党を結成する。 ・1862年2月13日(文久2年1月15日)、坂下門外の変。水戸浪士6人が、老中の安藤信正を襲撃し負傷させた。 ・1862年3月11日(文久2年2月11日)、第14代将軍の徳川家茂と和宮親子内親王の婚儀。 ・1862年5月21日(文久2年4月23日)、寺田屋事件(寺田屋騒動)。 薩摩藩主の父である島津久光は、1861年(文久元年4月19日)に島津宗家へ復帰して藩の実権を掌握していた。島津久光はこのころ公武合体の考えにあり、薩摩藩兵千名を率いて上洛して、朝廷に働きかけを行ったが、この京都滞在中に寺田屋事件が起きた。 薩摩藩の尊王派である有馬新七らは、同じく尊王派の志士である真木和泉(久留米藩士)・田中河内介らと共謀して、関白九条尚忠・京都所司代酒井忠義邸を襲撃することを決定し、伏見の船宿寺田屋に集った。島津久光はこの計画を抑えるため鎮撫使として剣術に優れた藩士9人を派遣したが、激しい斬りあいとなり有馬新七ら6人と鎮撫使1人が死亡した。 ・1862年6月25日(文久2年5月28日)、第二次東禅寺事件。 英公使館となっていた東禅寺の警備兵の一人(松本藩士)が、オールコック帰国中の代理公使ジョン・ニールの殺害を図ったが果たせなかった。 ・1862年9月14日(文久2年8月21日)、生麦事件。 公武合体の考えを持つ島津久光(薩摩藩主の父で藩の実権を握っていた)は京都で朝廷に働きかけを行って、天皇の勅使を幕府へ派遣して将軍・徳川家茂の上洛を求めることなどが決まった。島津久光は勅使・大原重徳に随従して江戸へ行き、幕府と交渉して「文久の改革」が行われることが決まった。島津久光が江戸から京都へ戻る際に、横浜郊外の生麦村で「生麦事件」が起こった。 薩摩藩の行列を乱したとしてイギリス人4人のうち3人を薩摩藩士が殺傷(死亡1名負傷2名)した。薩摩藩一行の中に大久保利通もいた。イギリスと薩摩藩の交渉は決裂して、翌年に薩英戦争が起こっている。 ・1862年(文久2年12月)、孝明天皇が攘夷の勅書を将軍徳川家茂に授けた。 ・1863年(文久3年3月)に将軍徳川家茂は上洛し、1863年6月25日(文久3年5月10日)をもって攘夷を決行すると約束させられる。幕府は右の期限をもって、通商条約の破棄について諸外国との交渉を開始することとし、諸藩には海防の強化を命じた。 ・1863年6月25日(文久3年5月10日)、下関事件。(攘夷を決行) ・1863年8月15〜17日(文久3年7月2〜4日)、薩英戦争。(生麦事件が原因) ・1863年9月29日(文久3年8月17日)、天誅組の変。 朝廷の尊王攘夷急進派(三条実美など)は、孝明天皇が大和国の神武天皇陵に行幸して攘夷親征の軍議を行うという計画(大和行幸)を企てて、詔勅を出すのに成功した。この大和行幸の先鋒となるべく、吉村虎太郎(土佐藩出身)が中心となり攘夷派公卿の中山忠光を担ぎ同志38人を集めて大和へ向かい、1863年9月29日(文久3年8月17日)に幕府天領の五条(現在の奈良県五條市)で代官所を襲撃して挙兵した。新政府樹立と倒幕を志したものと思われる。 挙兵の翌日に、朝廷で公武合体派によるクーデター「八月十八日の政変」が起こり、尊王攘夷急進派が排除されて、この挙兵は暴徒とみなされ追討命令が出た。吉村虎太郎は十津川郷士(尊王の志が厚いことで知られていた)に強引に募兵を働きかけて960人を集めたが、幕府の命を受けた紀州藩・津藩・彦根藩・郡山藩などの討伐を受けて壊滅した。なお、孝明天皇の大和行幸は行われなかった。 ・1864年9月5日(元治元年8月5日)、四国艦隊下関砲撃事件(馬関戦争)。(下関事件への報復) ・1864年5月2日(元治元年3月27日)、天狗党の乱。筑波山で挙兵。 ・1865年11月4日(慶応元年9月16日)、兵庫開港要求事件。 ・1866年3月8日(慶応2年1月22日)、薩長同盟の締結。 ・1866年3月9日(慶応2年1月23日)、寺田屋事件。伏見奉行の捕り方が坂本龍馬を捕らえようとしたが、坂本龍馬は負傷して逃げ薩摩藩邸にかくまわれた。 ・1866年8月29日(慶応2年7月20日)、第14代将軍の徳川家茂が死去。(死因は脚気衝心) ・1867年1月30日(慶応2年12月25日)、孝明天皇が崩御。(死因を天然痘とする説と毒殺とする説がある。) ・1867年(慶応3年6月9日)に長崎を出て、兵庫へ向かっていた土佐藩船「夕顔丸」のなかで、坂本龍馬が土佐藩の後藤象二郎に船中八策を示した。 ・1867年11月9日(慶応3年10月14日)、第15代将軍徳川慶喜が政権返上を明治天皇に上奏し、翌日に天皇がこれを勅許した。(大政奉還) ・1867年12月10日(慶応3年11月15日)、近江屋事件。坂本龍馬が暗殺された。 ・1868年1月1日(慶応3年12月7日)、兵庫が開港。 ・1868年1月27日〜30日(慶応4年1月3日〜6日)、鳥羽・伏見の戦い。(戊辰戦争の始まり) 戦いに敗れた徳川慶喜は、天保山沖に停泊中の米国軍艦イロコイに一旦避難し、その後幕府軍艦開陽丸で江戸に脱出した。 ・1868年2月4日(慶応4年1月11日)、神戸事件(備前事件)。 神戸で備前藩兵の隊列をフランス人水兵2人が横切ったことから、これを槍で突いて負傷させて銃撃戦に発展し、さらに隣接する居留地の予定地を検分していた欧米諸国公使たちに一斉射撃を加えるに至った。兵庫開港を祝って集結していた米英仏の艦船から兵を出して備前藩兵を居留地外に追撃て撃ち合いとなったが、お互いに死者もなく負傷者もほとんどなかった。列強諸国は居留地防衛のためとして、神戸中心部を一時占拠するに至った。備前藩の滝善三郎が切腹する事で一応の解決を見た。 ・1868年2月8日(慶応4年1月15日)、朝廷が開国和親を宣言、明治新政府への政権移譲を諸外国に表明した。国内に対する正式な表明は翌年1869年7月7日(5月28日)に行われた新政府の上局会議における決定によるものである。 ・1868年3月8日(慶応4年2月15日)、堺事件。 フランス副領事の一行が大阪から兵庫への帰路に堺へ寄ろうとしたが土佐藩の警備隊がこれを阻止した。一方、領事一行を迎えるために堺港に来ていたフランスの軍艦から数十名の水兵が上陸して市内に入っていた。土佐藩兵がフランス水兵を連行しようとしたところ、逃亡しようとしたため土佐藩側が発砲し、または海に落として、11人が死亡した。フランスの要求をのんで、賠償金の支払と発砲した者の処刑を行うこととなった。29名が発砲を認めたが、交渉の結果20人に切腹が命じられ、11人(フランス人の被害者数と同じ)が切腹したところで立ち会っていたフランス軍艦長デュプティ=トゥアールが中止を要請、残りの9人は結果として助命された。 ・1868年5月3日(慶応4年4月11日)、江戸城の無血開城。 ・会津戦争 〜明治元年9月22日(11月6日) このころの世界の状況 ・中国で太平天国の乱(1851〜1864年) ・クリミア戦争(1853〜1856年 英仏土vs露) ・インドでセポイの反乱(1857〜1859年) ・アメリカで南北戦争(1861〜1865年) ・朝鮮で大院君が政権を掌握(1864年) 【参考ページ】 1825年 日本で外国船打払令 1867年 日本で大政奉還 〜作成中 1874年 日本が台湾に出兵 1875年 日本とロシアが樺太千島交換条約を締結 1876年 日朝修好条規の締結 1864年 朝鮮で大院君が政権を掌握 〜朝鮮の場合(衛正斥邪)。「【大院君の政治】外国船の来航」の項。【LINK】 ・仲小路彰 著「太平洋侵略史 1〜6」国書刊行会、2010年(復刻版) 参考文献 「日本全史 ジャパン・クロニック」講談社、1991年 「図説 日本の歴史13 世界情勢と明治維新」著者代表 石井孝、集英社、1976年 「90分でわかる日本史の読み方」加来耕三監修、かんき出版編集部編、かんき出版、1993年 「新訂版チャート式シリーズ 新世界史」堀米庸三・前川貞次郎共著、数研出版、1973年 「基礎からよくわかる日本史<改訂・新版>」安田元久著、旺文社、1992年 NHKテレビ「そのとき歴史は動いた 大江戸発至急便 黒船あらわる」2004年6月23日放送更新 2018/5/1 |
「90分でわかる日本史の読み方」