「万年のうるし」


日本の"木の文化"を育てる
『"万年の漆"運動』の提案

 日本の「木の文化」の中心をなすと言われる、
縄文時代から続く”うるし”を万年という単位で継続する、
という考え方を実現するための運動を提案します。



<提案の主旨>
 『日本の物作りについて考えると、成熟化社会を迎えて環境との関連性も 強くなり、人々の関心は量から質へ、その質も単なる上質から好みにあった 質の時代へと変化しています。その中で、手仕事或いは手技による工芸品、 とりわけ漆工芸はどの様な役割を果たせるのでしょうか。使い手が好みのもの を選んで使う「アートのある生活」の実現を支援するために、作り手は何を するべきでしょうか。5000年以上も続いた日本の木の文化、特に日本を代表 するが如く付けられた大きな可能性を持つ"japan"という名称を持つ漆工が、 今まさに消滅するかも知れないという危機にあって、日本文化を救う絶好の 機会が訪れていると理解するのがプラス思考であると思います。
 今一度、漆(しつ)の良さを再認識し、まずは関係者自らが個々に自分の 出来ることからルネッサンスに向けて何かを始める時であると考えます。重要 なのは、同じ思いを持つ関係者が立場を越えて連携していくために、外向きの 意識と開かれた心をもって行動することです。一人ひとりの力は小さくても、 同じ方向を向けば共鳴が起こり「北京の蝶々*」は舞うのです。 一人ひとりの活動を大勢の運動にして大きな流れを創っていく。徐々にその 方向に動いている人は、既に出て来ています。5000年の歴史を踏まえ、更な る5000年を期して、ここに「万年の漆」運動を提案します。』
   ;最近の考古学の発見から9000年近い歴史があるとも言われている。

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<提案の背景>

<私の立場>
 提案者の多面的な立場を最初に明らかにしておきたいと思います。

  (1)「文化と経済」の融合の観点から総合政策研究に取り組む地域研究家
  (2)漆工芸や木彫りなど伝統的な手技の工芸品に関するマニアックな趣味人
  (3)自然環境への関心を持ち「アートのある生活空間」を楽しむ生活者
  (4) 35年間、生産財関連の工業製品の開発やマーケティングに従事した元企業人

など、幾つかの顔を持つ人間としての「漆の未来」に関する提案です。
 まず、自らの工業と工芸の両方の体験に基づいた問題意識に立脚した分析を行っています。そこから、アートのある生活空間の実現など地域文化の振興と、これを生み出す文化産業の発展が相互にプラスに働くWin Winの状態にもって行くことを意図した提案を行い、自ら活動して行きます。漆工が貢献しようとする文化の振興は、実現手段とし学術・作家活動や地場産業振興そして観光産業や都市の流通機構などの経済活動を伴う事が重要です。そのため、地域の振興や活性化更には都市・農村交流を含めた横断的な課題として複合的・総合的に取り組まれる必要があります。
 結果として、使い手の享受力や伝達力の向上に貢献し、業界内の世代交代や技術の継承を始め、自然環境保全や福祉などの課題とも協調した文化的な成果が得られるものと思います。一人ひとりの小さな努力でも、方向を揃えれば大きな流になることを信じ合い、新しい時代を切り拓く運動にしていければ幸いです。文化という総合的な課題は、経験豊かなシニアな人達が取り組むのに格好なテーマです。未来を担う若者達と使い手達を主役に据え、協力しながら知恵を出して行きたいものです。

<麗しきかなジャパン>
 今から5000年以上も前の縄文の時代から、漆(ウルワシ)は人々の生活に不可欠な資源として、器の塗装材や仕上げ材は勿論、接着剤や防腐剤などとしても使われ、日本の"木の文化"を支えて来ました。漆器には堅牢な材料としての特性があります。それを活かして使うことで、歴史によって育まれた技能の裏付けも相まって、その価値が認められて来たといえます。しかし、今その日本文化の代表とも言える漆器や漆関連の産業が、関係者の個々のご努力も空しく風前の灯火となっています。最も基本になる材料である生漆の99%は中国などからの輸入です。直接的には、漆の樹が少ないのと漆掻きに携わる人が高齢化で減っていることがあります。これは、日本の林業や農業が壊滅状態にあるのと同根の問題でもあります。農林業や食・工芸などの手仕事を、価値の無いことと考えたこの100年余の過失と言えるでしょう。欧米の表面だけを見て本質まで見通すことが出来なかったのは極めて残念なことです。近代化を急ぐあまりのバランスの悪さ以上のものがあるということで、今後関係者が連携しながら心してことに当る必要があるのは明らかです。
 例えば、漆を塗るための精緻な塗り刷毛を作る人が日本で2人しかいなく後継者も定かでありません。輸出先のヨーロッパでは"japan"と称され、陶器のchinaと対比されながら賞賛されたのは幻であったのかと疑います。日本という、東洋の自称先進国には、自分の根っ子である文化を守る意思があるのかどうか。根っ子のない切り花には、花は咲いても実はならないと言われます。実がなって次の世代に繋いでいくことが自然の摂理であり、子孫が人の人生の結実の一つであるとしたら、社会の少子化傾向に歯止めが掛らないのは、このことを如実に示している例と考えます。工芸などの手仕事関連産業の工業出荷高は全体の1%のレベルです。しかし、伝統工芸展の状況や若手の個展などを拝見するに、幹は細り花も枯れかけてはいるが、まだかろうじて1%のレベルでDNAは残っていると言えます。壊すのは簡単でも、創り出すのは大変です。情報化時代の道具立てをフルに使ったとしても、残っているDNAから再生を果たすことは不可能ではないとしても容易ではありません。そのDNAを育てるのは意識を持った使い手です。作り手と使い手の双方向のインタラクティブなコミュニケーションの中からしか、麗しい漆を愛でる文化の再生は果たせないといえます。まず、作り手の意識改革が求められていると思うものです。また、少しづつ増えている媒介となる愛のキューピッドの存在も重要になります。
−生活を彩る漆−
 人間国宝黒田辰秋が制作した欅に摺り漆した硯箱の妖しいまでの美しさに魅せられて、十数年前に習い始めた漆芸です。本堅地の輪島塗を習うことで、様々な応用が利くのが有り難いことです。自宅で使う木の器の大部分は自作の漆器です。ちなみに、陶器の和食器は妻の作品で、夫婦で自作自演を楽しんでいるところです。部屋の壁面を飾るインテリアの一部は、滞在先のイギリスで習った彼の地の伝統工芸である木彫りのラブスプーンであり、帰国後に自分で彫って漆を塗ったものです。日本酒を嗜む際に使うぐい呑みは、作家ものをコレクションしたもので、毎日その日の気分で選びながら熱燗そして冷酒でも楽しんでいます。好みの作家の器類も若干は持っており、手に取る度に作者の顔を思い浮かべながら愛用させて戴いています。自ら作る体験から、職人や作家の苦労と物の作りが少しは理解出来ます。これらの生活工芸品としての漆器は、私が目指している「アートのある生活」の実現に大きな役割を果たしています。なお、ここで言うアートは、手仕事や手技までを含んでいます。器の由来を知って使う我が家の文化は、小学生のあるとき母親から湯飲み茶碗の由来を教えて貰い、子供には何の変哲もなく見える物にも作り手の思いが込められているのを知った原体験に基づいています。これを自分の子供達にどれだけ伝え、受け継がせていくか。日頃の生活の中で,目に見える具体的な形で代々継承出来る道を模索しているとこです。
 漆器というと総蒔絵の豪華な調度品を思い浮かべる人もいるでしょう。コンクールでいえば日展や伝統工芸展などで見かけます。素人目には大変素晴らしいものに見えますが、とても手が届く値段ではありません。たとえ観賞は出来たとしても、素人が鑑定出来るものではありません。美術工芸家達はお互いに価値を認めて購入し合うようなことはあるのでしょうか。美術館での観賞用になってしまうのでは残念です。しかし、このレベルの美術工芸品や人間国宝を保持した人が作るものは、技術や技能の水準を高めるのに役立っていると思うのですが、その継承はどのようになされているのでしょうか。余り開かれた世界でないため、情報が伝わって来ません。美術工芸家や人間国宝、伝統工芸士や産地の職人、大学や専門学校・研修所の先生、巷の工芸作家、マニアックな趣味人、更にはギャラリーのオーナーや生活者など大勢の人が心を開いて交流しながら、途絶え掛けた文化を自ら意識的に再興していくべき、ルネッサンスの時代を迎えているような気がします。
−万年の意味−
 「漆」という5000年以上もつづいた独自文化を、あと5000年引き継いでいけるかどうか。今、何かをしない限り不可能になります。近年、"千年の森"とか、「千年産業;農業」という様な表現がなされています。これからの未来に向けた漆の5千年は、"亀は万年"よりは確実な未来であるとしたら、誇張ではなく「万年」を考えてみたいものです。島の文化と人々の思いに支えられて数千年を生きた縄文杉の例もあり、個体としては数十年の寿命かも知れない漆の樹が、代々活かされていく文化に支えられる姿は、希望的な見方かもしれませんが想像は出来るものです。漆を活かす文化の継承は、人類が環境問題を克服して環境との共生を果たしていく姿とダブって見えるものではないでしょうか。環境循環型社会の貴重な素材として活かしていくことで、我々も生かされて行くと考えます。

<日本産は必須でしょうか>
 輸入が99%もあると言って、単純に輸入漆を否定することは早計でしょう。元来、漆は東洋の温帯・亜熱帯の照葉樹林文化の中で培われたものであるとしたら、広くアジアの文化であるという理解も必要でしょう。しかし、昨今農と食の世界で自給自足とか地産地消が注目され、安全保障のレベルまでが視野に入れての取り組みがなされています。漆という工芸材料を同列に論じることは出来ませんが、環境循環型の社会を改めて構築していく活動の中で、林野の活用と漆以外の材料や食材の生産効率まで含めてトータルに考えていくべき課題となっていると考えます。まづ、自分で漆を植えて育て、掻いて使ってみる。これは、1回が10年以上掛る気長な地(自)漆プロジェクトであり、まさしくスローライフの典型となる感じがします。実行しながら考えていくことが重要と思う次第です。
−将来のヨーロッパへの移植−
 5000年以上に亘って変わらなかった材料としての信頼できる特性と使い方を踏み台にして、変わらず伝えて行くべきものと、これからの5000年で変えて行っても良いものの両面を見ていく必要があると思います。例えば、漆はアジア特産という考え方があり、そのまま続けるのも1つの考え方です。しかし、素晴らしい材料であり、環境循環型の塗装材として世界に貢献していくことも可能です。勿論、世界といっても植生条件の吟味は重要です。日本の北限が岩手県であることを考えると、イギリス西部沿岸部やアイルランド或いはフランス西海岸沿岸など、暖流が流れているために湿度も安定している地方では、可能性があるかも知れないと思うものです。楢や柏などのオーク類が生育する環境であり、温度・湿度共にポテンシャルがありそうです。イギリス西部のウェールズ地方に滞在したとき、摺り漆をするために測ったとき湿度が概ね50%程度あったことを思い出します。
 ニュージーランドの様に、外来種の移植を排除して在来種の復活を目指すような動きがあります。この様な動きは環境保全の考え方の上に行われているものです。しかし、塗りの材料という条件であれば、環境問題に関連してくるので、限定的な条件のもとで検討の余地はありそうです。この地の気象条件はよく判りませんが、南半球のここでも可能性はあるような気がします。5000年は長いので、急にやる必要はありません。まづ、自国で地(自)漆を再び育てる中で、また環境問題への対応性を世界に向かって訴求し証明しながら取り組む課題と考えます。ここまで来ると、今担い手の心配が出ている中国などでの取り組みも変化してくる可能性があります。当然、何れの地においても、在来種を駆逐するような動きではなく、多様性を増すような活動として受容されることが重要になります。

<制度の巧みな活用と文化の継承>
 2003年には文化振興基本法、2001年に文化財保護法が、また古くは1949年には伝統的工芸品振興法などが施行されています。これらの文化振興とこれに関わる産業活動を支える法律を、十分に有効活用するという考え方が大切です。日常の創作・生産活動や生活の中で常時意識する必要はありませんが、自らが拠って立つ世界の将来の方向性や在り方を考える際には制度的な条件の影響にまで思いを致すことが重要です。しかし、制度に一方的に頼ってしまし、自らが自主的・自律的に動けないということでは進歩は生まれません。どの様な制度も制定された時が一番新しく、あとは時間が経つほど陳腐化する運命にあります。何故ならば、制度を含めて我々を取り巻く環境は日々変化し、制度の前提条件が合わなくなっていくからです。時々改変されますが、国の制度など慣性が大きいものは小回りが効きません。時代の変化だけでなく、地域的な条件の変化がありますが、これは通常最初から存在します。時代変化と地域差に対して応変な対応を工夫しながら制度を運用し、見直しも出来るだけ早めにしていく必要があります。運用に当っては「法の精神」を理解しておくことが重要でしょう。
−作り手との関係−
  現在の日本の制度は、使い手よりも作り手の側に立っている場合が多いので、「使い手」への呼びかけや支援に関しては、「作り手」の側から意識的・積極的に行っていくことが肝要です。その際、価値観の多様化・個性化など心の豊かさが追求される時代、量から質へ、更に上質かつ好みへの対応(好質)が求められることを理解しておきたいものです。デザインやマーケティング、技術や技能、材料や道具、教育や訓練などに関わる自由な活動が、制度によってある程度保証されている状況下で、まずはその自由度をフルに生かした各自の自主的な努力が最も重要であると言えます。例えば、私が35年間働いてきた様な工業化社会をリードしてきた企業は、業界間の或いは国際的な競争に晒され、想像を絶する努力をしています。山場では不眠不休で事に当ることもありました。考えられるあらゆる工夫をし、特許に繋がるような価値を生み出す努力も惜しまなかったことを思い出します。世界を相手に最先端の価値創造競争をくぐり抜けていくためには、世界の情勢や最新技術の勉強など自己投資も欠かせませんでした。個人の努力が活かされる良い企業環境に恵まれたことは否めません。業界も人を投入して協調と競合のバランスをとっています。確かに、個人・個業や中小企業では単独に良い環境を作るのは困難です。連携して横のつながりを作り、ネットワークで仕事をしていく方向を見出していくべきです。機械化や自動化の世界と手仕事や手技の世界の競争を考え、自らの世界ではどの様な価値を世の中に提供しようとしているのか。自らの存在意義を確かめあう意味での「共通認識」が必要です。なお、世界の大企業は資本の論理で動いていても、少なくともグローバルな市場競争の中で、より高い顧客価値を生み出す努力を協調と競合の中で日夜続けていることを理解しておくことが重要です。経済と環境の関わりにおいても、資源循環型社会への移行を視野に入れた開発競争を繰り返しており、リサイクルなどの工夫も実現しつつあります。再生可能な資源を利用する手技の世界でも、十分留意する必要があます。例えば骨董品や文化財などを修復する事に十分留意し、人材を育成するなどの連携が強く求められる時代です。
 大企業は人材が豊富であり、巧妙に競争を仕掛けかつ先手を打って克服して来ています。「手技の世界」が得意とする工芸品の持つ特色は、対環境性の他に「美」の世界が特徴的です。 "モノづくり"を通して文化の上質化に貢献出来るために、上記の「共通認識」は"環境と美"であることが最低条件かも知れません。作り手と使い手の両側でこの課題を解決していくに際して、作り手の連携が必須となります。作り手の役割と連携の対象は、自らの共通認識を共有するだけでなく文化の継承にも関わり、作り手の後継者を育てることに加えて、使い手の享受力や伝達力をも高めるように役立つことではないでしょうか。
−技術の継承と展開−
しかし、残念ながら、創造性を重んじる作家魂や、その世界の第一人者を意識する職人気質が重要な"手技の世界"では、横の連携を構築するのが得意ではないようです。業界の組合も縦割り過ぎて垣根が高いように見受けられます。リーダに新しい感覚を持った人が少ないのも気になります。世代間の技術・技能移転も課題ではないでしょうか。工業の世界では海外への技術移転すらしています。自分の子供や弟子への技術・技能、更には工房経営権の移転までを視野にいれた世代交代を可能にする取り組みが、喫緊の課題になっていると指摘出来ます。これらは、時代や制度或いは生活者の嗜好以前の問題で、自主性・自律性がものを言って来ます。当然、譲ずられた後のシニアの生き甲斐を保証する仕組みを工夫する必要があり、地域の生涯教育や総合的学習や専門教育などでのシニアの活躍が期待されます。国の制度以前の業界毎の取り組み、つまりNPOなどを作っての取り組みで十分対応できる気がします。
 日本の文化や伝統的工芸品の世界を客観的にみておく必要があります。産業革命をリードしてきたイギリスやアメリカ、精巧な物作りを評価されるドイツ、アートの世界をリードしてきたイタリアやフランス、日本の手工芸の故郷である中国や韓国。これらの国々の工芸品と比べても、品種や技法の多様性とその精緻さにおいて世界で群を抜いています。世界一であると誇りを持って言えます。但し、個人の技は優れていますが、デザインやマーケティング活動に関してはどうでしょうか。これらの課題に関して、調査も含めて過去に何回か取り組まれて来ました。しかし、単年度予算制度が一つの壁となって継続性に欠け、イベントの中長期的な効果の確認が殆どなされていません。近年、国や多くの自治体で政策評価制度が導入されてきていますが、予算はあくまで単年度制が基本です。制度単位の横断的・継続的な成果のフォローは、自分達でも行っていく努力が求められるところです。その結果を公表して制度の改善を図っていくべきです。

<文化と技術の継承>
さてそこで、優れた自国の文化の継承はうまく進んでいるのでしょうか。残念ながら、優れた個人の成果が全体に及んでいません。いや、元気な個の活動を吸い上げて全体の大きな成果にもって行く仕組みが確立出来ていないのが現状です。これを昔から宝の持ち腐れとと言いますが、極めてもったいない話です。今、例えばスローライフが注目を浴びるなど、時代が変化し順風が少し吹いてきているときに、新たな船出をして世界に漕ぎ出し、自らが大きなうねりを創っていくべきかと思います。伝統に現代的なデザインを乗せて、世界を相手にマーケティング活動を展開していく。このためには、海外経験のある人や海外で活躍する工芸やアート関係の若いひととの連携が重要になってきます。また、日本に修行に来ている海外からの研修生との連携も大切になって来ます。伝統を踏まえ、これまで貢献してきた人を尊重しながら、新たな展開を推進出来る、経営センスを持った指導者や参謀が、業界団体の中に生まれてくる事が重要です。
 この様なことを順調に進めるために、自分達の独自文化を守り、自分達の拠って立つ根っ子の部分をしっかりさせていくことは大切です。自分が住んでいる地域の文化に楽しむべきです。大きな文化環境として捉え、自らがその一部であり、地域文化を守ることが自分のためでもあるという認識が必要です。伝統的な地域文化とこれを支えてきた地場産業は、通常作ることと使うことが一体となって発展して来ました。一方、特に戦後都市化が進み、人口の80%近くが都市部に住むようになった今日、残念ながら地域の独自文化の多くは無意識の内に片隅に追いやられ、人間の基本になる自然環境そのものも破壊が進んでいます。都市化と経済重視の流の中で、利便性という無機質な価値のみを追求する余り、情緒的な価値を捨て去ってきたという見方も出来ます。しかし、全てが無くなった訳ではありません。日本の中枢では忘れられても、地方ではまさに命の礎として残っています。そして、都市においては環境や文化の破壊に気がついて、スローライフなどの古くて新しい考え方が復興して来ました。地方は如何でしょうか。都市にまだ憧れていませんか。それぞれに善悪があり、独自性を活かすには何が大切かを思い起す時です。昔は、子供達が遊びのなかで自ずと学んできた生命の大切さや自ら生きる力の涵養が、都市化の中で、またその余波で地方においても乏しくなっています。これまでの反省の上に立って、総合的学習の時間に地域文化や地場産業に就いて学ぶことが行われ初めています。都市では、里山や川の浄化など自然環境の回復に注力されつつあります。周りから生きるエネルギーを得ることまでを含めた、地域的な仕掛けを積極的に構築していく必要性が指摘されるところです。地域の独自性の上に立った、文化と産業の活性化と振興がその答えの一つと考えて良いと言えます。生活者による地域文化の継承が、作り手側の技術や技能の継承意欲を刺激し、文化の更なる発展を促していく好循環を生むことになります。生命力に満ち情緒溢れる生活文化の復興に、作り手がどの様に貢献し自らが如何なるリターンを求めことが出来るのか。その機会が増えていると共に、最終バスがまさに出ようとしている危機でもあることを認識して、自らが一人ひとり独創性という観点で独自の道を歩むと共に、自らが生きる文化環境を共に創っていくことの可能性を信じて、外に心を開いて連携し、ネットワークを構築して情報発信していくことが求められています。

<手技の新しい産業文化を世界に発信する>
漆芸を教える学校は結構存在しますが、卒業して漆工芸の分野で就職出来る人はほんの一握りであるといいます。その「漆工芸」は、伝統工芸、日展、クラフト(民芸含む)と大きく3つの宗派(あえてこう呼ばせて戴く)に分れていると聞きます。アマの世界からは想像し辛いののですが、お互いの交流は少ないと聞きます。宗派的な考え方は、むしろ変革を起すべき大学にも引き継がれているらしいのが気がかりです。顧客から見た宗派の区別なのかは不明ですが、閉鎖的なムラ社会内部の派閥争いとは思いません。その道の独自性を貫く主張が根底にあることは確かでしょう。しかし、だからお互いに協力出来ないのは、その主張の根拠そのものが世の批判に耐える強固なものではなく、かえって脆弱なものである疑いを持たせます。素人の方がこだわりなくおつき合い頂けるのかもしれません。怖いモノは何も無いので、敢えて言わせてもらいます。プロ同志の交流がし辛いなら、プロ・アマ連携の中からもう少し自由なおつき合いを始めてみたいとの思いがします。気持ちと意識を仲間内から外に向け、合わせて市場に関しても広く地球視野で考え、グローカル(グローバル・ニッチ)市場を構築していく方向性を持てれば何か違ってくるのではないでしょうか。インターネットがこれを可能にする時代でもあります。しかし、市場を世界に向けると、工芸品自体のブランド力が大きな課題となってきます。
 グローカル市場を考えた場合、環境の時代にどの様な工芸品のブランドを構築していくのでしょうか。工芸家一人ひとりの問題であり、また各業界の課題でもあります。縄文時代から続く日本の自然共生型(環境循環型)デザインとこれを基盤とする文化は、日本発の文化ブランドと文化商品化を考える上で極めて重要と考えられます。明治以降花開いた日本の高質な大量生産力は、日本の「現代化」を支えてきました。しかし、この力も縄文から江戸時代にかけて綿々と培って来た物作りの技術・技能の裏付けがあってこそ始めて可能になったものです。江戸時代に発達した庶民の寺子屋もしかり、燈火用の油の発明も文化の向上に大きな役割を果たしたところです。この様な、手技を基盤にした産業文化という点での蓄積をもう一度思い起すべきです。これは、日本の「木の文化」のルネッサンスであり、脱石油文化への飛躍でもあります。
 日本の21世紀を主導する「脱現代化」を支えるのはどの様な産業文化でしょうか。W.モリスが提唱した様に、使い手を巻き込んだものであるとの思いがします。使い手の観賞・享受・伝達の力が重要になって来ることを認識しつつ質に厳しい日本人の気質を活かし、「作り手と使い手のインタラクティブな双方向交流」を進め「環境循環型デザイン」を実現出来ないのでしょうか。勿論、漆工芸の分野では漆の艶や肌触りに共感して好んでくれる人への訴求が中心になります。これが可能なら、手技の品はそれぞれの地域性(ローカル)を背負った文化ブランド化を進めることが出来ます。再びヨーロッパを始めとする先進国や発展するアジア地域までを対象にした、グローカルな市場性を満たすものとなるに違いありません。作家、職人、マニアックな趣味人を問わず、物に思いを乗せるデザインとこれを実現する技をのせた文化的なモノとして、拘って創って行きたいものです。その国、その地域固有の価値を認め合うことから触れ合いが生まれ、地域ブランドからグローバルな価値の交換が生まれて来ると言えるのではないでしょうか。

<今、取り組むこと>
 日本の文化を守ることは、日本のアイデンティティを世界に示すことです。工業製品を輸出するという途上国文化においては相手に合わせることが重要で、最近ではこれをグローバル・スタンダードなどと称しています。しかし、雁行型発展の結果、工業の占める割合が低下する中で、観光立国を標榜しながらサービスの輸出を目指す方向が提案されています。自分の国にないものを求めて人びとは移動します。世界から人を呼べるのは、世界の国々の人びとに通用する独自のものを持っているからです。明治以降の殖産興業、第二次大戦後のアメリカ化の2回に亘って過剰に壊してきた、或いは捨てて来たものをどの様に取り戻し発展させるのでしょうか。時代の変化に機敏に適応する動きと過剰に反応することが混同され、大きくバランスを崩した結果と言えます。工業化を否定するのではなく、独自の文化を破壊し過ぎたことが問題だと思います。創り出して育てるのは破壊の何倍もの時間が掛ります。万年の間の100年は僅かな時間かもしれません。しかし、変化が大きいので無視出来ない一瞬です。時間が掛っても、方向を間違えなければ徐々に変化が起こり、何れは指数級数的な変化へと変貌を遂げ、志向した方向への到達が明らかになります。
 従って、変化への第一歩を今自分に出来ることから始めます。漆工を習い、器を作り生活で使うことから我が家の家庭文化を築き、気に入った人がいれば譲る。漆を育てて使うことも始める。外に向かっては、出来るだけ多くの作家の良いものに触れ、教えを請いながら鑑賞力を養い、意欲的な若い作家がいれば出来る形で支援し、何らかの情報発信と連携をする。また、制度的に日本の文化を守ることに熱意のある人を選挙で選ぶ。これらは、素人の自分でも出来ることです。地道な努力を少しづつ重ねて行き、これが正しければ共鳴を生んで行くことが可能になると信じています。一人が動いても何も変わらないとよく言われますが、これは違います。単に自分に自信がないだけです。正しいと思ったら動くことです。「北京の蝶々」という言葉があります。これは、最初の一歩が共鳴を生んで予想もしない処で大きくなる様子を表わしています。万年のときにあと5000年。木、紙、布などの世界と合わせ、お互いに心を開いて連携し、まずは200世代を引き継ぎましょう。

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