1895年 孫文が日本に亡命中国の広東省で革命団体の興中会(こうちゅうかい)を組織した孫文(そんぶん)は、1895年に広東省の広州で清朝打倒の蜂起を行なったが失敗に終わり、日本へ亡命した。 【孫文】 孫文(そんぶん Sun Wen)1866〜1925 清朝末期から民国初期の革命政治家。号は逸仙または中山。 中国の広東省香山(今の中山県)の人。ハワイ大学、香港医学校に学び、医者を開業した。 興中会を組織して、1895年に広州で挙兵したが失敗。日本・アメリカ・ヨーロッパなどへ亡命し、革命勢力の糾合に努めた。 1905年に東京で、興中会・華興会・光復会の革命団体を統合して中国革命同盟会を組織。三民主義(民族主義・民権主義・民生主義)を唱えて革命の指導理念とした。当時日本に多くいた亡命や留学した中国知識人が活動に参加したほか、海外の華僑や日本の進歩的資本家層の支持を受けた。 1911年の辛亥革命の際に中国へ帰国して、翌1912年1月1日成立した中華民国臨時政府の臨時大総統に就任したが、軍人政治家の袁世凱との妥協を行って地位を譲り、同年2月に清朝の宣統帝(溥儀)が退位して中華民国政府が正式に成立した際には袁世凱が大総統となった。その後、袁世凱は革命派を弾圧して独裁的な専制政治を行い、自ら皇帝になろうとしたが革命派の反対運動や軍閥の離反により失脚し、1916年、失意のうちに病没した。その後、中国は軍閥が割拠する状態となった。 孫文は、1919年に中国国民党を結成してその総理となり、1923年から1924年に連ソ容共を唱えて国共合作(第一次国共合作)を進めた。1924年に軍閥の段祺瑞・張作林と時局を収拾しようとして北京へおもむいたが、翌年の1925年3月に病死し、中山陵に葬られた。 「革命いまだならず、同志なおすべからく努力すべし」との遺言を残している。 中国史微小辞典 ≫ 中国史人物小伝 時代別 ≫ 孫文 【興中会(こうちゅうかい)】 孫文が、1892年に華僑を中心とする民族資本勢力を背景に広東で結成した革命的政治団体で、1894年にハワイで再組織された。1895年に、広州で、清朝打倒を唱えて挙兵したが失敗した。 1905年に、華興会(かこうかい)・光復会(こうふくかい)と合同し、中国革命同盟会に発展した。 【LINK】 国際派日本人養成講座 ≫ 地球史探訪:孫文と日本の志士達 エキサイトニュース ≫ 孫文が愛した日本人妻、求婚時は14歳―日本 孫文記念館 THINK JAPAN ≫ 請孫文再来 (リンク切れ) 参考文献 「新訂版チャート式シリーズ 新世界史」堀米庸三・前川貞次郎共著、数研出版、1973年 「年表式世界史小辞典」文英堂、1988年 「改定新版 世界史辞典」数研出版、1974年 更新 2012/12/28 |