3、丸山政治学の創出とその歴史的意義 − 科学主義・民主主義・国民主義 −


本来、原理的にも制度的にも一つであったはずの政治学(Politcal Theory)と政治思想史(History of Thought)とが二つに分離独立し始めたのは、一体何時の頃からであろうか。実は戦後の学問思想界において、この分離分割を最も強力に推進する役割を果たした政治学者こそ、他ならぬ丸山真男自身であったと言うことができる。

二○年前、われわれが政治学を学び始めた頃、その政治学は丸山真男によって構築されたところの「既成の政治学」であった。われわれは「現代政治の思想と行動」第三部に纏められた政治学概論を既成の巨大な学問体系として紹介され、それへの入門を招請されたのであった。ところが、そうした政治学のオリエンテ−ションとは裏腹に、その第三部で丸山真男が繰り返し読者に語っていたのは、「政治学はいかにして科学として可能であるか」という、何か切羽詰ったような自問自答のメッセ−ジであった。それは「隣接社会諸科学の高層建築に挟まれた中でただ一人石器時代の竪穴式住居を掘る努力と同じ」営みであると彼は語っていた。その記述は、学生当時の感覚においてさえも「丸山政治学」や「丸山学派」という言葉が醸し出す、体系的で山脈的で体制的で与党的なイメ−ジとそぐわない違和感の残る表現であった。

丸山真男が「科学としての政治学」を執筆した戦後すぐのとき、現在のような社会科学としての政治学は、イメ−ジとしても実績としても全く存在していなかった。政治学を政治科学として政治哲学から分離し、それを社会科学の一つとして日本のアカデミ−の中に制度的に確立し、現在その規模千数百名と言われる「日本政治学会」のビッグ・インダストリ−を無から創造したのは丸山真男である。丸山真男こそ紛れもなく日本政治学の唯一のオ−ナ−その人なのである。

戦後、丸山真男は南原繁と激論を闘わせながら、政治科学の政治哲学から分離独立を推進し、科学としての政治学の地平を開拓し、学問の分業化の流れの中で巧みに政治学の確立を企画推進し、首尾よくそれを成功させて行った。政治学は法学という伝統的大家族制の下に併呑され埋没させられることもなく、また新興経済学の帝国主義的侵略の中で植民地化されることもなく、一個の独立社会科学として自己主張する地盤を固めることができたのであった。それは一九四○年代後半から一九五○年代前半にかけてのことであり、丸山真男にとって、科学と社会的分業の発展が、疑いなく日本人の幸福と発展への通路となるはずのオプティミズムに包まれた時代であった。

無論、科学への信仰と憧れだけが「政治科学」としての丸山政治学を生んだのではない。丸山真男には使命感があった。この使命感こそ丸山政治学誕生の決定的な契機と言えるものである。それは、戦後民主主義の日本を担う人間主体のための理論提供、近代的・民主的な政治的主体をつくり出すのための理論形成の使命であった。そうした政治理論(天皇制支配の呪縛から自由な政治理論)はこれまでの日本には全く存在せず、どこを探しても供給されることはなかったのである。民主主義社会を生きる日本人を作る。日本という所与の伝統的な社会のなかで民主主義(の態度と秩序)を守り育てる精神を育む。それが丸山政治学の使命であり課題であり挑戦であった。丸山政治学の第二の歴史的意義。

そのまさに歴史的なスケ−ルの巨大な挑戦にも、三○代の丸山真男は見事成功を収めて帰還した。丸山真男は偉大である。真にカエサルのような、英雄的で、男のジェラシ−をかきたてる、どこまでもどこまでも偉大な男である。

さらにもう一つ。丸山政治学の動機あるいは背景として見逃せないのは、当時の世界の政治学、社会科学の動きである。すなわち、ナチスから追われて渡米したゲシュタルト派知識人の理論的蓄積をベ−スとしエンジンとして一気に興隆しつつあった米国政治学の台頭である。この近代的な政治学の方法なり技術なりと互角に渡り合える「日本製の政治科学」を今製作しておかなければ、早晩押し寄せて来るであろう米国政治学の大波に席捲され圧倒されることは間違いない。いつまでもドイツ国家学の遺産から引き継がれた政治哲学のレベルのままでは太刀打ちできるはずもない。時代はもう二○世紀の科学の時代である。日本人のための日本人による政治科学を興さなければならない。このような「優良かつ高度な日本製政治科学」の要請の意識は、また当然ながら、一方でアジアに覇権を及ぼそうとするソ連共産党勢力のマルクス主義社会科学の圧力を睨んだものでもあった。米ソ両陣営の先端社会科学の動向を睨んでの、日本独自の近代政治学、すなわち丸山政治学の創出である。丸山政治学の第三の歴史的意義。

われわれはこの歴史的事実を決して軽視してはいけない。その国民が自らのPolitical Theoryを確立することなくしては、その国民国家は政治的独立を達成維持することはできないのである。中華人民共和国の毛沢東思想、北朝鮮の主体思想、日本共産党の科学的社会主義。程度の差こそあれ、これらはすべて民族独立のPolitical Theoryである。このことはイデオロギ−の終焉が言われる今日、われわれの目前の現実からは非常に分かりづらく見える。過去の話のように見える。そのような政治思想の必要性がどこにあるのか理解しがたい。しかし「快楽の全体主義」下で知的・政治的感性を麻痺させているわれわれ現代日本人も、いずれは全てを、Political TheoryとNationalismの問題の関連性を了解する日が来るだろう。それはイデオロギ−としてのGlobal Single Standardの真実に気づく日である。

日本人が丸山政治学を学ぶということは、日本人が日本人の言葉で日本と世界の政治を考えるということである。日本人が丸山政治学を失うということは、日本人が日本の政治的独立を失うことである。私はそのことを断言しておきたい。


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