− 下記の仮説と自らの体験をもとに、クラフト/工芸独特の課題を考えてみます。 − |
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「クラフト・デザイン考」
<物・事にソフトを載せてモノ・コトに変身させること> 21世紀は、「環境汚染者支払い原則」の社会を構築していくべき時代との指摘がされている。手作りの工芸品を愛する人は、農的くらしのある生活や食にも同じ様な眼差しを向けて欲しいものである。食と器更にインテリアなどの良い関係、人と環境を守る安全な農・食、再生可能な器の材料を生み出す農林業。サステイナブル・デザインは、このような資源循環型産業を再興していく原動力として重要な概念になっている。更に、文化的な成果を体現できる、「アメニティ溢れる空間」の創出にも大きな貢献を期待したいものである。
<モノづくりとデザイン> |
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「クラフト・マーケティング論」
<マーケティングとデザインの関係> マーケティング・インタフェースをもう少し掘り下げておく。 柳宗悦は無名性を支持したが、工芸品に作者名をうつのは、上記の様な接点としての必要性があると理解した方が良いと考える。また、1)や2)など作品を見ただけでは理解出来ないソフトがあり得るが、これらを3)の要素でもあると考え説明書などで補う工夫も必要になる。工芸品は作り手による手仕事或いは手技の賜であることを考えると、使い手との”顔の見える関係”を担保する運び手の存在や市場の在り方が重要になってくる。普通の空間で考えると、Face to faceということになる。しかし、必ずしも唾が飛んでくる距離にいる必要があるのかどうか。その作品の後ろに作者の顔が見えることが、まずは必要条件となる。使い手の意図や意思が作り手に正確に伝わる双方向性を求めるとなると、面と向かい合うことが重要になる。そして、そこには更なるマーケティング・チャンスが生まれてくる。作り手はこれを逃しては勿体ないことになる。量と対比した質の時代への意識的な差違対応が重要である。更に、好みという情緒に関わる要素は、相対でしか感知することが難しいのではないだろうか。
<マーケティングの原理> 二昔ほど前、工業製品のマーケティングの管理業務に携わっていた時代は、真ん中の4Pが主役であった。これは、ある程度世の中に受容された製品であったことによる。それでも、まだ普及率が低かったので、「最初のP」をかなり意識したものである。工芸品ではなかったが、共通する事柄であった。また、名前の通った大企業においてと、個人の作家や個業、中小企業では「後ろのP」に関する意味や重要度が少し異なってくる。当然工芸品では、多くは後者のケースになるので、かなり多面的な努力をしないと「後ろのP」は確立出来ない。勿論、最初の「P+4P」が基本になるが、個展や展示会あるいはコンクールなどを通して自分の特徴やスタイルをアピールしながら、独自の地位を築いていくことになる。特定の分野のファンや追っかけを増やすということになる。量的に多くは作れないので、試行錯誤を繰り返す中で、自分の作品を訴求する対象を絞っていくことが極めて重要であり、それのみが生き残る道である。現にその様な取り組みをしている人を見かけることもある。 私の趣味である漆芸の分野でも、「P+4P+P」を実現する取り組みをして実績を上げている人の名前を示すことが出来るが、残念ながらその数は片手で済んでしまう感じがする。そこに、市場を意識した外向きの取り組みの困難さが見てとれる。職人や作家から良い意味での事業家への変身が求められ、またそうすれば実績が出せる時代になってきた。また、特定の人だけでなく、普通の人でもそれに向けて努力出来る環境を創っていくべき時代になってきたとも言える。「後ろのP」を確立したヨーロッパのブランド品はどうか。量産的なものと、特別に手作りをしたものを上手く組み合わせているケースを多く見かける。本物志向に関して、どこからが該当するのか。作り手の見識と使い手への訴求方法が相まって、歴史の流の中できちんと立場を確立してきたと考えられる。 そこには2つの秘密があり、1つ「最初のP」にその謎は隠されている様な気がする。もう1つは個人の自立の問題で、外向きの姿勢と自律的な行動である。個と社会システムの関係への意識の問題でもある。ヨ−ロッパでは「個」が確立されているということである。「誰かがやってくれる」、「役所のせい」、「今のままで良い」、「世の中が悪い」など、自分以外の理由にしている内に環境が変化し、自分が置いてきぼりをくったことに気がつかない。「気づき」は大切である。これに基づいて自発的な行動を起すことのみがサバイバルの道である。逆に、2極化は時代錯誤な強力な抑圧も含めて、ここから生まれて来ると言えよう。社会の水準が高まっているので、待ちの姿勢では対応不可能である。イギリスでは工芸(クラフト)関係に関するマーケティングのテキストを何冊か見かけた。Web上でも詳細なテキストが公開されている。社会の基軸と上層に、個を核にした工芸が認められている事を物語っている。そして、個の意図しない弱さへの理解と、創造的な役割への認識に関しても然りである。 <悪魔の市場と天使の市場> 手技による工芸品の市場を工業製品と同じ形でグローバルな方向にもっていこうとすると、生産量の矛盾と価格競争の問題が出て来て悪魔の誘惑に負けるはめになる。例えば、プラスティック器胎の漆器の様な無惨な結末となり、漆器全体のイメージ低下という悲しい結果を生むことになり勝ちである。一方、何百万円もする美術工芸品を売ろうとすると、極めてローカルな特定の層を相手にした市場に頼ることになる。特に高価なものの取引には、鑑賞眼と鑑定眼の両方が必要になるが、簡単なことではない。市場があっても鑑定眼がないと取引は成立しない。従って、取引には閉じた世界における悪魔のささやきが必要に成り勝ちである。必ずしも文化レベルが高いと言えない、これは明治以降日本文化を捨てて来た国家戦略のなせる業かもしれない。その様な状況においては、個人との交換を意図した開かれたオークション市場も確立されていない。最近、インターネット・オークションが開かれているが、適切な水準の美術工芸品を扱うには課題が多い。美術工芸品は、実物を見ないと評価出来ないので、誰もが参加出来る通常のオークションが必要である。 グローバルもローカルもだめとすると、両者を融合したグローカル市場はどうであろうか。グローバル・ニッチとも呼べるものである。特定な地域の産出としてのクラフトや民芸を含む工芸品を、グローバルな視点で特定な地域の特定なテイストを持ったローカルな層に売っていくことが出来る市場を構築する。これを「天使の市場」と呼んでおきたい。そこには、作り手と使い手の心を結ぶ天使の役割をする人達つまり運び手が存在しなければならない。現代の運び手は、情報や思いを運ぶ役割が重要になっている。作り手か使い手がその役割を担う場合もあり得る。日本でもその様な志向を持った人が、私が関心を持っている漆器や陶芸の世界で出てきている。しかし、まだナショナル・レベル(国内)である。インターナショナルに海外までをカバー出来ている事例は希である。海外に居住する日本人や親日家のクラフト・エージェントやデザイナがこの分野に感心を深めてくると、事情が変わってくるかもしれない。誠実な作り手と享受力やスポンサーシップを合わせ持つ賢い使い手を結びつける天使役には、例えばギャラリーや展示会コーディネータなどがあるが、作り手を見る目には厳しいものがある。このとき、自分の好みを中心に、作り手としての生き方の評価も含め、使い手の側に立って篩にかけることが重要である。その結果、特定の使い手集団に認められ、ファンが出来る。個展のオープン当日、時間前から行列が出来るようになったら一人前である。 地価の高い都市においては、新しく投資を要求される場合は例え志(こころざし)があっても、設立は結構困難である。固定費が大きくなると、量が少ない工芸品をリーズナブルな価格で提供しても経費が回収出来ないことになる。文化的な活動をする志のある愛のキューピッドに安くビルの一室を貸す様な大家さんが出て来るか、自宅をリフォームしてスタートするか、余り選択肢は多くない。現在行っているビジネス用店舗の中で、展示用のスペースを工夫して生み出すケースも出ており、有望で意欲のある若い人を応援する動きとして評価出来る。これらの志ある個人が中心になって自主的に行動している活動を、行政が地域振興のために応援するケースも少しは出てきている。しかし、例え運び手としての愛のキューピッドが努力しても、行政の側に官が個業を支援出来ないとする精神構造の持ち主も多くいる。もう少し制度的な視点での取り組みを行うことで、文化を軸にしたグローカル市場構築の運動にしていく必要があると言えよう。「工芸家よ地方を目指せ!」などというキャンペーンが張られる時代がくるのかもしれない。目先の利く人は、農と食までを組み合わせながら、既に行動しているようである。 |