趙文華(ちょうぶんか)
対倭寇戦に活躍…というよりはどちらかというと足を引っ張った官僚。浙江・慈谿出身で嘉靖8年(1529)に科挙に合格、進士となっている。学生時代に早くも厳嵩と知り合っており、朝廷に仕えてからは権臣となった厳嵩にいっそう接近し、父子の契りを結ぶまでに親密となった。厳嵩はおのれの不正が暴かれるのを阻止するため、弾劾の上奏を受け付ける通政に趙文華を任じている。
一度だけ趙文華は自ら嘉靖帝に接近しようと「百花仙酒」を献上したが、その折「臣の師・厳嵩はこれを服用しております」と言ったため嘉靖帝が厳嵩にこれを問い、厳嵩が趙文華の勝手な行動を激しく恨んで、呼びつけて罵倒する騒ぎがあった。趙文華は泣いて謝ったが厳嵩は許さず、彼をたたき出してしまう。焦った趙文華は厳嵩の妻二とりなしを頼み、厳嵩邸の一室に隠してもらって、帰宅した厳嵩が酒を飲んで機嫌のよくなったところへ厳嵩の妻が文華を引っ張り出し謝らせるという一芝居を打った。これに厳嵩の怒りも解けもとのように付き合うようになったという。

嘉靖34年(1555)、趙文華は折りしも激化していた倭寇について「海神を祭る」などの対策の建議を行い、厳嵩の推薦もあって倭寇の被害を受ける現地に派遣された。ここで軍事にあれこれ口を出して失敗などしたため総督・張経と対立、趙文華は出世の機会をうかがって接近してきた胡宗賢と画策して、張経を「まともに戦わず倭寇を拡大させている」と嘉靖帝に讒言した。これを信じた嘉靖帝は張経と浙江巡撫・李天寵を逮捕、処刑してしまい、その後任も次々と趙文華の画策によって更迭され、胡宗賢が総督の地位に就く事になる。趙文華も功績を挙げようとはかったがうまくいかず、人の功績を横取りするなどまさに傍若無人のふるまいを続けた。結局倭寇平定がそう簡単ではないと悟ると、兪大猷がちょっとした勝利を挙げたのを大袈裟に上奏して「倭寇は平定されました」としてさっさと都に引き上げてしまう。しかしボロが出そうになったので再び江南に舞い戻った。

軍事面ではまるっきり才能の無い趙文華は完全に軍事は胡宗賢に任せ、胡宗賢もまた厳嵩への接近を狙って趙文華のご機嫌を取り、ある意味いいコンビになっていた。胡宗賢が徐海集団を壊滅させ趙文華がこれを大勝利と報告すると、嘉靖帝は大いに喜び文華を都に呼び戻した。だがそののち趙文華は栄華に酔いしれておごり高ぶり、皇帝からの使者に対して酔っ払って会ったり、以前皇帝に贈った方士の薬を再び求められても応じないなど嘉靖帝の機嫌を損ねる行為が続く。決定的だったのは次のエピソード。宮殿の新閣建設がなかなか進まないある日、嘉靖帝が高みから都を眺めているとひときわ高い建物があり「誰の邸宅か」と聞くとこれが工部尚書(建設大臣)である趙文華の新邸宅。側の者が「工部の大木の半分は文華の屋敷を作るのに使われてしまいました。新閣を建てるどころではありません」と教えたので嘉靖帝はますます彼を疎んじるようになった。その後も建設で不始末をしたためついに厳嵩もかばいきれず、「病気療養」ということにして文華は工部尚書の地位を追われた。するとさらに彼の罪悪が暴露されたため嘉靖帝もついに怒り、文華は平民に落とされた。文華はある夕、舟の中で鬱々としているうちに自らの手で腹を破り、臓腑が出て死んだと「明史」趙文華伝は伝えており、自殺した可能性が高い。彼の死後、彼が大量の軍需物資を着服していたことも発覚しており、「明史」では厳嵩ともども「佞臣(ねいしん=へつらう、悪い臣下)」の項目に伝記が収められてしまった。

主な資料
「明史」趙文華伝
「倭変事略」
「嘉靖東南平倭通録」

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