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かいじつ〜かんじ

快実 かいじつ
生没年不詳
生 涯
―六波羅軍相手に大暴れした荒法師―

 比叡山延暦寺の悪僧(荒法師)。『太平記』のみに記録されている人物だが実在た悪僧と思われる。延暦寺の岡本坊に属し、竪者(りっしゃ。経典の議論で質問に回頭する役)をつとめていたとされる。「播磨の竪者」とあるので播磨の出身だったのだろう。
 元弘元年(元徳3、1331)8月24日に後醍醐天皇が倒幕の挙兵のため宮中を脱出、比叡山延暦寺がこれに呼応したため8月27日に六波羅探題の軍勢が比叡山の東のふもと、琵琶湖西岸の唐崎浜へと押し寄せた。このとき快実は長刀をふりまわして戦闘に参加、六波羅軍の武将・海東左近将監を見事に討ち取り、その首級をあっげて「武家の大将を一人討ち取った。幸先が良いぞ」とあざわらった。それを見た海東の息子・幸若丸が父の仇討ちをしようと快実に襲いかかったが、快実は相手が十五、六歳の子供なので「このような子供を討ち取っては法師として情けがないというもの」と考えて、殺さぬように長刀を振り回していたが、そのうちに幸若丸に味方の射た矢が当たり死んでしまった。海東の郎党たちが主君の首を取り返そうと襲ってくると、快実は「おかしなものだな。戦では敵の首をとることこそ習いだが、味方の首をほしがるとは。これは武家(幕府)の滅亡の兆しだな」と大笑いして長刀を回して一人で奮戦した。そこへ六波羅軍が押し寄せたのであわや討たれるかと見えたが比叡山側も援軍を繰り出して撃退している。
 強い印象を残す荒法師であるが、『太平記』でも以後は登場しない。

海東幸若丸かくとう・こうわかまる?-1331(元弘元/元徳3)
親族父:海東左近将監
生 涯
―父の仇を討とうとして散った少年―

 六波羅探題の武将・海東左近将監の嫡子。元徳3=元弘元年(1331)8月の時点で十五、六歳であった。
 このとき後醍醐天皇が倒幕の兵を挙げ、比叡山延暦寺がこれに呼応、海東左近将監は六波羅軍の一員として比叡山の東のふもと、琵琶湖西岸の唐崎浜に出陣した。幸若は幼いため父に同行を認められなかったが、ひそかに見物人にまぎれて戦闘の様子を見ていた。ところが父が僧兵の快実に討ち取られたのを目の当たりにし、すぐさま見物人の中から飛び出して快実に襲いかかった。快実は幸若が幼いのを見て殺すに忍びず、幸若の太刀を叩き落そうとしたが、比叡山勢が放った矢が幸若の胸板に当たり、幸若はあえなく死んでしまった(「太平記」)

海東左近将監かくとう・さこんしょうげん?-1331(元弘元/元徳3)
親族子:海東幸若丸
官職
備前守・左近将監
生 涯
―唐崎浜合戦で戦死―

 海東氏は大江広元の五男・忠成を祖とする一族。この「海東左近将監」『太平記』に登場するが実名は不明。一次史料である『光明寺残篇』では同じ人物が「海東備前左近将監」と記されており、このことから『公衡公記』正和3年(1314)10月7日の条や、元亨3年(1323)10月の北条貞時十三回忌法要の記録に出てくる「海東備前前司」も同一人物と推定される。
 
 元徳3=元弘元年(1331)/月24日、後醍醐天皇が宮中を脱出して討幕の兵を挙げた。比叡山延暦寺がこれに呼応したため、六波羅探題は比叡山に兵を向けた。海東左近将監は六波羅軍の一員として出陣しており、8月28日の琵琶湖西岸・唐崎浜の戦闘に参加したが、比叡山の僧兵・快実に討ち取られてしまった。『太平記』によれば息子の幸若丸、『光明寺残篇』によれば主従十三騎が共に戦死している。『増鏡』でもこの戦いで「海東とかやいう兵(つわもの)」」が討ち取られたことに触れ、比叡山側が「ことの初めに“東”が失せるとはめでたい」と言い合ったと記している。

加賀局かがのつぼね?-1422(応永29)頃
親族父:実相院長快 夫:中山親雅→足利義満
子:中山満親・尊満・宝幢若公
生 涯
―義満の長子を生んだ筝の名手―

  足利義満の愛妾の一人。後年「柳原殿」とも呼ばれた。父は実相院の坊官・長快法印で、後光厳天皇の後宮に入り、ここで「加賀局」の呼び名を得たと見られる。管弦の筝(そう。琴の一種)の名手として知られた。やがて公家の中山親雅の妻となり、応安4年(建徳2、1371)に中山満親を生んでいる。
 やがて筝の名手ということで管弦のたびに将軍足利義満に呼び出されるようになったが、そのうちに義満に見初められ、人妻でありながら関係ができてしまった。康暦2年(天授6、1380)8月に将軍邸宅である「室町第」に迎え入れられ、翌永徳元年(弘和元年、1381)正月11日に加賀局は義満の子を産み落とす。これが義満の長子となる尊満で、以後彼女は義満の愛妾の一人として長くその地位を保つことになる。義満が他人の妻を奪い取ったケースはこれが最初であるが以後も事例は多い。加賀局の生年は不明だが義満より数歳は年上だったとみるのが自然だろう。

 至徳2年(元中2、1385)3月、義満が宝幢寺を造営中に第二子となる男子を産んでいる。この男子は寺の名にちなんで宝幢若公と呼ばれたが、至徳4年(元中4、1387)正月14日に夭折した。尊満は義満の長男ではあったが母親の身分から嫡男と扱われることはなく、明徳3年(1392)に青蓮院に入って出家、はるか後年の足利義持の後継者選びの際にも候補に挙がらなかった。男子の中では不遇の扱いではあったが僧侶として社会的地位は高く、生母加賀局も不遇をかこった様子はなく、「柳原殿」と呼ばれて他の義満の妻妾たちと共に厚く遇されている。

 応永15年(1408)3月、後小松天皇が義満の北山第を訪問した、いわゆる「北山行幸」の際にも彼女は得意の筝を披露している。この直後に義満が急死すると加賀局は息子の尊満に引き取られ、尊満が院主をつとめる香厳院に住むようになったらしい。没年は不明だが応永29年(1422)7月に義持の子・足利義量が尊満の母の死去を見舞ったとの記録があるのでこのころに亡くなったと見られる。

参考文献
臼井信義「足利義満」(吉川弘文館・人物叢書)
小川剛生「足利義満」(中公新書)
歴史小説では 確立したキャラクターとして登場した例は恐らくないが、義満の華麗な女性遍歴の一例として義満を扱った小説でちらりと言及される場合がある。

覚海円成かくかい・えんじょう?-1345(貞和5/興国6)
親族父:大室泰宗 夫:北条貞時 子:北条高時・北条泰家(時興)
生 涯
―北条高時の生母―

  鎌倉幕府の有力御家人・安達氏の一族・大室泰宗(安達泰盛の弟の子)の娘として生まれ、北条得宗家・執権の北条貞時の側室となり、最後の得宗となった北条高時の母となった女性。俗名は不明で、法名の「覚海円成」あるいは「北条大方殿」の呼び名が伝わる。
 彼女が貞時の側室となった時期は不明だが、安達泰盛平頼綱に滅ぼされた「霜月騒動」(弘安8年(1285)11月)以前か、平頼綱が滅ぼされた「平禅門の乱」(正応6年(1293)4月)以降とが考えられる。貞時の年齢や正室に北条宗政の娘がいることなどを考慮すると「平禅門の乱」で安達氏が復権した後とみるのが自然かと思われる。
 嘉元元年(1303)12月に高時を産んでいる。貞氏にはこれ以前1298年に生まれた菊寿丸という嫡男がおり、1302年に4歳で夭折しているが、その生母は判然としない。他に金寿丸(嘉元3年没)千代寿丸(没年不明)という子息も夭折しているが、これも生母が分からず高時との出生順もはっきりしない。もしかすると覚海の子なのかもしれないが、確認できる高時以外の覚海の子は泰家(生年不明)だけである。

 夫の貞氏は高時が生まれる以前の正安3年(1301)8月23日に出家し執権職を辞した。その後も得宗として実権を握っていたが応長元年(1311)10月に死去し、高時・泰家の母もこのとき出家し東慶寺(貞時の母・覚山尼が開いた)に入ったと思われる。正和5年(1316)に嫡男の高時が幕府の執権となったが、まだ幼い息子を生母の覚海が後見する形がとられたらしい。この年に覚海が正続庵の領地・成松保の安堵を亡父・貞時の遺志を確認する形で認めた書状が存在する。

 覚海は亡夫・貞時同様に禅宗に厚く帰依し、当時禅宗において名声をあげていた夢窓疎石を熱心に鎌倉に招いた。京にいた疎石は誘いを断って土佐へ逃れたが、覚海はさらに土佐まで使者を送った。このとき覚海は使者に「疎石どのが動くまで決して帰るな」と厳命、「もし疎石どのを隠す者があれば罪に問う」とまで触れまわったという。やむなく疎石は要請に応じて元応元年(1319)に鎌倉・勝栄寺の住持となった。その後疎石は三浦や安房に身を引いたり後醍醐天皇に招かれて京にも行ったが、高時に招かれてまた鎌倉に戻ってくる。これにも覚海の意向が大きくはたらいていたかもしれない。
 元亨3年(1323)の貞時十三回忌の際に亡父の供養のため建長寺に華厳塔を建立して自筆の写経石を納めた。この写経石は昭和9年(1934)に河村瑞軒の墓の参道工事の際に発見されたものだが、惜しいことに作業員に破壊されコンクリート素材にされてしまったとの話がある(井上禅定 『駆込寺 東慶寺史』)

―鎌倉幕府末期のゴッドマザー―

 元亨4年(1324)9月、後醍醐天皇による最初の討幕計画の発覚、いわゆる「正中の変」が起こった。この事件で幕府は日野資朝のみを首謀者として佐渡に流したのみで後醍醐に対して一切罪は問わないという寛大な処置で対応したが、その背景には高時の母・覚海の強い働きかけがあったと言われる。

 正中2年(1325)11月に高時に長男・万寿丸(後の邦時)が誕生した。ところが万寿丸の母は得宗被官・五大院宗繁の妹であり、安達氏出身の正室の子ではなかったため覚海は露骨にこれを無視したらしい。このとき覚海が万寿丸の産所にまったく顔を見せず、安達一門もそろって万寿丸はおろか高時への参賀もしなかったことが金沢貞顕の書状に書かれている。このころすでに内管領の長崎円喜高資父子と外戚の安達氏の間で激しい対立があったことが推測される。それは「霜月騒動」「平禅門の乱」で繰り返された構図でもあった。

 翌正中3年(=嘉暦元、1326)3月に高時が重病で一時危篤となったため出家すると、その後継をめぐって幕府内に紛争が起きた。『保暦間記』によると覚海は自身の子で高時の弟である泰家を執権にしようとし、泰家本人もそのつもりだったが、長崎父子が邦時までの中継ぎとして金沢貞顕を新執権に就任させてしまう。これに激しく怒った覚海は当て付けのように泰家を出家させ、さらに貞時の命すらも狙うとの風聞が流れたため、恐れた貞顕は一か月で辞任してしまった。貞時の後家・高時の生母として覚海が幕府内で強い影響力を持っていたことをうかがわせる逸話である。

 正慶2年(元弘3、1333)5月の鎌倉陥落・高時以下北条一門の滅亡のとき覚海が何をしていたかはわからないが、安全な場所に逃れていたようである。幕府滅亡後は北条一族の発祥地・伊豆の北条に領地を安堵されているところを見ると、伊豆の国司・守護となっていたと推測される足利尊氏の意向があった可能性がある(尊氏は妻・登子の兄・赤橋守時の後家の領地も安堵させている)。覚海はこの地に円成寺を開いて北条ゆかりの女性たちとともに一門の供養をした。

 夢窓疎石との交流はその後も続いており、疎石の歌集『正覚国師集』に伊豆に世を忍んで暮らす覚海と夢窓の交わした歌が収録されている。疎石の「世をそむく我があらましの行末にいかなる山のかねてまつらん(世の捨ててけわしい道を進む我が行く末にはどのような山が待っているのだろう)」という歌をふまえて、覚海は「あらましにまつらん山ぢたえねただそむかずとても夢の世の中(けわしいであろう山道も途絶えてしまいます。もはや捨てずともこの世は夢の中のようです)」と歌った。これに対して疎石は「夢の世とおもふうき世をなほすてて山にもあらぬ山にかくれよ(夢のようだと思うこの世をなお捨てていずことも知れぬ山へとお隠れなさい)」と返歌を送っている。幕府在りし日はなかなかの女傑であったと思われる彼女の、世をはかなんで余生を送る寂しさを物語るやりとりである。

 『常楽記』には「北条大方殿」が貞和5年(興国6、1345)8月12日に死去したことが記されている。息子の泰家の後醍醐暗殺未遂、孫・時行の中先代の乱、建武政権の崩壊と足利尊氏による幕府復活という激動を見とどけてこの世を去ったことになる。

参考文献
「北条高時のすべて」(新人物往来社)
永井晋「金沢貞顕」(吉川弘文館・人物叢書)ほか
大河ドラマ「太平記」 「覚海尼」の名で高時が執権を辞任する第9回から、幕府滅亡寸前の第21回まで登場した(演:沢たまき)。第9回で長崎円喜暗殺に失敗した高時を励まし秋田城介(安達高景と思われる)を「闇討ちを仕掛けるも下、討ち漏らすは下の下じゃ」と叱りつけ、交渉に来た金沢貞顕を裏切り者呼ばわりして追い返し、貞顕を執権辞任に追い込むなど激しい性格を見せたが、対立していた長崎円喜・高資とはあっさり手を組むしたたかさもあった。暗愚な息子・高時を「名執権・貞時の子」と励ますが、それがかえって高時を精神的に追いこんでいたとする描かれ方にもなっている。赤橋守時が出陣を求めに来ると円喜と一緒に守時を裏切り者よばわりする場面もあった。高時の死の場面では原作と同じく春渓尼を通して高時に見事な最期を遂げるよう励ましているが、「鎌倉炎上」の回での彼女の登場はなかった。
歴史小説では 吉川英治『私本太平記』に覚海尼として登場しているが、鎌倉陥落時に春渓尼を使者として高時のもとにつかわし、立派な最期を遂げるようはげます場面がある程度。そして高時の後を追って春渓尼もろとも自害してしまう。吉川英治が史実の確認を怠ったのか分かった上で創作したのかは定かでない。
PCエンジンCD版ゲーム中ではなくオープニングのビジュアルデモ(アニメみたいなもの)の冒頭、北条高時が田楽と闘犬を楽しむ様子を見て「北条時政どのは神仏から北条家七代の繁栄を約束されたというが、高時どのはすでに九代目。こは永遠の繁栄を約束されたということか」などと単純に喜ぶ場面がある。声優はエンドクレジットにも明記されていないが、配役明記のない女性の声優が「津田匠子」しかいないので、この人が演じたのではないかと推測される。

覚助法親王かくじょ・ほうしんのう1247(宝治元)-1336(建武3/延元元)
親族父:後嵯峨天皇 母:刑部卿局(博子)
位階
二品→一品
生 涯
―長寿の聖護院門跡―

 後嵯峨天皇の第10皇子で、生母は藤原孝時の娘・博子(刑部局)。建長3年(1251)に聖護院に入って静忠に師事した。正元元年(1259)に出家、弘長2年(1361)に親王宣下を受け、翌弘長3年(1362)に静忠の死を受けて聖護院第十六世門跡となった。
 正安2年(1300)に二品に叙せられる。その後時期は不明だが一品に昇っており、これは僧籍に入った皇子としては初めての例とされる。文永5年(1268)より園城寺(三井寺)の長吏を二度、嘉元元年(1303)に四天王寺の別当も務めている。
 京都が騒乱の最中の建武3年(延元元、1336)9月17日に90歳の高齢で死去した(ただし「園城寺伝法血脈」には「八十七」とある)。歌人としても活躍し、勅撰和歌集に多くの和歌が入選している。

花山院師賢かざんいん・もろかた1301(正安3)-1332(元弘2)
親族父:花山院師信 母:藤原忠継の孫娘 正室:花山院家定の娘 子:花山院家賢・花山院信賢
官職参議・左大弁・権中納言・中宮権大夫・左衛門督・大納言
位階従三位→正三位→従二位→正二位
生 涯
―後醍醐側近の青年公家―

 後醍醐天皇の側近となり倒幕計画に参加した公家。「尹(いんの)師賢」とも呼ばれる。
 花山院家は藤原北家で平安後期から邸宅のあった「花山院」を名乗った。父の師信は賢才のほまれが高く、後宇多上皇の側近で大覚寺統に近い立場であったが持明院統の花園天皇からも重用された人物。その子である師賢も異例の速度で出世しており、かなりの賢才だったことがうかがえる。はじめ花園に仕えたが、やがて後醍醐天皇が即位するとこちらに接近した。日野資朝千種忠顕など持明院統派から後醍醐に魅せられて鞍替えした若手公家は多く、師賢もその一人であったようだ。また後醍醐の生母と師賢の母とが叔母・姪の関係であったためとも言われる。『太平記』では日野資朝・日野俊基らが行った倒幕計画密談の「無礼講」の参加者の中に師賢の名も並べている。

 正中2年(1325)に二条為道の娘が後醍醐の皇子(後の躬良、法仁法親王)を産むと、乳父として養育をまかされた。その年の12月に二条為定が選定していた勅撰和歌集がほぼ完成し、内容が出回って評判となり、後醍醐は喜んでこれに『続後拾遺集』の名を与えた。これを為定に伝える役を中宮権大夫だった師賢が命じられている。師賢は為定とはよく手紙をやりとりする仲で、「和歌の浦の波も昔に帰りぬと人よりさきに聞くが嬉しさ(和歌の道が昔の盛時に戻ったようだという帝のお言葉を人より先に聞けるとは嬉しいことです)」という歌を詠んだ。これに対する為定の返歌は「和歌の浦や昔に帰る波ぞとも通う心にまづぞ聞くらん(和歌の道が昔に戻ったようだと、私と心が通うあなたにまずお聞かせになったのでしょう)」であった(『増鏡』春の別れ)

―後醍醐の替え玉に!?―

 元弘元年(1331)、後醍醐の二度目の倒幕計画が発覚、後醍醐は倒幕の兵をあげるべく京を脱出した。はじめ護良親王が座主をつとめる比叡山延暦寺を頼ろうとしたが奈良に方向を変え、奈良の興福寺が態度をはっきりさせなかったため結局笠置山に入ることになった。このとき師賢は後醍醐の身代わりとして比叡山に入り、天皇がいるように装って比叡山僧兵たちの士気を上げた。護良と共に師賢も武者姿となって指揮に当たり六波羅軍との初戦に勝利を得るが、間もなく後醍醐が笠置に入ったことが僧兵たちに伝わってしまう。『太平記』では師賢が天皇になりすましていたところ突風が御簾(みす)をめくりあげ、明らかに後醍醐より若い師賢の顔を僧兵たちが見て発覚したと伝えている。
 僧兵たちの士気はすっかり下がり、かえって六波羅軍に通じそうな気配となったため護良・師賢らは比叡山を脱出した。師賢は京市内に紛れ込もうと月下に志賀の浦を通ったが、このとき「思ふことなきてぞ見ましほのぼのと有明の月の志賀の浦浪(思い悩むこともなく見たいものだ、このようなほのぼのと明るい月に照らされた志賀の浦の波を)」と歌ったという(『増鏡』むら時雨)。結局京に入ることはできず、師賢は笠置山の後醍醐たちに合流した。

 一か月ほどの戦闘の末に9月28日に笠置山は陥落。師賢らは炎のなか各自逃亡したが、師賢は翌29日に捕えられ、その直後に出家し「素貞」と号している。翌年に幕府の処分が下り、師賢は下総国の千葉貞胤のもとに預ける流刑とされた。5月10日に都を出発するにあたって師賢は「別るとも何か嘆かん君住までうきふるさととなれる都を(別れるといっても何を嘆くことがあろうか、帝がお住まいにならず辛い故郷となってしまった都ではないか)」と強気な歌を残している。一方で正室(花山院家定の娘)は別離の対面も許されず、「今はとて命を限る別れ路は後の世ならでいつを頼まん(これが命ある限りの別れ路です。もはや来世でしか会うことはできないのでしょうか)」とすっかり弱気な歌を残している(『増鏡』久米のさら山)

 不幸にしてこの妻の予感は的中した。下総に送られた師賢はその年の10月29日に配流先で32歳の若さで急死してしまったのだ(時期的に暗殺の可能性もある)。死に臨んで「死出の山越えむも知らで都人なほさりともとわれや待つらむ(すでに死んだことも知らずに都の人はどうしていることかと私を待つのだろう)」と詠んだという(「新葉和歌集」)
後醍醐側近で流刑となった者の大半は倒幕成功後に無事に帰還して(一時とはいえ)栄華をきわめたが師賢はそれを見ることができなかった。もっともその建武の新政も間もなく崩壊してしまうのでそれを見ずに済んだとも言える。「文貞公」とおくり名されている。師賢の子・家賢は後に南朝に仕えた。
大河ドラマ「太平記」後醍醐天皇の周囲に集まる公家の一人として登場(演:荒川亮)。第3回「風雲児」で京にのぼった足利高氏が醍醐寺で後醍醐天皇と遭遇する場面で、日野俊基・文観・四条隆資らと共に初登場。以後、後醍醐の前に集まる公家衆の一員として笠置山まで姿を見せている。
漫画作品では湯口聖子『風の墓標』で、比叡山攻防戦のなか御簾が風であおられ正体があばかれる場面が描かれている。北条マニアの描くこの作品では「敵」である後醍醐側のキャラの顔が描かれることはめったにないが、これは場面が場面だけにちゃんと顔が描かれている。市川ジュン『鬼国幻想』は前半が護良親王を中心に展開されるため、師賢が後醍醐の身代りになるが正体がばれてしまう過程が詳しく描かれる。

勧修寺経顕かじゅうじ・つねあき1298(永仁6)-1373(応安6/文中2)
親族父:坊城定資 母:四辻隆氏の娘 妻:後光厳天皇の乳母 兄弟:坊城俊実・町口経量
子:勧修寺経方・勧修寺経重・勧修寺経冬ほか
官職検非違使左衛門権佐・蔵人・左少弁・蔵人頭・参議・中納言・権大納言・内大臣
位階→従一位
生 涯
―北朝の重鎮公家―

 藤原氏勧修寺流の傍系で権大納言までつとめた坊城定資の二男で、母は四辻隆氏の娘(ただし「尊卑分脈」では隆氏の父・隆資の娘とあるので妹を養女とした可能性あり)。はじめは「忠定」と名乗った。彼から「勧修家」を称するようになるが、『太平記』では「坊城経顕」「勧修寺経顕」が入り乱れて使われており、まだ確定はしていなかったらしい。後世「勧修寺」は「かじゅうじ」と読まれるが、経顕が生きた時代には「かんしゅうじ」と読まれいたらしい。

 乾元元年(1302)に叙爵され、成長後は蔵人・左少弁・蔵人頭などを歴任、元徳2年(1330)4月に後醍醐天皇の朝廷において参議の列に加えられた。ただし彼自身は持明院統派に属しており、後醍醐が元弘元年(1331)に倒幕の挙兵をした際には持明院統の皇族らの六波羅探題への避難につき従い、後醍醐が隠岐に配流となったあとは、持明院統の光厳天皇の側近として活躍している。正慶2年(元弘3、1333)5月に六波羅探題が攻撃されて光厳が北条仲時ら探題の一行と共に近江へと落ちのびた時、経顕もこれに同行している。近江・番場で仲時らが集団自決し、光厳も捕えられて京へ送還された際に、多くの公家が出家したり逃亡したりするなかで経顕と禅林寺有光の二人だけが光厳につきしたがっていたという。

 幕府が倒されて後醍醐が復活、建武政権が成立すると経顕は持明院統派として冷遇されたと思われる。建武3年(延元元、1336)10月に後醍醐が足利尊氏と一時的に和睦して比叡山を下った時に、後醍醐に同行して山をおりた一行の中に経顕の名前が見え(「太平記」)、このときは光厳と行動を共にしていなかったらしい。その後、暦応3年(興国元、1340)に権大納言に昇進、2年後にそれを辞すが光厳の院政のもとで院伝奏・評定衆・武家伝奏として活躍、「光厳院の寵臣」と呼ばれるほど重んじられた(「椿葉記」)。とくに北朝を支える足利幕府との連絡役である「武家伝奏」の職務が彼の地位を向上させた。また経顕の妻が光厳の三宮・弥仁親王(1338年生まれ、のちの後光厳天皇)の乳母をつとめていて、これも経顕が重んじられたことの現われとみられる(もっとも弥仁が天皇になってしまったのは事故といってよかったが)
 貞和5年(正平4、1349)に幕府の内紛で足利直義が失脚、10月にその後継者として尊氏の子・足利義詮が鎌倉から京に呼び出されると、光厳上皇のもとから武家伝奏である経顕が勅使として尊氏邸に派遣され、その上洛を祝っている(「太平記」)。この年の12月26日に延びに延びていた崇光天皇の即位の礼が執り行われたが、その内弁(総指揮)を太政大臣である洞院公賢がつとめることについて「現役の太政大臣が内弁をつとめた先例は少ない」として異論が出た際、経顕が「その先例は崇徳院、後白河院の二例で、前者は凶例ではあるが、後者は吉例である。太政大臣は優れたお方なのだから何も問題はない」と主張し、公家一同を沈黙させたという(「太平記」)
 『太平記』に登場する経顕は北朝内の有識者として和漢の故事を引いて力説する場面が目立ち、発見された宝剣の吉凶をめぐって、吉兆とみた柳原資明に対して、その長年の論敵である経顕が凶兆と断じて長々としゃべる場面もある。この資明と経顕は常日頃論敵で何かというと正反対の意見をぶつけあっていたようで、天竜寺落成法要への光厳行幸に比叡山延暦寺が強硬に反対して来ると、経顕が比叡山の要求を拒絶せよと主張、資明が要求受け入れを訴えている。

―光厳・後光厳の寵臣―
 
 こうして北朝の重鎮として重きを置かれた経顕だったが、観応2年(正平6、1351)11月に足利尊氏が直義らに対抗するため南朝に降伏して北朝を見捨ててしまう、いわゆる「正平の一統」が実現してしまう。ここに北朝朝廷は一時的に消滅の憂き目をみることになり京の公家社会はパニックに陥った。そして翌文和元年(正平7、1352)閏2月に南朝軍が京を占領、すぐに足利軍によって奪回されるのだが南朝側は北朝再建を阻止するために光厳・光明・崇光の三上皇と元皇太子・直仁親王を拉致していってしまった。北朝皇族は出家の予定になっていた弥仁親王のみがかろうじて京に残っており、足利幕府はこの弥仁を即位させて北朝を再建するほかなかった。

 しかし弥仁は皇太子に立てられたこともなく、彼に天皇になるよう命令(伝国詔書)を下す上皇(治天の君)の存在が必要となるのだが肝心の上皇たちが全員連れ去られている。幕府はやむなく光厳・光明の生母で弥仁の祖母である西園寺寧子(広義門院)に「上皇の代役」つまりは「女上皇」の役割をやってもらうという奇策に出た。この奇策はこの年の6月3日に幕府側の佐々木道誉から武家伝奏である勧修寺経顕に持ちかけられ、翌日のうちに経顕が寧子に申し入れをしている。しかし寧子は「こんな事態になったのも幕府のせいではないか」と内心激怒しており、この要請を拒絶した。経顕と道誉は嫌がる寧子を再三にわたって説得し、どうにか6月19日に寧子の承諾を得ることに成功、弥仁は後光厳天皇として即位することになる。
 5年後の延文2年(正平12、1357)2月になって光厳上皇は京に帰還するが、自分があずかり知らぬ間に即位した後光厳についてはわだかまりがあったらしく、翌延文3年(正平13、1358)8月に光厳・後光厳父子の間がかなり険悪になったのを勧修寺経顕が光厳に諫言して和解に持ち込んでいる(「園太暦」)。経顕は後光厳を擁立した張本人でもあったのだが、光厳の信頼はまだまだ厚かったようだ。貞治2年(正平18、1363)4月に光厳が領地の寄進をした際に、その件を崇光へ申し入れるよう指示した書状も経顕宛になっている(この書状で「勧修寺一位殿」とあるので、これ以前に従一位に叙されていることが分かる)。翌年にその光厳も世を去るが、経顕のほうは老いてなお現役を続けていく。

 後光厳にとって経顕は乳母の夫「乳父(めのと)」、いわば育ての親であり、実際に帝位につけてくれた張本人でもあった。このため光厳死後も経顕は後光厳に重んじられて、応安3年(建徳元、1370)には70を過ぎた高齢で内大臣に任じられている。このため彼は「芝山内大臣」「勧修寺内大臣」と呼ばれるようになるのだが、この人事については以前に内大臣をつとめている三条公忠が経顕の家格(名家クラス、たいてい大納言どまり)からいえば破格の出世であるとして激怒し、「後醍醐の乳父・吉田定房が内大臣となったことを先例にするなどもってのほか」と日記『後愚昧記』に怒りをぶちまけている。こうした批判もあったからか、あるいは高齢が理由なのか翌年に経顕は内大臣を辞している。
 応安6年(文中2年、1373)正月5日に76歳で死去した。同じ年には交流の深かった佐々木道誉も世を去っており、そろって南北朝動乱期の大半を生き抜いたことになる。経顕の子孫が「勧修寺家」を称し、明治になって伯爵家になるまで存続した。

参考文献
森茂暁「太平記の群像・軍記物語の虚構と真実」(角川選書)
林屋辰三郎「内乱のなかの貴族・南北朝と「園太略」の世界」(角川選書)
今谷明「中世奇人列伝」(草思社)「室町の王権」(中公文庫)
飯倉晴武「地獄を二度も見た天皇 光厳院」(吉川弘文館・歴史文化ライブラリー)ほか
大河ドラマ「太平記」第41回と第48回に登場する(演:草薙幸二郎)。第41回では尊氏が後醍醐の追悼を行うことについて光厳上皇の前で経顕が問いただしている。第48回では尊氏・直義が一時的に和睦していた時期に、両者の融和をはかるため経顕が西方寺に両派の武将を招いて申楽を見る場面がある。結局は双方大げんかになって主催者の経顕も呆れて帰ってしまう。

糟谷宗秋かすや・むねあき?-1333(正慶2/元弘3)
幕府六波羅探題検断
生 涯
―六波羅探題を支えた忠実な家臣―

 糟谷氏は相模国糟谷荘の武士で、北条氏の家臣となった一族。とくに六波羅探題南方を務めた北条時益の家臣に糟谷一族が多数確認できる。糟谷宗秋『太平記』でしばしば「糟谷三郎宗秋」とフルネームで印象的に登場する人物で、以下の記事もほぼ「太平記」に拠ったものである。
 元弘元年(1331)8月、後醍醐天皇が倒幕の兵を挙げて笠置山にたてこもると、9月1日に六波羅両検断(平時は京市内の治安維持・裁判を担当、戦時には在京武士の編成指揮にあたる)であった糟谷宗秋・隅田通治の二人が笠置攻撃のための兵を召集している。笠置山が陥落して多くの参加者が捕えられると、その処理にもあたっている。

 正慶2年(元弘3、1333)に入ると畿内の倒幕派の活動が活発となり、宗秋もその対応に忙しく動き回っている。しかし5月7日に後醍醐側に寝返った足利高氏(尊氏)が六波羅を攻撃、とてもかなわぬとみた宗秋は北条時益・北条仲時両探題に「帝や上皇を奉じて関東へ逃れ、それから京を奪い返しましょう」と意見し、時益・仲時もこれに同意して一同は六波羅を放棄し、光厳天皇ら持明院統皇族を連れて近江へと脱出した。
 しかし近江へ向かう途中で時益は流れ矢に当たって死に、近江から美濃へ通じる番場の峠にも野伏たちが待ち受け、その進路を妨害した(この地をおさえる佐々木道誉の策略との見方もある)。宗秋は先陣を切ってこれらを蹴散らそうとしたが敵があまりにも多いために断念、仲時の前に進み出て「ここを突破したとしても美濃の土岐、遠江の吉良などは敵方ですから関東まで行くのは至難の業。あとから来る佐々木時信と合流して近江国内に城をかまえて立てこもり、関東から上洛軍を待ってはいかが」と意見した。仲時もこれに同意したが、その佐々木時信はなぜか「六波羅勢は全滅」との偽情報を受けて京に引き返して降参してしまった(これも同族の道誉の誘いだったかもしれない)。時信が降参したと悟った仲時は「我が首を持って降参せよ」と言って切腹してしまう。それを見た宗秋は「この宗秋が先に自害して冥土への道案内をしようと思っておりましたのに、先立たれるとは口惜しい。この世であなたのご最期まで見届けましたが、あの世でも見放したりはいたしませんぞ。しばしお待ちあれ。死出の旅路のお供をつかまつる」と言って、仲時が腹を切った刀で自らの腹を切り、仲時の膝に抱きつくようにして果てた。これをきっかけにその場にいた一同400名以上が一斉に集団自決をし、その中には糟谷一族も他九名が入っていた。

参考文献
岡見正雄校注「太平記」(角川文庫)ほか
大河ドラマ「太平記」ドラマ本編への登場はないが、第10回で鎌倉幕府首脳が畿内情勢を話し合う場面で「糟谷三郎が笠置を攻めに向かった」というセリフがある。
メガドライブ版足利帖でプレイすると最初の「六波羅攻撃」のシナリオで六波羅軍に登場する。能力は体力67・武力122・智力81・人徳58・攻撃力97

風夜叉かぜやしゃ
 NHK大河ドラマ「太平記」の第1回のみに登場する架空人物(演:高杉哲平)。田楽一座の座長で、脚本の設定によると50歳。一座と共に美濃国で悪党が村を襲撃する場面に遭遇、孤児となったを拾った。悪党が落としていった箙(えびら)に「三河国富永保」とあるのを読んだ風夜叉は、石にそれが足利の所領であると教え、以後石は足利を親の敵と思うようになる(この件は伏線らしかったが結局解決されなかった)。8年ほどたった第2回では風夜叉はすでに亡くなったらしく、座長は花夜叉(実は楠木正成の妹)がつとめている。

金沢流(かねざわりゅう)北条氏
  北条義時の五男・実泰を祖とする系統で、武蔵国六浦金沢郷に所領をもったことから後年「金沢流」の呼称が生まれた。学問の家としても知られ、和漢の書籍を収集した「金沢文庫」を築いた。

時政─義時┬泰時得宗
┌顕弁



└実泰─実時┬顕時
┼甘縄顕実






├時直├時雄






貞顕──貞将──┬忠時





貞冬└淳時





├顕景───顕瑜





釈迦堂殿足利高義




└実政
───政顕
┬種時







規矩高政







糸田貞義


金沢貞顕かねざわ・さだあき1278(弘安元)-1333(正慶2/元弘3)
親族父:北条顕時 母:遠藤為俊の娘(入殿) 妻:北条時村の娘、薬師堂殿
兄弟姉妹:顕弁、甘縄顕実、式部大夫時雄、顕景、名越時如室、千葉胤宗室、足利貞氏室
子:顕助、金沢貞将、金沢貞冬、顕恵、金沢貞匡、金沢貞高、貞助、道顕
官職左衛門尉・東二条院蔵人・右近将監・左近将監・中務大輔・越後守・右馬守・武蔵守・修理権大夫
位階従五位下→従五位上→正五位下→従四位下
幕府六波羅探題南方・六波羅探題北方・伊勢守護・連署・幕府執権(第15代)・寄合衆・志摩守護
生 涯
 北条氏金沢流で、「金沢貞顕」の呼び名が定着している。六波羅探題や連署、ごく短期とはいえ執権も務めるなど幕府首脳を歴任し、大量に残された書状類によって鎌倉幕府落日の日々の貴重な証言者ともなった人物である。

―好学の六波羅探題―

 北条顕時を父に、その側室となった摂津御家人の遠藤為俊の娘(「入殿」と呼ばれる)を母に、弘安元年に誕生した。貞顕は「越後六郎」と呼ばれていることから上に五人の兄がいたと思われる。確認できる兄として僧となった異母兄の顕弁、同じく異母兄の顕景、同母兄の甘縄顕実時雄がいる(もう一人の兄は夭折?)。また父・顕時の正室は安達泰盛の娘で、この女性は足利貞氏の正室「釈迦堂殿」を生んでいる。
 弘安8年(1285)に「霜月騒動」が起こって安達泰盛が平頼綱に討たれると、顕時もその娘婿ということで一時左遷を余儀なくされていて、貞顕も少年時代は乳母父・富谷左衛門入道の本拠地である下総・富谷郷(千葉県白井市)で過ごしたらしい。富谷左衛門入道の一周忌に書かれた文章の中に「武州太守(貞顕)がまだ幼かったころ、夜は一晩じゅう抱いて寝て、昼は膝の上に遊ばせていた」というくだりがあり、少年時代の貞顕が乳母父にいかに可愛がられて育ったかをうかがわせている。
 永仁元年(1293)の「平禅門の乱」で平頼綱が討たれると、顕時も鎌倉に復帰し、翌永仁2年(1294)12月に貞顕は17歳で左衛門尉・東二条院蔵人に任じられた。これはやや遅い官職デビューではあったが、父・顕時が執権・北条貞時の厚い信任を受けたこともあり、以後の貞顕は出世街道を走っていくことになる。
 父・顕時は正安3年(1301)に亡くなるが、貞顕はその後継者として貞時の信任を引き続き受け、官位を上昇させてゆく。弱冠24歳の貞顕は僧籍に入った長兄を除いても三人もの異母・同母兄を飛び越えて後継者に定められており、兄弟の中でもとびぬけた才能を示していたのだと思われる。
 
 正安4年(1302)7月に貞顕は六波羅探題南方に任じられ、千余騎の兵を従えて京に入った。ここから足掛け12年(一時鎌倉に帰るが)の長きにわたる貞顕の京都生活が始まることになる。貞顕は「金沢文庫」を創設した祖父・北条実時以来学問に励む家風の金沢流の素養を生かし、朝廷の公家たちや寺社勢力と折衝に当たる日々を送ることになる。
 そんな日々を過ごしていた嘉元3年(1305)4月、貞顕の周囲に緊張が走った。貞顕の妻の父でこのとき連署をつとめていた北条時村が突然謀反の疑いをかけられ内管領北条宗方に討たれたのだ。知らせを受けた貞顕は驚愕し、六波羅探題北方から攻撃を受ける可能性ありと南方では大いに緊張した。結局5月初めに全ては宗方の陰謀であったとして執権貞顕が宗方を攻め滅ぼして事件は落着し、貞顕一同はほっと胸をなでおろすことになった(嘉元の乱)
 貞顕の六波羅探題南方時代に起こったトラブルとしては徳治2年(1307)の興福寺の強訴事件がある。奈良の興福寺は比叡山延暦寺と並んで宗教的権威を盾にした強訴をしばしば起こした寺だが、この時も興福寺は春日大社の神木を担いで京に入ろうとした。これを貞顕の家臣ら六波羅探題の兵が宇治橋の橋板を取り外して入京を実力阻止しようとしたため、よけいに興福寺の怒りを買い、結局神木は入京を果たす。興福寺側は責任者として貞顕の罪を訴えたが幕府はこれを聞かず、翌年の7月になって神木は春日大社へと戻った。神木が京から出ていく様子を、貞顕は近衛朱雀の篝屋(かがりや。京市内の警備にあたる武士の詰め所)に桟敷を構えて見物していたという。
 探題の仕事をつとめつつ、貞顕は古典書籍を多く蔵している京の公家たちと交流し、積極的に書籍の収集・筆写を行ってもいる。祖父以来の学問の家ということもあり、和漢の古典に通じることで公家社会との交際の役に立てようとの意図があったとみられ、この収集書籍が祖父・実時の作った「金沢文庫」の再建にも寄与することになる。このころ「文庫」はすでにすたれていたようで、貞顕が実質的創建者といっていいとみられている。
 
―貞時から高時へ―

 延慶2年(1309)正月、貞顕は六波羅探題の任を辞して鎌倉へと戻った。そして同月21日に貞時の嫡子で七歳になる北条高時の元服式が執り行われ、貞顕はこの儀式で「御剣役」(剣を持って脇に控える)という大役を果たした。この大役を任されたことを貞顕は「面目きわまりなし」と名誉に思い、元服式がとどこおりなく終わったことに「天下の大慶」と喜ぶ書状を残している。
 鎌倉に戻った貞顕はさっそく幕府の引付頭人(第三番)に任じられ、さらに北条得宗家の合議機関であり実質的に幕政の中核をになう「寄合衆」のメンバーにも加えられて、得宗・北条貞時のもとで安達時顕長崎高綱(円喜)らと共に幕府中枢の一員となった。しかしこのころの貞顕の書状によると貞時はすでに政治に興味を失ったのか連日酒びたりで、貞顕や高綱が奏上もできず困り果てるという場面があったようだ。

 翌延慶3年(1310)6月に貞顕は今度は六波羅探題北方に任じられて、再び京に上った。それからおよそ半年がたった延慶4年(1311)正月に貞顕の家臣二人が滝口の武士と女のことからケンカになって相手を殺害、うち一人がこともあろうに御所の紫宸殿に逃げ込んで二人を殺害したうえ自害するという事件が発生する。花園天皇はこの事件のために紫宸殿に入れず、「前代未聞の珍事」と日記に記したほどの不祥事だったが、貞時は貞顕の責任は問わずうやむやにしている。だがこの年の10月26日にその貞時が41歳でこの世を去ってしまった。
 正和元年(1312)8月には奈良・興福寺がまたも春日大社神木を担いで強訴し、貞顕はその処理に頭を悩ませている。さらに正和3年(1314)5月には比叡山に属する新日吉社の神人たちが起こした騒動を鎮めるべく、貞顕が派遣した六波羅探題の武士たちが神人たちと衝突、双方に死者が出て新日吉社の神殿まで破壊されるという大乱闘事件が発生する。一時は比叡山僧兵が報復で六波羅を攻撃するとの噂も流れ、武士たちが六波羅に集結して合戦の用意をするという騒ぎになった。幕府は最初の騒動の当事者を処罰し比叡山座主も解任させるという処分を下して事をおさめさせたが、貞顕についてはその責任を問わず、これが比叡山の深い恨みを買った。結局直接的な罪には問われなかったが、この事件の責任を取る形で貞顕は六波羅探題北方を辞し、また鎌倉へと帰っていく。

 翌正和4年(1315)7月に普恩寺基時が十三代執権に就任、貞顕はそれをささえる連署に就任した。基時はあくまで得宗・高時の執権就任までの中継ぎであり、翌正和5年(1316)7月に高時が14歳で執権に就任する。貞顕は連署の地位にとどまり、長崎円喜・安達時顕らと共に高時体制を支えることになった。
 この間、貞顕の兄・顕弁は園城寺別当を務めて比叡山と対立(新日吉社の一件で恨みのある貞顕の兄であることも一因であったらしい)、比叡山僧兵による「園城寺焼打事件」が起こされ、その後鎌倉に戻って鶴岡八幡宮の社務となっている。同母兄の甘縄顕実、貞顕の嫡子・貞将は幕府引付頭人として活躍するなど、貞顕一家は北条一門の重鎮として重きをなしていく。

 そのころ、京の朝廷では後に貞顕の運命を決することになる動きが起こっていた。幕府の調停による「文法の和談」を受けて元応元年(1319)に大覚寺統の後醍醐天皇が即位したのだ。やがて後醍醐は院政を廃して親政を開始し、ひそかに幕府打倒の計画を進めていくのだが、皮肉なことに貞顕は皇室両統の争いについては常に大覚寺統側に味方していた。とくに領地継承の紛争では貞顕は大覚寺統側の主張を全面的に受け入れて持明院統に対して強硬な姿勢に出ていたらしく、花園上皇が「このことは貞顕一人がでしゃばってムチャクチャなことをしているだけなのだ。他の人はなぜ反発しないのか。嘆かわしい、嘆かわしい」と日記に記してもいる。
 元亨4年(=正中元、1324)9月、後醍醐による討幕計画が発覚、計画に参加していた土岐頼兼多治見国長らが討たれ、首謀者として日野資朝日野俊基が逮捕される騒ぎが起きた。いわゆる「正中の変」である。この事件直後に貞顕の子・貞将が六波羅探題南方として京都に赴任しており、示威の意味もあってか五千の兵を率いて上洛している。もっとも幕府首脳としては事を荒立てまいとする空気が強く(高時の母・覚海の意向があったと言われる)、日野資朝を流刑にしただけで後醍醐の責任はいっさい問わなかった。結果からいえばこの温和な姿勢が彼らの命取りとなってしまう。

―幕府の落日―

 正中3年(1326)3月6日、日ごろから病弱であった執権・高時が重態に陥った。3月14日に高時は出家、周囲はもはや助からないものと覚悟し、貞顕も出家の決意を固めた。しかし内管領・長崎高資およびその父・円喜はそれを必死に慰留、貞顕は五度までも出家を願い出たが長崎父子はそれを許さなかった。長崎父子は貞顕が後継の執権に就任することを希望していたのだ。
 高時には御内人である五大院宗繁の妹・常葉前が生んだ長男・邦時(このとき生後三カ月)がおり、長崎父子ら御内人勢力はこの邦時への継承を望み、邦時成長までの中継ぎを貞顕に期待していた。しかし高時の生母で、北条氏外戚で御家人勢力の代表・安達氏出身の大方殿(覚海円成)は高時の同母弟・泰家への継承を望んで長崎父子と対立していた。
 3月16日、幕府では長崎父子の意向を受けて貞顕の執権就任を決定した。貞顕は「面目きわまりなし」と素直に喜んだが、同日に泰家が怒りのあまり出家。これに追随して出家する者も多く、大方殿・泰家派による貞顕暗殺計画の噂すら出回るほどになった。危険を感じた貞顕は就任わずか十日後の26日に執権職を辞し、そのまま本来の希望であった出家を遂げてしまった(法名・崇顕)。他の北条氏有力者も恐れを抱いて執権職を引き受ける者がなかなか出ず、4月に入って一門の中ではさして実力者でもない赤橋守時が第16代執権に就任することとなった。この混乱は「嘉暦の騒動」と呼ばれるが、高時は奇跡的に一命を取り留め、以後も得宗として一定の影響力を持ち続ける。

 出家し、事実上隠居状態となった貞顕は、本拠地・六浦の称名寺と金沢文庫、および京都の常在光院の充実・修築に情熱を注いだ。嫡子の貞将は貞顕の運動もあって元徳2年(1330)7月に六波羅探題を辞して鎌倉に戻って引付一番頭人となり、その弟・貞冬も評定衆に加わって幕府の中で活躍していた。その一方で兄の甘縄顕実や顕弁、長子の顕助がこの数年のうちに相次いで亡くなるなど貞顕にとっては世の移ろいに思いをはせる晩年となったかと思われる。
 元徳3年(元弘元年、1331)、後醍醐による二度目の討幕計画が発覚する。後醍醐は8月末に笠置山に挙兵し、幕府はこれを鎮圧するため大軍を派遣することになった。その軍の大将軍の一人として貞顕の息子の貞冬が参加している。この戦いはひとまず後醍醐側の敗北で終結し、後醍醐は隠岐に流刑となるが、翌年には護良親王楠木正成らによるゲリラ戦が畿内各地で展開され、次第に勢いを増していくことになる。

 幕府落日の日々を貞顕がどういう気持ちで過ごしていたかは定かではない。確認されている貞顕最後の書状は正慶元年(元弘2、1332)12月20日付のもので、称名寺の住職と「書状に高時様の祈祷についての報告書が同封されていませんでしたが、後から届きました」といったいたって事務的な内容である。ここでの祈祷というのも特に当時の情勢とは無関係のものであるし、貞顕ら幕府首脳もギリギリまで自身の滅亡が目前に迫っていることを実感できなかったものと推測される。そうした心情をつづった書状等が残らなかっただけかもしれないが、この半年ほどの間にあまりにも急激に事態が変転していったということでもある。
 正慶2年(元弘3、1333)3月28日に貞顕の父・顕時の三十三回忌法要が行われている。貞顕は父の供養のために、父の書状を漉いた紙に円覚経を写経させている。この写経の奥書きに「書写供養しおわんぬ」と貞顕自身が書き記して花押を添えており、これが現存する貞顕最後の筆となった。この供養の前日、反幕府勢力の鎮圧のために足利高氏が鎌倉を出陣している。
 その高氏は4月末に幕府に反旗を翻し、5月7日に六波羅探題を攻め滅ぼした。翌5月8日には上野で新田義貞が挙兵、たちまち大軍に膨れ上がって鎌倉へと進撃する。貞顕の嫡子・貞将や高時の弟・泰家が新田軍を分倍河原に迎え撃つが敗北し、5月18日から鎌倉での攻防戦が開始される。5月22日についに新田軍が鎌倉市中に乱入、貞将は嫡子・忠時とともに壮烈な戦死を遂げ、貞顕も得宗・高時ら北条一門・郎党らと共に一族の菩提寺・東勝寺に入ってそろって自害して果てた。古典『太平記』は高時と共に自害した武士たちの名の列挙の筆頭に「金沢大夫入道崇顕」の名を含めており、実は『太平記』における貞顕の登場はこの個所だけである。享年56歳であった。

 貞和元年(興国6、1345)に称名寺で貞顕の十三回忌法要が執り行われている。このときに実時・顕時・貞顕・貞将の金沢家四代の肖像画が描かれたと推測され、これらの肖像はいずれも国宝とされて貞顕の面影を今日に伝えている。貞顕が情熱を注いだ金沢文庫も貴重な書籍類を後世に伝える大図書館の役割を果たした。

参考文献
永井晋「金沢貞顕」(吉川弘文館・人物叢書)(この文章は全面的にこの本を参考にまとめました)
同「北条高時と金沢貞顕」(山川出版社「日本史ブックレット・人」35)ほか
大河ドラマ「太平記」ドラマ前半の重要キャラクターとして、児玉清が演じた。鎌倉幕府首脳の一人であり、また足利貞氏の義兄・友人として親足利の態度を示す温和な人物に描かれた。第1回の高氏誕生時(1305年)に鎌倉にいるのは史実に反するが、脚本では「六波羅探題になっているが、一時鎌倉に帰参している。引付頭人にでもしてもらいたいのだが」とぼやくセリフでつじつまはあわせていた(ドラマではカットされた)。長崎円喜に対しては反感を持っているものの「庶流の我々には手も足も出ん」と言うセリフもある。
高氏が長崎円喜の策謀にはまった時も足利を助けるが、一方で足利氏に対する警戒心もひそかに抱く様子も描かれる。急激に悪化していく情勢になすすべもなく、次第にうろたえを見せていく過程がじっくりと描かれた。新田義貞の挙兵の報を受けて無様なまでに狼狽し、地図をひっかきまわして周囲を唖然とさせるシーンは忘れ難い。東勝寺での集団自決では腹を切ろうとして何か達観したように中止し、息子の貞将に自身の心臓を一突きさせて息絶えた。なお史実では出家しているが最後まで俗体のままであった。
歴史小説では鎌倉幕府末期の著名人でもあるため、名前だけながら登場している例は多い。吉川英治「私本太平記」では「崇顕」の名で登場、高時に遺児二人が脱出したことを教える役回りとなっている。
PCエンジンHu版シナリオ1「鎌倉幕府の滅亡」で幕府方武将として登場するが、なぜか伊勢国安濃津城に配置されている(孫・淳時が伊勢に出陣したためか)。能力は「弓2」で、文化人らしくかなり弱い。
メガドライブ版楠木・新田帖でプレイすると鎌倉攻防戦のシナリオで「金沢崇顕」の名で登場。能力は体力67・武力71・智力74・人徳59・攻撃力56。 

金沢貞冬かねざわ・さだふゆ生没年不詳
親族父:北条貞顕 母:薬師寺殿?
兄弟:顕助、金沢貞将、顕恵、金沢貞匡、金沢貞高、貞助、道顕
官職右馬助
位階→従五位上
幕府引付衆・評定衆・官途奉行
生 涯
―笠置・赤坂攻略の将―

 鎌倉幕府の第15代執権・金沢(北条)貞顕の子。生年も母親も不明だが、貞顕の嫡子・貞将とは異母兄弟であったらしい。貞顕が六波羅探題として在京中に公家の吉田家とつながりがあり、その吉田家の縁者とおぼしい貞顕の側室「薬師寺殿」が貞冬の母ではないかとの推測がある。貞顕が深く交流した公家に吉田冬方(後醍醐の乳父・吉田定房の弟)がおり、「貞冬」の「冬」も冬方から一字を受けたものではないかとも言われる(永井晋「金沢貞顕」)。貞冬は公家の女性を母に京都で生まれた可能性が高く、嫡子・貞将とは腹違いながら扱いが悪くないのもそのせいではないかと思われる。
 
 元徳元年(1329)4月に引付衆に加えられ、さらに6月に評定衆となり官途奉行を兼任した。兄・貞将と同様の出世コースであり、父・貞顕が六波羅探題として京にいる貞将に「貞冬が年内に二度も昇進するとは、たいへんな名誉であり、とても嬉しいことだ」と喜びを伝える書状も残されている。翌年に貞冬は右馬助を辞して従五位上に昇進している。
 元徳3年(元弘元、1331)8月、後醍醐天皇が笠置山で倒幕の挙兵をした。これを鎮圧するため幕府は9月に大軍を派遣し、金沢貞冬は大仏貞直足利高氏らと共に大将軍として畿内へ向かった。貞冬は金沢家の守護国である伊勢で軍勢を整え、近江から宇治、賀茂へと進み、9月26日に笠置山を攻略、同28日にこれを陥落させた。10月3日に貞冬ら笠置攻略軍は捕えた後醍醐と共に京に凱旋し、同じ日に貞冬の家臣・宗像重基が赤坂城から逃亡していた後醍醐の第一皇子・尊良親王を河内国内で確保している(「光明寺残篇」)
 笠置を攻め落とした幕府軍は、10月15日に勢いに乗って楠木正成がこもる河内・赤坂城めざして進軍した。幕府軍は四軍に分かれ、貞冬が率いる軍は石清水八幡宮から河内・讃良荘を経由して赤坂城へと向かった。『太平記』が伝えるように正成はゲリラ戦で抵抗し幕府軍を悩ませたらしいが、10月21日に赤坂城は落城、正成は逃亡した。
 京にもどった貞冬は尊良親王を捕えた功績を花園上皇からたたえられ、恩賞として馬を与えられた(「花園天皇日記」)。貞冬は11月2日に京を出発して鎌倉に帰還している。
 その後の貞冬の消息はまったく分からない。『太平記』でも貞冬の登場は赤坂攻略が最後で、鎌倉攻防戦では兄の貞将は出てくるものの貞冬の名は全く出てこない。それ以前に急逝したとも考えにくく、恐らくは鎌倉攻防戦で一族と運命を共にしたのだと推測される。

参考文献
永井晋「金沢貞顕」(吉川弘文館・人物叢書)ほか
大河ドラマ「太平記」第12回「笠置落城」第13回「攻防赤坂城」に登場している(演:香川耕二)。いずれも戦場の場面ではなく、大仏貞直、足利高氏らと軍議をしている場面での登場。
その他の映像作品1940年製作の映画「大楠公」でなぜか「大仏貞冬」の名前で市川正二郎に演じられている。
メガドライブ版楠木・新田帖でプレイすると「赤坂城攻防」のシナリオで幕府軍に登場する。能力は体力68・武力120・智力89・人徳76・攻撃力105

金沢貞将かねざわ・さだゆき1302(乾元元)?-1333(正慶2/元弘3)
親族父:北条貞顕 母:北条政村の娘?
兄弟:顕助、金沢貞冬、顕恵、金沢貞匡、金沢貞高、貞助、道顕
子:金沢忠時・金沢淳時
官職左馬助・越後守・右馬権頭・武蔵守
位階従五位下
幕府評定衆・官途奉行・引付頭人・越訴頭・小侍所・六波羅探題南方
生 涯
―名誉の職を得て壮烈に戦死―

 鎌倉幕府の第15代執権・金沢(北条)貞顕の嫡子。二男であったと推測され、母は恐らく貞顕の正室(北条政村の娘)ではないかとみられ、貞将の生年は乾元元年(1302)との推定がある。なお「貞将」の読みについては「さだまさ」とするものが多かったが、最近では「さだゆき」と読むほうが有力である(弟に「貞匡=さだまさ」がいるため)
 正和4年(1315)に父・貞顕が幕府の連署となったころに従五位下・左馬助に任じられたとみられ、文保2年(1318)には17歳で右馬権頭に昇進、幕府の評定衆に加えられ官途奉行を兼任、その年のうちにさらに引付五番頭人になるなど、幕府首脳の父のもとで着々と地位を高めている。

 元亨4年(=正中元、1324)9月、後醍醐天皇による討幕計画が発覚する(正中の変)。その直後の11月16日に貞将は父も務めた六波羅探題南方に任じられて京都に入ったが、示威の意味もあったか五千騎という異例の大軍を率いての入京であった。そのわずか3日後に京で大火事が発生、貞将は周辺の家屋を素早く破壊して延焼を食い止め、人々の称賛を浴びている(花園上皇の日記に記されている)。六波羅探題として京にあった貞将は鎌倉にいる父・貞顕と緊密に情報交換を行っており、その書状群がたまたま後世に残ったことで幕府末期の政治情勢の貴重な証言記録となった。
 嘉暦元年(1326)、北条高時が重病のために出家して執権を辞し、幕府内の権力闘争のなかで暫定的に父の貞顕が執権職に就任することになった。しかし執権就任から4日後に貞顕が貞将に送った書状には「これを読んだら火中に入れるように」との指示があるなど情勢は緊張しており、結局貞顕はわずか十日で執権を辞した。なお、この「火中に入れろ」と書いた書状、貞将は当然指示どおりにしなかったわけである。この「嘉暦の騒動」で貞将が影響を受けた様子はなく、この年の9月に北条一族にとって要職である武蔵守に任じられている。

 元徳2年(1330)に父・貞顕の運動もあって六波羅探題を辞して鎌倉に戻り、引付一番頭人となった。弟・貞冬も評定衆に加わって金沢一家は幕府内でも有力な位置を占めることになった。この翌年元徳3年(元弘元、1331)8月に後醍醐天皇が笠置山で倒幕の挙兵をし、護良親王楠木正成らが赤坂城でこれに呼応、幕府は貞冬らを大将軍とする大軍を派遣してこれを鎮圧した。
 しかし翌年には倒幕活動が再燃・拡大し、正慶2年(元弘3、1333)に入ると各地で幕府に対する反乱が続発、5月には足利高氏が寝返って六波羅探題を攻め滅ぼし、その翌日5月8日に新田義貞が上野・新田荘で挙兵し、各地の武士たちを糾合して鎌倉目指して進撃を開始した。金沢貞将は高時の弟・北条泰家と共に迎撃に出陣したが、5月16日に鶴見付近で小山秀朝千葉貞胤の軍に敗北して鎌倉に撤退した。5月18日から始まった鎌倉攻防戦では貞将は巨福呂坂の防衛にあたり、22日にまで新田軍の市中侵入を必死に防いだ。

 22日に稲村ケ崎方面から防衛線が突破されると北条軍は総崩れとなり、貞将は全身に七か所も傷を負った姿で東勝寺の高時のもとへと駆けつける。高時は貞将を見ると大いに喜んで、やがて「両探題職」すなわち六波羅探題北方に任じるとの御教書をしたためて貞将に与え、さらに北条得宗家の官職である「相模守」に任じると伝えた。貞将は今日で幕府は滅亡と覚悟していたが「長年望んだ名誉の職である。冥土の良きみやげになろう」と考えてこれをありがたく受け、御教書の裏に「我が百年の命を棄てて公の一日の恩に報ず」と大書して鎧の中にしまい、そのまま再度戦場に出撃して大軍の中へ飛び込み、壮烈な戦死を遂げた。この『太平記』の伝える印象的なエピソードは、この期に及んで恩賞の職を約束する高時の愚かさをあざわらうものとみる見方もあったが、素直に読めば高時も貞将も最期を覚悟したうえで鎌倉幕府を率いた北条一門らしく最期まで名誉を重んじてふるまっていたとみるべきであろう。御教書は実際に貞将の遺体から発見されているのかもしれない。
 この戦いで嫡子・忠時も戦死したとされ(北条氏系図各種)、父・貞顕も東勝寺で高時に殉じた。二男の淳時は伊勢方面に出陣しており、直後に後醍醐側から追討命令が出されているが、その後の消息は知れない。

参考文献
永井晋「金沢貞顕」(吉川弘文館・人物叢書)ほか
大河ドラマ「太平記」ドラマ前半のクライマックス、第22回「鎌倉炎上」の回に登場する(演:久野真平)。読みは「さだまさ」で、実在の人物よりかなり若い、ほとんど少年になっていた。古典「太平記」とは全く異なり、東勝寺で父・貞顕が自害する際に父に頼まれてその心臓を一突きし、自らは頸動脈を切って自害する。
漫画作品ではさいとう・たかを『太平記』(マンガ日本の古典シリーズ)で高時から御教書を与えられて戦場に赴く場面が印象的に描かれている。

懐良親王
かねよし・しんのう?-1383(永徳3/弘和3)
親族父:後醍醐天皇 母:御子左為道の娘三位局(藤子?)
官職式部卿・征西大将軍(征夷大将軍自称の可能性あり)
生 涯
 後醍醐天皇の皇子の一人として、九州で転戦、皇子たちの中で唯一南朝勢力を優勢に導き、一時とはいえ九州に南朝王国を築いた人物。倭寇の背景にあったともいわれ、明と独自外交を行う姿勢まで見せるなど、後醍醐皇子の中でも独特の光を放っている。

―九州への長い道のり―

 懐良親王が後醍醐の何番目の皇子になるのか、そして生年はいつなのかははっきりしない。『太平記』では「第六の宮」とするがあまりあてにならない。母親が中納言・御子左為道の娘で「三位局」であった藤子であることはほぼ確かと見られるが、生まれた時期を明記した史料はない。唯一の手掛かりとして、側近の五条頼元が正平3年(貞和4、1348)の時点で懐良を「御成人」と表現している書状がある。この「成人」を二十歳前後と仮定すると(この時代でも成人=二十歳という感覚の例がある)、懐良の生年は元徳元年(1329)前後と推定される。後醍醐の皇子の中ではかなり年下であったことは間違いないだろう。

 後醍醐が倒幕の挙兵をして隠岐に流刑になっていた時期はまだ幼年であり、何の事跡も伝わらないが、鎌倉幕府が倒れて建武の新政が開始された建武元年(1334)から毛利貞親らと越後に挙兵した「阿蘇(阿曽)宮」が懐良その人である可能性が高いとみられている。この「阿蘇宮」は建武3年(1336)正月に大山崎の神人に軍勢を催促したり、同じ年の3月に東寺から仏舎利一粒を受け取るといった行動の記録を残している。またこの年の10月にやはり「阿蘇宮」が父・後醍醐に先立って「山伏の姿で吉野に潜行した」と『太平記』に記されている。この当時懐良はまだ6〜8歳の幼児に過ぎずいささか不自然さを残すが、兄の成良親王義良親王(=後村上天皇)らのように幼少時から象徴的存在として軍事指揮をとった例はあるし、他に該当しそうな親王もいない。この時点での「阿蘇宮」が本当に懐良のことであるとすれば、彼は幼児の段階から九州・阿蘇と何か深い関係があったとしか思えないのだが、今のところその実情は不明である。あるいは実行には移されなかったものの奥州・鎌倉のミニ幕府のようなものを九州にも配置する構想が後醍醐にあり、懐良をその首長にすえる予定があったためにこの呼び名が使われたのかもしれない。

 延元元年(建武3、1336)末に後醍醐天皇は吉野に入って南朝を開き、足利尊氏が京に立てた北朝と対立する南北朝時代の幕を開いた。先述のようにこのとき懐良は先行して吉野に入っており、高野山衆徒に対して土佐の所領を与えたりしている(「鎮西宮」名義で)。後醍醐の他の皇子たちが各地へ散っているなか、懐良はしばらく父の手元にいたようである。しかしその後延元3年(建武5、1338)の秋までに北畠顕家新田義貞といった南朝の主力武将が相次いで戦死し、南朝が窮地に立たされると、後醍醐は義良・宗良両親王を東国へ、懐良親王を九州へ派遣して周辺から京奪回を目指す大戦略を進める。延元3年(建武5=暦応元、1338)10月に後醍醐は阿蘇惟時にあてた書状で懐良を「征西大将軍」に任じて九州に派遣することを伝えている。

 しかし懐良の九州行きは楽なものではなかった。懐良は五条頼元らわずかな側近と共に熊野水軍によって瀬戸内海の伊予・忽那島まで運ばれ、ここを支配する海賊衆・忽那義範の庇護下に入った。そして忽那島に入って間もない延元4年(暦応2、1339)8月に父・後醍醐が吉野で無念の最期を迎え、12月までにはその知らせが懐良のもとにも届いた。
 後醍醐の遺命により九州平定を託された懐良だったが、九州で頼りにしていた阿蘇氏は去就が定まらず、足利幕府側の圧倒的優勢という状況のもとで九州への上陸すら果たせない情勢であった。懐良は結局この忽那島で三年の月日を過ごすことになる。皇子でありながらわずかな供だけを従え、荒々しい海賊衆に囲まれて多感な思春期をこの島で過ごしたことが、その後の懐良の強靭さの源泉となったのかもしれない。

―九州上陸〜混沌の情勢―

 懐良親王と五条頼元がようやく九州に上陸したのは興国3年(康永元、1342)5月1日、懐良の推定年齢14歳の時のことである。忽那水軍によって伊予から薩摩に運ばれた懐良らは、薩摩の南朝方・谷山隆信の居城・谷山城に迎え入れられた。薩摩の北朝方の中心は守護を務める島津貞久で、薩摩国内で北朝=幕府方である島津氏と、それに対抗して懐良を旗頭とする谷山氏をはじめとする南朝勢力との戦雲が数年にわたって続くことになる。懐良としては当初から頼りとしていた阿蘇惟時のもとへ行きたいところだったが、その惟時当人が去就を明確にしておらず、南朝一辺倒の阿蘇氏庶系・恵良惟澄と対立していることもあって、長くここに足止めを食うことになってしまったのである。懐良は正平元年(貞和2、1346)から中山義定を先に肥後へ送り込み、阿蘇氏にしきりに運動を行わせた。
 
 懐良がようやく薩摩から肥後へ移ることになったのはようやく正平2年(貞和3、1347)のことである。懐良の肥後移動は五条頼元が賀名生の南朝本部と入念な連絡をとって行ったものらしく、熊野水軍や瀬戸内水軍ら海賊衆が大々的な作戦をとってこれを援護したことが注目される。まず5月10日に南朝方海賊衆が北九州の筑前宗像でこれ見よがしに活動する陽動を行い、幕府側がそちらに警戒しているうちに5月29日に数千の海賊衆が薩摩・谷山付近の海上に現れ、島津軍と激しく交戦した。そのまま南朝軍が島津軍を圧倒している情勢のなか、この年の11月末に懐良は5年以上の時を過ごした谷山を出て、肥後へと入った。肥後に入ると阿蘇惟時が一応懐良を迎え入れたが、あまり乗り気ではなかったらしく、間もなく懐良は肥後菊池の菊池武光のもとへ身を寄せることになる。
 しばらく有力な惣領を欠き、内部の混乱もあって勢いが衰えていた菊池氏だったが、新たな惣領となった武光のもとで力を結集させつつあった。このころ懐良も成人し(前述の五条頼元の書状にある)、以後懐良と菊池武光は二人三脚で九州平定への道を歩んで行くことになる。

 懐良が肥後に入って間もなく、足利幕府内の内戦「観応の擾乱」が始まる。九州には足利直義の養子・足利直冬が上陸し、少弐頼尚らがこれを担いで尊氏方の九州探題・一色範氏に対抗、九州は「将軍方(尊氏派)」「佐殿方(直冬派)」「宮方(南朝方)」の三者が鼎立し、中央の情勢と連動して複雑な離合集散を繰り返すことになる。
 観応の擾乱ははじめ足利直義派が勝利をおさめ、これにより九州では直冬の派遣が確立、一色範氏は肥後へ逃れた。すると懐良と菊池氏は一色範氏と結んで直冬方を攻略する。しかし間もなく直義が失脚し、尊氏と南朝の間で「正平の一統」が成立、さらに直義が正平7年(文和元、1352)2月に鎌倉で急死すると、直冬はたちまち九州を追われた。今度は尊氏派の一色範氏が九州を制覇しそうになったため、今度は懐良らは直冬派の少弐頼尚と手を組んで一色に対抗、筑後、筑前へと進出する。この間、中央では懐良の兄である後村上天皇が八幡まで進出、一時的に京都奪回に成功する攻勢を見せており、後村上から懐良へ呼応して畿内へ攻め上るよう要請もあった。これは結局間に合わなかったが、以後も後村上から懐良への東上のはたらきかけはたびたび行われたようである。

 正平8年(文和2、1353)2月、一色軍によって筑前古浦城に包囲されていた少弐頼尚を救援すべく懐良・菊池軍が出動し、針摺原(はりすりばら)の戦いが起こる。この戦いには懐良自らが初めて戦闘参加したとされ、一色軍を撃破して北九州における南朝方の優勢をほぼ決定づけた。
 正平10年(文和4、1555)8月に懐良親王は菊池武澄五条良氏(頼元の子)少弐頼資(らを率いて肥前に進撃、その国府に入って肥前を制圧した。10月には転じて豊後へ向かい大友氏泰を降伏させ、さらに勢いに乗って博多へ進撃、ついに一色範氏を九州から追い出した。これによって九州北部における懐良の南朝勢力=「征西将軍府」の優位は絶対的なものとなった。その一方で畿内の南朝は山名氏や直冬らと組んで何度か京都を占領しつつも敗退を繰り返しており、焦る後村上は懐良の東上を強く求めた。懐良も一度はこれに応じる返事を出したらしく、正平11年(延文元、1356)1月17日付の後村上から五条良氏宛の書状では「宮の御かた御のぼり返す返すめでたく候(懐良どのの東上が決まったことはなんとも嬉しいことだ)」との文面が見える。実際この年の11月に京では懐良の九州勢が攻め上ってくるとの噂が広がり、人々が恐れおののいたという事実がある。
 しかし結局懐良は九州から離れはしなかった。これが九州平定のため離れられなかったのか、あるいは最初から東上のつもりなどなかったのか議論の分かれるところである。

―征西将軍府の九州制覇―

 正平13年(延文3、1358)4月、将軍・足利尊氏が京で死去した。その直前まで九州平定を目指して自ら出陣しようと準備を進めており、尊氏がいかに懐良ら征西将軍府の勢いを恐れていたかがうかがえる。一方、征西将軍府は日向にも進出して南九州にも覇権を確立しつつあったが、一色氏という共通の敵を消した少弐・大友氏はひそかに逆襲の機会をうかがっていた。
 正平13年12月、菊池武光が日向を攻めている最中に豊後の大友氏時が高崎山に挙兵した。懐良は自ら出陣して武光と共にこれを包囲するが戦いは翌年3月まで長引き、4月になって大友と示し合わせていた少弐頼尚が挙兵、阿蘇惟村と連絡を取って懐良・武光らの軍を挟撃しようとした。懐良らは素早く動いて惟村の城を攻め落として突破し、肥後へと帰った。

 最初の挟撃に失敗した少弐頼尚は筑後に進出、大友氏時と共に菊池氏を挑発してさらなる挟撃を画策した。この年7月、懐良・武光はあえて挑発に乗ってほぼ全軍を率いて筑後川へ進撃、7月19日に筑後川北方の沼地・大保原で両軍は対峙した。半月のにらみ合いののち、8月6日の夜に菊池軍が奇襲攻撃を決行、混乱する少弐軍と激闘、少弐頼尚の嫡子・直資を討ちとる。だが少弐軍も一時態勢を建てなおし、三番隊として突撃した懐良・武光らの部隊は矢でさんざんに射すくめられ、懐良自身も体の三ヶ所に重傷を負った(「太平記」)。懐良の危機を見て、彼につき従っていた公家たちや新田一族らが「宮をお逃がしせよ」と命を投げ打って彼を守ったという。菊池武光もあわや討たれるかという危機に陥るほどの激戦だったが、最終的には菊池軍の勝利、少弐・大友軍の敗走で激闘の幕は下りた(大保原の戦い、筑後川の戦いとも)
 親王でありながら自ら戦場に身を投じた懐良は、この戦いで相当な重傷を負ったのは確かなようで、このとき懐良が戦死したとする史料や伝説も存在する。戦死はしなかったが瀕死の重傷を負ったために死亡説が流布したというのが真相ではなかろうか。

 大保原の戦いで九州の覇権を決定づけた懐良・武光だったが、自軍の消耗も激しかったようで、翌年にかけて大きな動きは見せず各地の少弐方の掃討に専念している。そして正平16年(康安元、1361)7月に菊池軍が少弐氏の拠点・大宰府を攻撃、ついに頼尚は大宰府を放棄して豊後へ逃亡、8月に懐良は大宰府に入り、さらに重要な貿易拠点である博多も制圧した。
 幕府もこれを黙って見ていたわけではなく、新たに九州探題に任じられた斯波氏経少弐冬資と結んで豊後に上陸、大宰府を攻めようとしたが、正平17年(貞治元、1362)8月に長者原の戦いで菊池軍に撃破され、結局九州から追い出された。その後を受けて九州探題に任じられた渋谷義行にいたっては、「九州探題」であるにも関わらずおよそ5年の任期のあいだとうとう九州の地を踏めないありさまだった。
 この情勢のなか大友氏時も征西将軍府に下り、ほぼ九州全土が大宰府の懐良と菊池氏の支配下に入ることになった。九州上陸からほぼ20年がかりで懐良は九州平定の夢をついに果たしたのである。以後、およそ12年にわたり懐良の征西将軍府の「九州王国」が続くことになる。

―日本国王「良懐」―

 正平21年(貞治5、1366)、懐良は自らの後任として後村上の幼い皇子(良成親王と言われる)を「後征西将軍宮」として九州に招いている。自身に子がなかったためと見られるが、この絶頂期ともいえる時期に後継者をわざわざ畿内から呼んで立てた懐良の真意は判然としない。後村上ら南朝朝廷との連携をしっかりつけておこうというつもりだったのだろうか。あるいは懐良自身は「征西将軍宮」の立場を離れた別の構想を描こうとしていたのだろうか。

 この時期懐良が東上の動きを見せていた、という見方もある。正平20年(貞治4、1365)に細川頼之によって四国・伊予を追われた河野通尭は大宰府にやって来て懐良に謁見、名を「通直」と改めて懐良から伊予守護職を認められ、征西将軍府の軍事力を背景に伊予奪還を目指す動きを見せている。懐良自身が正平23年(応安元、1368)2月に大軍を起こして東上の遠征にとりかかったが、大友・大内水軍の妨害にあって大敗、失敗に終わったとする後世の史料(「北肥戦誌」「鎮西要略」)もあるのだが、裏付ける一級史料に乏しくあまり信用は置かれていない。

 このころ、高麗や明の沿岸ではいわゆる「倭寇」と呼ばれる、九州を拠点とした海賊集団の跳梁があった。正平22年(貞治6、1367)5月に高麗から京の北朝朝廷に対して倭寇禁圧を求める国書が送られている。しかし朝廷はもちろん幕府としても倭寇の本拠地である九州が実質独立国となっているためどうにもならず、またその状態を外国にあからさまに認めるわけにもいかないので適当にごまかさざるをえないありさまだった。
 同じ年の5月に、幼児以来懐良を支え続けた親代わりともいえる老臣・五条頼元が享年78歳で世を去った。そして12月には二代将軍・足利義詮が死去して三代将軍・足利義満が跡を継ぎ、細川頼之が管領として幼い義満を補佐して政権を握った。翌年3月には南朝でも後村上が死去して長慶天皇が即位し、南北朝動乱は確実に世代交代の時を迎えていた。懐良も四十歳に近付いていた。正平24年(応安2、1369)8月16日は父・後醍醐の三十回忌にあたり、懐良は法華経を書写して石清水八幡宮に奉納、父の冥福を祈っている。

 さてそのころ、中国大陸では1368年に朱元璋(洪武帝)が新王朝「明」を建設した。洪武帝は周辺諸国に使者を派遣して明帝国の成立を告げたが、とくに日本に対しては倭寇鎮圧の要請という重大な懸案があった。1368年に最初に日本に派遣した使者は行方不明となっており、翌1369年(洪武2、正平24、応安2)2月に明から派遣された楊載ら7名の一行は大宰府に到達、そこを支配する「良懐」なる人物を日本の支配者とみなして交渉したが、楊載を除く5人が殺害されて追い返されてしまっている。
 翌1370年(洪武3、建徳元、応安3)3月に明はさらに趙秩ら使節団を「良懐」のもとに派遣した。このとき「良懐」は趙秩が文永の役直前の元の使者・趙良弼と同姓であることから彼を元(蒙古)の使者と疑って斬ろうとしたが、趙秩が元か明への革命が起きたことを説明、自分を斬れば元より強力な明の軍勢が攻撃してくるぞと脅したため、「良懐」は態度を改めて趙秩を礼遇したという
 翌1371年(洪武4、建徳2、応安4)10月に「良懐」は僧・祖来らを明の首都南京に派遣して貢物を納め、同時に倭寇にさらわれていた明・台州の男女70余名を送還した。これを受けて洪武帝は「良懐」に「大統暦」(明で作成した暦。これを受けることは中国皇帝の時間支配を受け入れ臣従することを意味する)を授け、を公式に「日本国王」に冊封した。足利義満の「日本国王」冊封に先立つこと32年の話である。

 以上の話は明側の記録『太祖実録』にあるもので、「良懐」が懐良親王であることは間違いないと見られる。ただこの外交の実態については古来議論があり、明側が日本情報をよく知らずに九州を支配する懐良を日本国王と誤認したとか、あるいは懐良は明への朝貢を拒絶したが趙秩らが失敗を隠すために「良懐」入貢をでっちあげたとか、この記事を批判的にみる意見もある。だが当時倭寇に悩まされていた高麗や明ではそこそこ日本情報を把握しており、倭寇の発生源である九州を押さえる懐良に交渉するのは自然な成り行きであった。「良懐」こと懐良が当初強硬な態度をとっているのも実は倭寇勢力の活動が彼らの軍事的・経済的に重要な基盤となっていたためと見られる。倭寇にさらわれていた明の住民たちを送還しているのも懐良が倭寇勢力と深く結びついていたことを示していると言えよう。
 ではなぜ懐良は態度を変えて明への朝貢に踏み切ったのか。本来南朝の皇子である彼が朝貢の主体となるはずがないとする意見が古来あるが、すっかり弱体化した畿内南朝勢力に比べれば彼はずっと強力な独立勢力を築いており、しかも中心勢力の菊池氏はじめ九州の武士たちは東上への関心は薄く、今さら南朝による全国統一を本気で考えていたかは疑わしい。むしろ九州を独立王国化して生き延びようと考えていた可能性が高く、それには足利幕府に対抗するために明の後ろ盾が必要と判断したのだろう(懐良の明への使者派遣の時期はちょうど今川了俊の西下と重なる)。また倭寇は貿易活動と表裏一体の存在であり、公式な貿易関係が生まれれば海賊活動以上の利益があげられるという思惑もあったと思われる(この点は後年足利義満が実行したことを思い合わせると理解しやすい)
 ただ懐良もやはり明に臣従することに一定の後ろめたさはあったのだろう。明側の記録に彼の名が「良懐」とひっくり返した形で記されているのは、単なる誤記ではなく懐良自身が意図して行った「ごまかし」のためのアナグラムではないかと筆者は想像している。この時期に支配地域で「征夷大将軍」を勝手に自称している文書が残っていることもこの件と関わっているのかもしれない。

―「九州王国」の夢ついえて―

 建徳2年(応安4、1371)9月、明へ使者を派遣したころの懐良は、ふと何を思ったのか、顔を合わせたことがあるかどうかも疑わしい兄・宗良親王(当時信濃で南朝勢力を率いていた)にあてて和歌二首を送っている。確認される限り、懐良の和歌はこの二首しか残っていない。
 「日にそへて 遁れんとのみ 思ふ身に いとどうき世の ことしげきかな(近ごろはますます遁世したい気分の私なのに、なんとこの世には面倒なことがたくさんあるのだろう)」「しるやいかに よを秋風の 吹くからに 露もとまらぬ わが心かな(寂しく秋風が吹いてはかない立場にある私の心をおわかりでしょうか)」の二首で、いずれも世をはかなみ、遁世したいという寂しさを歌った内容である(宗良編纂の「李花集」「新葉和歌集」所収)。これに対して宗良が「とにかくに 道ある君が 御世ならば ことしげく共 誰かまどはむ(先行きの明るいあなたさえいてくれれば、どんなに面倒ごとがあろうと誰も悩みはしませんよ)」「草も木も なびくとぞ聞く このごろの よを秋風と 嘆かざらなむ」(草木もなびく勢いのあなたが、この世が秋風などと嘆いてはいけない)と叱咤するような返歌を贈っているように、当時の懐良は南朝勢力の中でほぼ唯一勢いがあったはずなのだが、懐良の気分はなんとも寂しげで頼りない。九州平定達成で「燃え尽き」を起こしてしまったのか、それとも現実から逃れられないなか、ふと思った願望を歌に託しただけなのか。

 懐良はひそかに「崩壊の予感」を感じていたのかもしれない。前年に幕府から九州平定の切り札として九州探題に任命された名将・今川了俊はこの年3月に京を出発、中国・九州の武士たちに巧みな調略攻勢をかけながらじっくりと西下し、7月に息子の今川義範を豊後に上陸させ大友氏を味方につけ、ほぼ同時に弟の今川仲秋を肥前に上陸させて松浦党(強力な水軍をもち、倭寇の主体ともいわれる)も味方につけた。了俊本人は12月に用意万端整えて、周防の大内義弘ら大軍を率いての門司上陸となった。

 用心深い了俊は豊後・豊前・肥前からじわじわと大宰府を包囲、実に八ヶ月もの時間をかけて慎重に攻撃していった。懐良・菊池軍もよく奮戦したが、ついに文中元年(応安5、1372)8月10日から了俊による大宰府総攻撃が開始され、8月12日に懐良と菊池武光は大宰府を放棄、筑後川の南の高良山に走った。要害の高良山を拠点に菊池軍は大宰府奪回をはかったが、11月16日に菊池武光が急死した。死因は不明だが、戦死、戦病死の可能性が高い。武光の死後はその子・武政が菊池一族を率いたが勇将・武光を失った征西将軍府の衰退は誰の目にも明らかで、武政もまた勢力挽回を果たせぬまま文中3年(応安7、1374)5月に急死した。菊池惣領はまだ12歳の菊池武朝が継いだが、了俊の攻勢をとても支えきれず、10月に懐良と共に高良山を放棄して一族の拠点・肥後菊池への撤退を余儀なくされる。

 肥後へ撤退した懐良はその直後の10月14日付の令旨を最後に「征西将軍」を名乗らなくなり、この時期に良成親王に「征西将軍宮」の地位を譲ったと見られている。そして懐良自身も菊池武朝のもとを離れ、矢部川奥の山中にある矢部の五条良遠(頼元の子)のもとに身を寄せた。実質的引退と見られるが、主戦派の菊池武朝・良成親王との対立があったのではとの推測もある。先の和歌にも見えたように懐良にはもともと世を捨てる気分が出ていたところへ「九州王国」の一挙崩壊という現実を目の当たりにして、静かに余生を送る気になったのかもしれない。

 「九州王国」といえば、明の洪武帝から「日本国王良懐」のもとへ向かった明僧、仲猷祖闡無逸克勤は文中元年(応安5、1372)5月に博多に到着していた。しかしすでに博多は今川了俊の手に落ちており、二人の使僧は了俊に拘束されて翌年まで博多で過ごし、明が「日本国王」に認定した「良懐」が敗北してゆくのを目撃することになった。ここで明側は「良懐」と対立する国王である「持明(持明院統のことを人名と誤った)」が存在し、それを擁する幕府が日本の実質的支配者であることを知ることになった。仲猷らは文中2年(応安6、1373)に京へ送られて足利義満と交渉、義満は翌年に明への使節を派遣するが、これは洪武帝の拒絶にあうことになる。なぜなら明としては「良懐」をいったん「日本国王」に認定してしまった以上、その対立勢力をそう簡単に日本の支配者と認めるわけには対面上いかなかったのだ。
 このため、これ以後日本側は形式的に「日本国王良懐」の名義で明と交渉せざるを得なくなってしまう。明側の史料では懐良引退後も「良懐」からの朝貢使節が1376、1376、1379、1380、1381、1386年と5回も記録されているが、この中には明らかに北朝の後円融天皇が送ったものや、島津氏が派遣したものと判明しているものがあり、実際に懐良が送ったものはほぼ無いものと見られている(最後の例に至っては懐良死後のことである)。懐良がその事実を知っていたかどうか分からないが、知っていたら自身のアナグラムの名前がおかしな独り歩きをしていることに苦笑していたかもしれない。

 懐良親王自身による令旨は天授3年(永和3、1377)12月13日付のもので最後になる。このころには今川了俊は肥後に進出、菊池氏の拠点を次々と陥落させていた。了俊は懐良のいる矢部も攻略しようとしたが、あまりにも山深い地なので直接手を出すことはしなかったようだ。懐良を擁する五条良遠が伊予の河野通直に連絡をとって支援を求めていることから懐良も気楽ではなかったと思われるが、すでに征西将軍でもない懐良を追いつめる気は了俊にもなかったのかもしれない。
 その後の懐良の消息として知られるのは、生母・霊照院禅尼(=三位局・藤子)の菩提を弔っている事実だ。天授4年(永和4、1378)3月29日に母の二十八回忌の写経をし、天授7年(永徳元、1381)には母の三十回忌のために宝筐院塔を建立している。

 この天授7年=洪武14年のこととして、『明史』日本伝にこんな記事がある。倭寇が一向に静まらず、しかも国王ではない征夷大将軍(義満のこと)らが次々使者を送って来て混乱する状況にいらだった洪武帝は「良懐」に対して軍事的行動をちらつかせる国書を送った。すると「良懐」が返書を送って来て、「この広い世界にはそれぞれ国があり、君主がいる。すなわち天下は天下のものであって、一人の天下ではない。私は僻地のちっぽけな国を治めてそれで満足しているのに、陛下は広大な中国を治めながらまだ足りないのか。そちらが攻撃する気ならこちらにも防御の策がありますぞ」と中華思想に挑戦するような言辞を並べた上で、「しかし古くから講和を結んで戦争をしないのが一番であるとされる。それで人民の苦しみを避けることができるのだから。だから特に使者を送ります。陛下はよくお考えなさい」とあくまで戦争を諌める内容でしめくくっていた。これを読んだ洪武帝は無礼と怒りつつも、元が失敗した前例を鑑みて日本遠征をあきらめた、というのである。
 ただしこの「良懐」の返書は『明史』の素材となった『太祖実録』には見えず、『日本考』『日本考略』といった後年の日本研究書にほぼ同文が載るもので、実際に「良懐」がこのような文章を書き送ったか確証はない。またこのころの懐良は実質引退状態で矢部にこもっており、明にこんな書状を送ることができたか疑問がある。また前述のようにこの時期の「良懐」は日明交渉で使われる仮名義となっていて懐良本人でないことが多かった。このため近年の研究ではこの文章を懐良当人によるものとは見ない見方が多い。だがかつて佐藤進一氏は『南北朝の動乱』の中でこの返書に触れ、前半に懐良の自主外交精神、後半に晩年和平を求めるようになった彼の微妙な心境の変化を読み取ったこともある。

 翌弘和2年(永徳2、1382)11月、五条良遠は河野通直あての書状の中で、通直が懐良の病気見舞いを贈ってくれたことへの感謝を述べており、この少し前から懐良が病に伏せていたことが判明している。そして翌弘和3年(永徳3、1383)3月27日についに懐良は矢部の山中で波乱に満ちた生涯を閉じた(万寿寺過去帳)。54歳前後であったと推定される。その墓の所在は不明だが、明治になってから熊本県八代(名和氏など南朝勢力圏だった)にある円墳が宮内省により墓所に指定されている。また八代には懐良親王を祭る「八代宮」も創建された。
 懐良には妃や子の存在が確認されていない。近世以降、八代の後醍院(五大院)氏が、自らを懐良と菊池武光の妹の間に生まれた子の子孫とする系図を作っているが、ほとんどあてにならない。

参考文献
森茂暁『皇子たちの南北朝』中公文庫
村井章介『中世日本の内と外』(筑摩書房)
杉本尚雄『菊池氏三代』(吉川弘文館人物叢書)
佐藤進一『南北朝の動乱』中公文庫ほか
大河ドラマ「太平記」懐良自身の登場はなかったが、第38回で比叡山を出る後醍醐天皇が義貞に「親王懐良を大和・吉野へ下してある」と口にする場面があった。
歴史小説ではハードボイルド作家であった北方謙三は最初の歴史小説の素材として、不人気な南北朝時代、しかもその中でもマイナーな懐良親王をとりあげ、長編『武王の門』(1989)を発表した。懐良の九州上陸から大宰府失陥までの波乱の人生を、倭寇活動など国際的背景をからめてダイナミックに描き、九州に独立王国を築こうとする懐良と菊池武光の「男のロマン」を描きあげ、この作品の成功が以後の北方南北朝小説の発表につながっていった。『武王の門』の続編として書かれた『陽炎の旗』(1991)では懐良の死後、彼の子や孫たちが活躍する。
漫画作品では学習漫画系で登場例が多い。集英社が最初に刊行した「日本の歴史」(カゴ直利画)の「南北朝の争い」では忽那島にいる少年懐良が後醍醐の訃報を聞き涙するシーンがある。同じ集英社の平成版「南北朝の争乱」(森藤よしひろ画)では九州を制圧した時期の懐良が描かれ、明の使者と交渉する場面があった。
石ノ森章太郎「萬画日本の歴史」でも懐良と明の使節との交渉が描かれ、懐良が「安保条約」的な後ろ盾を得ようとして明から日本国王に冊封される過程が詳しく語られている。
PCエンジンHu版シナリオ2の「南北朝の動乱」で南朝方武将として肥後・矢部城に登場する。能力は「長刀4」でまずまずの強さ。

金若かねわか
 吉川英治の小説「私本太平記」、およびそれを原作とするNHK大河ドラマ「太平記」の第18回のみに登場する架空人物(演:岡田好司)。隠岐に流された後醍醐天皇阿野廉子に仕える少年(童僕)で、後醍醐の隠岐脱出計画のための情報収集・連絡役となる。小説では廉子に命じられて後醍醐の妃で幕府のスパイとなっていた小宰相を海に突き落としている。ドラマでは隠岐にやってきたましらの石名和悪四郎の前にいきなり現れ、連絡役を買って出る。

狩野下野前司かのの・しもつけぜんじ生没年不詳
官職
下野守
生 涯
―正中の変で六波羅軍に参加―

 伊豆の豪族・狩野氏と思われるが実名不明。「前司」は前任の国司のことなので下野守だったことがあるはずだが該当者は未確認。元亨4=正中元年(1324)9月19日の「正中の変」の際に多治見国長宿所を攻撃する六波羅探題の軍に加わっていたことが『太平記』に記され、若党の衣摺助房という者が真っ先に戦死したことにされている。

亀山天皇かめやま・てんのう1249(建長元)-1305(嘉元3)
親族父:後嵯峨天皇 母:西園寺姞子
兄弟:円助法親王・宗尊親王(征夷大将軍)・後深草天皇ほか
皇后:洞院佶子・中宮:西園寺嬉子・女御:近衛位子・妃:西園寺瑛子ほか
子:知仁親王・後宇多天皇・正覚法親王・良助法親王・聖雲法親王・覚雲法親王・啓仁親王・順助法親王・継仁親王・慈道法親王・恒明親王・憙子内親王ほか
立太子1258(正嘉元)8月
在位1259年(正元元)11月〜1274年(文永11)正月
生 涯
―「大覚寺統」の初代―

 名は「恒仁(つねひと)」といい、後嵯峨天皇西園寺実氏の娘・姞子の間に生まれた。同母兄に後深草天皇がいる。
 次男坊にありがちな天真爛漫な性格だったようで、幼少のころから両親の愛情を一身に受けたとされる。正嘉元年(1258)8月に太子に立てられ、翌年の11月に父・後嵯峨の意向で17歳の兄・後深草から譲位されて11歳で天皇となった。文永5年(1268)8月にはこれまた父の意向で自分の皇子である世仁親王(後宇多天皇)が太子に立てられ、兄・後深草の不満を招くことになる。
 文永9年(1272)2月に後嵯峨が死去すると、次の「治天」を後深草と亀山のどちらにするかという議論が起こった。幕府が二人の生母である姞子(大宮院)に後嵯峨の意向を確認すると、彼女は「亀山だった」との証言をし、これが決め手となって亀山の親政、さらに文永11年(1274)正月の後宇多即位・亀山院政が実現する。なおこの年に最初の元軍襲来、「文永の役」が起こっている。

 建治元年(1275)に後深草が抗議のために上皇の尊号辞退と出家の意向を示したため、幕府の執権・北条時宗の介入で後宇多の皇太子に後深草の子・熙仁親王(伏見天皇)が据えられることになり、これがその後の「両統迭立」のきっかけとなり、公家社会もその両派に分かれて争い始めることとなる。
 弘安4年(1281)5月、元軍の二度目の襲来「弘安の役」が起こった。このとき幕府と朝廷は一体で国難にあたることとし、一時は後深草・亀山両上皇は関東に下り、後宇多天皇・皇太子熙仁は都にとどまるという案も出たという。また亀山は石清水八幡宮に戦勝祈願をしたほか、伊勢神宮に「私の御代にこのような事態となったのだから、もし本当に日本が損なわれるのなら私の命を奪って下さい」との願文を出して母の姞子に「とんでもないことを」と諭されている(「増鏡」)。また九州の筥崎宮楼門に現在も掲げられている「敵国降伏」の扁額は亀山が奉納したものとされている(醍醐天皇の宸筆とされ、現在のものは文禄年間に拡大模写したものという)

 弘安9年(1286)12月に亀山は院政の改革を断行、幕府の引付にならった評定制度を築いて一定の成果を挙げる。しかし亀山の積極姿勢は幕府の警戒を呼ぶところともなり、後深草側のはたらきかけもあって幕府は亀山から後深草への政権移行を強く要請するようになる。
 弘安10年(1287)10月に後宇多が伏見天皇に譲位、皇統は後深草系(持明院統)に奪回された。さらに正応2年(1289)4月には伏見の皇子・胤仁親王(後伏見天皇)が太子に立てられ、状況がそっくりそのまま逆転してしまった。失望した亀山はこの年9月に南禅寺で出家、法皇となった(法名は金剛源)
 翌正応3年(1290)3月9日、浅原為頼という武士が息子二人と宮中に乱入、伏見天皇の殺害を図って失敗し自害するという大事件が起こった。事件の背後に皇位継承に不満を抱く亀山法皇の存在があるのではないかとの疑惑がもちあがり、亀山は事件とは無関係であるとする起請文を幕府に送って弁明、結局うやむやで終わっている。

 永仁6年(1298)に後深草の孫である後伏見が即位するが、今度は亀山側(大覚寺統)が幕府にはたらきかけて巻き返し、その皇太子には亀山の孫の邦治親王(後二条天皇)が立てられて正安3年(1301)に後二条即位、後宇多の院政となった。その背後にあって亀山も隠然たる影響力をもったが、息子の後宇多との間はしっくりいっていなかったらしい。
 亀山の晩年、後宇多の后妃で四人の子を産んでいた五辻忠子が後宇多のもとを離れ、その父である亀山の保護を受けている。亀山は大変な好色家として知られており(「とはずがたり」でもその一面が知られる)、出家後の晩年まで女漁りに余念がなく、忠子も事実上亀山の妃となっていたと思しい。この忠子の子が尊治親王、のちの後醍醐天皇で、少年時代の後醍醐はこの祖父のもとで愛情を大いに注がれて育ったという(「増鏡」)北畠親房『神皇正統記』では亀山は尊治を皇太子に立てるつもりだったとまで記されているが、これはやや怪しい。

 嘉元元年(1303)5月、55歳の亀山は突然男子・恒明親王をもうけた。母親は西園寺実兼の娘・瑛子である。亀山はこの孫同然の子を溺愛し、この恒明をいずれ天皇にするべく最後の命の炎を燃やすかのように動き回り始める。嘉元3年(1305)8月までに亀山は恒明をいずれ皇太子とすることについて息子の後宇多だけでなく持明院統の伏見上皇の了解もとりつけ、西園寺公衡を後見人として幕府にも伝えておくようにとの遺言を8月5日付で残している。そして幼い我が子の将来を気にかけつつ、9月15日に亀山殿で息を引き取った。享年57歳。
 その死後、後宇多はただちに亀山の遺命を反故にした。その後も恒明は持明院統と結んで皇位継承への意欲を見せ、しばらく両皇統対立の台風の目となっている。また晩年の亀山の薫陶を受けたことが後醍醐天皇が後に倒幕と天皇親政を志す礎となったのかもしれない。

参考文献
森茂暁「南朝全史・大覚寺統から後南朝へ」(講談社選書メチエ)
河内祥輔・新田一郎「天皇と中世の武家」(講談社「天皇の歴史」04)ほか

河尻幸俊かわじり・ゆきとし生没年不詳
官職肥後守
幕府肥前守護
―直冬を救出して九州へ―

 肥後国飽田郡河尻荘(現・熊本市)に代々本拠を置いた武士。河尻(川尻)氏は嵯峨源氏とも醍醐源氏とも言われ、鎌倉初期に河尻実明がこの地に交易港を整備して発展のもとを築き、鎌倉中期に河尻泰明寒巌義尹を開山として大慈寺を創建するなど勢力があったことがうかがえる。河尻幸俊は泰明の孫くらいの世代と思われ、貞和2年(正平元、1346)3月に京都の高辻高倉の東南の角地を屋敷用地として購入した記録があり、肥後国内だけでなく中央にも進出するだけの財力と人脈を有していたとみられる。
 貞和5年(正平4、1349)8月に高師直一派はクーデターを起こして足利直義を失脚させると、長門探題として備後鞆津にいた直義の養子・足利直冬(尊氏の庶子)を危険視し、周囲の武士に直冬襲撃を指示した。これに応じて9月13日に杉原又四郎らが鞆に直冬を襲撃、直冬は部下の奮戦もあってかろうじて危機を脱して河尻幸俊の船に乗り込み、そのまま海路九州へ渡り、肥後河尻へと身を寄せた(『太平記』)。幸俊がなぜ直冬のそばにいて彼を救出したのか事情は判然としないが、ともかく幸俊は「貴種」である直冬を自身の故郷に連れて帰り、これを奉じて自身の勢力の拡大をはかることになる。

 直冬は鞆脱出から数日のうちに河尻に入り(この素早さも河尻氏が海上交通に深く関わっていたことをうかがわせる)、9月16日付で早くも肥後の武士たちに味方に来るよう呼びかけている。9月20日は直冬と幸俊は阿蘇社に寄進して大願成就を祈っていて、このときの幸俊の願文が現存している。河尻氏同様に自身の勢力拡大のチャンスとみて直冬のもとにはたちまち多くの武士が集まり、この年の暮れから翌貞和6(観応元/正平5、1350)にかけて幸俊・詫間宗直今川直貞ら直冬方(佐殿方)の武将たちが肥後・肥前に活発に攻勢をかけている。そしてこの年の9月には北九州の有力豪族・少弐頼尚が味方についたことで直冬方はますます優勢となり、懐良親王を奉じる菊池氏ら南朝勢力も直冬と結んだ。このとき南朝側の文書によると河尻幸俊は直冬配下であると同時に懐良側にも味方する姿勢をとっていたようであるが、懐良配下の恵良惟澄と守富荘をめぐって紛争を起こしてもいる。
 中央でも南朝と結んだ直義派が巻き返して翌観応2年(正平6、1351)2月に高一族を滅ぼして完全に復権を果たした。3月には直冬は九州を統治する鎮西探題の地位を認められ、河尻幸俊は功績に対する恩賞として肥前守護職を与えられている。幸俊が肥前守護として実際に活動していることはこの年6月と8月の文書で確認できる。

 しかし間もなく足利尊氏が南朝と結んで直義を討ち、九州でも尊氏方の一色氏と、菊池氏の南朝勢力が連合して直冬を攻めてきた。この時点で幸俊の肥前守護職も幕府により否定されたようで以後史料的に確認が取れない。結局観応3年(文和元/正平7、1352)末に直冬は九州を追われて中国地方へと移り、直冬の腹心の一部はそれに同行したが、彼を九州に連れてきた張本人である河尻幸俊が同行した様子はない。拠点の河尻を維持するのに精一杯だったのだろう。

 直冬が去ったあとの九州では一色氏・少弐氏・懐良と菊池氏の南朝勢力の三者の複雑な抗争が続いた。幸俊と恵良惟澄との守富荘をめぐる紛争は続いていて、延文3年(正平13、1358)に懐良の命令で守富荘を半分に分割する調停がなされたが幸俊の代官・河尻七郎はこれを拒絶、懐良に対決の姿勢を示した。翌延文4年(正平14、1359)8月に筑後川の戦いで少弐軍と菊池軍が激突、『太平記』ではこのとき少弐軍のなかに「河尻肥後入道」が参陣していたと記していて、恐らくこれが幸俊である。この戦いで菊池軍が勝利して九州における南朝征西将軍府の優勢が確定し、河尻幸俊も懐良らに屈して康安元年(正平16、1361)には守富荘の年貢を阿蘇社に納めることを菊池武光に認めさせられている。

 その後10年ほど九州は懐良と菊池氏の「南朝王国」と化したが、河尻氏はその支配に従いながらもじっと機会をうかがっていたらしく、応安元年(正平23、1368)ごろには再び守富荘の年貢を南朝側に納めなくなっている。
 応安4年(建徳2、1371)に幕府の九州探題に任じられた今川了俊が九州平定に出陣した際に幸俊に味方に来るよう呼びかけたところ、幸俊は「肥後守護職が欲しい」と見返りを要求したという。これに対し了俊は一時的にそれを認めたが結局幸俊が味方にこなかったため実際に与えることはなかった(応安7年に了俊から阿蘇惟村に宛てた書状の内容。文中では「河尻」としか書いてないので幸俊ではなくその後継者の可能性もある)
 今川了俊の攻勢で九州の南朝勢力は一気に衰退、懐良親王の後継者・良成親王も菊池氏の本拠を追われたが、このとき河尻・宇土両氏を最後の頼みとしている。河尻氏が了俊にはなびかず、かつての敵であった南朝方を最後まで支えることになったのは、あくまで自身の勢力のために誰をかつぐのが好都合かを優先するという、直冬を連れて来て以来の基本姿勢の表れなのだろう。

参考文献
「熊本県の歴史」(山川出版社)
今江廣道「中世の史料と制度」 ほか

河村小四郎かわむら・こしろう生没年不詳
生 涯
―細川氏に抵抗した阿波武士―

 阿波麻植郡の武士。麻植郡の上桜城(現・吉野川市川島町)は河村小四郎によって築城されたという伝承があり、この地域が彼の拠点であったとみられる。
 観応2年(正平6、1351)7月4日に幕府から阿波国勝浦山の地頭職を執行するよう小笠原蔵人太郎と共に命じられている。この時点では幕府、および阿波守護の細川頼春に従っていたと思われる。
 しかしこの時期幕府側の内戦「観応の擾乱」に乗じて阿波では小笠原頼清ら在地勢力が南朝側について挙兵、外来の支配者・細川氏と各地で戦うようになっており、河村小四郎もこれに呼応したらしい。この観応2年の10月3日に細川頼之(頼春の子)配下の飯尾氏の軍が別子山の河村小四郎の城を攻めたことが確認できる(「飯尾文書」「光吉心蔵軍忠状」)。だが一ヶ月ほどの戦いののち小四郎は投降、その後は阿波細川氏家臣団の列に連なり、明徳3年(1392)8月の相国寺供養では「河村小次郎之秀」なる人物が細川家随兵の中にみられる。

観阿弥かんあみ1333(正慶2/元弘3)-1384(至徳元/元中元)
親族父:服部元成? 母:橘正遠の娘? 子:世阿弥、四郎(音阿弥の父)
生 涯
 能楽観世流の始祖で、息子の世阿弥と共に能楽の大成者として知られる。南北朝の動乱期に芸能一筋に生き、「猿楽」と呼ばれた芸能を芸術的演劇の域に高めたとして高く評価される。なお彼の実名は「清次」であり、芸名として「観世」、当時の芸能人に多い時宗僧侶としての法名が「〜阿弥陀仏」であることからづづめて「観阿弥」と呼ばれる。当時は「観世大夫」「観阿」という呼ばれ方もされていた。

―楠木正成の甥?―

 観阿弥の出自については謎が多い。息子の世阿弥が語った『申楽談義』では観阿弥の祖父が伊賀・服部氏の出身で養子に出たとされているが、観阿弥の父が服部氏であったとの伝説もある。そして近年注目されたのが1962年に発見された「上嶋家文書(江戸時代写本)」のなかにある、観阿弥の父が服部(上嶋)元成であり、河内・玉櫛荘の橘正遠の娘をめとって生まれたのが観阿弥であるとする記述で、この「河内玉櫛の橘正遠」を楠木正成の父とみなして観阿弥が正成の甥ではないかとする説がある。この説については日本中世史研究者の間では支持する声がある一方で、芸能史研究者からは批判的な声が多く、いまだに決着はついていない。観阿弥が服部氏ゆかりの人間であること、正成と伊賀に接点があったらしいことまでは可能性が高いとみられるが、それ以上を確認することはできない。
 出自のはっきりしない観阿弥だが、その生まれた年については正慶2年(元弘3年)と確定している。これは至徳元年(元中元、1384)5月19日に死去した時に「五十二」歳と『申楽談義』中に世阿弥の言葉として明記があるためである。この年は鎌倉幕府が滅亡し、建武政権が誕生した、まさに激動の年であった。

―京都への進出―

 観阿弥は1350年ごろには奈良・興福寺や春日大社の庇護を受けていた大和猿楽の結崎座に属していたと推測される。ここで彼は目覚ましい活躍を見せ、「宝生」「金春」「金剛」「観世」の四人が代表的役者として評判が高かったという。
 文和4年(正平10、1355)に京の醍醐寺や新熊野神社で大和猿楽が上演されていて、これに観阿弥も出演していたらしい。貞治2年(1363)には息子の世阿弥が生まれ(翌年生まれとする説もある)、このころから積極的に京都へ進出、演芸を披露している。このころ近江のバサラ大名・佐々木道誉と深くかかわってその庇護を受けるようになったと推測され、やはり道誉の庇護を受けていた近江猿楽の一忠に学び、一忠を「風体の師」(芸風の先生)と仰いだことが『申楽談義』で語られている。また道誉のもとで大和猿楽の笛の名手・名正と共に観阿弥・世阿弥父子が猿楽を舞ったという逸話も世阿弥の『習道書』で語られている。

 息子の世阿弥が成長してくると、観阿弥は父子そろって上演を行うようになり、まだ十歳前後であったと思われる世阿弥は「親に劣らぬ上手」と賞賛され、その美少年ぶりも評判になった。確かな記録としては応安4年(建徳2、1371)に須磨の福生寺で勧進猿楽を上演したとするものがあり、京を中心に各地で活動していたようだ。
 そして応安7年(文中3、1374)あるいはその翌年に行われた新熊野における興行では青年将軍・足利義満が直々にこれを見物した。『申楽談義』によると、このとき上演のトップを切る「翁」は一座の宿老が演じるのが習わしであったが、義満が「一番に出るのは誰か」と問いかけたとき、観阿弥らの親戚である南阿弥陀仏「大夫(観阿弥)でなければならぬ」と意見したので、初めて一座のトップスターである観阿弥が「翁」を演じることになったという。この一件以後「翁」は座のトップスターが演じることが慣例となり、宿老が演じるのは神事での猿楽のみとなったとされ、これは農村を基盤にした宗教儀式的な要素の強かった猿楽が都市型エンターテイメントに脱皮した大事件であったとみる研究者もいる。
 義満はこの見物で観阿弥・世阿弥父子を大いに賞賛、以後父子にとって絶大なパトロンとなった。とくにこのとき十二歳の美少年であった世阿弥は義満や二条良基といった貴人たちにもてはやされ、貴族社会のなかで教育を受け成長していくことになる。

―花はいや増し―

 観阿弥の確立した芸風は、日本の演劇・音楽史上の革命とまで言われる。さまざまな物まねを演じメロディー調の謡(うたい)を基本とするそれまでの大和猿楽をベースに、白拍子から派生した曲舞(くせまい)のリズム要素、当時京都で大流行していた田楽の要素も取り入れて、言ってみれば当時の芸能の「いいとこどり」をして上級のエンターテイメントに仕立てたのである。
 観阿弥自身の著作は残されていないが、息子の世阿弥が多く語り伝えた芸能論には父・観阿弥の芸能論が濃厚に含まれており、その核心部分はおおむね再現することができる。観阿弥は世阿弥に「芸は物まねこそがもっとも基本的なことである。しかし物まねもまねるものによって使い分けねばならない。身分の高い人や花鳥風月など優雅なものの物まねはそっくりにまねよ。だが身分の低い者の物まねをそっくりにやることはない。高貴な方々が卑しいものを見ても面白くは思わないのだから」と諭したといい、ここにほんらい大衆芸能の猿楽を高貴な人々も愛好する芸術に高めた観阿弥の思想が見受けられる。しかし観阿弥は決して上流階級ばかりを相手にしていたわけではなく、「都の貴人であれ遠い田舎の人であれ、貴賤の別なく喜ばれ愛されなければ名人とは言えない」との言葉ものこしており、実際京で成功をおさめたのちの観阿弥の後半生は京を離れて各地への地方巡業に力を入れている。また、興行時期が定まっておらず自身の参加が難しかった興福寺の薪猿楽について、上演時期を二月と固定させたという記録もある。

 観阿弥原作と伝わる能の演目では『自然居士』『通小町』『卒塔婆小町』などが知られ、世阿弥の作品の「幽玄」な作風に比べると会話が多くて親しみやすい大衆向けで、地方も舞台にし現実社会を反映させた作風であると評される。俳優としての演技面では、「大男だったが、女性の役を演じると細々となり、『自然居士』で黒髪をつけて舞台にあがると十二、三歳ぐらいにみえた」と世阿弥が証言している(「十六、七歳に見えると評判になった」と証言している部分もある)。怒れる鬼となって大臣を責め立てるという能でもスケールの大きい演技を披露したとも伝えられる。

 至徳元年(元中元、1384)、観阿弥は東国への巡業の旅の途上、駿河国浅間神社で猿楽奉納を行った。世阿弥はその模様を『風姿花伝』の中で「その日の申楽、ことに花やかにて、見物の上下、一同に褒美せしなり。およそそのころ、物数をばはや初心に譲りて、やすき所を少な少なと色えてせしかども、花はいや増しに見えしなり(その日の申楽はとても華やかで、見物していた者は身分の上下をとわずそろってそれを堪能した。このころには大仕事は若者に任せて自分はやりやすいところに少しずつ色を添えていただけだったが、その『花』はいっそう増して見えたものだ)と述懐している。その上演から半月後の5月19日に観阿弥はこの地で52歳で世を去った。

参考文献
今泉淑夫『世阿弥』(吉川弘文館・人物叢書)
萩原雄二郎「観阿弥清次」(「歴史と旅」臨時増刊「太平記の100人」所収)ほか
大河ドラマ「太平記」第48回に「服部清次」の名で登場する(演:西岡秀記)。原作となった吉川英治「私本太平記」に従い「観阿弥は正成の甥」という説を採用しており、正成の妹・花夜叉(卯木)の息子として尊氏の前に現れて名乗りを上げ、「あれは正成殿の甥ごにあたられるわけじゃ」と尊氏が感慨深げに言う。最終回で死の間際の尊氏が登子・道誉と共に鑑賞する猿楽も観阿弥が踊っている設定らしい。
歴史小説では吉川英治「私本太平記」は「上嶋文書」が示す「観阿弥=正成の甥」説をもっとも早く採用した小説で、観阿弥は母・卯木が正成と共に千早城にたてこもっている最中に生まれたことになっている。その後この設定はほとんど触れられなくなるが、小説のラストシーンが観阿弥の舞う能楽となっている。
吉川英治の弟子である杉本苑子も「上嶋文書」に立脚した世阿弥伝「華の碑文」を書いており、観阿弥と楠木氏の深い関係と、その死の政治的背景が描かれている。
漫画作品では学習漫画系で室町文化について触れる箇所で世阿弥ともどもたいてい登場している。

寛次かんじ
 NHK大河ドラマ「太平記」の第23回のみに登場する架空人物(演:竹田真)。鎌倉幕府滅亡直後の京・二条河原で藤夜叉が鰻売りをしている場面で、物売りの女たちにセクハラぎみに絡んでくるゴロツキ風の男。藤夜叉にも目を付け、「あんな子(不知哉丸)さえおらなんだら、もちっと楽になるのにのう」と声をかけてくる。その後女たちに追い払われるところで登場はおしまいだが、当初は後で藤夜叉にトラブルを持ちこむ設定だったがカットされたのではないかと思われる。


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