ニュースな史点2020年7月15日
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◆コンゴはもう致しません
アメリカで始まった人種差別反対運動、単に警察官の黒人に対する態度の問題にとどまらず、アメリカ建国以来の黒人差別問題の洗い出し、歴史の再評価といったところまで広がっている。これまでにも何度かあった動きだが、今度の騒ぎはかなりの決定打になったよううで、コロンブスの銅像が撤去されたり、最後まで「南軍旗」のデザインを残していたミシシッピ州の州旗がついに変更と決まったり、国際連盟提唱で名高いウッドロー=ウィルソン大統領の名前を大学施設から外したり(KKKを賛美した古典映画「国民の創生」の試写会をホワイトハウスでやったほか、人種差別的政策を進めたからという)、といった「成果」が次々あがっている。
その一方で、奴隷解放を記念した銅像が黒人がリンカン大統領の前にひれ伏して感謝してる構図が差別的、とか、四人の大統領のデカイ顔の像で知られるラシュモア山を爆破とか、どんどん過激な主張も出ているようで、オバマ前大統領やリベラル文化人らが運動そのものは称賛しつつ異論を徹底排除するような暴走はイカンと戒める声明を出してもいる。
こうした「歴史の見直し」の動きはアメリカからヨーロッパにも飛び火し、特にイギリスでは奴隷貿易に関わった人物の銅像引き倒しとか、アフリカ植民地化で知られるセシル=ローズ像がオックスオード大で撤去されたりしている。第二次大戦時の指導者ウィンストン=チャーチルの像についても撤去の声があがってるというから驚いたが、それを言い出すと「大英帝国」の政治家たちはもれなく「有罪」にされるよなぁ。銅像の撤去とか破壊活動めいたものはともかく、こうした「歴史の見直し」が今更ながら欧米でも勢いを持って浮上してきた、というのはまさに「歴史的」ではないかと僕は注目している。
6月30日、ベルギーのフィリップ国王が、かつてのベルギー植民地であるコンゴ民主共和国のフェリックス=チセケディ大統領あてに書簡を送り、その中でベルギーが過去の植民地支配でコンゴに与えた被害について「遺憾の極み」という表現を使って謝罪・反省の意向を示した。今年の6月30日がちょうどコンゴ独立60周年にあたることにちなんでの行動だが、おりからの人種差別反対運動の流行のなかでベルギーではコンゴに圧制をしいたことで有名な国王レオポルド2世(在位:1865-1909)の銅像が各地でペンキをかけられたりイタズラ書きされるなどの事態が起こっていて、フィリップ国王の書簡送付もこうした状況をふまえたものとみられている。
19世紀のアフリカはイギリス・フランスをはじめとする西欧諸国による分割・植民地支配が進められたが、ヨーロッパでは小国であるベルギーもアフリカ中央部のコンゴに支配の手を伸ばした。1884年の「ベルリン会議」でアフリカにおける各国の勢力範囲が定められると、コンゴはレオポルド2世の私有地「コンゴ自由国」となった。しかし「自由国」の名のもとに天然ゴム栽培や資源収奪は過酷をきわめ、一説に数百万人もの現地住民の犠牲を出したと言われている。植民地支配が当然だった当時の欧米ですら批判を呼んだほどの圧政だったとされ、こうした批判もあって1908年からベルギー政府が国王からコンゴを「譲渡」されるという形をとってベルギー国家の植民地とした。
なるほど、こうした事情を知ると、昨今の流れでレオポルド2世の銅像が攻撃されるのも分からなくはない。
コンゴがベルギーから独立したのは、多くのアフリカ諸国が独立して「アフリカの年」と呼ばれた、まさにその1960年のことだった。
コンゴの独立運動家で、初代の首相となった人物にパトリス=ルムンバという人がいる。彼の生涯を描いた映画「ルムンバの叫び」(原題は「LUMUMBA」)を見たことがあるが、作中独立式典でベルギー国王ボードゥアンが演説する場面があり、その内容は反省や謝罪のたぐいはまったくなく、レオポルド2世の「偉業」をたたえ、ベルギーがコンゴの「文明化」に貢献してきたという恩着せがましいものとなっていた。確認はしてないがたぶん実際の演説を再現したものなのだろう。これに対しルムンバはベルギー支配の圧政ぶりを痛烈に批判する演説を直後におこなって喝さいを浴びるのだ。
さらに厚かましいというか、独立後もベルギー軍はコンゴ国内に駐留し、資源など利権の維持をはかった。銅の産地の地域をけしかけて別の独立国にしようとしたり、ベルギー軍がコンゴ軍をわざと挑発して混乱をもたらした。これに加えてコンゴ側の権力闘争もあいまって「コンゴ動乱」と呼ばれるほどの内戦状態になってしまう。ベルギーに対して最も強硬だったルムンバは独立からわずか半年後に拉致・殺害され、その遺体も硫酸で溶かされるという悲惨な最期を遂げた。ルムンバ暗殺の背後にはベルギーはもちろん、アメリカの関与があったことが疑われている(その映画では完全にそう描いたため、TV放映時に関係者がそのシーンの削除を要求したことがある)。
そんな経緯を知ってるもんだから、今回のベルギー国王の「遺憾の極み」という表現での謝罪は、今更、とか、ずいぶん軽いような、と思わないでもないのだが、それなりに歴史に向き合った「一歩」には違いない。
◆麒麟はいつくる?
今年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」は大河史上初めて明智光秀を主人公とするドラマだが、主要キャストの交代で撮り直し騒動があったのも異例だったが、新型コロナ流行のため4月以降収録がストップ、6月からとうとう放送自体もストップしてしまうという、ますます異例の展開になってしまった。再開がいつからになるのかも現時点でもわからず、年内に予定回数ぶん放送できるのかもまた不透明だ。まさかとは思うが、いよいよ間に合わなくなったら、いきなり間をすっ飛ばして「本能寺の変」になっちゃったりするのだろうか。どうせ光秀と織田信長は直接顔を合わせる必要はないので別々に撮影、兵士エキストラもソーシャルディスタンスをとって合戦シーン、あ、信長も槍や弓で抵抗するのが定番だからもともとソーシャルディスタンスがとれてるな(笑)。だけどみんなでマスク着用ってわけにもいかないしなぁ。
さて、あのドラマの登場人物に明智左馬助(秀満)がいる。光秀の家臣として生涯を共にした人物で、光秀の従兄弟、あるいは娘婿(その両方かも)とされている。「麒麟がくる」では従兄弟設定だ(西村まさ彦が演じた叔父さんの息子)。この明智秀満は本能寺の変でも直接の攻撃部隊を指揮したとされ、信長を斃したのちに安土へ進撃、そちらを守っているうちに光秀が山崎の戦いで敗北、逃亡中に殺害されてしまった。秀満は安土から琵琶湖西岸にある光秀の拠点・坂本城に移り、ここで一族もろとも戦死したとされている。
この明智秀満、実在の人物なのだが不思議と伝説がいろいろ残されている人物で、もっとも有名なのが坂本へ落ち延びる際に行く手を敵にふさがれたので乗馬したまま琵琶湖を渡ったという「明智左馬助の湖水渡り」だ(キリストじゃないので、馬が泳いで渡った。騎馬ではなく馬と一緒に泳いだという解釈もある)。この話が最初に出てくるのは江戸時代初期に出た『川角太閤記』だそうで、この本は本能寺の変あたりのことについては当時まだ生きてた関係者に取材しているとされ一定の資料的価値を認められているらしいが、正直なところそのまま史実とは考えにくい。
僕がこの「湖水渡り」の逸話を知ったのは漫画「風雲jたち」にそのシーンが描かれていたから。江戸時代を描くこの漫画になんでそのシーンがあったかというと、主役の一人である坂本竜馬が自分の先祖が明智左馬助だとして、彼の湖水渡りの武勇譚を語る、という場面があったのだ。まぁそこでもこの話自体が史実かどうか怪しいうえに、明智秀満が本当に竜馬の先祖なのかも怪しい、ということは触れていたように思ったけど。これは坂本家の家紋に明智家と同じ「桔梗」が入っていることとか、光秀の拠点「坂本」とつながるといったコジツケから竜馬伝説のはしり「汗血千里駒」で生まれた俗説らしい。
話がそっちこっち飛んでしまった感じだが、以下、ニュースな話題。
さる五月、滋賀県大津市にある石山寺の倉庫から「山岡景以舎系図」という古文書が見つかった。見つかった経緯が、おりからの新型コロナ流行で寺の拝観を中止し、その間に倉庫の整理をしていたから、とのことで、資料の発見なんて何がキッカケになるかわからない。。
この系図は山岡景以という武士が1591年に作成した山岡家の系図で、代々の当主の事跡が漢文で書き込まれている。もっとも発見されたものはそのオリジナルではなく、1641年に江戸幕府が「寛永諸家系図伝」を編纂した際に提出のため改めて清書され、それをまたさらに江戸時代中期に書写したものだとのこと。二度書き写しを経ているが、状況からすると内容の信頼度が高そうではある。
この系図には山岡景以の父・山岡景隆の事跡の記述があり、そこに本能寺の変の直後の明智秀満軍との交戦の経緯が記されていたのが注目された。それによると本能寺の変で信長を斃した明智軍は安土を目指すが、それを阻止するべく景隆は琵琶湖南端に注ぐ瀬田川にかかる「瀬田橋」を焼き落とした。この瀬田の橋は古来より交通の要衝で、壬申の乱でも最終決戦が行われたほか、源平合戦や南北朝動乱でも京都をめぐる攻防戦でしばしば戦場になっている。ここでも歴史は繰り返されたわけだが、景隆が落としたときの瀬田橋は、ほかならぬ信長によって建設されたものだったりする。
ここまでは『信長公記』などに同様の記述があって知られていたが、今回の注目点はそのあと。なんとしても安土を目指そうとする明智秀満軍が船に乗って琵琶湖を突破しようとしたので、景隆側も船に乗って応戦、湖上での船戦、つまり水上戦になったとの記述があったというのだ。
報道記事に出ていた滋賀県文化財保護課の人のコメントでは、この瀬田の橋付近での船戦がのちに脚色され、「左馬助の湖水渡り」の伝説になったのでは、とのことだった。湖上の船戦と騎馬のままの湖水渡りではずいぶん話が違うけど、案外そんなところから生まれた伝説であるのかもしれない。
◆髪型変更は届け出必須
江戸時代の日本人の髪型というのは、武士も庶民もかなり面倒くさい恰好をしている。男性は単にチョンマゲを結えばいいわけではなく、ひたいから頭上へと「月代(さかやき)」を剃り(当然マメに手入れしないとボーボーに生えてくる)、残りの髪の毛を伸ばしてチョンマゲでまとめるんだけど町人は後頭部に少し出っ張るように形を整え、そのために油で固める必要もあった。月代以外は今のお相撲さんの髪型にその形を残してるけど、まぁ見るからに面倒くさそうではある。
女性の髪型も江戸時代のそれはなかなか複雑。安土桃山以前は長く伸ばしてうしろでまとめるといった単純なものだったが、江戸時代で平和が長く続くと人間無駄なことに凝る性質があるようで、女性の髪型は職業や立場で違いはあるが、おおむね頭の上に髪の毛を丸くまとめていく形になる。ここでも形を整えるために油をつける必要があり、洗髪もそうそうできない時代はにおいもきつく、頭痛になる人も少なくなかったとか。
幕末になって欧米人との接触が始まると、一部でチョンマゲを切った、いわゆる「ざんぎり頭」にする人が出てくる。明治時代に入るとその風潮はいっそう広まり、1871年(明治4)8月には「散髪脱刀令」(俗に「断髪令」)が政府より発せられて、チョンマゲを切ってザンギリ頭にすることは政府が積極的に推奨するものとなった。
この「散髪脱刀令」、いちおう「チョンマゲ切れ!」と強制するものではなく、「自由にしてよろしい」という趣旨である。「脱刀」が一緒についているのは、それまで武士階級は公の場に盛装して出る場合、腰に大小の刀をさしていなければならなかったが、それもはずしていいよ、ということである(平民は帯刀自体が禁じられた。やがて「廃刀令」で全面禁止になる)。まだまだ江戸時代そのままの恰好が多かったこの時期、わざわざ「自由にしてよし」という法令を出したわけだが、実質は洋風スタイルの推進が狙いだった。そして実際に驚くほど急速にチョンマゲは日本から消滅していくのである。
ただし、この「散髪脱刀令」、本文に書かれてはいないがその対象を男性に限定していた。女性が「脱刀」はもちろんのこと、「散髪」するなど全く想定外だったのだ。ところがこの「散髪脱刀令」が出たとたんに、ごく一部ながら「散髪」を実行する女性が出現して大騒ぎになってしまう。
その第一号となったのが、女流日本画家・奥原晴湖(おくはら・せいこ、1837-1913)だった。この当時彼女は30代半ば、すでに女流画家として名声を得ていて、当時の政府要人である木戸孝允と深い交流があるなど、この時代にあってはかなり有名な女性文化人だった。そんな彼女が「散髪脱刀令」を受けてさっさと日本髪を切り、短髪にしてしまったことは当時かなりの衝撃だったそうで、狂気の沙汰のように批判された。それでも晴湖はその髪型を生涯通したというから、時代の変化に敏感であったと同時に、従来の日本髪を正直鬱陶しいと思っていたのではないかなぁ。
晴湖だけでなく、「散髪」を実行する女性が続々と出たようで(絶対数は少なかったろうけど)、これは想定外の事態で、自分たちは「ザンギリ頭」を推進している男性たちの多くが眉をひそめた。「散髪脱刀令」が出た翌年には東京府で「女子断髪禁止」が布告されている。まぁ男の勝手、と現代では思うほかないが、基本的に保守的な男性上位社会では女性は従来通りの外見で家の中にいろ、という考えが一般的だったのだろう(21世紀の居間ですら保守勢力の一部はそう主張したりする)。
さて長い前フリの末にようやくニュースな話題になる。
朝日新聞が6月末に報じたところによると、千葉県白井市の旧家から、明治時代の女性の「断髪届」が発見された。日付は明治9年(1876)10月25日で、この旧家の当時の長男の妻がその年の7月に「断髪」したので、それを事後に役所に届け出たものの控えとみられている。女性が「断髪」するのはやはり自由ではなく、役所に届け出をしなければならなかった実例として注目されたわけだ。
もっとも記事によると、この「長男の妻」が断髪したのは文明開化だのオシャレだのといったものではなく、自身の長患いが治るようにと願をかけて髪を切ったのだそうだ。願かけで髪を切る、というのがどれほど一般的だったかは知らないが、こういうケースでも一応役所に届け出なければならなかった、ということでもある。これもまた面倒くさい時代だなあ、と思うが、つい最近でも髪型の校則であれこれ話題になってくらいで、面倒くさい話は現代でも続いているんだよな。
◆モスクに戻るアヤソフィア
ついにやっちまったか。というのが「世界遺産アヤソフィアをモスクに」という報道見出しを見ての第一印象だった。この問題、5月からちらほらと耳に入っていて、イスラム系政党を率いて、これまでもイスラム的政策を強めてきたトルコのエルドアン大統領がアヤソフィア(聖ソフィア聖堂)のモスク化を実行しそうだというので、隣国ギリシャなどキリスト教諸国、さらにはアメリカが反対・警告を行っていた。それらに対してエルドアン大統領は「内政干渉」とつっぱねていたので、実行は避けられないとは思っていたけど。
「あれ?アヤソフィアって、とうの昔にモスクになってなかったっけ?」と、世界史を習った人で疑問に思った人もいるだろう。なんで今さらそんな騒ぎになってるのか、この建物の長い長い歴史を振り返ってみよう。
現在のイスタンブールは、かつてのコンスタンティノープル。ここが東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の都となったのは4世紀のことで、この時にローマ帝国でキリスト教が公認されたこともあり、この都にも大きなキリスト教会が建設された。これが「アヤソフィア」の前身になるが、その後何度か焼失を繰り返した。
現在も残る大聖堂を建設したのは、6世紀前半にかつてのローマ帝国復活の勢いを見せたことで名高い東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世だ。この大物が焼失した聖堂の再建にとどまらず、空前の規模の大建築として建設させ、5年の歳月をかけて537年に完成させた。以後、この大聖堂はコンスタンティノープルの象徴的存在となり、キリスト教会の東西分裂により東方正教会(ギリシャ正教)の総本山としての地位を占めるようになった。
時は流れ流れて、およそ1000年後の1453年。オスマン帝国のメフメト2世がついにコンスタンティノープルを陥落させ、東ローマ帝国を滅亡させた。コンスタンティノープルはイスタンブールと改称されてオスマン帝国の首都となり、アヤソフィアも正教会から接収されてイスラム教の礼拝所・モスクに転用される。聖堂内部の十字架は撤去され、礼拝するメッカの方向を示すくぼみが設置されたりはしたが、正教会の聖人像などはそのまま保存され、往年の姿を今日までとどめている。大聖堂の四方には礼拝の呼びかけに使われる尖塔(ミナレット)が建てられ、これでほぼ現在の姿に
さらに500年近い時が流れ、20世紀初頭にはオスマン帝国はかなり衰退、第一次世界大戦で敗戦国となったのが最後のとどめとなり、強力な指導者ケマル=アタチュルクが登場してオスマン帝国を滅ぼし、現在の「トルコ共和国」を建国する。ケマルの話は当サイトの「しりとり歴史人物館」に記事があるので、詳しくはそちらを読んでいただくとして、ケマルはトルコを西欧的な近代国家に仕立て上げ、徹底した「政教分離」「世俗主義」を推し進めた。トルコ国民の9割以上がイスラム教徒だが、このイスタンブールの象徴的な建物をモスクから無宗教の博物館に変えさせた。そのまま21世紀まで続いていたのだが、とうとうモスクに戻ってしまう、というわけだ。
ケマル=アタチュルク死後もトルコ共和国は世俗主義を国是として守り、イスラム的な政党は弾圧され、あるいは政権をとっても世俗主義の守護者を自認する軍部がクーデターを起こして倒してきた。その流れが変わったのが、21世紀に入ってからイスラム系政党を率いたエルドアン現大統領が政権をとってからだ。エルドアン政権はゆっくりとではあるが、公共の場でのスカーフ着用の自由や酒類販売の規制などのイスラム的な政策を推進し、一度おこったクーデターも乗り切って、国民の支持を背景に近頃は強権的指導者とも評されることもある。
このエルドアン政権のもとで、それまでは禁じられていたアヤソフィア内の小部屋を使った職員らの礼拝が認められるようになっていて、いずれアヤソフィア自体のモスクへの「回帰」を打ち出すだろうとはみられていた。昨年の段階でイスラム団体から「アヤソフィアをモスクに」との声があがり、エルドアン大統領もそれに同調する発言をしていて、今年に入って一気に話が進んだ形だ。
5月29日、アヤソフィアにおいて「コンスタンティノープル征服567周年記念式典」という、えらく中途半端な年数の記念式典が政府により執り行われ、ここでイスラム団体指導者も参列し、コーランが読み上げられた。これまで徹底的に非宗教施設とされてきたアヤソフィアで明らかに宗教的な儀式が行われたわけで、これは「モスク化」の下準備としか見えなかった。
即座に、隣国で歴史問題では何かと対立するギリシャ政府が非難した。ギリシャはかつてのビザンツ帝国の後継国家を自認してるところがあって(ケマル=アタチュルクの時の戦争でもコンスタンティノープル奪回を意図していたし、たぶんアヤソフィアをキリスト教会に戻す気もあったはず)、「世界中のキリスト教徒への侮辱」と強い調子で抗議した。
7月に入ってから、トルコのイスラム団体が「アヤソフィアを非宗教施設としたのは不当である」との訴えを裁判所に起こした。「建国の父」とあがめられてきたケマル=アタチュルクの政策を全面否定する訴えだが、どうもこれが通りそうだということで、アメリカ政府までが懸念をトルコ政府に伝える事態にもなった。まぁエルドアンさんは最近はアメリカと仲が悪いから聞く耳を持たず、「内政干渉」とつっぱねたけど。
予想通り7月10日に裁判所が「不当」の訴えを認める判断を出し、即座にエルドアン大統領はアヤソフィアをのモスク化実行を宣言した。これに対し、ロシア正教会やバチカン教皇庁など世界のキリスト教会が遺憾や懸念を表明、ユネスコもアヤソフィアをの世界遺産登録について再検討がありうるとの姿勢を示している。
その一方で、トルコ国内のアルメニア正教徒の指導者であるサハク=マシャルヤン大主教は、もともと宗教施設として建設された歴史をふまえて、キリスト教・イスラム教共通の礼拝所にしてはどうか、という提案をしていた。
わざわざ喧嘩の種になるようなことをせんでも、と今度の決定には思うのだが、確かにもともとキリスト教会、その後はイスラム教モスク、という歴史があって、博物館時代はそれに比べりゃずっと短い。一神教どうしで共有できる宗教施設にするあたりが落としどころになるかなぁ、とも思うのだが、僕個人としてはサイト内でケマル=アタチュルクの伝記を書いて思い入れがあることもあって、彼の進めた政策が100年もしないうちになし崩しになっていくのは寂しい気分だ。
2020/7/15の記事
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