戚継光(せきけいこう)
倭寇およびモンゴルと戦った明代を代表する名将。字は元敬で山東登州の軍職の家に生まれた。幼いころ家は貧しかったが、継光は読書を好み経史の大義に通じるようになったという。嘉靖年間に父の職を継ぎ、以後山東から浙江に転任し、倭寇と戦うようになった。

嘉靖36年(1557)、王直胡宗憲の投降の誘いを受け入れて、大船団を率いて日本から明に帰国してきた際には、兪大猷の船団と合流してこれの警戒に当たり、王直投降後、義子毛烈ら残党が舟山に立てこもって抵抗すると、これと激戦を交えた。この時は苦戦を強いられ、兪大猷ともども免官をかけられて必死に戦い、どうにか勝利を得ている。

ところで継光は浙江に初めて赴任した際、現地の官軍があまりにも弱体なのをみて、金華・義烏の剽悍な人民を三千人募集し、これに撃剣や各種武器の使い方を教えて自らの精強部隊に育て上げた。これが世に言う「戚家軍」で継光の名を天下に知らしめることになった。この戚家軍を率いた戚継光は嘉靖40年代の浙江南部・福建方面に来襲した倭寇の大軍と連戦し、兪大猷・劉顕らとともに数々の功績を挙げ、その名声は他の二人に抜きんでていた。

その後、隆慶年間(1567〜)に入ると抜擢されて北方でモンゴル対策に奔走する。ここで継光は北方防衛の現状と問題点を指摘し、その改革に努めている。継光に召集された浙江人三千の部隊は、大雨が降ろうと朝から日没まで陣内で直立不動で、北方の衛兵達を大いに驚かせたという。こうした規律ある軍制と卓越した指揮により戚継光は北方に十六年にわたりにらみをきかせ続けた。
晩年に警戒を受け広東への移転を命じられたが、継光はこれを嫌い病を理由に断り、それで弾劾を受けて罷免させられた。三年後にその処置は取り消されたが、間もなく死去した。兵法書も著しており、「紀效新書」「練兵紀実」などがある。

主な資料
「明史」戚継光伝


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