歴史小説「鳳(おおとり)」

第一章 「旅立ち」


(二)

 日本。大隅国の高洲港(2)
 船上と海面で死闘を繰り広げた二人の男を照らしていた月を、港を見下ろす山の中腹にある唐風の屋敷の中から眺めながら酒を酌み交わす二人の男がいた。
 二人とももはや白髪頭の老人である。一人は大柄で、もう一人は痩身。いずれも明らかに明人の衣服を身につけ、特に大柄の老人の方は豪華な刺繍の施された赤い羽織を着て、いかにも堂々たる風格を備えている。
 二人はすでに長い時間にわたって飲み明かしていた。だが彼らの表情はどこか寂しげで、月下の酒宴の風流を楽しんでいる様子はまるでなかった。
 二人は共通の知人の死を、共に悼んでいたのである。
「…なぁ沈門(3) よ。世の中、死ぬ順序というのは上手く定まっておらぬようだのう」
 大柄の老人が杯を手につぶやいた。彼の口から出た言葉は日本の言葉ではなく、明の、それも福建系統のもの(ビン南語)(4) である。
「そうよなぁ…わしらお互い修羅場をくぐり抜けつつ、こうして白髪頭になるまで生き延びてしまったが…思えば多くの知り合いが若くして先にあの世に逝ってしもうた…」
 沈門、と呼ばれた老人もまたビン南語でこれに応じていた。
「気がつけば、この二十年…わしらと共に海を駆けた者で、生き残っているのはわしとお前ぐらいだ」
 大柄の老人はそうつぶやいて悲しげに目を細め、杯をまた一杯干していった。沈門の方も黙ったまま空いた相手の杯に酒を注ぎつつ、こくこくと頷いている。
 大柄の老人の名は林国顕(5) と言う。広東東部の潮州の出身で、広東・福建から日本までまたにかけて二十年以上にわたり活動をしてきた筋金入りの海商にして海賊である。共に酒を酌み交わしている沈門という老人もまた同様に潮州出身で、同郷の林国顕と共に数々の修羅場をくぐり抜けて来た経歴を持つ。
 いまこの時、二人が酒を酌み交わしているのは大隅の高洲港のほとりに建つ沈門の屋敷の離れだった。沈門は十年ほど前からこの大隅に居を構えており、もっぱら日本にいついて林国顕の交易の手助けを続けていた。近ごろでは「このまま日本に骨を埋めるか」と口癖のように言っていた。
「五峰船主の命日はいつだと?」
 沈門は林国顕に尋ねた。つい昨日にこの訃報をもたらしたのは、主のあとを追って日本に渡ってきた林国顕の配下だったのだ。
「昨年の十二月二十五日…杭州の刑場で首をはねられた。聞けば、五峰の倅(せがれ)も最期に立ち会っていたそうな」
 林国顕はまた酒をあおって言葉を搾り出すように応えた。
 林国顕と沈門の二人がその死を悼んでいる「五峰船主」とは、彼らと同じく日本と明をまたにかけた海賊・海商であり、一時は海上を制覇して「浄海王」と称したことまである大物中の大物、徽州人の王直その人に他ならない。
 王直は日本の平戸に居館を構え、本人はもっぱら日本にあって部下たちを東アジア各地に派遣し、密貿易あるいは「倭寇」活動を行わせていた。「倭寇」平定に乗り出した浙直総督・胡宗賢は武力によって各「倭寇」勢力を鎮圧する一方で、海上の実質的支配者である王直を「私貿易の許可」をちらつかせて明に呼び寄せ、この二年ほど杭州の獄中に幽閉していたのである。もともと私貿易容認派でもあった胡宗賢は王直を「だまし討ち」にする気はなかったようなのだが、「胡宗賢と王直は通じている」との弾劾が政敵からあり、結果的に胡宗賢は王直を処刑せねばならぬはめになった。
 王直が杭州の刑場で首をはねられたのは嘉靖三十八年(1559)の十二月二十五日。林国顕と沈門がその死を惜しんで酒を酌み交わしていたのはそれから三ヶ月ばかり後のことだ(6)
「五峰船主…あやつはまだわしの息子ぐらいの歳だった…あやつ、碧渓と同じ歳であったはずだからな…あれも若くして死んだが」
 酒が進むにつれ、林国顕の悲嘆と憂鬱はさらに深くなっていくようだった。
 「碧渓」とは王直と同郷で親友でもあった徐惟学、またの名を徐銓という男の「号」である。この「碧渓」こと徐銓は、一時王直と袂を分かった折に林国顕を頼ったことがある。徐銓の才能と人柄が気に入った林国顕は彼を養子にしたこともある。
 その徐銓も五年前の嘉靖三十三年(1554)に広東で活動中に官軍の攻撃を受け、海に身を投じて死んでいる(7)
「近ごろの海上は、わしの孫みたいな年頃の若造達が、いっぱしに船主などになって暴れておるわ。まったく、歳はとりたくないものだな」
 涙もろくなってきた自分を励まそうとでもするかのように、林国顕は精一杯の苦笑をしてみせた。
 それを見て、沈門が慰めるように声をかける。
「…この春に、また行くのかね、潮州に」
「ああ」
「…どうだね、商売の方は部下達に任せて、あんたはここに腰をすえてみては?」
「うん?」
「ずっといろとは言わん。とりあえず一、二年ぐらいこの屋敷で気楽に暮らしてみないか。毎年毎年、船に揺られて大海を越えるのも、そろそろ体が言うことを聞くまいよ」
「…お前のように楽隠居しろと…?」
「そうさ、もう後はその孫ぐらいの若造たちに任せちまうのさ。孫とは言わず、あんたの船団には姪の婿の呉平(8) もいる。あとに心配の種もそうないだろう。ここまで無事に生きられたのを有難い天命だと思って、余生を気楽に生きるのも一興だろ…ここはいい所だぞ」
「……」
 林国顕は白髪頭の沈門をまじまじと見た。そしてしばし黙って考え込む様子だったが、
「…悪くはないが、今年すぐというわけにもいくまいな…その孫ぐらいの若造どもがあれこれ勝手なことをやっていて困ったもんだと呉平も言ってきておるし…わしが一つ行って締めてねばなぁ」
 と、苦笑いをして見せた。
「あの呉平が泣きついて来てるのかい」
 と沈門が驚いたように問うと、林国顕は杯を一つ干してから間をおいて答えた。
「まだ聞いとらんか…あの“鳳”めが、暴れてるのよ」


 林国顕が続けて話をしようとすると、ツカツカと足音を立てて酒宴の席に闖入してきた者があった。
「お邪魔して申し訳ない…お知らせしたいことが」
 入ってきた男は慇懃に礼をしてから、静かにそう言った。
「どうした」
「船番をしていた李茂(9) が、盗賊を捕らえたと」
「盗賊?船に入ってきたのか」
「へい、大胆な野郎で…一人で潜り込んで来ましたわい」
 林国顕の問いに答えたのは、最初に報告した男の後ろから音も無くついてきていた、浅黒い肌の男、李茂当人だった。李茂の口から出るビン南語は彼独特の強い訛りがあり、そのすばしこそうな外見もあってどこか獣じみた印象を周囲に与えるところがあった。
「倭人か?」
「そのようで。恐らくはこの辺りの者でございしょうな」
「一人、と言ったな」
「へい、大胆不敵な野郎でしたが…腕には覚えがあったようで」
 そう言って、李茂は袖をたくしあげ、まだ血の滲む軽い刀傷のついた肩を見せた。林国顕は顔をその肩に近づけてまじまじと傷を見てから言った。
「ほう、お前と斬り合って傷つけるとはたいしたものだ。どうやってつかまえた?」
「海に飛び込んだところを追いかけてひっ捕まえ、水を飲まして…」
「死にはせなんだのだな」
「へい、ひとまずこちらのお屋敷に連れてきて牢に放り込んでおきましたわ」
 ここで林国顕は李茂がその手に刀らしきものを持っていることに気付いた。
「それは…?」
「ああ、これはわしが見つけたときにその男が背に負うていたものでして…」
 李茂はいったん跪き、うやうやしく両手を挙げて支えながら、その刀を林国顕に差し出した。
「倭刀ではないな…」
 林国顕がその刀を手に取り、かなり湾曲した鞘の形を見ながらつぶやいた。
「明風でもないのう」
 沈門も興味深げにその刀の形を覗き込んだ。
 林国顕は刀の柄をつかみ、ゆっくりと刀身を鞘から引き出した。中から姿を現した刀は収まっていた鞘の形と同じく大きく湾曲している。相当に古いものと思われ、その刀身の輝きはほとんど失われており、ところどころ錆付いて、刃こぼれも目立つ。
「こんなものがわしの船の中にあったのか?商品とも思えんが…」
 林国顕は手にした刀を明かりにかざして表、裏と眺めながら聞いた。
「その男が出てきたのは甲板の上の船室のほうですから、積荷とは別になっていたようですな」
 李茂も見慣れぬ刀に興味をひかれたようで、林国顕の手にあるそれにじっと見入っている。
「わしは覚えが無いが…誰かわしの知らぬうちに積んでおいたのかのう。見慣れぬものだが、さして値打ちものとも思えんし…そもそも刀として使い物にならん」
 そう言って林国顕は湾曲した刀をやや苦労しながら湾曲した鞘に収めた。
「その盗賊、これだけを盗みに来たというわけか?」
「どうもそのようで」
「なにか深い訳がありそうだな」
 林国顕は沈門の方を見て、顎をしゃくって無言で合図をした。沈門の方も長年の付き合いで心得たもので、無言のままこれに応じて明かりを手に部屋の外へと歩き出した。


 意識を取り戻した正五郎が、暗闇の中でまずおのれの姿を手探りで確認すると、褌だけを身につけたほとんど全裸と言っていい状態だった。その褌も、そして全身の肌もまだかすかに濡れていたが、海で溺れかかった自分を誰かが介抱して体を拭き、乾かしていたこともわかった。
 背中に手をやると、当然ながら自分が背負っていたはずの刀はない。
 正五郎は嘆息してから身をゆっくりと起こし、辺りに目を凝らした。目が暗闇に慣れてきて、前方にかすかに輝いている小さな灯火を頼りに周囲の様子を伺うと、自分が格子で仕切られた狭い土牢の中に押し込められていることが分かってきた。
 格子に身を寄せ、その隙間から辺りの様子をうかがってみるが、ただただ漆黒のなか昼なのか夜なのかも分からない。どうやら地下にある牢に押し込められているらしい。
(だとすると…俺はあの屋敷の地下牢に押し込められたということか)
 正五郎は自分の置かれた状況をおおむね察した。この屋敷の主である唐人の商人の船に忍び込み、そこにあった物品を奪ったところを捕らえられたのだ。当然こういうことになるだろう。
(あと少しというところで…仕損じた)
 正五郎が無念の思いをかみ殺しつつドサリと音を立てて土の上に座り込むと、
「目が覚めたかね」
 と妙に訛りのある声が暗闇の中から発せられた。
 はっとした正五郎が身を起こし、格子にぴったりと身を寄せて声のした方に顔を向けると、自分の目の前の格子の向こう側にもう一つ格子があり、そこに横たわる人影があるのが見えてきた。
「あんたは、誰だ?」
 正五郎がその人影に向かって問うと、その男は横たわったままこちらを向いて、
「お前と同じ身の上だ」
 とまた妙な訛りのある、しかししっかりとした大隅言葉で答えてきた。
(唐人か)
 その言葉の訛り具合に、正五郎は察した。
 この屋敷の主、そしてその商売仲間や部下達、そして意に沿わぬまま彼らに連れてこられたと思われる者まで、高洲には多くの唐人が在住している。それらの者が地元の大隅人たちに話す大隅言葉の訛り具合は正五郎には耳慣れたものだった。
「名は」
 と聞きかけて、正五郎は自分が先に名乗るべきだと気付いて名を名乗った。
「わしは正五郎。あんたは?」
 すると相手の男はようやく身を起こして自分の側の格子に身を寄せ、辺りを照らす灯火のかすかな明かりによって顔を示した。見る限りかなりの細身の体つきに顔つきで、頬もこけ、あご髯(ひげ)も口髭(ひげ)も無造作に伸び切って、その口はほとんど見えない。髪も伸び放題で、顔の半分はそれに隠されている有様だった。
「わしの名は…」
 男は一瞬自分の名前を思い出そうとするかのように黙り、虚空に視線を泳がせてた。
「…ホワン…」
 ボソッと男が口にした言葉に、正五郎は首をかしげて(分からない)という気持ちを示した。すると男は、
「字が分かるかね」
 と聞き、正五郎がある程度はわかると答えると、それが漢字の「黄」の字であることを正五郎に教えた。
「それだけか」
「姓は黄…それだけ分かればよかろう」
 黄はそう言って、今度は逆に「ショウゴロウ」という名は字ではどう書くのか、と聞いてきた。
 黄は器用な大隅言葉を話すが語彙にはまだ不足があったので、正五郎はいささか苦労して自分の名が「正」「五」「郎」の三字で表記されることを黄に伝えた。
 正五郎とて日ごろとくに文字に親しんでいるわけではない。ただ、子供の時分に寺に通わされて多少の文字は覚えたことがあったし、領主(10) の合戦に駆り出された折にも作戦の都合からある程度の文字は読めるように仕込まれていた。
 高洲の町に徘徊している唐人達が同じ文字を使いながら読みは異なることを正五郎もなんとなくは理解していたつもりだったが、こうして実際に唐人と直接会話をかわし、文字についてのやりとりをしたことなど初めてで、自分が置かれている窮地をしばし忘れるほど知的興奮を覚えてもいた。
「いつからこの牢にいるんだ?」
 正五郎が尋ねると、
「さて…三月は過ぎたはずだが、もう分からなくなってしもうた」
 と黄は苦笑交じりで答えた。
「なぜ、ここに押し込められた?」
 とさらに聞くと、
「そういうお前こそ…」
 と黄が反問してきたその時、どこかで扉が開くような音がして、煌煌とした明かりと共に何人かの人間が入ってきた気配があった。



「この男か」
 地下牢にやって来た林国顕は正五郎の牢の格子の前に立ち、明かりを手に案内してきた沈門に聞いた。むろん彼らの言葉であり、正五郎には理解は出来ない。だが何を言ったかの見当はおおよそついた。
「こちらの男だな、李茂よ」
 沈門は後からついてきた李茂に聞いた。李茂は黙ってうなずく。
 正五郎は李茂を見て、それが自分と船上で格闘し、自分を海中に捕らえた男であることに気付いて、思わず格子の木をつかみ、その男を睨みつけてグッと歯噛みをした。その視線に気付いた李茂だったが、フン、と鼻を鳴らして平然としている。
「倭人にしては図体が大きい…」
 林国顕はそう言って牢の中の正五郎を眺め、それから李茂の方を向いて、
「それでもお前と渡り合うほど敏捷だったということだな」
 と言ってニヤッと笑った。その微笑には明らかに李茂に対するからかいの色がある。李茂はそれに対しても軽く鼻を鳴らし、顔色を変えない。
 林国顕が沈門の耳に何かささやくと、沈門は向かいの牢にいる黄に向かって、
「通詞をしろ」
 と言った。黄は黙って頷いた。
 以下、林国顕と正五郎が黄の通訳を挟んでかわした会話である。
「この辺りの者か」
「そうだ」
「わしの船に盗みに入ったのを認めるか」
「…盗みではない。取り返しに行ったまで」
「取り返す?」
「あれはもともとわしの物。無法にも奪われたから取り返しにいったのだ」
「…お前の物、というのはこれのことか?」
 林国顕は手にしていた湾曲した刀を持ち上げ、沈門の持つ明かりにかざして見せた。
 正五郎は格子の間に顔を突っ込んで、食い入るようにその刀に見入った。
「そうだ。わしはそれを取り返しに船に入った」
「見慣れぬ形の刀だが…わしの知る限り、日本にこのような刀はあるまい。なぜこのような物をお前が持っているのだ?」
「先祖代々、わしの家に受け継がれてきた。いわば家宝だ」
「家宝…」
 林国顕は手にした刀の湾曲した鞘を手でゆっくりとなぞりながらその表面の意匠を眺めていた。
 ここで黄が通訳を離れて自分の言葉を口にした。
「蒙古の刀ですな、それは」
「蒙古?」
 突然自身の考えを口にした黄に少し驚いた反応を見せて、林国顕はその顔をじっと睨みつつ尋ねた。
「むかし、留都(南京)に旅した折に見たことがある…騎馬の兵である彼らはそのように湾曲した刀を使ったそうな」
 黄もまた物珍しげにその刀に見入っていた。
「見よ、その鞘にある模様は蒙古の文字じゃ。前代(元朝)のころには我らの国でも使っていたものだ」
 林国顕は黄の話を聞いて、多少興をそそられたようである。
「読めるか」
「いや、さすがにわしも蒙古の文字は読めぬ」
「しかしなぜこの男の家に蒙古の刀がある?」
「むかし元の世祖(クビライ)が日本を攻めたことがあると聞く。事情は知らぬが、その折にでもこやつの先祖が手に入れたのかもしれぬ…聞いてみるか」
 黄は正五郎に大隅言葉で「これは蒙古の刀ではないか」と聞いた。
「そう聞かされている」
 正五郎はそう短く答えた。正五郎も二百年以上の前の蒙古襲来以来の事情を詳しく知るわけもなく、祖父や父からこの刀について「先祖が蒙古襲来の戦で戦い、手に入れた蒙古の刀だ」と聞かされているだけのことである。
 内心、それが真実なのか、正五郎にはささやかな疑念も無くは無かったが、武士と呼べるかどうか曖昧な正五郎の家にとってはそれが家の誇りを支える歴史そのものであり、めったに人にも見せない家宝となっていたのも確かだった。
「そのような大切なものをなぜ手放した」
 黄の訳を通じて林国顕が聞いた。
「手放したのではない、悪い男に騙され奪われたのだ」
 正五郎は怒気を含んで答えた。
「その男はどうした」
「捕まえて問い詰め、斬り捨てた」
 質問に腹立たしげに短く答えた正五郎の言葉に、聞いた黄とその訳を聞かされた林国顕・沈門・李茂らはそろって息を飲んだ。
「問い詰めた折に、その男がこちらの唐人に刀を売ったと聞いた。屋敷に行って談判しようと思ったが門前払いされるので、船にじかに乗り込んで取り返そうと思ったのだ」
 正五郎は騒ぐ血を静めようとするかのように、淡々と話を続けた。だが全身から発している怒気は暗い牢内でも目に見えるように感じ取れた。
「そうか。事情は分かった」
 林国顕は正五郎を見てゆっくりと頷いた。
「だが、この刀はわしの部下がわしの金を払って手に入れた物。今となってはわしの物ということになる。そしてお前はわしの船に夜中に密かに潜り込み、わしの品物を奪おうとした。それは船主のわしとしては許すことは出来ぬ」
 そう黄に通訳させると、林国顕は沈門、李茂をうながし、正五郎に背を向け外に向かって歩き始めた。正五郎はその背に何かを言おうとしたが、そこに有無を言わさぬ冷たい気配を感じて押し黙った。
 地上へ上る階段に足をかけたとき、林国顕はふと思い出したように、黄に向かって何かを言った。
「お前は何歳になるか、と聞いている」
 黄が正五郎に伝えた。正五郎はその質問の意味するところを図りかねたが、
「今年で十九になる」
 と答えた。
 黄がそのことを林国顕に訳して伝えると、林国顕は軽く肩を揺すり、何かを口にした。そしてそのまま階段を上がって立ち去ってしまった。
 隅に蝋燭の灯火がかすかに光るだけの、漆黒の闇が牢内に戻ってきた。その中で、正五郎は立ち去り際に林国顕が口にした言葉をぼんやりと頭の中で反芻していた。
「…アフォン…」
 という部分だけが正五郎には聞き取れた。むろん、それが何を意味するのかは全く分からない。
 だが林国顕がこの部分を口にした時、そこに何か親しみ、おかしみの感情がこもっていたような気がした。だからこそ正五郎にはそこだけが印象に残ったのだ。
 何か分からぬが、自分の年齢と関係があるらしい。向かいの黄に聞くことも考えたが、今となってはそれももの憂い。
 正五郎は牢の奥に横になり、目を閉じた。なぜか「アフォン」という林国顕の声が、彼が眠りにつくまでその脳内に反響し続けていた。


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