ニュースな史点2020年8月7日
<<<<前回の記事
◆今週の記事
◆ゴトー・トラベル
世の中が新型コロナ感染者の再拡大で揺れる中、政府が観光業支援のために「GOTO トラベル」キャンペーンなんてものを前倒しで実行、お金を補助するから、さあ皆さん旅に行け、ただし東京は除く、とやりだした。そしたら東京以外でも日本中で感染者数がぐんぐん増えてきてしまい、見ようによってはキャンペーンでウィルスを拡散してるんじゃなかろうか、と思ってしまうような事態に。こういう事態についてはいろいろ出てくる「専門家」もアテにならない、ということがよくわかる昨今である。
そんなさなか、一つの訃報が報じられた。かつて「ノストラダムスの大予言」を大ベストセラーにして日本中に不安オカルトブームを巻き起こした作家・五島勉氏が去る6月16日に90歳で亡くなったのだ。実際に亡くなったのは少し前だが、報じられたのがちょうど「GOTOトラベル」騒ぎの最中だったのは、「五島が旅だつ」ということで、なにやら「大予言」めいてもいた(笑)。
実際に亡くなってみると、ネット上だけでも結構いろんな人が反応していて、なんだかんだで日本現代史の1ページに確実に残ってしまう人だなぁ、と思わされた。当サイト内の「ヘンテコ歴史本」コーナーで、まさに「1999年」にノストラダムスネタを取り上げてる縁もあるので、ここでも五島氏とノストラダムスと現代日本について、ちょこっと書いてみたい。
五島勉氏は1929年、函館に生まれた。この地には割といるというロシア正教徒の家であったという。その後の著作を知ってるとキリスト教信者の家の出身というのがあまりピンとこないのだが…。
大学在学中からアルバイトがてら小説や記事を手がけるようになり、大学卒業後は女性週刊誌の記者となる。この記者時代にオフィスで働く女性を指す言葉として「BG(ビジネス・ガールの頭文字)」という言葉を作って一時的に流行させている。まもなく英語のスラングで「娼婦」を意味することが知られて死語になってしまうのだが、五島氏は自ら「BGスパイ」なんて当時流行の007調の娯楽小説を執筆したりもしている。
僕はこの「BG]という言葉を小学生時代に「ブラック・ジャック」の一編「赤ちゃんのバラード」で初めて見たが、かなり後までその意味が分からなかった。ちょうど流行った時期に描かれた作品ということなんだろうな。そうじゃないかと思ってたった今ググってみたら、やっぱり現在刊行されている版では「BG」は「OL」に変更されているとのこと。今や「OL」も事実上死語だよなぁ。
いろいろと幅広く執筆活動をしつつも特にこれといったヒットはなかった五島氏が、一躍「時の人」になってしまったのが1973年のこと。もともとオカルトネタの記事は得意としていたそうなのだが、この年に編集者の提案から「ノストラダムスの大予言」を執筆、刊行した。これが、恐らくは当人の予想をはるかに超える大ベストセラーとなってしまい、日本中が「ノストラダムス」ブームにしばらく染まることとなる。
日本人の大半が「ノストラダムス」という人名をこの時初めて知ったのだが、この人物は16世紀のフランスに実在した人物。医師にして占星術師で、あれこれ「予言」をしたとされるが実際に的中させた例は学術的には確認されていない。最近アメリカで制作され、日本でもNHKで放映したTVドラマ「クイーンメアリー」でも味付けで登場していて、ほんとに予知能力を発揮したりしていた。
ノストラダムスの死後、彼が西暦3797年までの予言をまとめたと称する「百詩篇集」と呼ばれる大部の予言詩集が刊行された。これがいわゆる「大予言」だが、古今東西の予言ネタによくある、「どうとでも解釈できる曖昧な言葉の羅列」であって、「〇〇年に××がおこる」と明記してあるわけではない、実際に何かが起こってから「あれは予言されていた」と後世の「研究者」が後付け解釈してるのが実態だ。
このノストラダムスを、五島氏は「大予言」で日本人に紹介し、これから様々な災難が人類を襲う、特に「1999年に恐怖の大王が降臨して人類滅亡」という解釈は、当時の日本人、ことに子供たちに強いトラウマを与えた。僕はその直撃世代ではないのだが、当時「1999年で人生は終わりなんだ」と達観してしまった、という当時子供だった人たちの話は割と聞く。大人がどこまで本気にしたかは怪しいのだが、当時石油危機が起こり、公害問題が続出する世相のなかで、日本社会全体がなんとなく将来への不安を覚えていたことが「大予言」の大ヒットの背景にある、とはよく言われる。当時の一部著名人の中には「大予言」を一種の「警世の書」として肯定する向きもあったみたい。ああ、そういや昨年亡くなった劇画原作者・小池一夫はかなり本気にしちゃってたみたいでそういう内容の作品も残している(この人、日ユ同祖論も本気にした作品書いてるしなぁ)。
やはり同年にベストセラーになった小松左京の「日本沈没」も同様の世相が反映しているとされ、どちらも東宝が特撮映画に仕立ててヒットを飛ばしている。ただこの映画の方、僕は未見だが(封印作品なので見ること自体も簡単じゃないが)紹介を見聞きするところでは五島氏の著作からだいぶ離れた暴走をしちゃってるみたい。
この「大予言」の影響はいろいろ挙げられるが、アニメ「宇宙戦艦ヤマト」が「人類滅亡まで〇〇日」とやってることとか、「ウルトラマンレオ」の主題歌で「何かの予言が当たるとき♪」とやってるのは、作り手たちが当時の「流行」を意識して取り入れたものだ。また「大予言」だけの影響ではないが、「核戦争が起こって現代文明崩壊後の世界」という設定が70年代から80年代の創作物にやたら出てくることにも一定の影響を与えているはず(そういや「風の谷のナウシカ」だって「予言実現」の話だ)。
そういった「世紀末」のイメージは、80年代に流行したオカルト色の強い新興宗教にも強い影響を与え、流れ流れてオウム真理教の一連の事件にまでつながっている、という指摘も結構ある。
とまぁ、かなりの影響を日本社会に与えてしまった「大予言」だが、そもそも五島勉氏は専門家でもなんでもない一ライターであって、ノストラダムスの予言詩集についてもかなり独自の解釈、ともすれば勝手な創作も加えてうまいこと料理したシロモノだった。こうした批判はその後ポツポツと出てきて、オカルトブームも沈静化したこともあって「大予言」もひところよりは忘れられていった。それでも一定の売り上げはあげられるので五島氏はその後も「大予言」シリーズを次々と執筆した。とは言ってもだんだんネタは尽きてくるのでユダヤ陰謀論を取り込んでみたり、聖徳太子の「未来記」(古典「太平記」で出てくるやつ)という別の予言ネタに手を出したりもしていた。なにか元ネタがあるのか分からないのだが「太平洋戦争末期に日本も原爆開発に成功していたが昭和天皇の意思で使用しなかった」と主張する本も出していて、どうやらこれが最近では当時日本領だった現在の北朝鮮地域で核実験に成功していた、という主張がウヨク人士の一部ではやっている(?)ことにつながっているみたい。
実際に「1999年7の月」が来た頃には世間も特に騒ぎもしなかったが、一応五島氏はマスコミの取材に対して「あれは間違い」といった弁解というか謝罪のようなコメントを出していた覚えがある。もっともその後ああいう本を書いたから危機を回避できたのであって間違ってはいない、という趣旨の発言もしていたらしいが。
1999年から20年が過ぎ、この間に五島勉氏についての話はほとんど聞かないまま、訃報に接することになった。その著書もろくに読んだことがない僕だが、この訃報にはなんとなく「歴史」を感じてしまい、こうして「史点」記事にもしてしまったのだった。遅ればせながら合掌。
◆公民権運動からまだ半世紀
新型コロナのパンデミックとともに、今年の世界史上のトレンドは「黒人人権運動」になるだろう。アメリカで白人警官により黒人男性が死に至らされたことをきっかけに、アメリカ全土どころかヨーロッパにまで飛び火したこの運動は、この記事を書いている今でも収束はしていない。それだけ黒人差別の問題が今なお深刻にあって、不満がたまりにたまっていたということだ。
今年の状況について、1960年代に黒人の権利を求めた「公民権運動」を重ねる人は多い、半世紀以上前の話だが、当時のキング牧師の演説内容が今もそのまま通用する、ということは変わったようでまだまだアメリカは変わっていないんだ、という指摘をネット上で見かけた。
そのキング牧師とともに公民権運動を闘い、その後長らく連邦下院議員をつとめた、まさにレジェンドというべき人物、ジョン=ルイス氏が7月17日に亡くなった。80歳だったそうだから、公民権運動のころはまだ20代の若さだったわけだ。
1963年に行われ、キング牧師が「私には夢がある(I have aDream)」と演説した歴史的な「ワシントン大行進」にもルイス氏は参加していて、キング牧師のあとに自らも演説を行った。報道によると、このとき演説した指導者の最後の一人になっていたとのこと。
1986年に民主党から下院議員選挙に出馬して当選。選挙区はかつての南部の中心地ジョージア州だ。ルイス氏はそれ以来17期連続で当選、30年以上にわたって下院議員をつとめた。昨年12月にステージ4のすい臓がんにかかっていることを公表、「自分にとってこれまでにない戦い」と発言していたが、残念ながら半年ほどのちに亡くなってしまった。
訃報直後にオバマ前大統領が公表していたが、つい先ごろバーチャル集会で「対面」したばかりだったとのこと。このバーチャル集会も黒人権利運動をめぐって開かれたもので、ルイス氏は若い世代の運動家たちの行動をたたえていたという。そういえばワシントン大行進みたいなことも行われてたしね。
オバマ前大統領は「自らの残した業績がこれほど有意義な素晴らしい形で次世代に受け継がれるのを、生きているうちに目にできる人はそうはいない。ジョン=ルイスはそれができた」と表現していた。偶然のめぐりあわせではあるが、ルイス氏としては自身の活動の再現のような事態を目の当たりにしてこの世を去る、というのはあるいは幸せな最期といえるかも。
なお、その葬儀には歴代元大統領も参列したが、トランプ現大統領は哀悼の意を表しつつも参列しなかった。それこそコロナ問題もあるからいろいろ事情はあったかもしれないが、この人だけに支持基盤を意識してわざと参列しなかった可能性も…
直接関係はないが、アメリカ大陸におけるアフリカ系、黒人たちについての話題をもう一つ。
7月23日に発行されたアメリカの科学誌「アメリカン・ジャーナル・オブ・ヒューマン・ジェネスティック」に、アメリカの遺伝子検査会社が実施した南北アメリカに住む五万人のアフリカ系の人々のDNA分析の報告が載った。
現在アメリカ大陸にいる黒人は大半が16世紀以降のヨーロッパ人による奴隷貿易により強制的に連れてこられた人々の子孫だ。そうした人々の「先祖の地探し」をDNA分析により行ったところ、アンゴラやコンゴにルーツを持つ人がかなり多かった。これらは当時奴隷の「供給地」になっていたことはすでに記録で知られていたので驚きはなかったが、記録上では大きな割合はいないはずのナイジェリアに先祖をもつ人の割合が思いのほか高かったという。研究者は一つの推理として、次第に奴隷貿易が規制されアフリカからの奴隷供給が途絶えていくなかで、カリブ海のイギリス領などにいたナイジェリア系の黒人奴隷が各地に移送されたためでは、と考えているようだ。
一方で奴隷の出航地であったセネガルなど西アフリカ出身の子孫はかなり少なく、これはこの地域から連れていかれた奴隷たちはマラリアに感染するなどして大きく人口を減らしてしまったのでは、とのことだ。だいたい環境の悪い船の中に詰め込まれて大西洋を渡る間にも多くの人が死亡したと推測されていて、アメリカ大陸につく前に体の弱い人はかなり「淘汰」されていたはずだ。
このほかにも「遺伝子プール」を調べて、男性と女性とでどれだけ子孫を残しているかを分析したところ、男性より女性のほうが多くの子孫を残していることも明らかになった。普通に考えると奴隷労働力として求められていたのは主に男性のはずで、その子孫のほうが多そうに思えるが、黒人奴隷の女性たちは白人の主人から性的搾取を受ける、あるいは奴隷人口維持のため、あるいは南米ですすめられた混血政策により白人との間に子供をもうけた事例が多かったということだ。そういえばTVドラマ「ルーツ」でも、二代目の主人公の女性がそういう目にあっていたっけ。黒人の隔離がより徹底していた北米と、雑居が多かった南米とでこの辺の数字はだいぶ異なるそうだが。
アメリカにおける黒人の扱いがひどかった事例が、もうひとつ報じられていた。
100年以上前の1906年、現在のコンゴ民主共和国の地域から連れてこられたオタ=ベンガという黒人男性が、ニューヨークのブロンクス動物園で、オランウータンと同じ檻に入れられて一週間にわたり「見世物」にされる、という事件があったのだそうだ。当人は当初は状況がよくわからなかったのかもしれないが次第に抵抗を示すようになり、見物人を威嚇するようになった。さらに地元の黒人有力者が見かねてはたらきかけたので解放されたが、オタ=ベンガはアフリカに帰ることもできず、またニューヨークでの暮らしにもなじめなかったようで10年後に自殺という最期を遂げてしまっているそうだ。
今日でもスポーツ競技の現場などで黒人選手に対する最大の侮辱行為とされる定番がバナナを持ち出すなどして「サル」と同一視するからかいだ(東アジア人に対しては両目を細くして吊り上げるのが定番)。このと動物園がやった行為も同様の意識があったからこそだろう。
100年以上経った今頃になって…と思ってしまうが、7月29日に同動物園の運営団体がこの件について公式に謝罪を表明した。もちろん、現在欧米で盛んになっている、黒人に対する扱いの歴史の見直しの一環ということだ。動物園の運営団体は当時の創業者2人についても「優生思想・疑似科学にもとづく人種差別」を主張していたとして非難していたが、当時ではなおさら、今でもその手の考えはまだまだ横行している。一世紀遅れの謝罪、それも世間の風潮に押されて、という感は濃厚だが、こうした歴史の見直し自体は少しでもそうした問題を改善させることにはつながるかも、と期待したい。
◆台湾民主化の立役者も逝く
今回は訃報ネタばかりだなぁ。
台湾の元総統・李登輝さんが97歳の高齢で亡くなった。政界から身を引いてからずいぶん経ち、ある時期まではいろいろ注目を集めることもあったのだが、さすがにここ数年は健康問題もあって動静がほとんど聞こえず、ついに危篤が報じられた直後にこの世を去ってしまった。
この人については、特に晩年は日本の保守・右翼人士に大人気になったりして、正直困った人だなと思うところもあったが、やはり東アジア現代史において重要な役割を演じた、なかなか一筋縄ではいかない「食えない政治家」として語られ続ける存在には違いない。先ごろ亡くなった中曽根康弘とどこかポジションが似てる(生前にも台湾人の誰だかが「政治家としてのイメージ」が似てると言及していたことがある)と思うところも。
李登輝氏は1923年1月、台湾の台北県三芝郷埔坪村(当時)の警察官の家に生まれた。当時の台湾は日清戦争の結果によりすでに30年ほど日本の統治下にあった。李登輝氏は台湾生まれではあるがその祖先はもともと中国大陸北部から南部へと移住した「客家(ハッカ)」で、さらにそこに日本語世代という性格が加わるため(いくつも言語をあやつるが日本語思考が一番楽と当人は話している)、なかなか複雑なアイデンティティーの持ち主だ。日本統治時代に対する台湾人の感情はどこか懐古的、肯定的評価があるとも言われるが、その代表みたいに言われた李登輝氏も自叙伝では学生時代に日本人教師から屈辱的な目にあったことを書いていて、そうコトは単純ではない。
李登輝氏は高校時代に名前を「岩里政男」と日本風に改名、高校卒業後の1943年、日本の京都帝国大学(現。・京都大学)の農学部に進学する。京都帝大に進んだ理由の一つは、地元の台湾帝国大学が現地人入学に制限をかけていたから、というものだった。農業分野を専攻に選んだのは李氏が当時の農村の小作人たちの実態をみてその救済を志したこと、また高校時代にマルクス主義にハマったことも理由であったという。この世代の若者(のちに右寄りの大物になっても)にはよくある話で、チャーチルの名言にあるように「二十代までにマルクス主義にハマらない者は情熱が足りない」ということなんだろう(三十代でも抜けない者は理性が足りない、と続くんだっけ)。
総統になってから、いや退任後以降のことらしいのだが、京都大学関係者と会った際にも「私は毛沢東を尊敬している」と、自分も志した農業政策とのつながりで発言したことがあったといい(考えてみりゃ総統やってる時じゃ無理な発言だな)、こういうところもなかなか単純ではない人だ。
京都帝大在学中に、農業経済分野専攻は文系扱いだったために「学徒出陣」で徴兵され、戦場にはいかないまま名古屋で敗戦を迎える。なお李氏の二つ年上の兄はフィリピンで戦死している。
日本敗戦後は台湾に戻り、本来の志望であった台湾大学の農学部に入るが、日本撤退後の台湾は中華民国の領土となり、しかも大陸で中国共産党tとの内戦に敗れた蒋介石ら国民党政権が台湾に移ってきた。国民党政権は台湾にとっては「よそ者(外省人)」であり、国民党から見ると台湾住民は自分たちの支配に服さず反抗する存在と映った。かくして1947年に「二・二八事件」が起こり、国民党による台湾人への大弾圧が行われる。
こんな時期に台湾に戻った李登輝氏は、こうした国民党に憎悪を抱き(自身も弾圧対象にされかけた)、もともとマルクス主義にも染まっていたこともあって中国共産党に一時入党していたとされる。当人は後年、共産主義者だったことは認めつつ共産党入党は正式にはしていない、と主張しているが、少なくとも系列の組織に一時的にいたことは間違いない。まぁ早くに疑問も持って離れたようではあるが(この辺も渡辺恒雄とか、あの世代の大物に共通する)、後年、蒋介石の息子・蒋経国に見いだされてその後継者にまでなった理由の一つが、「かつて共産党にいた」という点が蒋経国と共通していたから、という見方もある。
しかしまぁ、当時はそれだけ憎悪していたという国民党の主席にあとでなっちゃうんだから、人生はわからない。現在李登輝をやたら持ち上げる日本の言論人やメディアの多くはかつては蒋介石を神様みたいに持ち上げていた(そして今はそんな過去はおくびにも出さない)ことを考え合わせると、面白いもんだなぁ、と。台湾で日本統治時代が比較的肯定的に言われるのも、そのあとに来た国民党があまりにひどかったから、と言われてるしね。
その後の李登輝氏は農業経済の専門家として学者街道を歩むのだが、アメリカ留学時代に蒋経国暗殺未遂事件の犯人と接点があったとして政府からマークされ、出国を禁じられるといった目にもあっている。今では忘れてる人も多いが、1980年代まで台湾や韓国は実質軍事独裁政権下にあり、台湾の場合は国民党一党独裁、おまけにトップは世襲、という、北朝鮮に似たような体制だった。李登輝という政治家を考えるとき、そうした前提を知っておかないといけない。
そんな李登輝氏が、諸般の事情でその能力を蒋経国に見いだされ、1971年に国民党に入党、政治家街道を歩みだす。翌年に当時最年少での入閣を果たし、1978年に台北市長、1981年には台湾省政府主席、そして1984年には副総統の地位について蒋経国の後継者となる。そして1988年1月に蒋経国が死去すると、そのまま国民党主席代行・中華民国総統代理となり、やがて正式に主席・総統の地位につく。このとき蒋介石夫人・宋美齢との対立があったりもしたそうだが、李登輝氏は権力基盤が弱いわりにたくみに党内で立ち回り、蒋家の世襲支配を終わらせただけでなく、初の台湾出身者総統となり、しかも多党制・民主化を進めていくことになるわけだ。
その後の総統時代の李登輝氏が進めた台湾の民主化改革は、驚くほどのスピードで展開した。李氏本人がいつからそうしようと考えていたのかは分からないが(こういうことは自伝などでの発煙もあまり信用できない)、折から東西冷戦構造の終結、ソ連の崩壊などがあったことが一つの原動力になったのは間違いないと思う。同時期に韓国でも民主化が進むしね。李氏自身、アメリカ留学体験もあるし台湾を民主化しようと早い段階で考えていた可能性はあると思うのだけど、国民党に入党してあれよあれよという間に最高権力者の後継者の地位にまで登ってしまったあたり、かなりの「海千山千のやり手の政治家」だったのだろうと思っている。台湾民主化の流れを作ったのも、あるいは「時代のなりゆき」なだけなのかもしれない。
直接選挙による総統就任をしてから、李登輝氏は中国との対立を深めてゆく。話は従来の「国民党VS共産党」という、中国政権本家争いではなく、中国VS台湾という形になってゆき、1999年には両岸関係を「特殊な国と国との関係」と表現する「二国論」を唱えるようになり、台湾独立傾向の姿勢を強めていった。
もちろん李登輝氏本人は台湾生まれだし、台湾独自のアイデンティティもあるだろうが、初めから台台湾独立を意図してたかは正直怪しい。李登輝政権の間に中国と台湾は資本や人の行き来がかなり活発になっているし、後年暴露されたことだが1992年の段階で李登輝総統は密使外交で中国共産党と接触、一定の合意関係を持っていたとされている。蒋経国からも後継者の条件として「台湾独立はしない」という約束をしていた、という話もあるし、少なくとも総統になるまではそれほど「独立」傾向を持ってはいなかったんじゃないかと。
それが急速に中国離れに向かっていったのは、あくまで推測だが90年代半ばに一部で流行した「中国共産党政権崩壊、中国分裂」のシナリオを信じたからではなかろうか。当時CIAが分析したとかでアメリカのクリントン政権もすっかりその気になってたという話もあるし(余談ながら漫画「超人ロック」の一番現代に近い未来の話もこのシナリオの影響がかなり感じられる)。ま、ソ連崩壊を事前に予測した人がほとんどいなかったように、今度は崩壊を予測するとだいたい当たらない。
結局この手の予測は20年経った今も的中はしていない。この辺は李氏も読み違えたということじゃないかと。その直後の2000年の総統選挙では、自身が後継に推していた連戦氏がまさかの敗北(国民党自体が分裂したため)、より独立傾向のある民進党の陳水扁が総統になって、国民党は初の下野となり、李登輝氏は国民党内の突き上げを受けて国民党主席の地位を降りた。
それ以後は独自の立場で政界に影響を与えようとはしていたけど、実のところ(年齢のせいもあるが)政治的存在感はどんどん失われていった。自分が党首をしていた国民党から追われた形だし、民進党だって本来は立場を異にするリベラル政党でのっかれるはずもない。この辺りから李氏が急速に日本の保守系に受ける、あるいは中国を刺激するような言動を連発するようになるのだが、もうそれしか寄るところがなくなってしまった、というだけにも見えた。実際ここ最近でも台湾の民進党政権からは批判されるような例も見られたようだし。
一方で台湾国内での講演など、場所が変わるとまた違った歴史認識を語ったりもしているそうで、そこは政治家、その場その場で相手に受けそうなことを言ってたというだけなのかもしれない。振り返ってみてもそれほど確固とした一貫性とか信念とかは感じられないんだよな。当人の胸の内のことは永遠に分からないけど。
偶然ながら、亡くなる直前に香港の「国家安全維持法」の問題が注目され、李氏が台湾民主化に果たした功績がより称揚される形にもなった。ここしばらく忘れられた存在になってたから、ある意味では「幸運」なタイミングでの逝去だったかも。
◆前国王亡命の珍事
訃報ネタばかり続いて、四つ目に何かこう、もう少し明るい話題はないか、と待っていたらこれが来た。いや、「明るい話題」かは疑問もあるけど、だれか人が死んだわけでもなし、「元王様」のスキャンダルという「史点」的に美味しいネタだなと思ってしまったのは確か。あのブルボン家の血筋の元王様が国外亡命、と聞くと、歴史好きとしてはちょっとは心が躍るではないか(笑)。
スペインの前国王、フアン=カルロス1世(82)が8月3日、いきなり息子の現国王フェリペ6世への手紙を残して国外への亡命を表明した。革命などが起こって国王が亡命、という例は歴史上いくらでもあるが、すでに退位した前国王の国外亡命というのは僕も記憶にない。しかも原因は、前国王自身にわきあがった、巨額の収賄および資産隠し、しかもそれらを元愛人に貢ごうとした、というなんともはやな疑惑について捜査の手が及んできたから、というからますますオドロキだ。
日本ではあまり報道が出てなかったので僕も気づかなかったが、スペインでは6月からこの疑惑が騒ぎになっていた。前国王の疑惑は、まだ在位中の2008年から2011年にかけてサウジアラビアの高速鉄道建設をめぐり、スペイン企業連合がその受注に成功する過程で彼がその地位を利用して大きな役割を果たし、サウジアラビアとスペイン企業連合の双方から巨額(ウン十億円規模!)の賄賂あるいは成功報酬を受け取り、しかもそれをタックスヘイブンに逃がして資産隠しをしたというもの。いやはや、現代の西欧の国王なんて象徴的存在だろうと思っていたのだが、サウジのような「王国」相手だと一種の「君主外交」ができるので、そうした生臭い政治・・経済活動に関与するということができるのだな。
ちょっと本筋から離れるが、このサウジの高速鉄道というのがメッカとメディナというイスラム教二大聖地を結ぶものであるというのも歴史好きの心をくすぐってくれる。
しかもカッコの悪いことに、一連の疑惑は前国王の元愛人から捜査当局に漏らされたものらしい。この元愛人というのは、前国王が自国の経済難を尻目にアフリカで狩猟旅行をしていた時に同行していた女性で、これが国民の大ブーイングを受けて退位につながった経緯がある。どうも前国王さん、この女性とよりを戻そうとして多額のカネを彼女に貢いだらいいのだな。結局この元愛人がスイス当局に前国王の資産隠しを密告した、ということのようで、何重にもみっともない。
スイス側から資料の提供を受けたスペイン当局も捜査を開始。6月にスペインの最高裁が前国王の在位中の行為については免責特権があるとしたが、退位後のことについては責任ありと判断したので、収賄は在位中ながら資産隠しや元愛人への貢ぎについては退位後のことなので責任をとらねばならないことになる。
このままでは王室の権威に傷がつく、というのが前国王が亡命に踏み切った理由と表向きされてるようだが、実のところ本気で当局の捜査から逃げたんじゃないかと言われている。フアンにかられたんでしょうな(笑)。
さて、個人的な話になるが、僕は偶然にもつい先日、スペイン製作の歴史ドラマ大作「イザベル」全39話を見終えた。これはカスティリヤ女王イザベルの生涯をドラマ化したもので、彼女がアラゴン国王フェルディナントと結婚することで両国が連合、イスラム教徒の拠点グラナダの陥落、コロンブスの大西洋横断といった、その後のスペイン建国の歴史がかなりのややこしさで描かれている。このドラマ、妙に半端な感じで終わるのだが、これはイザベルの娘のフアナ女王、さらにその息子のカルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)まで続く三代の大河ドラマになってるため。「カルロス」という名の国王は彼が最初だから「1世」なんだけど、前国王は「フアン・カルロス」なので別カウントになってるようだ。
このカルロス1世は父親がハプスブルグ家で、スペイン王家は以後ハプスブルグ王朝になって次のフェリペ2世時代に絶頂期を迎える。その後18世紀初頭に「スペイン継承戦争」があってフランスのルイ14世が孫のフェリペ5世をスペイン国王に押し込み、以後のスペイン王家はブルボン朝となる。現国王はそれ以来の「フェリペ」さんであるわけだ。
その後、ナポレオンの兄が一時国王になったり、革命で二度共和制になったりといった紆余曲折があり、1930年代からはフランコ将軍による独裁体制が続き、1975の彼の死去後、その遺言によりその時点で最後の国王の孫であったフアン=カルロスが即位してブルボン王家による君主制が復活した。若き国王フアン=カルロスは強権的な支配体制を崩して民主化を後押しし、1981年に起こったフランコ派のクーデター未遂事件の際には命をはって毅然とした態度をとって早期鎮圧に貢献、スペイン民主化のシンボル的存在として国民の大きな支持を受けるようになった…のだが、ほんと、人間の評価なんて棺桶が閉じられるまで、いや閉じてもなかなか定まらないもんである。
亡命ったってどこへ行くのか?と思うばかりだが、今のところ公式なはっっぴょうはない。どうやら現在は旧植民地であるドミニカに逃げているんじゃないかとの話が流れているが…
2020/8/7の記事
<<<前回の記事