丸山真男の思想史方法論


1、丸山思想史の三区分 − 《初期》《中期》《後期》

『丸山真男手帖』によれば、丸山真男の東京大学における講義記録が、第一期分全六冊として、東大出版より来年一九九八年早々にも発刊される予定となっている。

(1)1948年度 東洋政治思想史
(2)1960年度 政治学
(3)1964年度 東洋政治思想史
(4)1965年度 東洋政治思想史
(5)1966年度 東洋政治思想史
(6)1967年度 日本政治思想史

この『講義録』の刊行は、岩波書店の『丸山真男集』編集とほぼ同時並行する形で、丸山真男の生前より準備が進められていたものであるらしく、今から一年前に放送されたNHK『丸山真男と戦後日本』の番組の中でも、その計画の存在がそれとなく視聴者に告げられていた。番組によれば、残された丸山真男の講義ノ−トは全部で十八冊に及ぶ。その膨大な遺稿ノ−トが今後さらに精査されて、第二期以降に刊行される『講義録』のソ−スとなるのだろう。

第一期全六冊のうち(3)(4)(5)(6)は、東大出版教材部が各年度末に受講学生用に発行販売していた内部冊子を下敷としたものである。丸山真男著作資料の収集録である『丸山真男著作ノ−ト』によれば、各年度の講義内容は次のとおりである。

(3)1964年度(一)日本思想の原型(42頁)
(二)古代の政治思想 (50頁)
(4)1965年度(一)武士のEthosとその展開(75頁)
(二)戦国武士道の形成、神道のイデオロギ−化(45頁)
(5)1966年度(一)キリシタンの活動と思想(76頁)
(二)幕藩体制の精神構造 (40頁)
(三)近世儒教の歴史的意義(52頁)
(6)1967年度(一)日本思想史の歴史的前提(74頁)
(二)近世儒教の政治思想 (83頁)
(三)思想運動としての国学(59頁)

(現代の理論社 『丸山真男著作ノ−ト』 80−93ページ )

東大における丸山真男の日本政治思想史講義は、紛争直前の一九六七年度を最後とする。そして記紀神話から始まる日本政治思想史講義が、近世から幕末に至るまで四年かかって完結されていることを考えあわせると、この一九六四年から一九六七年にかけての『講義録』の存在の意味と価値の大きさは、ほとんど計り知れないものがあると言って過言ではない。これまで出版された丸山真男の日本政治思想史研究著書は、『丸山真男集』を除けば、一九五二年の『日本政治思想史研究』(東大出版)と一九九二年の『忠誠と反逆』(筑摩書房)の僅か二冊だけなのである。今回の『講義録』の発刊は、「丸山真男の日本政治思想史」についての定説や論議に微妙な影響を与え、丸山真男の思想像をめぐる問題に新たな波紋を投げかけることになるのかも知れない。

『講義録』出版に対するわれわれ読者の一般的期待は、大きく二つある。

一つは、これまで近世と上代についてのみ与えられていた丸山真男の政治思想史の範囲が、古代と中世を含んで広範に拡大すると同時に、それが「通史」としてシ−ムレスに連続され、欠落領域の無い統一的な日本思想史として完結されるのではないかという期待である。われわれはこれまで、丸山真男の鎌倉仏教論 − 特に親鸞論 − を「消息」としてしか知ることができなかった。丸山真男が「武士のエ−トス」を論じていることは承知していたけれども、それがどのような意味と構造を持った思想史であるのかを詳細に知悉することは全くなかった。古代と中世、平安から戦国にかけての丸山政治思想史は空白であり、知ろうとして知り得ない謎の領域であり、講義に出席することのできた偶然的な一部を妬み羨むのみの、幻の知的実在であった。

もう一つは、言うまでもなく例の古層(=執拗低音)論の具体的適用の問題である。『歴史意識の「古層」』は、古層の抽出と思想史方法論としての問題提起の論文である。言うところの「後代における普遍的外来思想の規範性剥奪の日本化パタ−ン」が、具体的な思想史としてどのように描写論述されるのかを、われわれは未だよく確認させられていない。丸山真男によれば、外来思想を日本化させ、修正する契機として繰り返し作用する思考パタ−ンを、世界像の「原型」として毎年の講義の冒頭で解説するようになったのは、一九六三年からであると言う。したがって、それ以前の講義においては古層論は存在しないのであり、一九六四年から一九六七年までのわずか一回限りの講義の中にのみ、その思想史的反映が実在しているということになる。二重三重の意味できわめて貴重な『講義録』なのである。

実際に『丸山真男集』を調べ上げて気づかされるのは、丸山真男の「日本政治思想史研究作品」なるものが、全十六巻の規模からわれわれが想像するよりも、はるかに微少な分量でしかないという事実である。時代順に主なものを並べると、次のとおりである。

1940年 近世儒教における徂徠学の特質並びにその国学との関連日本政治思想史研究
1941年 近世日本政治思想における「自然」と「作為」日本政治思想史研究
1944年 国民主義の「前期的」形成日本政治思想史研究
1949年 近世日本思想史における国家理性の問題忠誠と反逆
1958年 福沢・岡倉・内村 − 西欧化と知識人忠誠と反逆
1959年 開国 忠誠と反逆
1960年 忠誠と反逆 忠誠と反逆
1964年 幕末における視座の変革 忠誠と反逆
1972年 歴史意識の「古層」 忠誠と反逆
1973年 「太平策」考
1979年 荻生徂徠の贈位問題
1980年 闇斎学と闇斎学派
1985年 政事の構造

われわれはこの十三本の思想史論文を、方法的、時期的および書誌的な分類整理の観点から、《初期》《中期》《後期》と大きく三つにカテゴライズすることができる。

すなわち、『日本政治思想史研究』に纏められた戦前の三論文を《初期》、新たな思想史方法論の確立宣言である古層論文によって画期された一九七二年以降のものを《後期》、そしてその間の二五年間に横たわる作品群を《中期》として区分する分類の仕方である。この分類からすれば、筑摩書房刊『忠誠と反逆』には、唯一例外的に《後期》の作品として『歴史意識の「古層」』が加えられていることになるのだが、当該書物の基本的性格は、やはり一九六○年の論文『忠誠と反逆』を中心とした《中期》作品群を纏めたものとして捉えるのが適当であろう。

このような分類からわれわれがあらためて感じるのは、《後期》論文の少なさ、古層的方法論を確立して以降の丸山真男の思想史作品の少なさである。一九八五年に漸く日本語訳された『政事の構造』は、古層的方法の政治意識論への適用として、思想史として位置づけるよりも、むしろ思想史方法論体系の延長であり一部である。また《後期》における最大最高の思想史作品である一九八○年の『闇斎学と闇斎学派』は、古層的方法論の日本朱子学への単純な直接的適用として捉えるには、あまりに主題と視角が別のところに存在する。厳密に言うならば、古層論文以降の作品の中から「古層論的方法を適用した具体的な思想史作品」というものを、われわれは特定して摘出することができない。

それゆえにこそ、今回の『講義録』の意義の大きさがあるのであるが、『講義録』はあくまでも「講義記録」であって「論文作品」ではない。丸山真男の思想史作品を年代順に一つ一つ追跡した者が、その作業の後で実感することは、実際には古層論的方法以外の視角によって構成された思想史作品の方が、数の上でははるかに多いということであり、そうした客観的事実にもかかわらず、丸山真男の「古層的方法論者」としての存在感が、一般的通念として圧倒的であるということである。われわれは、思想史作品の個々の具体的な吟味検証以前に、丸山真男の思想史方法論をイコ−ル「古層論」として強烈に認識しているのである。

それは何故か。その最も大きな理由は、前回(『「古層」論への序章』)にも述べたように、古層論的認識が一九七二年の『歴史意識の「古層」』から突如始まったものではなく、『超国家主義の論理と心理』から『日本の思想』を貫徹する、丸山真男の生涯を一貫した問題意識の方法的結実であったということによる。しかしそれだけではない。もう一つの理由として考えられなければならないのは、晩年の丸山真男の著作の中に「思想史の方法」について直接に語られたものが多く、特に古層的方法論への旋回と結実を回想する内容のものが非常に多いという事実である。つまり晩年の丸山真男自身が、古層的方法論の「定式化」について繰り返しわれわれに「宣伝」しており、その「宣伝情報」がわれわれの頭の中に強く記憶されているという事実である。読者が丸山真男に即き、その思想的全体像を理解するべく晩年の回想の隅々まで読み込むほどに、古層論の「公式」的存在感がいちだんと増してゆく結果となる。

1978年 思想史の方法を模索して
1979年 日本思想史における「古層」の問題
1981年 日本の思想と文化の諸問題
1983年 「日本政治思想史研究」英語版への著者序文
1984年 原型・古層・執拗低音

古層的方法論、Basso Ostinato の方法論が、丸山真男の政治思想史学の全体を定義する、決定的な方法論であることは間違いない。しかしそれでは、《初期》および《中期》の思想史は、何をもって定義される思想史学であると言えるのか。また《後期》作品群の中でも別格的な一峰を成して、異様な相貌をもって聳え立つ傑作『闇斎学と闇斎学派』は、一体どのように位置づけることができるのだろうか。仮に《初期》《中期》《後期》と三段階に分類した丸山真男の思想史方法論は、果たしてどのようなものとしてト−タルに把握することができるのだろうか。


2、方法1 − Aspektstruktur の方法論

この問題を解く重要な鍵が一つの論文の中にある。故守本順一郎を追悼して『名古屋大学法政論集』に寄せられた、一九七八年の『思想史の方法を模索して』である。

この論文の中で丸山真男は、若き日の読書過程を振り返りながら、後に自らの思想史方法論として血肉化する概念や範疇が、マルクス主義との認識論的格闘のなかで徐々に形成されて行ったものであること、そして特にカ−ル・マンハイムの知識社会学によって決定的な影響を刻印された事実について、率直な告白を述べている。マルクス主義的イデオロギ−論とカント的認識論の間で、精神的に「宙ぶらりん」の状態にあった丸山真男が、理論的救済者として掴んだのが、マンハイムの『イデオロギ−とユ−トピア』であり、そこにおける Aspektstruktur(視座構造)の概念であった。

それにもまして、私に目からウロコが落ちる思いをさせたのは、彼の理論における遠近法的な見方であります。(中略)精神史特有の発展形態の一つとして、先行する思惟様式や体系からの継承が、いわゆる加算的綜合(additive Synthese)として単線上で起こらないで、問題設定の移動 − 思惟を組織化・体系化する際の中心点の変動として起る、ということがあります。ですから、過去の思想は後続の思想によって「のりこえ」られたり(こういう発想自体が単線上の継起を予想しています)、吸収され尽くすのではなくて、逆に「のりこえ」られた筈の思想が、歴史的変化とともに再評価されたり、「何々にかえれ」というような「復古」運動が精神史上にしばしば起るわけです。しかも、そうした問題設定の移動は、先行する思惟様式・諸範疇を継受しながら、その意味転換が行われるという二重の過程を伴います。同じ範疇が存続しながら、思考を組織化し体系化する(狭い意味での理論「体系」をいうのではありません)中心が異なるために、いわば「配置転換」が起って、遠近法的な位置づけが違ってくるわけです。

(『思想史の方法を模索して』 丸山真男集 第十巻 332−333ページ)

マンハイムの Aspektstruktur(視座構造)論、そして全体的イデオロギ−論の概念は、丸山真男の政治思想史において、まさしく根幹を成す方法論的核心部(カ−ネル)である。丸山真男の思想史において読者一般が遭遇する思弁的難解さの胸突き八丁は、ほとんどこの視座構造論の巧妙な論理操作が及ぶ複雑な論述展開に負うものであり、また同時にその理解的難度が、読者に丸山思想史特有の魅力である論理的なクライマックスとカタルシスを提供する駆動装置(エンジン)となっていると言ってもよいだろう。丸山真男自身の述懐にもあるように、第一論文『近世儒教における徂徠学の特質並びにその国学との関連』における Aspektstruktur(視座構造)論の影響はきわめて絶大であり、その理論的構成は、ほとんど若い丸山真男がマンハイムになりかわって近世日本思想史を分析論述している、或いは、マンハイムの知識社会学を歴史的具体的に「証明」するために徳川政治思想史が素材提供されている、とすら言い得るほどである。

たとえば助手論文で私が、徂徠学と国学との思想的関係を考えた折に、個々バラバラの「影響」としてでなく、徂徠学の体系構造における公的側面と私的側面との分裂(それ自体がまた前述のような二重の意味で歴史的=社会的に定礎されていますが)という前提の下に、後続する国学における思惟の体系化の中心が、徂徠学においてはあたかも私的領域に位置づけられていた、というところに両者の体系的関連性を認め、そこから両者における諸々の概念の連続性と非連続性とを、また思考様式の継承と「価値の顛倒」という一見矛盾した両側面を、描き出そうとしたのは − そういう叙述の根本着想は、たとえどんなに間接的であっても、マンハイムのイデオロギ−論からの暗示なしに生れただろうか、疑わしく思います。

(『思想史の方法を模索して』 丸山真男集 第十巻 335ページ)

一般に、古層論以前の丸山真男の思想史について、われわれは「近代的思惟抽出の思想史」として了解する傾向を強く持っている。それは『日本政治思想史研究』の三論文が、まさにそうした企図と目的をもって構成論述された思想史であるからであり、また古層論文以後の「持続的な執拗低音が外来普遍思想を日本化する思想史」と比較して、分かりやすい明暗のコントラストを読者に提供しているからであるだろう。しかしながら、この「近代的思惟抽出の思想史」の性格づけは、《初期》については妥当する規定であっても、《中期》の作品 − 例えば『忠誠と反逆』− については妥当するものとは言えない。また「近代的思惟の抽出」という作業は、丸山真男の《初期》研究において、むしろ objective であって methodology として指摘できるものではないのである。

古層論以前の《初期》《中期》を特徴づける丸山真男の思想史の方法とは、すなわち Aspektstruktur の方法である。それは、Aspektstruktur 的方法が駆使されて「遠近法的変化」が説明されてゆく思想史、「立地」の変動と「視座構造」の変容によって範疇の意味転換と配置転換が起る思想史である。その方法を最も典型的に適用したケ−スが、第一論文における徂徠学と宣長学の関連づけの叙述であるけれども、Aspektstruktur の方法が適用される思想史の場面は、ひとつ第一論文だけにとどまることはない。

例えば《中期》の代表的な思想史作品である『忠誠と反逆』にもそれは見られる。『忠誠と反逆』論文は、所謂「封建的忠誠」の解体過程を江戸期から明治期まではるかに辿りながら、「ネガ」を「ポジ」に転徹する日本人の主体的可能性を導出しようとするところの、「主体形成」の思想史であった。ここでは、第一論文と類似した論理的舞台構成が整えられながら、それを逆さ返しにしたような演出技法 (「近代的思惟」の発展ではなく「封建的忠誠」の解体の追跡 )が試みられている。そして全体の論理的構図の中に、やはり視座構造の変容過程において範疇の意味転換が検証されるという観察方法、Aspektstruktur 論の方法的態度が一貫して設定されている。

この Aspektstruktur の方法は、丸山真男が自家薬籠中のものとして完璧に体得していた思想史の分析技法であり、丸山真男にとっていついかなる歴史的素材対象が与えられても、その方法を繰術することよって完成度の高い思想史を調理製作することのできる「魔法の包丁」そのものであった。Aspektstruktur の方法が、舐めるように縦横無尽に繰術されるとき、その思想史は丸山真男の思想史作品となるのである。

丸山真男の思想史における第一の方法、それは Aspektstruktur の方法である。

しかしながら、マンハイムから継受した Aspektstruktur の方法は、大仕掛な思想史の舞台装置から次第に簡便な道具的技術へと、方法的な「小型化」の様相を見せ始めるようになる。それは、思想史の分析装置として Aspektstruktur の方法だけでは、方法論的な限界が生じてきたからに違いない。一九五○年代後半以降、再び丸山真男の方法的模索が始まるようになる。ヘ−ゲルの『歴史哲学講義』、ルカ−チの『歴史と階級意識』、そしてマンハイムの『イデオロギ−とユ−トピア』をテキストとする原書講読型の演習スタイルは、一九五二年度をもってピリオドが打たれるのである。

戦後の丸山真男の方法的模索について、われわれは『原型・古層・執拗低音』や『日本思想史における「古層」の問題』などによって、古層論へ至る経緯を詳しく知ることができる。しかしその何れを見ても、戦前の模索の回顧である『思想史の方法を模索して』において感じられたほどに、内面的で純白な「精神的告白」という印象を受けない。それらの方法論的回顧が、生々しい模索過程の自己対象化の証言と言うよりも、古層論を確立し終えて安定的な高みに立った上での、古層論の生誕と体系化へのスム−ズな弁証(神話化)になっているからである。そこには何かしら緊張感に欠けるものがある。


3、方法2 − Basso Ostinatoの方法論

丸山真男の思想史における第二の方法、それは当然ながら Basso Ostinato の方法である。

丸山真男によって独自に完成させられた思想史方法論、思想史家丸山真男の代名詞となる思想史の方法、それがこの Basso Ostinato(執拗低音)の方法である。この方法論については、前回(『「古層」論への序章』)詳しく見てきたところであり、ここでは繰り返さない。第一の方法である Aspektstruktur の方法において、丸山真男はマンハイムと不可分一体の存在であった。マンハイムの頭脳と視神経をそのまま自分の内部に組み入れて分析論述された近世思想史が、『日本政治思想史研究』の三論文に他ならない。極論するならば、それはマンハイムの「代筆」であった。

Basso Ostinato の方法はどうか。この思想史方法論は丸山真男のオリジナルである。丸山真男が独自に開発した設計技術(ア−キテクチャ−)である。しかしながらそれは、材料まで含めて純粋にオリジナルなものとは言えない。丸山真男に方法的ヒントを与えた思想的先行者がいる。それは本居宣長である。漢意・仏意を排除することによって純粋な日本の思想を抽出しようとした宣長の消去法、これこそ Basso Ostinato の方法の素材的ベ−スとなるものである。

昔の漫画で喩えるならば、飛雄馬の大リ−グボ−ルの下敷となった一徹の魔送球、それが丸山真男の古層論と本居宣長の消去法の関係であると言えるのかも知れない。生涯を通じて格闘し続けた巨大な思想的対象であり、「偉大な敵」の宣長から、丸山真男は思想史の方法を摂取獲得したのである。対決する敵から技法や意匠を盗み取り、独自に自分のものとして確立応用する。こうした光景は思想史の現場のみならず、政治や格闘技の歴史においても広く見られる。その最も卑劣で粗雑な政策論的事例がトロツキ−とスタ−リンをめぐる計画経済論であり、また最も壮大な哲学的事例がヘ−ゲルとマルクスの弁証法理論であると言えるのではないか。

(一九六七年度の)講義全体の末尾は、第三章「思想運動としての国学」であった。そしてこの構成が示しているように、本居宣長の学問は「原型」の意識的な復元の努力として、また近世を通じた「原型」の再現として、高い評価と位置づけを与えられた。最後の講義で先生が、彼について「本当に偉大なんです」と繰り返し強調されたのを今でもよく覚えている。先生にとって宣長が「最大の尊敬すべき敵」だという事情がそこにはあったであろう。

(平石直昭 『ある講義と演習』 丸山真男集 月報12 7ページ)

子安宣邦や米谷匡史は、丸山真男が Basso Ostinato の方法において本居宣長の消去法に倣っている点をつき、これこそ丸山真男の方法論の致命的欠陥であり「循環の渦」の陥穽への没入であると罵倒するのであるが、この批判はあまりに一面的であり、恰もマルクスはヘ−ゲルの弁証法を継承したから怪しからんと言っているのと同じ論法である。ヘ−ゲルとマルクスの思想が根幹において異なるように、同じ消去法的手順を採用していると言っても、本居宣長と丸山真男の思想は全く正反対のものであり、丸山真男は宣長のように消去した後に何らの価値的実体を認めようとするものではない。本居宣長にとって究極的原像に接近するための宗教的態度であった「消去法」は、丸山真男にとっては単に方法論における一個のデバイスでしかないのである。


4、方法3 − Orthodoxy と Legitimacy の方法論

さて、丸山真男の思想史世界から、その方法論に着目して、@ Aspektstruktur の方法と A Basso Ostinato の方法の二つを検出したが、この二つの方法論だけではなお説明し尽くすことのできない重要な方法論的問題が存在する。それは、《後期》における最大の傑作である『闇斎学と闇斎学派』をどう捉えるかという問題である。私個人の評価としては、この論文が丸山真男の思想史家としての仕事の頂点に位置するものであって、これまで丸山真男が開発してきた分析手法や獲得してきた問題意識が、全て凝縮された作品であるように思われてならないが、古層論文から八年後に書かれたこの論文には、これまでに見られなかった新しい問題視角が確固として組み入れられている。それは「正統と異端」の問題視角である。

筑摩書房『近代日本思想史講座』全八巻が一九五○年代末から企画刊行されていたことは、学生時代に大学の図書館をウロウロしていたとき、何気なく偶然に見知った情報であった。『忠誠と反逆』論文がその第六巻『自我と環境』の一部であること、そして第二巻『正統と異端』がずっと未刊のままであることも、そのとき、今から二○年前に知ったことである。それから三年後(今から一七年前)の一九八○年に発表された『闇斎学と闇斎学派』を読んだとき、これがあの未刊作『正統と異端』の研究成果だったのか、という感慨を強く持ったことを覚えている。

『近代日本思想史講座』の第二巻『正統と異端』は、日本における天皇制支配の正統性がどのように形成されたのか、その日本的「正統」がどのような「異端」を生成させ、両者の間で、あるいは「異端」の内部に新たにネスティングされて派生した「相似形の正統と異端」の間で、歴史的にどのような葛藤を遂げてきたのかを明らかにしようとする研究プロジェクトであった。そこでの思想史的関心の第一は「天皇制的正統性」である。第二巻『正統と異端』の章編成と執筆者は、当時、次のように予定されていた。

第一章 日本における正統性の成立丸山真男
第二章 異端の諸類型とその展開 藤田省三
第三章 交錯と矛盾 − 正統性の解体過程石田 雄

第二巻『正統と異端』が遂に未刊に終ったことは、読者として甚だ残念なことであるが、未刊に終ったのにはそれなりの理由があったように思われる。憶測ではあるが、この一九五○年代末時点での「正統と異端」の思想史認識は、恐らく『忠誠と反逆』とよく似た方法的構成のもの、すなわち、視座構造の変容と範疇の意味転換を追って描出される思想史になっていたのではないかという気がしてならない。『第一章 日本における正統性の成立』において記紀神話がどのように把握されていたのか、また闇斎学論がどのように盛り込まれていたのかは、非常に興味深いポイントだが、何れにせよ『歴史意識の「古層」』および『闇斎学と闇斎学派』の研究史的根源の一端がここにあったことは疑いない。

この「正統と異端」の問題意識は、書物としては未刊状態のまま四○年の長きにわたって黙々と研究会が続けられ、一つの中間報告である『闇斎学と闇斎学派』が発表された後もなお、さらに活動が続けられていたことが、NHKの番組の中でも紹介されていた。その長い研究会活動の中で、「正統と異端」論は、大型の舞台構成装置としてよりも、むしろ概念装置として凝縮、洗練される方向へと旋回を遂げ、分析視角としての範疇化が推し進められて行くのである。「正統と異端」論は、丸山思想史における対象的存在から方法的性格へと姿を変えて行くこととなり、そして一つの思想史分析の型が試作製造されるに至る。

すなわち、丸山思想史学における第三の方法、Orthodoxy と Legitimacy の方法である。

論文『闇斎学と闇斎学派』も、基本的には、古層論全体の視座の及ぶ広い地平において位置づけられた日本思想史の一部であると言える。その問題意識の出発点は、単純に言えば、統一的世界観(普遍的外来思想)である朱子学の日本化過程を探り出そうとする試みである。しかしながら、選ばれた思想史的対象である「闇斎学と闇斎学派」は、所謂「古層論が作用する日本化パタ−ン」の公式が、われわれに予想させるところの一般的結論 − 規範性を剥奪されたまま部品的な知識教養として内面に格納される − とは全く正反対のエネルギッシュな思想像を示すものであった。

そこで描き出された「日本化」は、無自覚的で即自的な「脱規範化」のイメ−ジとはおよそ縁遠い、矛盾と対立に満ち満ちた、生々しい精神的葛藤の世界であった。朱子学的世界観が要請する「一つの真理」に、全人格的にコミットしようとする闇斎学派の諸個性は、闇斎学の「教義的正統」を主張して激しく争い合い、批判と義絶の応酬の中で苛烈にして厳粛な「求道者」の姿を見せてゆく。程朱学の日本における正しき道理は何であり、師闇斎の教説の全き継承とは何なのか、矛盾内包された儒教的教理と神道的教理の教義的統一をめぐって、教義解釈の微妙な均衡のズレが即、破門と絶交の内部抗争を媒介する。

丸山真男は論文の末尾において、闇斎学派に対して「日本において『異国の道』 ― 厳密にいえば海外に発生した全体的な世界観 ― に身を賭けるところに胎まれる思想的な諸問題を、はからずも先駆的に提示したのではなかったか。そこに闇斎学派の光栄と、そうして悲惨があった。」(丸山真男集 第十一巻 307ページ)と評価の言葉を送っている。この末尾の言葉もまた、胸に迫って感動的である。この言葉に、自らが目撃した Marxism の光と影を思わない者はいないであろう。

思想史方法論として見たとき、『闇斎学派』論文において、この B OrthodoxyとLegitimacy の方法は、或いは、従来の @ Aspektstruktur の方法や A Basso Ostinato の方法ほどには、分析装置としての機能的効果を十分に発揮できていないと言えるのかも知れない。それは一つには『闇斎学派』論文における Legitimacy の切り口に若干の物足りなさが残ること、そして二つには、方法論として Legitimacy と Orthodoxy の論理的な関連性の構図が、読者が期待するほどには、十分明確に描出されていないという不足感である。本来の丸山真男であれば、Orthodoxy と Legitimacy の方法的視角を一般的に確立させようとしたとき、両者の思想史的連関の一般構図を、詳細かつ平易に公式化して、何度でも繰り返して説得を仕掛けようとする筈なのである。不遜な見方かも知れないが、この論文もまた、新たに開発された分析視角 − B Orthodoxy と Legitimacy の方法 − の日本思想史への適用の一試論であったと見るべきなのかも知れない。

さて『闇斎学派』論文の思想史とは何か。その主題を一言で言うならば、日本人が(外来の)統一的で全体的な世界観を内面化し、それに全人格的にコミットしようとするときの「思想的現場」を描き上げた思想史である。その内面化と人格的コミットメントは、集団的・組織的なプロセスであった。そこには思想集団が登場した。ある世界観にコミットする思想集団が、他の思想集団に対して排他的な異端排撃運動を展開し、さらに己が思想集団の内部において諸個性・諸分派が相互に熾烈な異端粛清抗争を繰り返す。その「思想史劇」を解析するべき新しい方法的概念装置が Orthodoxy と Legitimacy の二系列の「正統」概念である。

これまでの丸山真男の思想史研究を見た場合、個人としての思想家は多く登場したけれども、こうして一つの「思想集団」が学問的対象として把握され分析にかけられたことはなかったのではあるまいか。一つの特定の思想集団内部の動きだけに、最初から最後まで照準を合わせた分析としては、この『闇斎学派』論が初めての試みである。近世から近代へかけて長い時間的変化が辿られながら、舐めるようにして「立地」や「視座構造」の変動が追跡されるという、例の《初期》《中期》に特有な舞台装置の設定が全くない。カメラが捉える対象は「闇斎学派」に固定されている。 そしてよく考えてみれば、外来の普遍思想なるものは(現在のポストモダン主義の現代思想一般のように)趣味的・商業的に輸入されて愛玩される類のものではなく、必ず政権の獲得を目指す政治集団の発生を伴って、イデオロギ−として日本の歴史の中に登場するものである。すなわち思想と政治、教義原理と統治支配、この二つの契機を同時的かつ効果的に解析するべく新規に開発された思想史の分析装置が、この Orthodoxy と Legitimacy の方法に他ならない。

NHKの『丸山真男と戦後日本』では、番組の終盤において、丸山真男のきわめてユニ−クな遺稿『中国古典における「異端」の字義をめぐって』が紹介されていた。番組では、丸山真男の「読者に対する表現の工夫」という関心の角度からのみ、その遺稿が紹介されていたのだが、NHKの教育テレビでタイトルのテロップまで放送されてしまった以上、それが出版のスケジュ−ルにないものとは到底考えられない。『丸山真男と市民社会』の中でも石田雄が証言していたように、四○年に及ぶ「正統と異端」プロジェクトには、成果として世の中に出すべきものが実は多く存在するのである。第三の方法論、 Orthodoxy と Legitimacy の方法については、そのときあらためて検討するべきなのだろう。ウェ−バ−「正統」論の影響度の測定も、またそのときのことである。


5、まとめ

これまでわれわれは、《初期》《中期》《後期》と区分した思想史作品の中から、丸山真男の思想史方法論として三種類の方法論を検出して検討を加えてきた。すなわち、

1) マンハイムのイデオロギ−論から直接的に継承された Aspektstruktur の方法論
2) 文化接触視角に宣長の消去法を摂取して構成された Basso Ostinato の方法論
3)「正統と異端」研究会で熟成されつつ進化を遂げた Orthodoxy と Legitimacy の方法論

である。(1)の Aspektstruktur の方法は、《初期》における唯一の方法であり、《中期》にも影響を残し続ける方法である。(2)の Basso Ostinato の方法は、《後期》における代表的な方法であり、丸山真男の思想史全体を総括する代名詞として歴史に名をのこす方法である。(3)の Orthodoxy と Legitimacy の方法は、《中期》に開発が始まりながら、最晩年の一作においてのみ適用されたところの例外的で試験的な方法である。

それぞれの方法に歴史と意味があり、丸山真男の生涯の影が被さり、格闘と模索の経緯があり、企画開発と試行錯誤があり、それを要請した学問的・思想的環境の変化がある。今回は、その三つの方法論を摘出して提示するという作業報告のみにとどまるのであるが、もし仮に丸山真男の思想史方法論として、このような仮説が説得的に成立するならば、さらにその学問的・思想的真実の内奥が究められなければならないであろう。すなわち、 @ Aspektstruktur の方法論から A Basso Ostinato の方法論への旋回の意味とそれを取り巻いた環境は何かという問いであり、B Orthodoxy と Legitimacy の方法的展開の真相は何なのかという問いである。

マンハイムの Aspektstruktur 論を自家薬籠中のものとしていた丸山真男が、思想史家である自分自身の「視座構造」の変容とその意味について無自覚であったとは絶対に考えられない。マンハイム的な視座構造論とイデオロギ−論の立場に立てば、まさに「思惟主体の社会的立地が思惟内容に構成的に浸透する」のであり、すなわち、常に自分自身の「立地」の変動が意識された上での「構成的浸透」としての学問となる筈である。その意味で A Basso Ostinato 論の発生を弁証する『原型・古層・執拗低音』(1984年)などのプレ−ンな論述に、何かしら不満と疑問を感じてしまうのは、決して私一人だけのことではあるまい。

現段階での私自身の印象を言えば、特に一九五○年代半ばからの丸山真男は、あらゆる方法的可能性について貪欲果敢に挑戦して、それをわがものとして消化吸収するべく試みているのであり、試行錯誤の続く《中期》こそ、まさに懸命になって「思想史の方法を模索して」いる時期である。丸山真男は、筑摩書房『近代日本思想史講座』を、自らの思想史方法論の開発工場とし、方法的飛躍のジャンプ台としようとしていたのに違いない。「正統と異端」プロジェクトにおける問題意識の変容は、様々のことを示唆し推測させるのだが、果たして「立地」の変動を丸山真男がどのように自己認識していたのか、それをヨリ詳細に、直接的に知り得る手がかりは今はない。



(補注)

『丸山真男集第十巻』の巻末に付された『解題』より、丸山真男「日本政治思想史講義録」の章構成についての情報を抜粋。本文で紹介した『丸山真男著作ノ−ト』と若干の異同がある。

1963年 第一章 若干の予備的考察
第二章 基盤と原型
第三章 普遍者の自覚
第四章 君臣の道と身分のエトス
1964年 第一章 思考様式の原型 @ 基盤 A 原型的世界像 B 歴史観と政治観
第二章 古代王制のイデオロギ−的形成
第三章 統治の論理
第四章 王法と仏法
1965年 第一章 日本思想の歴史的所与
第二章 武士のエトスとその展開
第三章 神道のイデオロギ−化
1966年 第一章 所与と前提
第二章 キリシタンの活動と思想
第三章 幕藩体制の精神構造
1967年 第一章 歴史的前提
第二章 近世儒教の政治思想
第三章 思想運動としての国学

(丸山真男集 第十巻 解題 367-371ページ )

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