BACK_HOMEトップのページ   BACK世界史のページ   年表5年表5に戻る

1938年 中国で黄河決壊事件


 支那事変(日中戦争)は1937年7月の盧溝橋事件に始まり、通州事件・第二次上海事変・南京陥落(1937年12月)に至ったが、中国国民党政府は首都を南京から漢口(現在の武漢)に移して降服せず。その後、日本軍は1938年5月に江蘇省の徐州と河南省の蘭封(開封市の東。現在の蘭考県。)を占領し、さらに開封・鄭州方面へ向かった。
 河南省の鄭州は、北平(現在の北京)と漢口(南京陥落後の国民政府があった。現在の武漢。)とを結ぶ交通の要衝で、ここを奪われたくない中国国民党軍は黄河を決壊・氾濫させて日本軍の進撃を止める計画を立てた。

 国民党軍の劉峠(第一戦区副司令官)の案が程潜(司令官)に示され、蒋介石の承認を得た。破壊工作は、まず三劉寨付近(中牟鄭州市に位置する県)の北方)で、住民の交通を遮断したり農民を強制的に作業に駆り出して準備が行われ、6月7日夜に爆破を行ったが黄河は氾濫しなかった。そのため、場所を更に西方の京水鎮付近・花園口堤防(鄭州市?)に移して、6月9日午前9時に作業が終了して爆破したがここでも決壊しなかった(注)。しかし、6月11日未明からの大雨で黄河は増水し、夜には三劉寨の破壊口から濁流が溢れ出した。(出典:LINK 徐州会戦 - Wikipedia の「追撃の頓挫」の項)
:ただし、LINK 黄河決壊事件 - Wikipedia では、6月9日の爆破で「黄河の水は堤防の外に流出した」とし、「6月9日に続いて6月11日夜にも隴海線中牟の西方20Kmの地点で黄河の堤防3ヵ所が破壊され」たとしている。)

 中国国民党の通信社であった中央社は、「日本の空爆で黄河決壊」という偽情報を6月11日午前に発信し、6月13日には中国全土の各メディアが「日本軍の暴挙」として喧伝した。
 日本側は「開封の堤防破壊は中国軍に強制された農民によるもの」との声明を出した。
 イギリス・フランス・スペインでは中国軍の仕業であることが報じられたが、アメリカでは災害が人災であることを伝えなかったという。
(出典:LINK 黄河決壊事件 - Wikipedia の「報道」の項)

 洪水の状況について、LINK 黄河決壊事件 - Wikipedia の「日本軍の対応」の項に、次のような記述がある。
・「12日午後5時に日本軍の2部隊が堤防修理に出動し、開封治安維持会からも50名以上が自発的に応援に出た。」
・「5m弱の高さを持った中牟城壁は30cm程度を残すだけとなった。」
・「幸い線路が高い所に位置していたため、住民は線路伝いに徒歩で東方に避難した。」
・「日本軍は筏船百数十艘を出して住民とともに救助活動を行い、同時に氾濫した水を中牟付近から別の地域に誘導するために堤防と河道を築いた。この惨状の中で日本軍には犠牲者・被害共にほとんどなかった。」
・「国民党軍は現場に近づく日本軍に攻撃を加えたほか、日本軍が住民と共同で行っていた防水作業を妨害した(日本軍の地上部隊は住民とともに土嚢による防水作業を行い、日本軍の航空機も氾濫した地区において麻袋をパラシュートにより投下してこれを支援したが、決壊地点の対岸にいた中国軍遊撃隊が麻袋の投下開始直後からその航空機と地上で防水作業中の住民に激しい射撃を加えたこともあった)。」
・「日本軍に救助された避難民は開封方面1万、朱仙鎮、通許方面5万、尉氏方面2万、その他数万であった。」

 氾濫の範囲は河南省・安徽省・江蘇省にまたがる54,000平方kmの領域に及び、11都市と4000村が水没した。水死者100万人、被害者600万人ともいわれるが諸説ある。農地も農作物ごと破壊された。(出典:LINK 黄河決壊事件 - Wikipedia の「洪水」の項)

 この事件は、事件当時は黄河決潰事件と表記された。中国では花园口决堤事件(花園口決堤事件)と呼ばれる。



【その後への影響】
 この氾濫によって、黄河の流れが変わった。黄河は渤海に注いでいたが、新黄河となって揚子江流域の鎮江附近から黄海に注ぐようになった。これにより、北支は乾燥して水飢饉となり、中支では洪水が起きるようになった。1946年から1947年にかけて堤防の再建が行われて、黄河は以前の流れに戻った。(出典:LINK 黄河決壊事件 - Wikipedia の「影響」の項)
 1942年から1943年にかけて、河南省水旱蝗湯(すいかんこうとう)と呼ばれる水害・干ばつ・イナゴの発生が起こり、300万人あまりが餓死した。これに対し、「1943年の冬から1944年の春までの間に日本人が河南の被災地区に入り多くの軍糧を放出して多くの人々の命を救った」。このため、「河南省の人々は日本軍を支持し、日本軍のために道案内、日本軍側前線に対する後方支援、担架の担ぎ手を引き受けるのみならず、軍隊に入り日本軍による中国軍の武装解除を助けるなどした者の数は数え切れない程だった。」(出典:LINK 黄河決壊事件 - Wikipedia の「民衆の離反」の項)
 1944年に日本軍が河南省で掃討作戦を展開したが、この際に中国軍が農民から牛まで徴発しはじめると、これに反発した農民は猟銃・青龍刀・鉄の鍬で武装して中国兵の武器を取りあげはじめ、最後には中隊ごと次々と武装解除させるまでに発展した。また、農民による武装暴動が起きて、日本軍に敗れた中国兵がいたるところで襲撃・惨殺・掠奪されて武器・衣服まで剥ぎ取られた。(出典:LINK 黄河決壊事件 - Wikipedia の「民衆の離反」の項)





【LINK】
LINK 花园口决堤事件 - Wikipedia 中国語のウィキペディア
LINK 正しい歴史認識、国益重視の外交、核武装の実現黄河決壊事件・蒋介石が日本軍の進軍を阻止するため1938年6月11日夜黄河の堤防を破壊・死者数は89万人〜100万人(河南省だけの犯人の報告で32万人)・支那事変で住民を大量殺戮した支那軍と、懸命に救助した日本軍の代表的事件 〜ブログ
LINK YouTube ≫ GHQ焚書図書開封 第75回 第75回:支那の国民性と黄河決壊事件 必見





参考文献
LINK 黄河決壊事件 - Wikipedia
LINK 花园口 - Wikipedia 中国語のウィキペディア
LINK 日中戦争 - Wikipedia
LINK 徐州会戦 - Wikipedia
LINK 中牟県 - Wikipedia (ちゅうぼう-けん) 河南省鄭州市に位置する県。
LINK 新鄭市 - Wikipedia (しんてい-し) 河南省鄭州市に位置する県級市。
LINK 尉氏県 - Wikipedia (いし-けん) 河南省開封市に位置する県。。
LINK 蘭考県 - Wikipedia (らんこう-けん) 河南省開封市に位置する県。
LINK 京広線 - Wikipedia 北京から武漢を経て広州に至る路線。


更新 2014/12/8

  <広告>


 BACK_HOMEトップのページ   BACK世界史のページ   年表5年表5に戻る