陳東(ちんとう)
嘉靖大倭寇を代表する首領の一人。出身地については明白ではないが、広東出身とする史料(『三朝平攘録』)がある。日明間の密貿易に関わっていた事は確実だが、その経歴についてはほとんど分かっていない。史料『籌海図編』は彼について「薩摩州君之弟掌書記酋也」と記しており、薩摩の島津氏と何らかの係わりを持っていた可能性もある。この部分から陳東本人が薩摩州君の弟であるとか、日本人だったのではという見解が当時から有るが(「近藤」誤伝説もある)、やはり 中国人と考えるのが自然のようである。

彼がはじめて史料中に姿を現すのは嘉靖34年(1555)で、肥前・筑前・豊後・和泉・博多・紀伊の日本人を率いてこの年の正月に現在の上海市付近に上陸したと『籌海図編』の「図譜」は記している。その規模は二、三千人に及んだと推測される。しかし日本から明への航海時期はだいたい三月から四月が普通で、正月にいきなり数千の人間を率いて海を渡ってきたとは考えにくい。規模から考えてもその前年から明沿岸部で活動しており、現地の人間を糾合していたのではないかと思われる。彼らの集団は葉麻(葉明)を首領とする集団と行動を共にしていたようで、ともに川沙窪(せんさあ)に拠点を構えて浙江・直隷各地を寇掠した。同じ頃に柘林(しゃりん)に拠点を構えていた徐海とも連携をとっていた形跡もある。

嘉靖34年の秋に陳東らはいったん帰国したが、翌35年正月に再び江南沿岸に出現し川沙窪に拠点を構えた。そして三月に陳東は徐海集団と連合し、徐海の拠点・柘林に入った。やがてこれに葉麻集団も加わり、徐海を首領とする数万人規模の大倭寇集団が成立する。しかしその実態はあくまで諸集団の連合軍という性格を出るものではなかったようだ。
五月に徐海・陳東は大軍を率いて浙江の都市・桐郷を包囲した。桐郷は孤立無援となり陥落寸前となったが、総督・胡宗賢は日本からきていた毛烈の通事・童華や中書の羅龍文らを徐海のもとに送り込んで籠絡し、桐郷の包囲を解かせてしまう。徐海が勝手に引き上げたので陳東もやむなく包囲を解いて撤退したが、このあたりから徐海との間に対立がおこり、それが胡宗賢らのつけいるところとなる。

陳東はいったん徐海と離れて葉麻と連合を組み、新場に拠ったが、六月には再び徐海と連合して乍浦に入った。ここで胡宗賢は王翆翹らを使って徐海に陳東・葉麻らへの疑念を吹き込み、陳東は葉麻とともに徐海に捕らえられて官軍に突き出されてしまう。その後の陳東について明確な記述はないが、徐海の滅亡後まもなく処刑されたものと推測される。

主な資料
「嘉靖東南平倭通録」
采九徳「倭変事略」
「三朝平攘録」
「明史・日本伝」
鄭若曽「籌海図編」

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