1905年 日米間でハリマン事件(南満州鉄道の経営権問題)1905年8月29日に日露講和条約の締結が決まった(調印は9月5日)。 10月12日、ルーズベルト米大統領の意向を受けて来日したアメリカの鉄道王エドワード・ハリマンと、首相の桂太郎とが会談し、南満州鉄道の経営に関する覚書に合意した。南満州鉄道を日米で共同経営する構想で、元老の井上馨や財界の渋沢栄一も賛成していた。 しかし、日露講和会議から戻った小村寿太郎はこれに猛反発し、この覚書は破棄された。 これを機に日米の対立が深まっていった、とみる説がある。 ヘブライの館2 THE HEXAGON ≫ WAR研究室 ≫ 大東亜戦争の舞台裏 ≫ 「日露戦争」と「日米対立」と「日中戦争」の舞台裏 の「■■第4章:「日露戦争」でユダヤ資本から「恩」を受けながら、満州の共同経営の約束を破った日本 〜 「ハリマン事件」の実態」の項 〜必見。日露戦争とユダヤの金融資本の観点から日米関係を見ています。 上のサイトには、次のような記述がある。 ・日本がこの覚書を破棄したこと知ったハリマンは、『烈火のごとくに怒り、ただちに翌年の8月に腹心のウィラード・ストレイトを奉天領事に送りこみ、徹底して日本の利権とアメリカ人の利権とを衝突させていったのである。』 ・『この時、ハリマンは次のような言葉を言い放った。「日本は十年後に後悔することになるだろう!」 』 ・『当時、セオドア・ルーズベルト大統領は、次のような言葉(書簡)を残している。「私は従来日本びいきであったが、ポーツマス会議開催以来、日本びいきでなくなった……」 』 また、このサイトでは、岡崎久彦氏・渡部昇一氏の説が紹介されているので、一読をお勧めします。 |
(当サイト管理人の意見: このハリマン事件が本当に日米対立の出発点だったのかどうかは、これから当サイト管理人の勉強を深めていきたいと思います。 満州の経営を日米共同で進めていけば、日米の会戦はなかったのかもしれませんが、それでは欧米のアジア植民地化に加担することになるではありませんか。小村寿太郎の真意を深く知りたいものです。なお、 ポーツマス条約 - Wikipediaの「影響」の項に、「モルガン商会からより有利な条件を提示されていた小村寿太郎外相の反対によって破棄された。」との記述がある。 ) |
北山敏和の鉄道いまむかし ≫ 戦争の回顧 ≫ 満鉄をめぐるハリマンと小村寿太郎の対決(戦争の回顧4) 〜詳しい。一読をお勧めします。 このサイト(黒木勇吉著「小村寿太郎」昭和43年刊の抜粋)によると、次のような指摘がある。 ・ストレートは、ハリマンの娘と結婚して、アメリカの在奉天領事となった。 ・衰世凱は、アメリカを誘引して日本を制せんとした。 ・ストレートは、満州においてさまざまな画策(鉄道や銀行について)を行ったが、うまくいかなかったようだ。 ・その後もアメリカは、満州進出の意欲を見せている。 【日本のアメリカに対する警戒】 西尾幹二著「決定版 国民の歴史 下」p226-227 から引用します。なお、引用文中の太字は、当サイト管理人が施したものです。 |
アメリカのハリマンによる満州鉄道の共同管理申し入れを日本が拒否するという事件が起こった。ノックス国務長官による満州鉄道中立案も日本は拒否している。後者の場合にはロシアとの協議のうえ、アメリカの意向をはねつけた。 フィリピンにまで進出したアメリカは、すでに分割の進んでいる中国の権益確保への手がかりがなく足踏みしていた。アメリカは中国における門戸開放、機会均等主義を各国に呼びかけたが、いささか遅すぎた。加えてにわかに極東の大国として台頭した日本が自分の目の前に立ち塞る邪魔なものに思えてきた。 日露協商は四度更新され、ロシア革命(一九一七年)で無効になるまでつづいた。その第四次の更新内容は、第三国(アメリカを念頭においている)の中国支配阻止と、いずれかが第三国と戦争になった際の相互援助義務であった。 |